北海道・東北の100名城
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  北海道・東北
 
北海道 01 根室半島チャシ跡群 平成22年9月16日登城 こちらから
02 五稜郭 平成20年5月5日登城 こちらから
03 松前城 平成20年5月6日登城 こちらから
青森県 04 弘前城 平成24年6月25日登城 こちらから
05 根城 平成20年3月6日登城 こちらから
岩手県 06 盛岡城 平成21年7月17日登城 こちらから
宮城県 07 多賀城 平成25年7月9日登城 こちらから
08 仙台城 平成20年7月14日登城 こちらから
秋田県 09 久保田城 平成20年7月3日登城 こちらから
山形県 10 山形城 平成20年7月12日登城 こちらから
福島県 11 二本松城 平成21年7月1日登城 こちらから
12 会津若松城 平成21年6月30日登城 こちらから
13 白河小峰城 平成20年11月30日登城 こちらから

 ■01 根室半島チャシ群跡
   (ねむろはんとうチャシぐんあと)
   訪城日 22年9月16日
   場所  北海道根室市温根元59、60、60地先ほか


[「100名城」随一の難関]
 多くの「100名城」訪問者がこのチャシのスタンプ捺印を「一番の難関」としている。先ず、遠い。「根室」というだけでも充分北の果てだが、最寄の空港からは勿論、根室駅からも、さらに距離がある。距離だけではない。チャシの場所が全く分かりにくい。我々は、スタンプを「根室市歴史と自然の資料館」で押した。そこで詳細な地図を入手出来ると思っていた。ところが、館員氏は口頭で説明しながらその場で書いた手書きの地図を渡してくれた。「昨日、道の草を刈っておいたが、わかり難い場所ですよ」と付け加えた。
 幸い、今回は、釧路在住のH夫妻が自分の車で同行してくれている。その車で、分かりにくい地図を頼りに、国道を数回、行きつ戻りつをして、ようやく入るべき脇道をみつけ、ようやくチャシへの入り口と狭い駐車場を見つけた。
 
 この「城」の「わかり難くさ」は場所だけではない。ようやく見つけた目的地に立ってみても、遺跡がなにも残っていないのだ。「国指定史跡」の標柱があるだけで、その細い標柱に「チャシ群は16−18C頃造られたアイヌの砦跡です。当チャシ跡は温根元湾を見下ろす台地上に位置し、お供えを2個並べたような形で、濠はお供え状のチャシ中心部を囲んでいます。形状のよいチャシ跡として有名です。」

「写真1」と書いてあるだけで、他には説明板も案内図もない。標高差の殆どない丘が、海にささやかにせり出しているだけだ。
 一面の草が風に揺れているだけで、ここから濠の跡、柱の跡、その他人の手が加えられた「遺跡」を想像することは、とても出来なかった。

 この半島だけでも24の「チャシ」の跡があるという。北海道には300のチャシの跡があるという。しかし、昨日訪問した釧路市の
釧路の国指定史跡 鶴ヶ岱チャランケ砦(チャシ)跡
                   昭和10年12月24日指定

このチャシは2条の濠をめぐらし、東西30M、南北18Mの楕円形をしている。現在は半島であるがかっては離島でアイヌの人びとはトーモシリ(湖の中島)と呼び、トーコロカムイ(湖の神様9の遊び場であったと伝承されている。
 「チャランケ(会談)」の名称は、昭和のはじめ和人によってつけられた。
 チャシには砦、住居、会談の場、祭礼の場、見張り台などの機能が考えられているが
時間的な経過の中で、いろいろな機能が加わり、使用目的が変わっていったとみられる。
                      
                          釧路市教育委員会


写真2」も「国指定史跡」の案内板があるのみで我々には単なる草地としか見えなかったのだから、他のチャシもここと似たり寄ったりだろう。同行のH夫人が言う如く「どうしてここに遺跡があることがわかったのだろう?」

「わかり難くさ」はまだ続く。肝心のこの「チャシ」の役割・機能が不明なのだ。
先ほど訪れた根室の「資料館」では「チャシ」を簡潔に説明して、「写真3」とある。

  「チャシは砦・館・柵囲いを意味するアイヌ語で、その機能に
  1)戦闘用、
  2)祭祀用
  3)談合場、
  4)資源監視場など
 があげられている。おそらくは築造された時代と地域により、変わっていったと考えられている。使用年代は500年前より新しく、下限は寛政年間とするのが一般的である。
 現在、道内に350余箇所の分布が知られている。そのうち釧路地方は70箇所と多い。これらのチャシはかってのコタンの分布と一致していることが注目されている。」

「100名城公式ガイドブック」も司馬師の「街道を行くーオホーツク街道」も、チャシについての説明はこれ以上は出ていない。
 同行のH氏は言う。「このチャシを「100名城」に加えた選定委員の見識を評価する」と。いい言葉だ。「城」と断定できない「チャシ」をその曖昧さを知り尽くした上で敢えて「100名城」の第1番に据えた「見識」を、否定するより評価する方が、遥かに「歴史」に深く興味が持てると私も思うのだ。

[そして、本当の「わかり難くさ」]
一番の「わかり難くさ」は、「アイヌ」そのものにある。
 我々の年代にとって、アイヌは身近な存在だった。日本が敗戦の痛手から立ち直り、余裕のある生活が出来始めた頃、新婚旅行のメッカは宮崎であり、観光のメッカは北海道、それも阿寒湖のマリモであり、アイヌ部落であった。アイヌの熊の彫り物は土産品の定番としてどこの家庭にも飾られていたほどだった。その当時から、私は、アイヌはかっては本州に住んでいて、ヤマト政権に追われ追われて北海道に住み着いたと漠然と思い込んでいた。その証拠として、「日暮里」はじめアイヌ語の地名が関東・東北に豊富に残っているからと、納得していた。
 ところが、最近、それも齢70にさしかかった頃、北海道の博物館でアイヌの衣装の文様の説明に「アイヌ文化は13C頃から現れる」と読んで、これまでの思い違いを、この歳になって、根本から改めねばならぬと知った。
 アイヌというと反射的に思い起こすアイヌの文様をこの時代に日本に持ち込んだアイヌは、いつ、どこから来たのか?
 しかも、この解答は、現在の学問では出来ないらしいということも知った。アイヌ民族は、昔から住んでいて、「文化」だけが変化したという説も有力らしいが、どうも私には腑に落ちない説である。

「タイムカプセルとしての北海道」
 広大な北海道は「車」なくしてはどこにも行けない。しかし、今回は札幌から釧路まで鉄道を使った。高速道路は作られても、新幹線などの新しい鉄道路線は青函海峡以外には見当たらない北海道では、鉄道は敷設された時代のままの路線を走る。
 停まる有力な駅近辺は変貌を遂げているだろうが、それらを繋ぐ路線は、原野、湖沼、山、谷、川、いずれもが開拓時代に近い原風景を残している。
 開発のエネルギーが乏しくなった今の日本では、これからも当分はこの風景が変わることはないだろう。
 今まで訪れた日本の「100名城」は殆どが、復元されたり、修復されたり、更には、新造されたりもしている。しかし、この「チャシ群」は、満足な案内板すらなく荒れ野の中に放置されている。
 それでよいのではないか。この鉄道も含めて、この地方は、一つのタイムカプセルなのだ。私達日本人が、再び、余裕が出来た時、ゆっくり、少しずつ、この壮大なタイムカプセルを開いていけばよいのだ。


写真 1

写真 2
写真 3

 そして、「「わかり難くさ」の「真打」は「アイヌ」そのものだ。「アイヌに」興味を持ったのは、十数年前に北海道出身の友人から「アイヌと蝦夷とは違うのか?」と訊かれてからだ。我が大学に現役ながら一番の成績で入学した秀才が、真剣な顔をして訊いてくるので「そりゃー・・、同じだろう・・」と答えたものの


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 ■
02 五稜郭
  訪城日 20年5月5日


■所沢から、羽田まで直通バス。休日の早朝だから、順調に走って羽田には二時間も前に着いてしまう。空港は椅子が多い。ゆったりと二人で本を読んでいるともう一時間経った。歳をとると時間が経つのが早い。ツアーの受付を経て、搭乗口。携帯やら小銭やらトレーに移して両手を挙げてゲートを通ると、おや、ブザー。「これですね。」指示に従って、それもトレーに移したのにまたブザー。「靴でしょうか。まーいいや。」とウヤムヤで通過。 妻は、私がとっくに先に行っていると思っているからアッチできょろきょろしている。
 「オーイ、ここだ。」「何をしているの。」妻の語尾は「?」でなく「!」だ。「むにゃむにゃ。」と説明しながら、そう、「オーイ」と呼ぶのは芸がない。「これからは君を呼ぶときには『ひろちゃん』と呼ぶ。君は俺を『まーちゃん』と呼んでくれ。」と、申し渡す。「なにをまたバカなことを」なんて言いながら函館空港着。
 ツアー参加者は思いの他(思いの「外」という漢字もある。どっちが正しいのだろう)多く40人乗りのバスはほぼ満席。最初に「ベイ・エリア」。昼食の時間。今回のツアーの楽しみの一つは食事だ。しかし、ツアーだから、時間と場所に当然制約がある。その中での、定番ウニ・イクラ・ホタテの「三食丼」に、私は、満足しました。北海道出身、現役の主婦、ひろちゃんのご意見は?満足。良かったですね。でも、「あなた、ウニを最初に食べないと溶けちゃうわヨ。」と細かい。「あなた」でなく、「まーちゃん」と呼びなさい。と、私も細かい。函館公園等、道すがらの定番をこなして、目的の五稜郭。「45分経ったらここに集合してください。」これまでの集合に遅刻する参加者は皆無。今時、旅慣れない客などいないのだ。 サー、五稜郭へ、いや、五稜郭のスタンプを目指して、まっしぐら。あれっ?この「スタンプ帳」に記載の捺印所「管理事務所」がないぜ。「あそこに仮事務所ってあるわよ。」そうか、ひろちゃん、でかした。「スタンプを押したいのですが。」「どうぞ、どうぞ。」ドーンと押して、やれ、と帰ろうとすると、また、ひろちゃん、「これ、違うんじゃない?」「なにが?城のことは俺に任せて・・、ウン、これは普通のスタンプだね。あのー、百名城のスタンプは?」「あー、それは、こちらですね。」成る程、最初のはドーンと枠からはみ出している。やれやれ、別紙に押して、後で貼り付けねば。
 また、ひろちゃんに、お世話になりました。   
 さて、タワーに登ろう。もう時間ないわよ。そうだねー。なんて口では言いながら、身体は切符を買ってエレベーターの行列に並んでいる。展望台で五稜郭をチラと一瞥して、ついでに市内も一瞥して、アー良かった、下りのエレベータには待つ行列がなく、バスに滑り込み。
 五稜郭を見たのか、見ないのか。展望台の写真を見て、「榎本武揚って、ハンサムね。」こんな連れと一緒だから、これでいいでしょう。そういえば、もう一つの五稜郭、佐久の「龍岡城」へもひろちゃんと行ったのだ。あの時は二人のドライブで、見物後は案内書にあるうなぎ屋に行くだけの用事だから、小ぶりな五稜郭を二人でゆっくり一周したものだ。



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  ■03 松前城
   訪城日 20年5月6日

『7C頃の蝦夷を支えた「馬」や「金採掘の技術」を支配した「物部」は、直接北方から津軽・松前へ入ってきた。』という壮大な仮説の信奉者である私には松前は重要な土地なのだ。しかし、今の私の知識と、ツアーで許されたに2時間弱の滞在ではこの仮説の詳説は出来ない。早速お城に行きましょう。
 まず、スタンプ。「資料館」となっている、三層の復興天守閣の入場券売り場で聞くと「奥です。」奥の入り口で聞くと、「はい、どうぞ。」「いや、このスタンプではないのです。よ。「百名城」のスタンプですよ。」「えーと、それは、入場券売り場にあります。」長い廊下を逆戻り。でも、東京からの道程を考えれば短いものだ。
 資料館は、ゆっくり見れば貴重で私にとっても良い参考になる品々が揃っているのだろうが、なにしろ駆け足。和人に従属したアイヌの酋長達を一人一人鮮やかに画いた十数枚を華麗な絵としても、和人のアイヌ圧政の資料としても深く心に刻んで退出。
 藩主十四代の墓に行く。ひろちゃん気をつけてよ。彼女と水戸藩の墓を訪ねたとき、彼女は転んだ。お墓で転ぶと長引くとのジンクスを二人とも知っていたから、助け起こした私も暫く無言。墓の静寂が身に沁みた。ジンクス通り回復は時間がかかった。しかも、「祟り」はそれで終わらない。三歳の私の孫娘はお姫様には目もくれず、TVは「水戸黄門」が大好きだ。主題歌になると「人生、楽ありゃ苦もあるさ」と声を張り上げて歌い始める。もっとも、黄門様に言わせれば「それが、なんで『祟り』なのだ。」というだろうが。
 更に上には各種建造物を復元した「松前藩屋敷」があるという。残り時間20分。10分で登り、5分で見て、5分でバスまでと予定して、急げ、急げ。無事、「奉行所」、「商家」、「番屋」など走り抜け、予定通りバス着。実は、ひろちゃんは、既に松前は探訪済み。今日の私は彼女の案内で歩いた、いや、走ったのだ。一緒に走ったひろちゃん、ご苦労さんでした。余った3分でバス駐車場前のコンビニで私におむすび、彼女にサンドイッチを買って、お昼とお礼に致しました。

 帰りの飛行機。この巨大な連峰はなんだ。朝日連峰か、こんなに大きいのか。よく見える下界を楽しんでいると、機長の機内放送、型通りの「東京の天候は晴れ、気温は・・、」に続けて「私事ですが、本日定年を迎え、これが私の最後のフライトです。満席となり有難うございました。」と。満席の客、全員拍手。スチュワーデスも全員起立して答礼。ところが、アレレ、その直後から機体が上下・左右に大きく揺れだした。彼だけでなく我々全員の最後のフライトかと覚悟・・なんてことは、ドラマの世界でしか起こらない。実際は無事、滑るが如く羽田着。ひろちゃんは我が家へまたバスで。お互い手を振って別れて、私は会社へ。ところで、ひろちゃんはとうとう私のことを一度もまあちゃんと呼ばなかったな。まー、次の旅で呼んでもらおう。







04 弘前城
 別名 鷹岡城
 青森県弘前市下白銀町 1
 訪城日  24年6月25日

【名城・弘前城】
 弘前城は名城である。江戸時代の天守を残した12城の一つというだけではない。豊かな水を湛え、城の四方を囲む堀。春になれば、その堀の水を花びらで薄桃色に染め変えてしまうほど植えられ、育てられた沢山の桜の巨樹・名樹。一つでも十分に当時の威風で我々を圧倒する門が、三の丸追手門・三の丸東門・二の丸南門・二の丸東門・北の郭亀甲門と、5棟、それぞれ築城時の姿で現存している、広々とした城内はそここに櫓があり、色鮮やかな赤色の橋もあり、幾度訪れても古城を散策する満足感に浸ることが出来る。
 城の周りも、いかにも城下町らしい落ち着いた平屋が続き、昔ながらの雑貨を扱う店も観光用でなく、地元の人の用に供している。
 街全体に、寺社は勿論、学校・銀行・役所などレトロな建物をそのまま温存している。

弘前は洒落た街の筈だ。もっと歩きたい。 定番「天守閣」

天守閣より


【弘前城は誰が維持したか】
 こうして、弘前は、城を呼び物として、多くの観光客を集め、この「観光」はこの市の大きな財源になっていると思われる。
 しかし、どうして、このように城も城下町も温存され得たのだろう。似たような城として松江城を思い出す。遊覧船さえある大きな堀や、城を囲む旧家の静まり返ったたたずまいが、よく似ているのだ。
 但し、松江城の場合、正門に大きな案内版が立ち、旧藩士や豪農らの「松江城保存につくした人たち」を紹介しているが、弘前城の場合はそれがない。
 城の近くに昭和初頭に東京商工会議所および日本商工会議所の会頭を務めた藤田謙一氏の邸宅が公開されていて、我々も見学したが、彼の数々の業績の中に、弘前城保存への貢献した旨の記載はなかった。

 幕末の弘前藩は、「みちのく」にありながら、奥羽越列藩同盟を裏切った形で新政府側に立ち、戊辰戦争では官軍側だったという理由で弘前城は破却を免れた、とも云われるが、当時の情勢では、官軍側ならば、率先して城を破却せねばならなかったかもしれない。

 城は誰のものだったのだろう?藩主のものだったのか?廃藩置県が行われて城は、誰のものとなったか?「県」のものになったのか?幕藩体制の時代、城は武士(と、城の御用商人)のみが出入り出来て、一般人は厳重な警備に妨げられ、城内など見ることは出来なかったろう。そのような城に一般庶民が愛着を示せるであろうか?
 愛着もない城の保存のために、奔走するであろうか?城が観光資源となって、一般住民に恩恵をもたらすと、明治人が平成の時代までを読み尽くせたであろうか?


この堀が桜の花びらで埋め尽くされるのだ
苦労して堀が二重であることを写したのだが、
内側の堀は何のためにあるのだろう?
このようにはっきりと堀の水の供給口が
解るのは珍しい。ゴイサギを写したのだが。
城の前の商店。営業中。 城の前の商店。営業中。内部。撮影の許可を得た。

【サムライ以外の戊辰戦争】
 城だけではない。弘前に限らず、明治維新の時代、維新の戦闘にサムライ以外の農・工・商の一般庶民は、どう拘わったのだろう?自藩を守るために武器をとって戦ったのだろうか?萩藩の「奇兵隊」がよほどの特殊な例として挙げられるようにほとんどの藩ではサムライ以外は、自分たちには無関係と高見の見物、まではいかなくても、座視していたのではなかろうか?
 例えば、会津藩。あの悲惨極まりない斗南藩へ移されたのは、藩士のみではなかったのか?庶民たちは、あの過酷な斗南に移住しなくてよかったのではないか?
 江戸もしかり。遷都してきた天皇を、江戸の商人はどう迎えたか?
 荒俣宏「男にうまれて」には江戸幕府には見切りを付けながら薩長には加担したくない江戸商人の心情を、かつをぶしの「にんべん」八代目に託して推測していて、説得力がある。

藤田家記念公園より岩木山を望む 長勝寺山門
最勝寺の五重塔 弘前から鰺ヶ沢へ。
太宰治の山、岩木山はどこからでも見える。
久しぶりに裸足で砂浜を歩く。

「街道をゆく」記載の養生幼稚園



【吉田松陰と学校法人・養生学園・養生幼稚園】
 弘前、従って弘前城は、仕事にかこつけて幾たびも来ているが、今回は、「大人の休日」を利用した、スタンプ捺印の為のみの訪問である。司馬師は「街道をゆく 北のまほろば」で、弘前を例の麗筆で隅々まで紹介してくれていて、引用すればきりがない。
 ただ、今回は、弘前をゆっくり見ようと、二日がかりで市内を歩くことが出来た。誰でもが行くだろう「最勝時の五重塔」、「長勝寺の津輕家霊屋」、先述の「藤田家記念庭園」も見た。ただ、司馬師に敬意を表して、吉田松陰が訪ねた家を物持ちよく残している、「養生幼稚園」を、本長町に訪ねた。生憎、中には入れなかったが、司馬師に義理を果たしたようで、満足した。

05 根城
 別名 なし
 青森県八戸市根城字根城
 訪城日 20年3月6日

日本百名城スタンプ・ラリー
 「日本百名城」が選定されたのが、2006年(平成18年)2月で、スタンプラリーが開始されたのが2007年平成19年6月である。
 そのスタンプ帳をどのように購入したか忘れてしまったが、最初の百名城としてこの根城を訪城した時は、そのスタンプ帳を持参することを忘れた。忘れてばかりいるが、根城のスタンプ設置場所が、気前よく、手持ちのスタンプ帳を無償で下さったことは鮮明に覚えている。その時から5年以上たって、今、ようやくスタンプの押してない城は5城となっている。

 例の4日間乗り放題の「大人の休日パス」を使って、妻と二人、当時は新幹線の終点であった八戸駅で降り、バスに飛び乗り、残雪でぬかるむ根城の復元建物を巡り歩いた。それから、国宝「赤糸威鎧兜(あかいとおどしよろいかぶと)」、「白糸縅褄取鎧兜(しろいとおどしつまとりよろいかぶと)」を収める櫛引八幡宮へのバスに乗った。
国宝の鎧をまつる神社。
当時、鎧は必需品だったのだな。
根城から神社へバスで。
一緒になった夫人が手に持っているのは蜂蜜。
気前よくおすそ分けをしてくれた。
残雪の根城 雪に埋もれた神社

当時、根城の案内板は少ない。私の写し方ももっと少ない。

北畠顕家と北方謙三「破軍の星」
 この城は「1334年、南部師行公により築城され、北奥羽を治めるための中心的な役割を担っていた。発掘調査の成果に基づき当主の屋敷全体を中世の城としては、全国で始めて復元整備した。」とあるが、この城を訪れた当時の私には、「1334年」「南部師行」が何の実感を持って迫ってこなかった。今、この城を身近に感じることが出来るのは、北方謙三氏の「破軍の星」に出会ってからだ。ハードボイルドから出発して、今は膨大な中国史を書き綴っているが、途中、「武王の門」(懐良親王)、「悪党の裔」(赤松則村)、「絶海に非ず」(藤原純友)など他の歴史作家があまり扱わない時代と人物を実に読みやすく、したがって、時代背景がわかり易い書にしてくれている。
 なかでも、「破軍の星」は、天才、北畠顕家を十二分に紹介してくれて、私は初めて北畠親房が、この顕家の父親として有名であること、親房が「神皇正統記」を、福島県の霊山、または、茨城県の小田城で書いたのは、息子・顕家に付いてきていたからだと知った。
 
 根城の主、南部師行はこの顕家の有能にして、忠実な部下であったと、北方氏は、彼得意の気持ちの良い、深い信頼で結ばれた男同士の物語として提供してくれているが、師行は、陸奥に残る北朝の勢力と、神経がすり減る戦いをしていたことも、よく書かれている。
 その競り合いを考えると、この、石垣も深い堀もない、のんびりと見える平城からも、修羅の場面を想像出来なければならないのだが・・。

馬と牛
 もう一つ。師行は、顕家の要求に応じて、限りなく「馬」を提供し続けた。東北の馬。
 いつのころから、名馬が産出するようになったのだろう?
 源平の戦いで源氏の「馬」はスルスミ、イケスミあるいは鵯越などで活躍するが、あの馬たちは、関東の産か?もう、平泉以北の馬か?

 もう一つ。関係ないことを。
 牛。関西の神社には、牛の像がほうぼうにある。東では神馬だ。(伊勢神宮には神馬がいたが)。しかし、東北でも、牛は活躍する。農業。特に鉱山の運搬には牛は欠かせなかったと読んだ。しかし、牛は可哀そうだ。馬は日本にいつ来たか?なんて、話題になるが、牛がいつから、日本にいるか?あまり聞かない話だ。ウイキペディアは?検索したら「日本ウシ史」というホームページにヒットした。その書き出しが奇しくも『うしはかわいそう』だったので嬉しくなった。本文を引用させてもらう。
『ウシは偶蹄(ぐうてい)目ウシ科の哺乳(ほにゅう)類である。
 日本には先土器時代から「ノラウシ(野牛)」がウロチョロしていたが、それらはやがてヒトに狩られ、拉致られ、飼われるようになった。
 むろん、ペットとしてではない。当初は農耕儀礼の生贄(いけにえ)として、古墳時代以降は従順なヒトの奴隷(家畜)として飼育されたのである。 飛鳥時代、渡来人・和薬善那(やまとのくすしぜんな)が時の孝徳天皇に牛乳を献上した。
 天智天皇もウシの繁殖を奨励し、文武天皇は牧場を設置している。 奈良時代、宮内省典薬寮(てんやくりょう)に「乳牛院(にゅうぎゅういん)」が設置された(平安時代に設置ともいう)。乳牛を飼育し、牛乳を献上、蘇(そ)・酪(らく)・醍醐(だいご)といった乳製品製造を指導した役所である。
 長官は「乳長上(ちちのちょうじょう)」と呼ばれ、当初は和薬氏の世襲であった。
 なお、直営牧場は摂津味原(あじう。大阪市東淀川区・大阪府摂津市)にあったという。 平安時代になると、画期的なスロー乗用車「牛車(ぎっしゃ・うしぐるま)」が考案された。貴族たちはマイ牛車に趣向を凝らし、見せびらかすように乗り回した。』

■櫛引八幡宮
最後に、関係があることを一つ。櫛引八幡宮は『南部家初代光行公の草創と伝えられる。平泉合戦に戦功をたてた光行公は、源頼朝から糠部群(ぬかぶのこおり、青森・岩手良く部の広大な領域)を拝領し、建久二年(1191)に入部したという。その後、父信濃守遠光公が甲斐国南部郷に仁安元年(1166)に祀っていた八幡大明神を勧請し、六戸の瀧の沢村に仮宮を営ませ、更に霊地を求めさせた。神託によって四戸の櫛引村を社地に定めて、貞応元年(1222)社殿を造営し、遷宮鎮座した。これより櫛引八幡宮と称し、南部領総鎮守として尊崇されることになった。』 さらに、『櫛引八幡宮は「八幡馬」(遠藤注:郷土玩具です)青森県で国宝になっているのは、この神社の(赤い鎧と白い鎧の二つ)だけです』ともある。キリがないからオシマイにしたいが、もう一つ。2012年10月24日の読売新聞の切り抜きにある八戸市博物館長の言を引用すると、『戦いの緊張に満ちているというより、生活のにおいが強い城。堀は備えているが、曲輪からは、農具や馬屋や鍛冶工房、奥御殿などが出土し、復元されている』あー、キリがない。今度こそ本当にオシマイ。


06 盛岡城
 訪城日 22年9月16日

盛岡城の石垣は城の誇りだ。普通、「城」というと「天守閣」だ。古城を訪ねて案内を乞う市の観光課でさえ、「ここには「城」はございません。」と平気で言う。整備された立派な城跡公園があるにも拘らずだ。
 かっての天守閣が現存する城は全国で僅か12箇所。(うち国宝は松本、犬山、姫路、彦根の4城。他の弘前、松山、松山、丸岡、松江、宇和島、・・の8城は重文。)従って我々の城見物は、石垣、土塁、堀、矢倉などがあれば充分だ。特に、「石垣」は重要だ。「木」の文化の日本では「石」が使用されている数少ない建造物だからだ。にも拘らず、城の「石垣」の説明は「野面積み」「打ち込みはぎ」、「切り込みはぎ」等の工法が精一杯で、石の種類、産地、に関する

 盛岡城の特徴は石垣の由。技法の変遷も面白いが、石の材質が明確で、その由緒も明確なのが面白い。花崗岩である。且つ、北上山系の岩である。北上山系は日本列島が形成される前から「島」として存在していたそれはそれはふるーい地質なのだ。

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07 多賀城
 訪城日 25年7月9日

「松島や ああ松島や 松島や」の作者を知っているか?
 と、訊かれれば、『馬鹿にするな。芭蕉に決まっているだろう。』と答える人ばかりだ。
 「この句の作者は芭蕉ではない。」私の友人・知人は教養人が多いが、このことを知っている人に出会ったことはない。芭蕉は「奥の細道」で松島を訪れたとき、一つの句も書き残していないのだ。
 「奥の細道」を知らぬ人はいないが、読んだ人は少ない。芭蕉がこの書で訪れた名所・旧跡を訪ねてリポートする人は無数にいるが、その場所・場所を繋いだ「道」を実際に歩いた紀行文にまだ私は巡り合っていない。
「奥の細道」に関するこの二つの「常識の落とし穴」は、いずれ、稿を改めて、このホームページの「山の世界」に掲載するつもりだ。

多賀城全景と復元模型。
模型が屋外に展示されているのが珍しい。


多賀城は親切な案内板が多い。




多賀城点景。
蝦夷侵略と高橋克彦氏
 記録も写真もないのでいつだか不明だが、松島の牡蠣を食べたいと人並みな贅沢心をおこした。勿論、あの大震災より前、百名城スタンプラリーが始まる前だったが、この、歴史の教科書に必ず出てくる必見の城には立ち寄った。
 今回は、「大人の休日」を利用しての訪城だ。  駅から歩く。
 城は多くの場合「守る」のが目的で「攻める」ことを目的にして築城するケースは・・は、「ない」と言い切ることは出来ないが、「少ない」といって良いのではないだろうか?
 そうでないと困る。何故なら、この城は、大和政権が蝦夷を攻略するための前線基地として作られた「攻める」ための珍しい城だと書きたいのだから。
 この城は、蝦夷の人々の真ん中に作られた。夜、厚い漆黒の闇に囲まれたこの城は、いくら篝火を焚きに焚いても、その光が届かぬ先の果てしない闇、そこに蠢く無数の敵の目。それを想像した時、この城はとても恐ろしい。(城下町がないのだから・・。)
 ここまでは、私の愛読書、高橋克彦氏に捧げよう。

多賀城碑と古田武彦氏 
 城への途中、多賀城碑が鞘堂に守られて立っている。この真偽論争を古田氏の書で初めて知った。同時にこの邪馬台国九州説の頼りがいのある闘士が、東北生まれだとこれも初めて知った。古田氏は、勿論、「多賀城碑はホンモノ」と堂々の論陣をはっている。また、古田氏は「東日流外三郡誌」もまた「ホンモノ」との姿勢を崩さず、誠に、頼もしい。

北畠顕家と司馬師
 天才顕家が東北のスターであることを北方謙三氏により知ったことは「5 根城」に書いた。顕家がここ多賀城に最初の城を構えたことも知ったので、この城の項でもっと調べる積りだった。「顕家」・「多賀城」で検索したら、なんと、司馬師「街道をゆく」がヒットした。幸か不孝か、私としたことが、「仙台・石巻」編を読み落としていたのだ。慌てて目を通すが、例によって完璧な案内書で、引用するならば全文を書き写さざるを得ず、とにかく、朝日文芸文庫ならば「街道をゆく 26巻 仙台・石巻」編をお読み頂く他ないだろう。
 仙台城も幸い私がホームページにアップしてからこの編を読んだので、ささやかに、私の文章が書けた。司馬師が仙台を論じると、「江戸時代、仙台には商品が少ない。袴の『仙台平』が目立つ程度だ。」と書くすぐ後に、筆はこの『仙台平』がいかに一般の袴地と違うかを、製造法から詳述する。凄いですねー。
 師は勿論多賀城も実地に現場を歩いている。そして、詳細に多賀城の紹介をしてくれている。「多賀城碑」も見ている。そして、その真偽論争については「わざわざ後人が偽作したとはとても思えない」と、短く述べている。司馬師は「邪馬台国論争」についてもほとんど参加していない。(私の心情としては司馬師は九州説の同志と頼りにしているのだが)
 尚、司馬師がこの紀行の中で「松島や・・の句を無神経に使用している松島住民に悲憤慷慨していることを蛇足ながら付け加えておく。
 

多賀城点景。 多賀城碑はこのお堂の中に安置されていて、
現物を見ることは出来ない。

08 仙台城
 仙台市青葉区川内
 訪城日 20年7月14日

お城のカラオケ番付
 仙台城といえば青葉城。青葉城といえば「青葉城恋歌」となる。カラオケでお城に関連した曲の番付を作ってみると、横綱は「古城」と「荒城の月」で決まりだ。「荒城の月」の作詞は、仙台出身の土井晩翠で仙台を千代に読み替えたり、当然、仙台城をイメージした詞になっている。尚、作曲は滝廉太郎。1901中学校唱歌の懸賞に応募しての作品だ。日出藩士の家系だから当然城は豊後竹田市の名城・岡城が舞台だ。岡城下には彼の銅像が建っているが、彼が父の転勤先として少年時代を過ごしたという富山城にも銅像があるという。
 東の大関は「私の城下町」で、歌ってみるとなかなか難しい。そして、西の大関がこの「青葉城恋歌」だ。美声を要求されるし、間奏が長いし、よほど、うまい人に歌ってもらわないと聞く方は楽ではない。
 最近、関脇に定着したのが氷川きよしの「白雲の城」だ。セリフも入っているし私は「古城」の代替にこの歌を歌わしてもらっている。
 「古城」、「私の城下町」、「白雲の城」などは、モデルとなった城を特定するのは難しい。その点、前頭に並ぶ、三代目コロンビア・ローズ「城下町ブルース」は上田城下とはっきり歌っている。また、野中紗央里が「郡上恋歌」で「もうすぐ城山、蝉しぐれ」と歌い上げている郡上の城主は、全国唯一、遠藤姓なので、歌わないわけにはいかないではないか。

仙台訪城の前日に我がキリマンジェロ登頂隊は山形の障子が岳を登った。
     それから、5年後、登頂隊から、一人のメンバーをあの世に送った。
     遺族の方たちが「出来るだけ内輪に」と気配りをしたにも拘らず、
     各方面から、実に多数の人々が葬儀に参列した。


仙台城のスタンプはここでバスを降りた近く。仙台城の写真はこれ一枚。
申し訳ないが、この時は、皆を仙台駅で待たしていたので、スタンプゲットだけの訪城。

B型の偉人 伊達正宗
 仙台へは数え切れぬほど来ている。城にも何度も何度も登っている。しかし、いつも、駆け足だ。広瀬川の清流を賞で、正宗の銅像を見て、仙台市を遠望して、さっさと帰途に就く。国宝大崎八幡宮や瑞宝殿にも行った。自分の車で寄った時は、城の裏手もドライブした。しかし、仙台城は広い。城探索のために丸一日を費やしてもその全貌は掴めないだろう。この城が築城されたのは1610年と、思ったより新しい。城郭建築が完成の時期だ。戦いを勝ち抜いてきたプロ中のプロが、充分の財力を持って築城したこの城は、当時は、難攻不落を誇っていたと云われている。
 そのような城を幕府の隠密は、どのように報告したのだろう?
 同じ時代、同じように難攻不落の城を作った加藤清正は、彼の死後、いや、暗殺された後、たちまちお家を取り潰されている。正宗の天下を取らんとする野心はミエミエだったに違いない。にも拘らず、伊達家は幕藩体制を生き抜いた。どこが加藤家はじめ次々と取り潰された外様大名と違ったのだろう?
 そして、250年後、明治維新の時、奥羽越列藩同盟の盟主となった。そして、会津藩ほど知られてはないが、仙台藩も戦い、かつ負けて、降伏した。会津藩は斗南の地に追いやられたが、仙台藩は北海道の開拓の道を選んだ。北海道の地名に今に残る、「伊達」市、札幌「白石」区などはその苦闘の証拠なのだろう。
 
身近でありながら、よく知らない仙台城
 今回のスタンプ捺印も、予約してしまった新幹線の時間に追われ、バスで仙台城見聞館に駆けつけ、バス停が見聞館に近いこと、館員さんの応対がとても親切なことに喜んだだけでとんぼ返りをしてしまい、この館の場所こそ、仙台城の本丸だということを後で知った。秀吉にも家康にも面従腹背、死ぬまで、隙あらば天下を狙う姿勢を貫いた、B型の偉人、伊達正宗氏と、彼が「細工は流々」とあるいは楽しみながら縄張りをした天下の名城に、残念、かつ、申し訳ないことをした、と、今、思っている。
(正宗の墓所瑞宝殿の再建に先駆け1974年発掘調査が行われて、身長は当時の平均的慎重である159cm、遺骸毛髪から血液型はB型であることが判明したノデス)



09 久保田城
 秋田市千秋公園1−39
 訪城日 20年7月3日

久保田藩と秋田藩と「藩

 この城は秋田駅から歩いて数分の秋田市の中心にある。だから、当然、「秋田城」かと思うと、とんでもない。「久保田城」と云う。この場合は、「秋田城」が他にあるのだから納得する。しかし、久保田城のあるところを、「秋田藩と云ってもよいし、久保田藩といってもよい」となるあたりから判りにくくなる。調べると「大体、『藩』なる名称は、明治維新以降に初めて使われた」と、書かれていて、目から鱗が、落ちるどころか、今までなかった鱗で、目の前が真っ暗になってしまう。一昔なら“ものの本に”、今は“パソコン”に、
「(藩とは)明治初年(1868年)に公称となり、廃藩置県(明治4年(1871年))までのわずかの期間だけが公式に用いられた訳であるが、その藩名には、所領名(国名)(例:加賀藩)、大名名(例:前田藩)、城下名(例:金沢藩)の三通りがあった。」と。
 以前は「守護・地頭」の定義に悩んだことがあった。今回も、知ってるつもりで何気なく使っている歴史用語の奥深さに戸惑ってしまう。私は、老い先短いのだ。この迷路は、
入り口だけ覗いて、自分を解放しよう。

久保田城 久保田城の保存は、維新の時の新政府への
貢献で恩恵があったらしい。
公園内の東海林太郎像や平野政吉美術館など、
秋田には語るべき人物が多い。

 久保田城

 さて、「久保田城」は高々とした石垣もなく、威圧的な大手門も迷路のような登城道もない。まさに、平和な「千秋公園」として市民の暮らしに溶け込んでいる。いかにも戦闘を経験しない城との印象を今まで持っていた。あの静かな「竿灯祭り」からの連想もある
この地の「竿灯祭り」はひたすら優美。他国では祭りに酒と争いはつきものだが、この祭りでは酔いは禁物だ。竿灯の担ぎ手は協力し合い、先輩は後輩を優しく指導するのだ。秋田の我社の顧客はお互い先代からの長い付き合いで、わが社のドル箱である。私の幼馴染の社長は竿灯のプレーヤーを長く続け、今は、審査員の要職を務めている。そんな関係もあって、秋田藩・久保田城には好意を持ち続けている。
 ところが、幕末、この城は一人敢然と「奥羽越列藩同盟」背を向けてこの「同盟」血みどろの戦闘をしたのだ。秋田藩は佐竹藩。佐竹藩は毛利藩(長州藩)同様、関が原の敗北で水戸から秋田に逼塞させられた。その恨みを抱いて300年。維新の動きに徳川幕府打倒のために立ち上がった。このようなドラマチックな見方は、我々部外者の無責任で、単純な講釈で、私がパソコンで読み進んでさえ秋田藩(久保田藩)は幾多の戦いと犠牲を出して明治の時代を迎えているのだ。歴史は奥深い。入り口だけ覗いて自分を解放しよう。   この城を、何故、秋田城と呼ばずに「久保田城」というのか?「久保田」とは、秋田市民にとってどのようなフィーリングになるのか?前述の社長に問うても即答は出来ない問題からも、私を解放しよう。
 


2009年撮影。立派に復元されている。
秋田城
 久保田城から近く、したがって秋田市の中心地の近くに「秋田城」がある。「百名城」ではないが、百名城の久保田城が無冠であるのに対し秋田城は昭和14年に国の史跡になり、今、実に活発に遺構が発掘され、その成果に基づいて数々の建造物が復元されている。
 この城は8世紀に蝦夷の制圧の為に建てられ、1050年の前九年の役当時に役を他に譲って衰退したと云われている。
 しかし、この城の価値は国内の鎮圧の為だけではない。国外、つまり、当時、盛んであった渤海国との交渉の窓口として日本全国の中で、また、日本の歴史の中で、特異な存在である。

▼画像をクリックすると大きく表示されます。
 物部氏・秋田美人・脱北者

 いつの時代からか私には解らないが、過って、秋田が大陸との交渉の重要な場所であることを、物部氏に興味をもった時、私は知った。物部氏はみちのくの産金技術を握っていた。蝦夷の力は武力だけではない。藤原三代、平泉の金色堂にまで続く、豊富なみちのくの金もその力である。その「金」の魔力が、中央の政権がひたすら北へ北へと侵略を進めてきた理由となっている。
 その中央でも覇を競い、敗北していく物部氏は大陸からこの秋田にも上陸し、産金や大陸の先進技術を武器に、蝦夷と手を握りながら勢力を伸ばしていった。前述の秋田の社長は実に丹念に秋田県の史跡を案内してくれたが、そのうちの一つの「唐松神社」は物部を祀る神社だ。その珍しい神社の配置や、この神社に保存されているという『物部文献』で、有名だが、私には、物部氏の一派がここ秋田に降臨したという私の仮設の有力な傍証として忘れられない神社である。
 秋田美人もまた、秋田と大陸が直接に、かつ、密接に結びついている傍証だ。秋田では女性はすべて美人だ。だから、美人も自分が美人とは思っていない。普通人と思っているから他では美人と云われる女性たちが普通人の顔をして街を歩いている。日本人には珍しい堀の深い見目を持つこの秋田美人は、昔、大陸から渡ってきた異邦人の子孫に違いない。
 そして、脱北者のニュース。半島から潮任せで未知の海に漕ぎ出した密出国者は、ほとんどが、自然にこの秋田に流れ着く。大昔は、ニュースにもならず、いつのまにか、日本人に溶け込んでいったのだろう。
 
 物部の祖先は、古代史の世界ではヤマトタケルノミコトと同様判官びいきの人気を持つニギハヤヒだ。歴史は奥深い。特に、古代史は。入り口だけ覗いて我慢しよう。
2009年撮影。
当時でも立派に復元されている。
トイレです!日本全国の城を見ましたが
トイレの復元を見たのはここが
最初で最後です。
貴重なトイレの外部。ここの残存物から
当時の食生活も解るのです。
あれから、4年。
どんなに立派に復元されているだろうか。
貴重なトイレの内部の復元。


10 山形城
 山形市霞城町3ほか
 訪城日 20年7月12日


天狗岳から飯豊山(の筈)遠望

なぜここに山の写真が?

 この年、齢70歳にしてトントンとキリマンジェロに登ることになった。
 仲間は大学時代の山岳部の先輩・後輩、計6名である。詳細はこのホームページの「山の世界」に譲るとして、その第一回の結団合宿と団員全員の健康診断受診をここ山形で行うことにした。

 結団式と云っても、学生時代から文字通り同じ釜のメシを食ってきた仲間だから気楽なもので、前日にここ山形城に立ち寄り、スタンプをゲットすることにした。山形でしばらく暮らしたというキリマンジェロ遠征隊の世話役Hが付き合ってくれての訪城だ。

私が開拓した山形の代理店は、紹介もアポもなく、全くの飛び込みでセールスに入り、しかもその場で取引が始まるという滅多にない成功の例として深く印象に残っている。
 その後、順調に売り上げは伸びてゆき、山形は度々訪れている。
 しかし、城は駅のすぐそばにもあるにも拘わらず、いや、それだからこそか特徴のない町の真ん中にある四角の平城として通り一遍の訪城しかしていなかった。



キリマンジェロ登頂隊と、事前の健康チェックをしてくれたお医者さん

再訪 山形城

 今回、訪問してみると、アチコチで修復・復元が進んでいて、また、年を経て行ってみれば、面目一新の城見物になっているだろう。

 取りあえず、平成元年に開館した「最上義光記念館」でスタンプをゲット。山形城と云えば、最上義光だ。城内にも立派な銅像が建っている。最上家は、蝦夷の末裔なら面白いのだが違う。本来なら鎌倉御家人の足利家の宗家たるべき、名門斯波一族である。
 義光は1546年生。秀吉に取り入り、秀吉亡き後は逸早く東軍に付き、1602年に57万石の大大名に登りつめる。しかし、1614年の彼の死後、最上家は後継者をめぐり内紛を繰り返し、1622年には早くも改易となり、歴史の舞台から退場する。
 万全な後継者体制を作らなかったのは義光の責任なのだろうか?それとも、有能なワンマンの宿命なのだろうか?
「義光記念館」では、『義光は権謀術策に明け暮れた冷酷な梟雄である』という世評を定着させたのは、他ならぬ、「山形市史」であると、大いに嘆いているが本当ならば、まことにごもっとも。同情に堪えない。
 工事でガチャゴチャしている城内に静かに佇んでいる国の重要文化財「旧済生館病院本館」を見学する。人間大好きな私は、例によって、病院の施設よりこの時代や場所にそぐわない立派な病院を強引に建てた、当時の山形県令、三島通庸に興味を惹かれた。
 鶴岡・山形・福島と東北各地の県令を務めた元薩摩藩士三島は、交通網の整備や、近代的建築の導入など今に残る功績もあるが、増税や労役賦課、寄付金強要などへの批判に対しては弾圧一辺倒であった。
 そして、福島県令に着任すると自由民権運動を徹底的に弾圧し、自由党の首領、河野広中を逮捕。投獄した。
 福島県は私の両親の故郷である。母方の本家には河野広中からの自筆の手紙が額に入って飾ってある。見てはいるが、内容を確かめたことはない。いや、河野広中の経歴も、読んだことがなかった。この機会に検索して見ると出獄後も結構大活躍をしている。
 パソコンは便利だ。知らないこと・知りたいことを瞬時に教えてくれる。但し、キリがない。山形城と三島通庸は関係があるが、元三春藩士河野広中は関係がない。生憎、三春城は百名城でないが、何れ、紹介する機会があることを願う。


修復なった大手門
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再訪 パソコン検索

 パソコンと云えば、山形でキリマンジェロ登頂準備合宿をするので、「キリマンジェロ」「山形」で検索をしてみた。日本人でキリマンジェロを初登頂したのが山形県人であるとか(まさかネ)、まー、コーヒーのおいしい喫茶店などがヒットするかもしれないと思ったからだ。しかし、ヒット数はゼロだった。それから、五年後の今、同じ条件で検索すると6万件以上がヒットするのだ。
 山形からキリマンジェロへの航空券だったり、鶴岡の映画館の「キリマンジェロの雪」の上映時間だったり・・。

世の中は変わる。私も、変わる。
あれから、5年たった今は、キリマンジェロどころか、近所の山にさへ行くのが億劫になっている。


11 二本松城
  福島県二本松市郭内3丁目・4丁目
  別名  霞ヶ城 霧ヶ城
  訪城日 21年7月1日

■私の父は福島県浜通り、母は中通りの出身だ。従って、今でも親戚が多くその一人には私の仕事を手伝ってもらっている。当然、福島県に関心が深いが、福島県は露出度が少ない。史跡・観光地も会津若松、磐梯山程度だ。相馬、三春など個性的な城もあるが紹介されるのは会津若松城しかない。腹が立つのは県都福島の城だ。福島高校出身の俊英数人にも問い質すが誰も存在を知らない。巨城平城も国鉄の駅の下だ。
 先日珍しくTVで福島紀行が放映された。いきなり、二本松城から始った。先日、玉子湯の帰途、二人で立ち寄ったばかりだから早速ひろちゃんを台所から呼び寄せる。折からの菊祭りと城内の紹介をあの時はアーだ、コーだと睦まじく観賞していたのに、画面が智恵子の生家の案内になった途端に風向きが変わる。「私は智恵子のフアンだ。貴方は見ているからいいのだろうが私は見たかった。自分の見たいものだけサッサト見て帰るなんて、貴方はいつも自分勝手!」と。だって、あの時は夕方遠方からきた友人と会う約束があって、急いでいたんだ。

 二本松城は立派な城だ。福島県では全国区の「会津若松城」と肩を並べて「百名城」に選出されている。我々は、大手門脇に駐車して登城した。石垣が高々、堂々と素晴らしい。

 元はと言えば会津の支城なのだが丹羽氏が10万石で入城してから、維新まで丹羽氏が続く。もっとも、お陰で、維新時は会津討伐のとばっちりで戦火に曝されたのだが。
丹羽氏は白河城立ち上げでも主役を演じている。紆余曲折を経た関が原前後のこの一家の経歴は、幸い、司馬氏の「街道をゆくー白河」に例の明晰な文で紹介されている。

 しかし、二本松は築城以後、歴史の舞台に登場しない。現在、二本松市になっても我々の目に入るようなニュースは提供してくれない。一体、どんな藩であり、市なのだろう。
これからは、山頂に至るまで堅牢な石垣を修復し続ける実力を持った市を知る努力をしよう。私の商売に関係のある和紙の産地でもあるのだから。


12 会津若松城
 訪城日 21年6月30日

■朝はゆっくりと9時発。真っ先に会津若松城。スタンプだけのつもりが、捺印所は入場料を払い、天守閣まで見物して、最後の出口の売店にある。商業主義に大いに腹を立て、ボランテイアに噛み付く。貴方達はこの城には詳しいだろうが、私は日本中の城に詳しい。金を払って捺印するのは感心できないと。
 しかし、維新及びその後の会津の歴史は涙、涙だ。熊本城は勝ったがこの城は負けた。しかし、戦った城なのだ。番付を上げねばと敬意を表す。
 会津の人々を調べてみる。 藩祖、保科正之も松平を名乗ることを固辞して筋を通した。その日本人好みの伝統で、幕末涙を誘う多くの悲劇の人物を生んだ。しかし、その壊滅的敗戦後も会津は明治の歴史に思いがけない人材を送っている。
 女流文学者若松賤子。鹿鳴館の華、大山巌夫人大山捨松。姿三四郎のモデル、西郷四郎。陸軍大将柴五郎。明治政府は不倶戴天の敵の筈だが。

 大塚山古墳(国指定史跡)
 住所のみで探した。近所に来ても見つけるのに苦労した。幸い公民館があった。このような情報源に頼るのはWの得意技だ。墓地の上の古墳に辿り着く。一つはこの会津に中央の流行である古墳が出来ていることが不思議。一つは、この樹木茂る小山を古墳と解って発掘した不思議。
 神指城(こうざし城)
 今は直江兼続ブーム。若松城のビデオで、彼が着手し、家康が詰り、それに対し兼続が反論し、会津征討の因となった城を放映していたので見に行くが、もとより、なにも残っていない。ただ、   の巨木が残るのみ。隣のお寺に金売り吉次の兄弟の何かがあって興を引かれた。



13 白河小峰城
 訪城日 20年11月30日

丹羽長重。秀吉の有力武将丹羽?は、秀吉に疎まれ、所領どころか、後の五大老?長束?などの自分の武将まで取り上げられる。ところが、その息子は家康に?用いられ、白河城を10万石で小峰氏より継ぎ築城。しかも、二本松城まで築城し明治まで?生き延びる。
 松平定信。吉宗の孫。11代将軍に迎えられる筈の家柄。城では重要視されていなかった。
 阿部家。歴代、幕末に大老を勤めた。

城には三重の櫓が復元されている。戊辰戦争の弾痕跡残る板も床板に。
古文書館。展示されている古文書は実物か。写しか。紙は本物か。

白河の関
 能因法師の逸話で有名。定信がこの場所と定めた。平成の発掘で堀、土塁が出土し、正式に史跡になった。もし、ここでなかったら、更に、白河の関の存在自体が否定されたら、みーんな、困ってしまう。勿来の関は名ばかりで実在していない由。
 芭蕉と曾良の立像あり。私は「奥の細道」を辿ったことがなかった。


白河城全景 白河の関
白河城天守閣 たしか、「街道をゆく」に記載がある神社

■「しかし、「奥の細道」を芭蕉と同じ日程で歩いて追体験をした人はいるのだろうか?
いれば、その記録を、是非、読みたい。芭蕉の忍者説の一つの傍証は、「奥の細道」での芭蕉の常人では難しい健脚ぶりにある。
 芭蕉に近い年齢、歩いた季節、道筋、これらを実地に考証をした熱心な研究者の報告があれば、どなたか、教えていただきたい。」



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