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福岡県 |
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福岡城 |
平成22年12月1日登城 |
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大野城 |
平成22年11月30日登城 |
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佐賀県 |
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名護屋城 |
平成22年12月1日登城 |
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吉野ヶ里 |
平成23年4月10日登城 |
こちらから |
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佐賀城 |
平成23年4月10日登城 |
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長崎県 |
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平戸城 |
平成23年4月10日登城 |
こちらから |
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島原城 |
平成23年4月11日登城 |
こちらから |
熊本県 |
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熊本城 |
平成23年4月11日登城 |
こちらから |
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人吉城 |
平成23年6月19日登城 |
こちらから |
大分県 |
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大分府内城 |
平成23年4月13日登城 |
こちらから |
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岡城 |
平成23年4月13日登城 |
こちらから |
宮崎県 |
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飫肥城 |
平成23年6月17日登城 |
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鹿児島県 |
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鹿児島城 |
平成23年6月18日登城 |
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沖縄県 |
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今帰仁城 |
平成22年2月24日登城 |
こちらから |
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中城城 |
平成22年2月24日登城 |
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首里城 |
平成22年2月23日登城 |
こちらから |
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■85 福岡城 別名舞鶴嬢
福岡県福岡市中央区城内
(訪問日 平成22年12月1日)
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■昨日は山一つを城とした大野城、今日は岬一つを城とした名護屋城と、「100名城」の中でも屈指の広大なスケールを持った城を見た。その後だから、市内にある福岡城は見劣りがするだろうと、さして期待を持たずに城門を、いや、城の入り口を入る。(おそらく、大手門口なのだろうが、ここには城門はないのだ)
しかし、「見劣り」などとんでもない。その高々とした石垣と、そこに使われた石の大きさにたちまち圧倒されてしまった。これぞ城。流石、52万石の大大名黒田家の城だ。
築城は慶長中期で、この時期は大型城郭建設の最盛期である。その時期に、戦国時代や中世の城を改造したのではなく、黒田如水・長政父子が、全く新しく築いた城と知れば、この威容、風格も納得できる。
しかし、どうにも時間がない。飛行機の時間が迫っている。Kは空港まで車で送れないと恐縮するが、車では時間の計算が出来ない。これまでの懇切な案内を謝して徒歩となる。
三の丸、二の丸、本丸と駆け抜け、天守台に上がる。福岡・博多を一瞥して、「何はともあれスタンプ」と、コウロ(どうすればこの漢字を入力できるのか?)館跡展示館に飛び込む。中国で見たような体育館状の巨大なドームの中に丸ごと展示されているコウロ館跡もまたの機会ねと横目で見て、サッサとスタンプを押しただけで退散する。そういえば、スタンプラリーを始めた頃は、スタンプ設置場所もカメラに収めていたのに・・と、今更に、この内容の濃そうな展示館に申し訳なく思う。
豊かな緑と濠に沿って歩き、地下鉄赤坂駅に着く。ここまでくれば十数分で空港だ。
「へー,この地下鉄でもSUICAが通用するのか」と確かめる余裕も出来、更に、機上でこの城を反芻してみる。
この地はもともと立花氏の領地であった。秀吉の九州征討の結果、毛利元就の三男、小早川隆景が継いだ。賢い隆景は、秀吉の養子で秀頼の誕生で不要となった秀秋を養子に迎え自分は隠居する。この秀秋が関が原の裏切り者小早川金吾である。かれは、この功で、取り敢えず岡山60万石を貰うが、二年後不慮の死、お家断絶となる。
秀秋が岡山転出後、この地に53万石を貰うのが黒田如水だ。彼の出世物語は、司馬師の「播磨灘物語」に詳しい。今、文春文庫全4巻を再読してこの稿を書くのはチトしんどいのでここは飛ばそう。しかし、この外様大名黒田家が改易もされず明治を迎える苦心も読みでのある物語となるだろう。
如水父子は小早川の名島城を捨てて、全く新しくここに城を築く。名島城は石垣を海水が洗う、小早川家得意の「海城」だった由。今は、開発の波に洗われ、名島神社に僅かに、僅かに、残るのみというが、勿体無い話だ。小早川本家の三原城は、新幹線三原駅の下に埋もれている。その工事中に訪れた私が若気の至りで、責任者に食ってかかったシーンは一言の反論もせず私の「正論」にうなだれていたこれも若い工事責任者の顔とともに、私の城探訪の良い思い出だ。
如水父子は、名島城を潰しただけではない。大宰府、コウロ館など、古い歴史を持つこの博多の地形と住民のプライドを大いに傷つけた。怨念は今も続いており、市名は「福岡」だが、駅名は堂々の「博多」だ。
私のピカサに保存されている「東の御門」の案内板には黒田武士の実にくだらない不実の話がこれ見よがしに、掲げられている(写真参照)。城にあまり関係がないこんな話をこの貴重な案内板のスペースに書くのは、今も続く博多商人と黒田武士の不仲の証拠とは、いくらなんでも考えすぎか。
幸い、我が最高の案内人Kは生粋の博多っ子だ。この城のスタンプはゲットしたが、九州南部の「100名城」へ行く時に、再度この城を案内してもらえるだろう。その時にこの「因縁」を聞きたい。
あわせて、この城には、まだまだ聞きたいこと、案内してもらいたい場所が沢山ある。こんなに歴史が新しく、史実が豊富にある城にも拘らず、肝心の「天守閣」が「あった」いや、「なかった」の論争に決着がついてないのだ。しかし、「ない」ということの証明は難しい。「あった」という根拠はなにか?
城の南側の赤坂山を掘削した堀や中堀(紺屋町堀)、肥前掘の跡とか、追廻橋、或いは城を取り巻く数々の門、櫓などをゆっくり案内してもらいたい。
何しろ、この巨城とコウロ館を一時間で駆け抜けてしまったのだから、再訪が楽しみだ。
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■86 大野城
(訪問日 平成22年11月30日)
福岡県糟屋郡宇美町四王寺字猫坂207 ほか
「ほか」の意味はスタンプ設置場所が「ほか」に二箇所あり、
夫々、太宰府市、大野城市と住所が違うのだ。
それほど広大な城なのだ。
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■ 昨夜は大分県玖珠郡九重町壁湯温泉「福元屋」に泊った。「日本秘湯を守る会」の会員宿である。田舎屋風の建物・洞窟風呂。いかにも秘湯めいており、宿の主人も変な気負いがなく、気持ちのよい宿だった。惜しむらくは、現在は一般道路が、すぐ傍まで用意されてしまい、車で行くとあっと言う間に着いてしまう。これが「秘湯」の感をそいでいて、残念だ。便利になったというのに、客という者は、勝手なものだ。
この宿も、同行のKが手配をしてくれた。以前、座興に「秘湯を守る会」の会員リストを渡したのだが、早速にリストを活用してくれる気配りが彼の真骨頂だ。
宿を9時に出て、「水城」に10時半に着く。時間はメモではなく、写真に記録されているから、正確だ。大宰府防衛の為のこの「水城」は、時に、堤防の内側に水を貯え、いざ敵の襲来の時に堤防を切って落とし、その水の勢いで敵を撃退するのだという、これも一理ありげな案内を以前読んだ記憶があって、悩んでいたが、現場では流石に水濠は福岡湾に向ってあったように図示されていた。時間を作って、暫く、水城の両側を歩いてみたが、水城の両側に水を貯えることも想像はでき、まだ、時間が足りなかった。
大宰府跡を一瞥し、大宰府天満宮を一顧だにせず、車を走らせるが、岩屋城は無視することは出来ない。壮烈な書体で刻まれた「嗚呼壮烈岩屋城址」の石碑が建つ狭い本丸跡と城主高橋紹運のこれも立派な墓石に挨拶をして、また、山を車で登る。
高橋紹運。彼のここでの奮戦が島津の九州制覇断念の一因とされ、更に、実子で立花家の養子となっていた宗茂の命を救った。宗茂は関ヶ原で西軍に付いたにも拘らず、家康にまで知られたその勇猛振りが買われ、棚倉藩主を経て、関ヶ原で改易後大名として旧領に復帰した唯一の武将として旧領柳川の藩主となっている。
12時、大野城の一端、増長天礎石群に着く。ここから、富士山の「お鉢めぐり」のように円形の外輪が一望できる。この稜線とそれに囲まれた内部が全て「大野城」なのだ。
案内のパンフレットでは、「土塁・石仏巡り」が6K、3.5時間。「特別史跡(礎石・石垣・門礎)巡り」が4K、2時間。Kとは、元来、山仲間だから、歩くことは厭わない。
むしろ、「足がなる」のだが、いかんせん時間に追われる旅先の身だ。とにかく、スタンプをと、カールの内部の「都民の森センター」へ行き、スタンプをゲット。
このセンターの展示場は、当地の地場産業の木材を加工の工程、製品も含めて、展示してある。今回、九州に来たのは、城の他に、Kの実家の木材加工場の見学もしたかったからだ。規模が私の会社とよく似た零細企業で、したがって、悩みも似たようなもので、話がよく合うのだ。昨日はその工場を見学した。歴史がある、したがって、堂々たる設備が健在で、ちっとやそっとの新規参入者は寄せ付けない凄みのある工場だった。
この工場は、かっては、下駄を供給していた。当然、今は作っていない。いないが、下駄の歴史を考えてみると、面白い。昔、縄文の遺跡から、「田下駄」が発掘されたニュースを見た記憶がある。下駄はいつの時代から履かれたのか?ここ、大宰府の政庁では、役人諸君はどんな履物で都から旅をしてきたのか?政庁に着いたら、履物を脱いだのか?脱いだとしたらば、どこに、仕舞ったのか?中国・朝鮮ではどうだったのか?
そもそも、現代でも、履物を脱いで室内に上がる習慣は、日本以外にどこの国にあるのか?パソコンでも、一発ではわからない疑問のようだ。
さて、スタンプも押した。靴を脱いで、事務所の中に入って、押した。履物の着脱に興味があった時なので、その記憶は鮮明だ。その事務所員の親切な案内図で、とにかく、土塁・石仏巡りを4分の一歩いた。
それで、2時半。センターに置いた車に戻り、百間石垣を見て、Kが下見しておいてくれた道を宇美町へ。
百間石垣と対を成す、「北石垣」は見損なった。後日、Kは単独見てきてくれたと連絡があったのだ。誠に頼もしい。
さて、「大野城」。文献に現れた最古の城、というより、日本最古の「城」といってよいのではないか。「100名城」には「吉野ヶ里」がリストアップされているが、「城」の字は使われてない。「濠」や「柵」はは多用されているようだが(まだ見てないので)、石垣がない。
さて、もう一度、大野城。構造は最近の発掘・復原によって大分理解できるが、この目的、効果は今ひとつピンとこない。663年、白村江の敗戦による半島からの侵入を恐れて築城されたと、趣旨はわかるが、取り敢えず守るべき「大宰府」との位置関係が腑に落ちない。何よりも、「大宰府」が何年頃に建てられたか、が、よく判らない。パソコンの記述は「6世紀後半」とぼやかしているのが大半だ。この大野城の築城の前か?後か?私の写した「案内板」では現在の礎石群は平安時代とあるし、パソコンで探し当てた案内板では「大宰府をこの地に置くと同時に百済からの亡命者の指導により北面の四王子山に大野城、南面に基肄城を、平野部に水城を築いて大宰府を防衛した」と同時説を書いている。
いずれにしても、疑問を皆は持たないのだろうか?
同時に築城された基肄城も、有明海からの侵入に備えたとあるが、それにしては、海岸線から奥深くはないか。対馬の金田城、長門の長門城、讃岐の屋島城はわかるが、倭国(奈良県)の高安城は、ここまで攻め入られたらもうお終いなので当面不要で、よく、金が続いたと思う。実際、半島遠征にしろ、敗戦後の防備といえ、国家の財政基盤はどうだったのか。どうなったのか。
次の国家的防衛は対元寇である。その時の防衛線は海岸線の「防塁」だけで、城など築かなかった。黒船に対しては、品川のお台場程度。太平洋戦争では、松代(或いは東京)の地下壕くらいで、いかに、その後の日本が外的の侵入に対し無防備かと、感じざるを得ないが。
この疑問は、当分、そのままにして、一路博多市内へ。今夜は、博多在住で、数十年前に病で言葉を失った、Kと共通の友人を招き、ふぐを食する予定だ。
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■87 肥前名護屋城
(訪問日 平成22年12月1日)
佐賀県唐津市鎮西町名護屋
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■9時、博多のホテルをKの車で出る。高速を順調に走って名護屋城に着いたのは10時半ころか。この城は 年頃、昨夜会食をしたH夫妻の車で、来たことがある。Hはその時、既に、半身不随。話は、インプットは出来るが、アウトプットが出来ない、つまり、昨夜と同じ状態だったから、魚料理を食べるドライブが主目的で、城は、復原の工事現場を遠望するだけであった。しかし、それでも、スケールの大きさは充分想像でき、いつか、必ず出来る筈の再訪を楽しみにしていた城である。高速を順調に走り、唐津を横目に、城に着いたのは10時半頃だ。
ジパング・クラブの機関紙連載の「いざ城へ参ろう」の21番はこの城だ。「城域はじつに広大である。闇雲に歩くな。先ず、大手口を入って大手道を通り、東出丸から三の丸に入り、本丸大手を通って、本丸に出よう。その西北端にある天守台からの玄界灘の眺めは素晴らしい。その後、三の丸に戻り、二の丸、遊撃丸にでるが、もしかしたら、現在付けられている名称は逆かもしれない。他の城では三の丸を通り、二の丸、そして本丸に達するのが一般的だからである。遊撃丸は伏兵をひそませておいて攻撃させた場所である。以上が城の主要部であるが、少し足を延ばして、城の北側、水手口と山里口もも訪ねてみたい。」と小和田哲男氏は案内文を書いている。
この文を持参したわけではないが、結果的に我々はこの通りに歩いた。急ぐでもなく、特にゆっくりでもなく一巡して、昼を念願の「博多うどん」で摂ったのは、1時近かった。
しかし、我々が、「名護屋城」と言う場合、この城の周りに築かれた、動員された諸大名の陣所も含んでいる。その数は、現在、確認されただけでも130箇所ほどある。そのうち20箇所以上が、史跡の指定を受けて、現在も発掘調査が行なわれ、整備も進められている。「陣所」とはいえ、徳川家康、前田利家、加藤清正、その他錚々たる大大名の「城」である、どの一つも充分普通の城の規模を持っている。それを見尽くす為には、何日もかかるだろう。それは、早々に諦めた。
せめて、「佐賀県立名護屋城博物館」をと、Kを誘うが、Kは珍しく「一人で行って来い」と言う。「へー、さっきの昼酒が効いたか」と労ったが、いえ、トンデモナイ。彼は、大野城と同じく、この城も、博物館も既に下見をしており、その上で私を案内してくれていたのだ。有難や、有難や。
で、駆け足で博物館に行き、精巧な城や亀甲船の模型を一瞥し、更に、裏手の木下延俊陣跡を駆け抜けて、車に戻った。
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■88 吉野ヶ里
佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843
(訪問日 平成23年4月10日) |
■前回、鬼の城や大坂城を巡って埼玉の自宅に戻ったのが、3月10日だった。そして、翌日、東日本は3・11大震災に見舞われた。それから、丁度一ヶ月たった。九州の「100名城」巡り第二回はこの日に前から予定されていた。同窓会、発表会、ゴルフコンペなどの多くの行事が軒並みキャンセル、延期となったが、この会を延期しようと言う声は、参加者5名の誰からも上がらず、予定通り10時に、Kが待つ博多空港に全員が、顔を揃えた。
飛行機は半分が空席だった。いつもの通り窓際に席を取った積りが、そこは翼の上だ。しかも、左に見えるはずの富士山が右に見えたりして[写真]、自由に席が変われるこの日でなかったら、自分の不手際を責めた幸先の悪い旅立ちになったことだろう。
空港から『吉野ヶ里』まではKの車で一時間と少々だ。吉野ヶ里を、「100名城」に選定したことは、北海道のチャシ群を選定したことと同様、城郭協会の判断か、決断か、英断だ。
「100名城」のうち、吉野ヶ里とチャシ群は、末尾に“城”が付かない。五稜郭、足利館、武田氏館のように、城まがいの郭や館の字もつかない。
吉野ヶ里は、城なのだろうか?
「公式ガイドブック」には「弥生時代に(農業生産により富を蓄積した)集落防御の為各地に壕と柵で囲った環境集落がみられます」と記載されている。
“各地に”あるのか?この巨大な「吉野ヶ里」を襲う敵対者が他の地にいたのか?いたとすれば、その遺跡は発掘されたのか?
「ガイドブック」は、「古代国家形成から中世にかけては、軍事以外に政治目的も加わり、城柵が造営されます」と続く。
“政治目的”とはなにか?誰に対する政治目的か?
九州王朝説の旗頭である古田武彦氏は、吉野ヶ里建設の目的を、親日の『魏』に敵対する『呉』の日本侵略への防衛施設と見た。
松本清張氏は「発掘調査の途中で書くほうも動揺しているが」と断りながらも「弥生時代の銅器製作の工場と見たほうが、理屈に合うと思う」と書いている。(清張古代游記「吉野ヶ里と邪馬台国」)
と、なれば、私の師、司馬遼太郎師のご宣託を知りたくなる。
司馬師のご意見は?それが、見当たらないのだ。司馬師は九州は自分の庭のように歩き尽くしている。また、三内丸山の発見には非常に興味を持たれ、『街道をゆく』で度々論評を書かれている。
ところが、この吉野ヶ里については、司馬師のコメントを私は読んだことがない。また、
邪馬台国論争についても、意見を述べることを実に慎重に避けていたと、私は思う。
(どこかで、「九州が妥当と考えている」との短い発言を瞥見した記憶があるが・・)
司馬師は、魏志倭人伝の字句の解釈を無益な論争と思っているに違いないと、私は密かにその姿勢に感心している。
ここでタイミングよく司馬師の邪馬台国論争についての「本音」が感じられる文章に出会ったので、引用してみる。「平戸城」を訪城する為に再読した「街道をゆくー肥前の諸街道」(朝日文庫版11巻 96ページ)にある。
オランダ人たちが平戸から長崎へ移って217年経った時、幕府海軍の教師として来日したカッテンヂーグ氏が、200年前の平戸のオランダ人の遺跡に興味を持った。しかし、文献では平戸というが、土地の人は川内という。そこで彼は大いに迷う。そこで彼は、推量し、住居は川内に置き、事務所は平戸に構えたという折衷説をたてるにいたる。
「いま流行の魏志倭人伝の卑弥呼の国はどこにあったかということについての想像法とどこか似ている。一人の平戸人の不親切(?)が当時のオランダの代表的知性をここまで迷わせたということは、気の毒のようでもあり、罪といえば罪という感じもする」
抜粋だから、誤解を招くかもしれないが、師は、邪馬台国論争をムダと思っているように読めるのだが。他に詳しい師の「邪馬台国論」を見つけたいものだ。
ところで、歴史フアンの中では、司馬師と清張氏のフアンは夫々、はっきりと分かれると思うが如何だろうか。司馬師フアンは殆ど清張氏を読まないし、清張氏フアンは司馬師を読まない(と思う)。さて、司馬師と清張氏の仲は良くなかったのではないか?両氏とも古代史の学者達とよく対談をされ、その内容は書物になって我々は容易に二人の該博な知識に接することが出来る。しかし、二人が直接同席した対談なり、座談会なりがあったのだろうか?
そんな野次馬根性で二人の年表(「抜粋」。添付参照)を作ってみた。
それによると、司馬師は清張氏の14歳年下で、吉野ヶ里の発見時(1986年・昭和61年)司馬師は63歳。既に『街道をゆく』の連載を1971年48歳の時に始めている。その時、清張氏は77歳で、1968年(59歳)頃から『「古代私擬」などを熱心に書いている。
司馬師が熱心に取り上げた三内丸山の発見は、1992年司馬師69歳の時で、丁度その年に清張氏は83歳で没している。この年表を羅列してこの二人の対比は終わろう。後は、「好き」「嫌い」の主観の問題だろうから。
ただ、もう一つだけ付け加えたい。司馬師が没したのは文化勲章受賞の3年後の1996年で73歳であった。つまり、今の私の歳である。
というわけで、いや、ちっともそういうわけではないけれど、とにかく吉野ヶ里は現在、すっかり“城”として復元、展示されている。
その目的は「富を他の集落から防衛する為」としておこう。
しかし、もう一つ判らないのはこの弥生時代後半に築造されたというこの“城”が、いつ、何故、終焉したか?についての記述が、案内のパンフレットに書いてないのだ。
前掲の古田氏は、「壕は『埋め戻されている』。これは、敵対者に恭順したからだろう」と書かれておられる。(「失われた日本」1998年原書房)
吉野ヶ里は今も発掘中である。新事実が日々発見されて、多くの専門家が検討を続けていられるのだ。私達は、ここには2時間ほどしかいられない。吉野ヶ里の発生と終焉に関してはこれで切り上げて、今の吉野ヶ里を見ることにしよう。
壕を木橋で渡り『里』へ入る。入り口には鳥居状の門があり、上に3羽の鳥の模型があしらわれている。[写真] 案内板こそないが、鳥居の原形を見せたいのだと私は勝手に想像する。
壕の外側には木の柵、内側には逆茂木がギッシリと立ち並び、いかにも“城”というイメージが強調されている。
同行の4人は、南内郭で復原された櫓に登り、竪穴住居を覗き、さらに北内郭にまで行っている。ようやく追いつき、主祭殿に一緒にのぼる。二階では古代人が会議中だ。これは申し訳ないと声を潜めて会話をしたが、暗さに目が慣れてくると、なぁ〜んだ、彼等はお人形だった。
予定は二時間だから、多数の甕棺が出土した北墳丘墓は割愛して、車に戻った。
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■89 佐賀城
佐賀県佐賀市城内2−18−1
(訪問日 平成23年4月10日) |
■前回に『佐賀城』を訪れたのはもう、私が城巡りを始めた40年も昔のことである。しかし、その時見た城門・鯱の門の弾痕は強烈な印象として残っていた。
城は本来戦闘のための筈だが、その後、数多くの城を訪ねて、実際に戦った「城」は少ないことを知り、この生々しい戦闘の跡を残す佐賀城を再訪することはとても楽しみだった。
勿論、今回もその弾痕は残っており[写真]、私は得意げに同行者に説明した。
しかし、説明の途中で私は詰まってしまう。この弾痕は「江藤新平の乱」の時とは知っているが、この乱の経緯を知らないのだ。いつ、誰がこの砲弾を撃ったのか?
帰宅後、書を紐解いてみると、城の中にいたのはいち早く熊本城から派遣された官軍であり、虚を突かれた佐賀藩が慌てて官軍を砲撃し、城を取り戻した時の戦闘の跡がこの弾痕だと知った次第だ。
この弾痕の由来はもとより、私は薩長土肥と云われる新政府樹立の立役者の中で、「肥」、つまり、肥前藩について、あまりにも知らないと思い知らされた。「薩」の西郷・大久保、「長」の松蔭・高杉晋作・桂小五郎、「土」の竜馬などのスターがこの藩には居なかった為か。ならば、何故、この3藩と並んで「肥」が入るのか?
「武士道とは死ぬこととみつけたり」の“葉隠れ精神”が、維新志士達の根底にあるからか?
肥前藩が薩長土と並び称されたのは、幕末に10代藩主となった鍋島直正の英明にあったようだ。彼は佐賀藩が長崎警備役という立場を活用して西欧の近代知識を吸収し、佐賀藩を、日本では飛びぬけた軍事国家に仕立てあげた。
薩摩同様、佐賀藩も“鎖国内鎖国”の政策を取った為、維新への参加が遅れたが、佐賀藩の近代兵器がなければ維新は成就しなかったと言われるほどの存在感を示したのだ。
その歴史も知らないで、この鯱の門から城内へ入る。足はそのまま本丸御殿に向い、靴を脱いで上がってしまう。平成16年に木造復元されたのだから、勿論、私は初めてだ。いつのまにかボランティアの方と話を始め、彼の案内で一回りをする。
私の癖で、何を見ても、「見たもの」より「説明板」を写真に撮ってしまう。メモ代わりにするのだ。
ここでも、ある部屋に掲示されている年表を撮る[写真]。帰宅後、パソコンに落とし、拡大して復習するのだ。
年表によると、この本丸御殿は1869年版籍奉還によって佐賀藩庁になり、1871年に廃藩置県により佐賀県庁となる。これだけでもこの激変期の藩主直正公の心情やいかにと、憶測を逞しくするのに充分な記述だが、佐賀藩、いや、佐賀県の場合、年表の次の一行が痛烈だ。
「1874年 佐賀戦争。本丸御殿を佐賀裁判所に利用」
この臨時の非合法の「裁判所」で、江藤新平は裁かれ、即刻、死刑の判決が下された。下したのは、その為に自ら出向いてきた大久保利通だ。大久保の目は、当時鹿児島に隠棲していた西郷に向けられていた。西郷に群がる全国の不平分子に対し、大久保は江藤の反乱を挑発しあっという間に鎮圧・圧殺して新政府の力を見せねばならなかったのだ。
恐るべし!大久保利通。
佐賀藩は江藤・鍋島直正の他にも、全国区の人材が多い。大隈重信・副島種臣・大木喬任など。大隈は私には早稲田大学の総長のイメージが強いが、第8・17代の総理大臣を務めている。他にも江崎グリコ・森永製菓・久光製薬などの創始者(ついでに孫正義も)は佐賀県人だし、作家は下村湖人・笹沢佐保・北方謙三、歌手に村田英雄・大川栄策・西方裕之など。野球だって1994年に佐賀商が2007年に県立佐賀北高が全国優勝をしている。
(我が埼玉県をみると総理大臣は出してないし、高校野球の全国優勝もないのだ!)
一時代前なら、鍋島藩といえば、竜造寺家から鍋島家に変わる江戸時代初期のお家騒動にまつわる「化け猫騒動」で有名だった。現代では維新の時の佐賀藩に話が行く。
我々のレベルが上がった・・とは云わないが、好みが変わったことは確かだろう。
本丸御殿見学で時間をとられ、肝心の城の周囲を歩き回る時間がなくなった。
帰りかけて、聞き忘れたことを思い出し、我々3人の70数歳の年寄りの勝手な質問やら突っ込みに腹も立てずに応対してくれたガイド氏の元へ引き返し、質問する。
「佐賀の人の、江藤新平への評価はどんなものですか?」
ガイド氏は温和な顔に言“葉”を“隠”して、表情で「愛着を持っております」と、答えたようだった。私はそれに満足して、みんなの後を追った。
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■90 平戸城
長崎県平戸市岩の上町1458
別名 亀岡城 日の岳城
(訪問日 平成23年4月11日) |
■私は「100名城」を訪れ、スタンプを集めた後、こうして一文を綴ることを趣味としている。いずれ、一冊に纏める積りだ。題名を『訪城記』とする事だけは決まっているが3年がかりでようやく「100名城」の半分を終えたばかりだから、先は長そうだ。
城の訪問の前後には、先ず司馬遼太郎師の膨大な歴史小説と『街道をゆく』から、その城の関連の叙述を拾い出し、勉強をしていく。そして、それらの貴重な史観を私の文には出来るだけ、引用【しないように】努力する。引用し始めるとキリがなく、結局、全てを引用して「早い話、司馬師のこの本をお読みください」ということになるからだ。
だから、引用文は、出来るだけ現地で入手するパンフレットや案内板の説明に頼って行きたいと思っている。
しかし、この『平戸城』では、そうはいかなかった。何故なら、頼りの「パンフレット」に「『景観の中の城として日本でもっとも美しいのは平戸城だと思う』司馬遼太郎著『街道をゆく十一巻肥前の諸街道』より」と司馬師からの引用が印刷してあるからだ。
確かに師は、『街道をゆく』にそう書いている。但し、本文はこう続く。「が、その城の下に醜怪なコンクリートの建造物があって、信じがたいほどののさばり方でのさばっている」と。その後も、司馬師は挿絵の須田画伯と共同戦線を張り、一ページを費やしてこの建物を攻撃している。「日本で一番美しい城」とは、その攻撃の助走としての美辞と取れないことはないのだが・・。但し、この『街道をゆく』は平戸大橋が開通する一ヶ月前(と本文に書いてある)1977年3月に書かれている。
我々一行は、それから30数年後に訪れている。平戸城が平戸湾を隔てて見える高台に宿を取った。18時に腰を落ち着けたホテルの自室からも、翌朝に入った屋上露天温泉からも、城はよく見えたが、“醜怪な建造物”は見ることはなかった[写真]。司馬師はどこから城を見たのだろう。醜怪な建造物はその後、撤去されたのだろうか。
我々は、朝風呂を楽しみ、宿の裏手の『三浦按針』の墓を見て、オランダ塀に沿って港へ下り、「平成23年9月20日オープン」と書かれた平戸オランダ商館の外観を見たり、平戸ザビエル記念聖堂にも立ち寄ったりとゆっくりして、9時半に城の駐車場に入る。
この城は、世の中が“城”を必要としなくなった1704年に築城されている。「100名城」の中でも4番目に新しい。平戸城以後に築城された「100名城」は、首里城(1715年)、松前城(1850年)、五稜郭(1857年)の3城のみだ。
城は新しいが、松浦藩の歴史は古い。パンフレットの年表には、1069年に松浦家の始祖源久が摂津から下向したとある。<が、その年表はこの始祖の久(ひさし)を8代としている>。松浦地方は太古から、海の民である。都から下ってきて直ちに水軍のノウハウを身に付けて棟梁になることが出来るだろうか?
ある所には、“源氏”の血(名)が欲しいから棟梁にしたと書いてある。
また、ある所では、あの阿部譲二の著作『藍色の海』を紹介し、東北で朝廷に下って捕虜となった蝦夷の阿部一族を送って征服したとの興味深い説も展開している。
いずれにしても、松浦家は、水軍として、貿易商人として、倭寇という海賊として、中央の度々の政権交代に自ら身を屈して明治まで生き延びてきた。ようやく、築城できた城も、小高い山の上にこじんまりと造られている。
だから、平戸藩の力の源は水軍であり続けていたろうに、「海城」の雰囲気が薄い。ガイドブックには、「海岸に面した山麓部分には、海城ならではの船着場である、小舟入・御舟入などが設けられた」とあるのだが、その跡を見損なった。が、この狭い平戸湾にビッシリと軍船・商船が並んだ様を想像してもどうも迫力を感じない。
もう一つ、この「水軍」の軍船、或いは、遠く南洋まで航海をした「商船」を、どこで造っていたのだろう?明治以後、「造船」は佐世保の地に移ったと多くの案内に書いてある。
が、この多くの案内は、移る前の平戸の造船所の場所についての教示がない。
いやしくも、私は、造船所に籍をおいた若い時代があったではないか。古代からの水軍のメッカ、従って、造船のメッカである平戸でわが国の造船に思いを馳せずにこの街を歩いたことを、今、ひどく後悔し、平戸に申し訳なく思っている次第で、アリマス。
模擬天守閣の展示物を見て、また、大手門から登りなおしてみたりして、いささか中途半端な気分で、平戸城を後にした。
帰宅後、パソコンで「平戸城」を検索して、興味を惹かれた数点。
○ 松浦党は壱岐を支配し搾取した。米を残らず収奪したので、壱岐は麦焼酎しか呑めなかった。
○ 流石、水軍の王者。『観天望記』の言い伝えを本として、残した。
○ 『武家茶道』の鎮信流がある。日本の茶も平戸から栽培が始まったと・・。
○ 『甲子夜話』の著者は9代藩主。娘が中山忠能に嫁ぎ、その娘が明治天皇に嫁ぐ。
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■91 島原城
別名 森岳城
長崎県島原市城内1−1183−1
(訪問日 平成23年4月11日) |
■長崎県には「100名城」が二つある。午前中に北端の「100名城」平戸城を見て、南端のここ、『島原城』へ着いたのは15時近かった。いつもの通りKに運転を任せ、同乗4名は、今見た城、これから行く城の話に花を咲かせていたか?とんでもない。城や歴史の話など欠片もない。今回の5人のメンバーはK、F,私の男性3名。F夫人とHの女性2名。Hの連れ合いも我々3人の学生時代の仲間だが、我々を置いて、先にあの世に行ってしまっている。車内はお互いの近況報告や学生時代の思い出話であっという間に時間が経つ。
この訪城の目的は「100名城」スタンプ収集だから、先ず島原城受付窓口で捺印をする。そのまま再建された天守閣の内部を見て廻る。島原の歴史は、キリシタンと雲仙の噴火だ。それをザッと見て、肝心の城を見ないのに城をみたような気分になってしまって、これは違うとKと反省した。訪城した日は3・11の「東日本大震災」から丁度一ヶ月の日だった。さっき、「タバコ」を購入しようとしたら、「品切れです」と云われた。東北の被害の影響がここ南九州まで及んでいる。
今後、東海大地震も起こるだろう。その前に、この雲仙を始めどこかの火山がいつ大爆発を起しても不思議はない。もともと、我々日本人は地震帯・火山帯の上で生きているのだ。先人達は幾多の災害を「賽の河原」よろしく、建て直し、建て直し生きてきたのだから、これはもう諦めるしかない。
この島原が雲仙の災害を受けたのは、1990年頃で、遠い昔ではない。それから、20年後の今、城も街も災害の名残があまり見えない。島原城は1618年に奈良から入封した松倉重政により着工された。4万石の世帯に不似合いな立派過ぎる城を築城した為、領民へ過酷な年貢を課して、それが島原の乱を誘発した。
今、見る復元なった城も人口4万人の市には立派過ぎると思いたくなるが、この城が呼ぶ観光客が市の大きな財源となっているとしたら良しとするか。
訪城の後に寄った武家屋敷群も、ただおざなりの“点”として保存しているのでなく、“線”として、“面”として行き届いた維持・保存をしている。
一服したアーケード街もどこか垢抜けていて、食にうるさい友人達が自分達の酒盛り用のブランド品を補充する為に散ったくらいだ。
町のこの明るさ・豊かさはどこから来るのだろう。
災害への補助金が力になっているのだろうか。知りたいところだ。
そのアーケード街にある「明治の屋敷&湧水の池 しまばら水屋敷」で名物『かんざらし』を味わいながら、ここで無料配布されている「石川個人がかってにつくった」手書きの周辺散歩地図を見る。「北村西望作 時鐘楼」「山頭火『こんなにうまい水があふれている』の碑」「200年前の島原大変でできた日本一小さい陥没湖(ここにも鯉がたくさんいます)」など、うまい物屋の紹介以外にも熱心に「島原のおもしろいところ」をB5一枚のわら半紙に詰め込んでいて見応え・読み応えがある。
その「散歩地図」の片隅に『理性院(大師堂)』が載っている。「『からゆきさん』が多額の寄進」と書き込まれ、更に、「まぼろしの邪馬台国 宮崎康平氏採詞『島原の子守唄』〜“おどみゃ島原の〜ナシの木そだちよ”〜」と僅かな余白から精一杯情報を発信している。
この情報を受信した私は、その努力に報いる義務がある。
からゆきさん。明治時代、島原・天草の娘達が女衒(ぜげん)によって遠く東南アジアの娼館に売られていった。この史実を私は多くの日本人と同じく山崎朋子「サンダカン八番館」(1972)で知った。映画も見た。栗原小巻扮する女性近代史研究家が、天草に住む田中絹代演じる「からゆきさん」から聞き書きをする。
ラストシーンが凄い。栗原小巻がふと「貴女は私についてなにも訊かないのですね」と問うたのに対し、絹代さんは淡々と答える。「人は誰でも語りたくない過去があるのだ」と。
これを聞いて、私は小巻さん共々、ヨヨと泣き崩れたものだった。
1974年、今から30年以上前のことである。
宮崎康平。盲目の身で『まぼろしの邪馬台国』を著した人とは知っていた。しかし、彼の波乱万丈にして、実り多い人生についてはなにも知らなかった。
1917年島原で生まれる。早稲田大学卒業後、東宝の脚本家。倒産した父の会社(土建業)を継ぐため帰郷。1950年過労から眼底網膜炎で失明。子供を残して妻が去る。その時、子供のために歌って聞かせたのが『島原の子守唄』。1960年和子と再婚。会社の強い要請で島原鉄道の経営陣に加わっていたが、同年、職を辞し、古代史の調査・研究に専念。1967年『まぼろしの邪馬台国』出版。それまで専門家の領域だった邪馬台国論争を一般にまで拡げた。同年「第一回吉川英治文化賞」を口術筆記した妻和子と連名で受賞。1980年没。62歳。
尚、歌手さだまさしの父親とは友人でさだのデビュー他に尽力。孫娘は女優、宮崎香連。
城山三郎『盲人重役』、映画『まぼろしの邪馬台国』(2008竹中直人主演)など。
これから、『まぼろしの邪馬台国』を読み、『島原の子守唄』(1959ペギー葉山)を歌わねばならない。また、やるべきことが増えた。嬉しいような、困ったような・・。
島原。不思議なところだ。貧しさ・悲惨さの歴史に彩られながら明るく、そして、文化の香りが漂うとろだ。なぜなのだろう。わからない。
我々年金生活者は、過去の苦労を想い出すことなく、島原を後にして晴れ渡る南国の空の下、雲仙を越えて今夜の宿、小浜温泉の秘湯をまもる宿に急いだ。
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■92 熊本城
熊本県熊本市本丸1−1
(訪問日 平成23年 4月11日) |
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私が城めぐりの話をすると「どのお城が一番良かったですか?」と訊かれることが多い。
「見た城の番付を付けると、東の正横綱つまり一番が熊本城で、西の正横綱が姫路城です。」と答え訊かれても訊かれなくても理由を付け加える。
「熊本城は戦って難攻不落を証明している。姫路城は居住区をほぼ完全に残している。」
城は「攻め」の為ではない。あくまでも「守り」の為だ。西南戦争で4000人の籠城で、西郷軍14000人の攻撃に耐え、ついに撃退に成功した。なお、この戦いでは武者返しが大いに役立ち、熊本城を甘く見ていた西郷軍は、誰一人城内に侵入することが出来なかったという。(姫路城については「姫路城」の項をご参照ください。)
この時の熊本城の司令官は谷干城。土佐藩出身の腹の座った名将。彼を得てこの熊本城も真価を発揮できたのだろう。この戦いの功績で谷は陸軍士官学校長、学習院院長、農商務大臣を歴任するが、伊藤内閣の欧化政策を批判し辞任する。後に貴族院議員となるが、日露戦争には財政的立場から開戦に反対するなど、同じ土佐の板垣退助とも違った中正的立場を貫いて75歳、天寿を全うした。
私は彼を幼い時に愛読した富田常雄「姿三四郎」の窮状を救うカッコよい大人として知り大フアンになっていたのだ。
もし、江戸城が薩長軍と戦っていたら江戸城が名城として日本一の座に就いただろうか?誰が徳川幕府の指揮を執るのか?慶喜はサッサと逃げるだろう。勝海舟は1対1なら才を発揮できるだろうが、多数を指揮できるだろうか?
幸い、熊本には顧客があった。一時は数か月に一度は訪れ、城の周辺を歩いた。九州の城めぐりの度に皆を案内した。それでも、NO1の城に対して礼を失すると思い、一度は熊本城探訪のみに目的を絞った旅をする積りだったが、出来ずに今日になってしまった。
従って、写真もない。
友よ。
友よ。熊本の名門濟々黌高校出身の友よ。大学入学から間もない日、彼の話を聞いた。
「小学生の時、家出をした。砂漠を目指した。砂漠は火がないだろうと思い、薪を抱えて家を出たのだが、神戸で捕まって連れ戻された」「下宿へ泊りに来い。今日なら裏を使っていないシーツがある」彼を通して知る熊本はカルチャーショックだった。「人間いくら金持ちかは、一生に貯めた額ではない。一生にいくら使った額だ」「今でも熊本の人間が鹿児島へ行くのは命がけだ。命を賭して今の女房と結婚したのだ」
友よ。さっさと自営の道を歩き、さっさと話しの出来ない世界に行ってしまった友よ!
熊本というと君を思わざるを得ないのだ。
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■93 人吉城
別名 球磨城、三日月城、繊月城
住所 熊本県人吉市麓
(訪問日 平成23年6月19日) |
■この日も雨の訪城となった。九州の雨は豪快に降る。これを「豪雨」という。そうかな?
気に入らないのは、車中では小止みだった雨が歩き出すと激しくなる。途中、休憩所にはいると雨の勢いが衰え、一休みをして外へでると、篠つく雨が始まる。嘆いても仕方がない。我々はなにごとも周到なKが車に準備した大きな傘をさして、丁寧に城を巡る。
『人吉城』は、球磨川と胸川の合流地点にある。この雨で二つの川は濁流が渦巻き、水の手橋まで洗おうかの勢いだ。それでも球磨川からそのまま城に入ることが出来る水の手門を見ることができて、今、舟運に興味を持っている私は大いに満足した。
天場(石垣の天辺)に西洋的な「撥ねだし」をもつ珍しい石垣も見た。三の丸、二の丸、そして本丸と歩き、スタンプのある「人吉城歴史館」に逃げ込む。
城はもちろん見どころが多かったし、歴史館に展示されている「相良清兵衛屋敷の謎の地下室」も面白かったが、私の、ここ人吉での一番の興味は「相良家」の始祖なのだ。
相良氏は建久9年(1198年)頼朝の命を受け、遠江国相良庄(現在の静岡県牧の原市相良)からやってきて地頭となった。
以来、幕末まで約800年続くのだが、その続いた長さにも今は目をつぶろう。
今は、鎌倉幕府が遠く九州のそのまたこの奥地にまで支配した、情報力にのみ関心を絞っているのだ。
二日前に訪城した飫肥城も藩主伊東氏は鎌倉時代に工藤祐経(曽我兄弟に討たれる)が頼朝より日向の地頭職に任じられたのだ。
前日の鹿児島城の藩主島津家が、大友家とともに頼朝の有力御家人として、平家方だった九州の武家に対する鎌倉の押さえとして守護に任じられたのは周知の事実だ。
現代でも人吉や飫肥などを知る人は少ない。その僻地にある平家や摂関家の領地を取り上げ、自分の部下に分け与えた頼朝の力に先ず感心する。
出来立てホヤホヤの鎌倉武士政権で誰が、どのように、全国の領地を整理・分類して、新しい支配体制を纏め上げていったのか?
恩賞として新しく「守護」になった武士達は嬉しかったのか?
江戸時代に編纂された相良家史によれば、相良氏が人吉に来た時は、人吉荘の領主平頼守の代官であった矢瀬主馬祐という人物がいたとされ、相良氏はこれを滅ぼして入城したと伝えられている。
滅ぼせたからよいようなもので、頑強な抵抗に入城できなかったら紙切れ一枚の「地頭」任命は意味がないものになる。
そもそも、地頭とはなにか?守護とはなにか?どのような力がその地位を守り、その権利・義務とはなにか?
各地・各城を訪れるごとに、そこで次から次へと湧き出だす疑問を一つ一つ納得がいくまで調べていたいが、そうするとこの「訪城記」は数年の単位ではなくて、数十年はかかりそうだ。
いつもの如く、疑問は疑問としてそのままにして、筆をすすめよう。
城をあとにして、胸川を渡ってすぐ右手に「焼酎蔵」があったので、見学に立ち寄った。Kと焼酎酒造を見学するのは沖縄で今帰仁城からの帰りに立ち寄って以来だが、今回も見学をしてよかった。
KとHが自分達が呑む焼酎を選別している間、酒が呑めない私は、応接室に飾ってある『繊月』のイミテーションをみつけることが出来たのだ。この酒造の社名になっている繊月だが本来は、三日月のことで、人吉城の別名にもなっている。正治元年(1199年)城の修築時に発見された三日月文様が鮮明に浮き出ている石で、実物は相良神社に奉納されている。この文様から、人吉城は三日月城ともよばれている。珍しく、はっきりした理由がある城の別名である。
追記 「薄紙を剥ぐように」
鎌倉幕府の御家人の西進の歴史を知りたくたて福島正義「武蔵武士」(さきたま出版会)を紐解いたが歯が立たなかった。それが、今回島津家の「始祖」島津忠久は「鎌倉武士の比企一族」と知ったので、あらためてこの本の「比企家」の項を読むとちゃんと書いてある。「島津家の祖忠久の母、丹後局は比企能員の妹。彼女は頼朝の妾であるので忠久は頼朝の隠し子である」「忠久は島津広言の養子となって本領島津庄地頭職と薩摩・大隈・日向の三国の守護職」に任命された」「しかし、比企氏の乱後、能員に縁座して薩摩一カ国に減じられた」こうして、島津と比企がつながり、鎌倉幕府とつながり、少しずつ、薄紙を剥ぐように歴史が見えてくる。
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■94 大分府内城
別名 荷揚城 白雉城
大分県大分市荷揚町73・75ほか
(訪問日 平成23年4月13日) |
■この『大分府内城』は、大分駅から至近距離にある典型的な平城である。城をとりまく三の丸は県庁・市役所の官庁街となり、本丸も、「100名城」の一つというより、文化会館の庭園といった感じで、今まで錚々たる城址を巡ってきた目にはいささか、馴染めない。これは、都市に生き残った平城の宿命といえるかもしれないが、似たような平城と記憶していた山形城が熱心に城の復元に努力している姿を見たので、この大分城の発信に対する現地の姿勢に物足りなさを感じてしまう。
別名を「荷揚城」という。大分川の河口に立地するこの城を海城と捉えてくれていたら、「100名城」の中でも特異な城になれたと思うのだが。大友宗麟はキリシタンに改宗しその人脈と、大分港の貿易で、富を蓄積し勢力を増していったという。当時、貿易港といえば、長崎に代表されるように九州西海岸が主力だ。東海岸の航路はそれほど盛んだったのだろうか。大分市も、そして私自身も、その方面からのアプローチが足りないようだ。
かといって、今でもこの城は城としての見所は揃っている。堀は巡らされ、天守台跡や城壁の石垣には「野面積み」あり、「打込接」あり、「算木積」の技法を見ることが出来る。「人質櫓」という全国的に珍しいネーミングの櫓も残っているし、戦後の再建とはいえ、「廊下橋」という屋根付きの橋は、同じく屋根付き橋として有名な足利氏館の「太鼓橋」より、壁も完備している分、数倍も豪華である。木々の緑も豊かだし、帰宅後自分の写真で見ると、ウム、なかなかの雰囲気のある城に写っている。
にも拘らず、最初に述べた印象を持ってしまうのは、所々に立つ歴史に関係が薄い案内板のせいではないだろうか。お堀の前に「甦る水100選」に選ばれたとの案内板がある。理由は「府内城のお堀を公共下水道処理を再利用し浄化する事業を総工費8億円」でしたからという。よく解らないがそれはまあ良いとして、Kなどのうるさ型老人の槍玉に上がったのは、知事と市長が二人並んで立つ銅像だ。等身大以上に大きい二人の像の台座の裏側には、この知事と市長の功績が縷々刻まれている。
一方、肝心の大友宗麟の銅像は小さな胸像で済ませているのだ。(この胸像につく「極めてハイカラな大名」という紹介文もユニーク過ぎると感じるのは過敏すぎるかな)
『明石城』が「公園」として扱われているように、この城は「公共施設」として考えられているようだ。そういう城もある訳だ。
城主といえば大友宗麟のみが有名だが、彼は大友家31代の当主で、祖先は鎌倉時代に国司に代わって守護となり約300年間この地に君臨した由緒ある家系を継いでいる。しかし、彼が大友家最後の輝きで、彼を継いだ32代大友義統が秀吉の朝鮮出兵の際、現地で“大失態”をして、秀吉の激怒をかい、改易になってしまう。どんな「大失態をしたのか書いてある資料がなかなか見つからなかったが、ようやく、白石一郎「凡将譚」で読むことができた。要するに「戦闘に負けた」のだが、負けるのは誰でも時にはある。義統はこの戦闘の時、攻めるか退却かの決断をしかねている間に、兵が散り散りになってしまったという負け方があまりにも不様だったらしい。
その後もここの城主の変遷は目まぐるしいが、新任の城主の係累をみると、徳川政権の下では長続きしないのが当然とも思われる。つまり、福原直高は石田三成の妹婿(娘婿かもしれないと)だし、竹中重利は秀吉の軍師の竹中半兵衛の縁戚だ。1658年松平家になってからようやく藩主は落ち着き明治維新を迎えるが、それにしてはこの城の付近に「城下町」の雰囲気を感じないまま帰るのが残念だ。
大分にも顧客があって、私は出張で幾たびも訪れている。しかし、市内に宿泊をしたことがない。別府温泉に浸かることも最初の時だけだ。九州の出張は北から回っても、南から回っても、何故か、大分が出張の最終日とすると便が良く、ここで飛行場へ直行し帰京してしまうのであった。
今回も、Kの緻密な計画で佐賀―長崎―熊本−大分と効率よく名城・名水・秘湯を巡り巡った旅の終着地は大分であった。
大分とはそのような地なのだろうか。将来、大分に宿泊してゆっくり市内の他の史跡を見る日はあるのだろうか。
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■95 岡城
別名 臥牛城
大分県竹田市竹田2889
(訪問日 平成23年4月13日) |
■この『岡城』を訪れるのはこれで3回目だが、今回も充分に訪城の楽しさを満喫させてくれる城だった。この城には説明が要らない。誰が、いつ、何故、築城したかなどの知識は全く必要がない。ただ累々たる石垣に沿って坂を登れば、そこは松風騒ぐ岡の上、御殿やら、櫓やらの建造物は一切ない広々とした空地が四方から屹立して広がっている。
我々はここで冷たい山の空気を吸い込んで、「ああ、山城へ来たなー」という気分を充分に満喫すればよいのだ。
説明板も殆どない。大手門口以外の三方は、切り立った崖だ。下を覗くと目が眩む様な峪だ。しかも、この山頂の城址には観光客が下に落ちないようにとの「柵」すらない。酔っ払いが落ちようが子供が落ちようが、それは全くの自己責任だという戦国時代の厳しい掟を無言で伝えているようだ。
数少ない案内板の一枚が出色だ[写真]。「建武の末、志賀貞朝此に拠り、天正年間、島津氏の来攻を撃退する。文禄、中川秀成受封の際、規模を拡大し、要害無比と称される。廃藩置県の際、城内建物は毀サレタルモ城郭ハ現存セリ」の説明に続けて注意書きがある。
曰く、「濫ニ現状変更ヲ為サザルコト」「工作物ノ建設ヲ為サザルコト」
この注意書きは昭和16年11月19日に文化財保護委員会の名で建てられている。墨痕こそ剥げかけているが、文言は未だ淋漓として生きているのだ。
木の香が匂う昭和や平成の復元建造物が何一つない清々しいこの城址こそ、本当の城址だと、大いに満足し、今後も下手な「城の再現」など考えないで頂きたいと祈る次第だ。
上記にもあるように、この城は島津の猛攻に耐え抜いたという立派な実績のある城だ。お飾りでなく、戦った城だ。
それだけでも価値ある城だが、もう一つ、この城を私が忘れられないのは、城へ登る石段が、山裾を緩やかな曲線を描いて登っていることだ。更に、その石段の崖側に低い石塀が造られ、その長々と続く石塀の頂部に、「かまぼこ石」と呼ばれる扇形の石が長々と置かれていることだ。
「100名城」の中でも、城で曲線を見ることが出来るのは、今まで私が見た範囲では曲線の宝庫である沖縄の3城を除けば、「金山城」の円形の池の他にはここだけだ。
金山城の場合は、建造者に朝鮮系帰化人の血を想定してみたが、ここ岡城にも同じ想定をしてよいのだろうか?
何故、この九州の真ん中でここだけに曲線を持つ城があるのか?
私がここで解る筈がないので、先へ進もう。
駐車場で同行者達と落ち合う。Kがごく自然にティシューを取り出し、靴の埃を拭きだした。成る程、流石、同期きっての「お洒落」と呼ばれるのはこのような陰の努力があるのかと感心していると、F夫人がF氏に近寄って、ごく自然に身を屈めて夫の靴の埃を拭きだした。F氏はごく自然に足を投げ出し夫人が拭くに任せている。
私も自分の靴を拭き始めたけれど、ごく自然には、出来ませんでしたね。
丁度お昼の時間だ。おあつらえ向きの蕎麦屋をHが見つけてくる。私は食べるのが極端に遅い。半分も終わらないうちに他の4人のざるは空っぽだ[写真]。お互いの幸せの為に車に集まる時間を決めて解散する。
心置きなくゆっくり私が食事している間、F夫妻は滝廉太郎の生家を見てきた。Hは老舗の和菓子店でお土産を仕入れた。Kは駐車場に建つ広瀬武夫の銅像のをチェックする。平成22年「坂の上の雲」の放映を記念して建てられ、碑文は大分県の広瀬勝貞知事。帰宅後、知事は広瀬武夫の姻戚かと調べたが、そうではなかったが、広瀬淡窓の血をひいていると、詩吟を嗜む友人が教えてくれた。
名曲「荒城の月」は当地出身の滝廉太郎が作曲した。作詞は土井晩翠。仙台城にはその碑が建っているが、勿論、荒城の月のイメージはこの岡城より似つかわしい城はない。
「荒城の月」以外の岡城についての記述を意外な所で見つけた。平戸城の海賊達について知りたくて、今まで手をつけたことがなかった白石一郎氏の「海」ものを読み始めたら、この岡藩3代目藩主中川久清を主人公とした「ひとうま譚」という短編に出合ったのだ。
それによると、この殿様は登山が好きで九重連山の一つ大船山に良く登ったという。但し、そこは殿様だから自分の足では登らない。「ひとうま」という独特の背負子に乗って強力に担がせて登る。しかも、墓を1787mの大船山中腹1400m付近に建てさせたという、九州の山案内書では好意的に紹介される一方、住民には迷惑至極な殿様だったのではあるまいか。
墓はまだある。儒教式墓だという。訪れた登山者達の写真を見ると墓石が「かまぼこ型」だ。へえー、お城の石塀の「かまぼこ石」も儒教の影響なのだろうか?
名城「岡城」。また行きたい。その時も、何も復興・復元されておりませんように。
司馬師「播磨灘物語 1 P359」
中川瀬べい。シズガタケで戦死。徳川初期より岡城主。九州の尊攘運動の中心地。」
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■96 飫肥(おび)城
別名 舞鶴城
宮崎県日南市飫肥10−1−2
(訪問日 平成23年6月17日) |
■羽田発7時25分の宮崎行に安心して間に合うために、所沢を5時前の一番電車に乗る。羽田で無事Hと落ち合って、宮崎着9時10分。窓際の席も、曇天で何も見えなかったが宮崎が近くなってようやく海面がみえてくる。巨きな客船が着いている。あー、これは宮崎港だ。そういえば宮崎はフェリー・サンフラワー号の発着所だ。しかし、東京からのフェリーがなぜ「宮崎」という失礼ながら過疎の市に着いたのだろう。帰ってからパソコンで調べると(これからは「パソコンをすると」と書きます)川崎―宮崎間のカーフェリーは、平成17年6月に廃止になっていて、現在就航しているフェリーは関西からであって、その関西からのフェリーの殆どは大分・別府に着いている。
どうも、宮崎という県も市も昔からイメージが弱い。最近、東国原知事(当時)が精力的に宮崎県の名を売った。彼の功績はそれだけでもたいしたものだ。
九州の中で宮崎のインパクトが弱いのは、ここに“雄藩”がなかったからではないか。福岡藩、佐賀藩、鹿児島藩という錚々たる雄藩がない。長崎は藩こそないが、一時は日本唯一の「海外に開かれた窓」だったし、大分はこれも一時にしろ大友宗麟という英雄を生んでいる。それに比べ、宮崎は県庁所在地の宮崎市にしても埴輪の時代に輝いてからは歴史に登場することがあまりにも少ない。実に人畜無害の平和な県という印象だ。
こう、宮崎のことを長々と書いたのは、どうも私が住む埼玉もよく似ていると思ったからだ。埼玉県も県を代表するイメージが乏しい。知られた藩と云えば川越藩だろうが、県庁は川越に置かれないで、かっての宿場町の浦和にある。
どうして、宮崎、浦和が県庁所在地になったのか。いつの日か全国の諸県の県庁所在地決定の事情と、併せ考えてみることとしよう。
さて、旅に戻ろう。空港には、Kが車で迎えてくれている。昨日は九州は台風の通過で大雨が降り、Kは高速道路の不通を懸念して昨夜のうちに博多から宮崎に入り、一泊をしての出迎えの由。いつもながら、スマナイ、スマナイ。
台風一過か、宮崎は晴天で、真夏の太陽が照りつけ、Kのアロハ姿がまぶしい。海岸線を南下して飫肥へ向う途中、青島、鵜戸神宮に寄る。このコースは我々の時代の新婚旅行のメッカである。その話題で盛り上がる時、ふと、「何回目の新婚旅行の時か」と口に出したら、車内の空気が瞬間凍りかけたのであわてて話題を変えた、なんてジョークは受けない我々年寄りのグループだ。
鵜戸神宮はいろいろ興味が尽きない神社だが、時間も紙面もないので二つだけ。
@ 壮麗な本殿が建っている岩窟は、宮崎県の天岩戸神社で見た、神々が会議をしたという「天安河原」そっくりで且つそれより大きい。
A 主祭神「ウガヤフキアエズノミコト」は神武天皇の父親である。また、この地は「神武東征の船出地」の有力な候補地である。
ということは、往古、この地は南からの人・物を受け入れ、それらを大和へ送り出した中継地としての役割を持っていたのではないか。
ここに港があったのか?黒潮に乗った南からの舟はこの地を目指したか?
さて、正午にようやく『飫肥城』に着き、先ず「おび天」を味わってからスタンプを捺印して訪城する。それこそ「剃刀の刃も入らない」ほど緻密に組まれた美しい石垣に感心しながら大手道を辿り、飫肥杉を美しく使った昭和53年に復元の大手門をくぐる。
最近、我々は城見物の時に資料館で費やす時間が多いと反省しているので、コンクリート造りの歴史資料館を敬遠して、昭和54年再建された「松尾の丸御殿」に上がってみる。ここでも私の目を惹くのは御座船の模型だ。ブログでチラと見たが、飫肥藩には東九州有数の良港「油津」があって、中国貿易も行なわれていたと。
これから、東九州の交易港の歴史も追々分かってくるのだろう。
今、港・船の歴史と共に目に飛び込んでくるのは、各城の震災の歴史だ。ここ飫肥城も江戸時代だけでも1662年、1680年、1684年と3回の大地震の記録が残っている。この時、城はともかく港は津波の被害を受けなかったのだろうか?東九州だけでなく、三陸にも港が発達しなかったのは航海術の未熟さよりも、この定期的に襲う津波のせいなのだろうか?
これまた、今後の研究課題として、今は飫肥杉が静謐に立ち並ぶ本丸まで足をのばしてから、城を後にする。城を出ると、すぐ左手に「小村記念館」がある。
日露戦争の終結のため、日本の苦境を隠しながら列強を相手に一歩も退かず、ギリギリ最大限の成果をかちとった小村寿太郎はこの地の出身だったのか。敵を知り、己を知って交渉の秘術を尽くし日本の空前絶後の名外交官と謳われる小村寿太郎はここに生まれたのか。この小さな、そして、こんな山奥の飫肥藩出身の彼には先輩も縁故もなく、実力一本で日本を背負う地位へ登りつめたのだ。堂々世界を相手にして、これまた小さくて無名の日本の利益を守りきった人材が、よくまあこの僻地から出たものだと、感銘を受ける。私の住む所沢など江戸に近く、環境は悪くない筈なのに、日本史を飾る人物は古今出たことがないのに・・。
小村はこの困難な交渉を纏め上げて帰国すると、戦勝の記事しか載せない新聞に躍らせれた我が国民は、彼を軟弱外交と誹り、詰り、自宅に投石までしていためつけた。
明治の世には、偉人も沢山出たが、我々民衆の程度は今と変わらないようだ。今を生きる我々も、マスコミに煽られ、付和雷同して国益をそこなわないように、よく勉強しなければならないと自戒する。
飫肥の城下町の散策を続ける。大手町通り、武家屋敷通り、本町商人通り、前鶴通りなど、“通り一遍”の城下町ではなく、なかなか歩きでがある。側溝に泳ぐ大きな鯉もだが、矢張り、各屋敷の垣がお城と同じく緻密に組まれていることが、なによりも印象に残った散策だった。
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■97 鹿児島城(別名 鶴丸城)
鹿児島県鹿児島市城山町7−2
(訪問日 平成23年6月18日) |
■昨日、飫肥を後にしてから、Kは車を山中に走らせ、垂水から桜島を経由して鹿児島へ入る経路を選んでいる。桜島を、大隈半島と鹿児島市を最短距離で結ぶ大きな“橋”として利用し、且つ、桜島を観光するという、Kのいつもながらの配慮の行き届いたルートだった。私は矢張り仕事でなんども鹿児島市を訪れているが、鹿児島市内からだと桜島だけで往復するのは時間がもったい無く、いままで島へ渡ったことがない。したがって、この現役の火山について知ることは、降灰の被害に市民が弱りはてていることくらいだった。
だから、垂水から陸路で櫻島につながったのは、1914年(大正3年)の「大正大噴火」の時の流出溶岩によるものだ、ということも、2010年でも爆発的噴火は年に896回に達するとも今回初めて知った。今年の3・11の大震災以降、各地の100名城訪問時に、城の築城や戦闘の歴史に加えて、その城がこうむった天災の歴史に目がいってしまうのは当然だろう。
『鹿児島城』は、相変わらず何もない城である。堀もある。門もある。しかしそれらはいずれも申し訳程度のもので、広々とした城内は堂々とした「歴史資料センター黎明館」で占められている。かつては、金沢城も城門を一歩はいると大学の建物で拍子抜けしたものだが、今では櫓などいろいろ復元され、100万石の城に相応しい威容が整えられている。 しかし、ここ鹿児島城はもともとが「人をもって城となす」の思想を貫いてこの簡易な城で間に合わせてきた。武田信玄同様、敵が領内に入るなど考えなかったのだ。秀吉に屈服した時も、関が原で敗北し家康の臣下に入った時も、この「本丸」までは「敵」を踏み込ませることなく、薩摩の本領を安堵させている。
強力な軍事力とともに、この“負けざま”の上手さが薩摩藩の真骨頂なのではないか。
会社の業績が悪化した時、借り入れに借り入れを重ね、返済の為に自分の生命保険を提供しようと自殺する日本の零細企業経営者に対し、さっさと自己資産を確保して店をたたみ、再起を期すというクレバーな経営者を思わせる。
パッと咲いてパッと散るという日本の美学から少し距離を置いた薩摩の生き方が日本の端にいながら日本の中心に躍り出た力を感じるのだが。
この鹿児島城にしても後背地に防備力充分の山城をこの表の城と同時に準備して、「一国一城令」が出るや、これ幸いとその山城を廃城・立ち入り禁止としている。らしい。ともかく、「城がないから名城だ」といえる貫禄充分の「なにもない城」だ。
但し、鹿児島城の隣には、「私学校」がある。その石垣に西南戦争で政府軍から浴びた弾痕が残り、立派な案内板が立ち、人の注意を惹いている。この戦いの主役は西郷隆盛だ。結局は、彼は、どんな人物なのだろう。あまりにも人間的魅力に富みすぎていた英雄。彼はどうすればよかったのだろう。
問題が私の手におえなくなってきた。定番の「城山」へ登る。雨の平日だが具合良くボランテイアのガイド氏がいて、訊きたかったことが訊けた。「薩英戦争のとき、英国の軍艦はどこから砲撃してきたのですか?」「桜島を往復するフェリー航路の丁度、中間地点あたりです。」「薩摩軍の大砲はどこにあったのですか?」「フェリーの鹿児島側の発着所です」
いずれも、眼下によく見えるのでよくわかった。
今朝は鹿児島のホテルを早めに出て、「100名城スタンプ設置場所」の黎明館に開館と同時の9時に入った。黎明館をゆっくり見たけれど、鹿児島城は見るところが少ないので、まだ、時間は早い。今日の見るべき城はここだけだ。時間が充分にあるのでこれも桜島と同じく、これまで素通りしていた「磯公園」に寄ってもらう。
磯公園は名前が「史跡集成館跡」となり、「昇平丸」(斉彬が建造させたわが国初の本格的洋式帆船)や発電用ダム跡などを見ることが出来る。
日本の南端の地の利をいかして薩摩の名君達はよくやるものだ。「薩摩に暗君なし」と読んだことがあるが、本当だ。
いかんせん、南国の雨は大粒で迫力がある。我々都会人は雨に負けて気勢があがらない。ここも早々に引き上げて、昼食の予定地へ向う。
かって、私は神がかり的な“晴れ男”だった。当時、一年に50回程度のゴルフを数年、楽しんでいたが一度も雨に祟られたことはなかったのだ。雨の予報の日はあった。しかし、ある日は私がティーグランドに立つと雨はやみ、またある日は私がクラブハウスの風呂に入ると雨が沛然と降出すのだ。友人達は私のゴルフのスケジュールを訊いてきてその日に合わせて自分達のゴルフの予定を立てたりしていた。
ところが、数年前、年に数回行なわれる同期友人とのゴルフ例会に参加した日のことだった。その日は卒業何周年かの記念ゴルフ大会で参加者も多く、バス2台を借り切って東京駅から出発した。朝から小雨模様だったが、私はこれしきの雨は絶対にやませてみせると、自信満々、バスに乗り込んだ。目的地に着く頃も雨はやまない。それでも私は強気で「これは大粒の霧だ。私がいる限り雨は降らせない」と友人達に大見得をきったものだ。
しかし、スタートの時間がきても雨はやまない。それどころか激しくなる一方で、とうとう幹事はハーフで打ち切りを宣言した。
打ち上げパーティーの席の片隅で悄然としている私に一人の男が音もなく近づいてきた。
私が初めて会う同期だった。彼は「俺は、絶対の“雨男”だ。今日はお前の評判を聞いて、雨を降らせに来たのだ」と、それだけ云ってまた静かに自分の席に戻っていった。
幹事もきた。「エンドウ、雨になってもいいから、また、ゴルフをしような」と心から慰めてくれた。ただ、私はこの日以来、よほどのことがない限りゴルフをしなくなった。
今回のメンバーでの訪城は九州だけでなく各地へ行ったが、雨の日は今日が始めてだが、これからの訪城に雨がつきものになったら、それは困ったことになるが、ゴルフと違って、やめる訳にはいかない。天気の神様に「晴れ」を、お願いしよう。
昼食は「つぼばたけ」。壺を西瓜の如く畑に並べ、つぼの中で「酢」を作っているのだ。
その酢を使った様々な料理を見晴らしの良いレストランで楽しむのだ。女性客で一杯なのはよく分かる。
宿への途中、鹿児島神社を見つけて車を止めてもらう。流石に「大隈国 一宮」堂々たる神社で、御神籤と由緒書をいただいて雨で車内からでてこない二人の元へかえる。
最近、Kと二人で「全国秘湯の宿」に凝っている。この宿に一泊すると宿が指定のスタンプ帳に捺印してくれる。「100名城」は幾つスタンプを押しても一文にもならないが、秘湯の宿はスタンプを10個集めれば、どこか一泊が無料になるという特典があるのだ。
今回の秘湯は「妙見温泉おりはし旅館」。我々にしては珍しく、宿に早い時間についてゆっくりいくつかの湯船を楽しんだ。
ところで、「島津藩」、「鹿児島藩」、「薩摩藩」のうち、どれが正解かご存知ですか?
どれでもいいそうです。知らないことばかりだなー。
「島津家」が最初に薩摩へ来たのは、いつですか?誰ですか?
正解は「わからない」だそうです。わからないことばかりだなー。
(でも、埼玉県比企の出身の説は真実であってほしいと思います)
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■98 今帰仁(なきじん)城
沖縄県国頭郡今帰仁村今泊4874
(訪問日 平成22年2月24日) |
■学友との二人旅だったが、年寄りは朝が早い。しかもこの二人は、ゴルフや山行きなど遊びにアクテイブだから、早発ちには慣れている。7時半にはホテルの朝食を済ませ車に乗り込んだ。
那覇市内から1時間、スタンプ帳の電話番号をナビに(今回のナビ嬢には「シュリーちゃん」と名付けた。首里に引っ掛けたあまり芸のない命名だけど)打ち込んでノンビリと城に着く。真っ先に「スタンプ」が置いてある、「今帰仁グスク交流センター」に直行。
「100名城」の中にはスタンプ設置場所があいまいな城もある。群馬県の「箕輪城」は「二の丸駐車場あたり」とあるし、栃木県の「足利氏館」は「山門近くの売店」だ。その場合、電話番号は最寄の役所になっているから、ナビに電話番号を入れても目的地に到着しない。ただ、そうやって苦労しながら探すのが、本来の「城探訪」の醍醐味とも言えるのだが、沖縄3城はそんな苦労もなくあっさりと目的地に着き、目の前にスタンプが置いてある。
(首里城など、なんと4箇所に同じスタンプが用意されている。流石、天下の観光地!)
今帰仁城の紹介文はいくらでもあるが、1993年に放映されたNHK大河ドラマ「琉球の風」の原作者である陳舜臣氏は「グスク巡りで、けっして省いてはならぬのは、今帰仁城跡であろう。」とその規模の大きさと雰囲気を愛情を込めて絶賛している。私も二回目ながら、改めて、海抜80―100Mの古生代石灰岩山に作られた石垣の美しい曲線を楽しんだ。
今帰仁城には予定時間より早く着いたので、城をゆっくり見ながら携帯電話を駆使して次の予定の「泡盛工場」とコンタクト、工場側の好意で午前中に見学できることになった。
今帰仁城の近くには「泡盛」の製造工場があり、呑み助のKは勿論、飲まないが、いや、飲めないが、最近、「蒸留酒」に興味を持ち始めた私もまたここの工場見学を切に希望したのだ。
醸造酒が「神代の昔から」人類と同じ長さの歴史を持つことは納得できるが、その酒を更に「蒸留」するなど、どんな人間が、いつ、何故、考え付いたのだろう?
親切な工場は我々二人の為に時間をやりくりして、原料から製品になる工程をつぶさに見せて下さり、それは納得した。私はもっぱら蒸かしたコメをどうやって次の樽にいれるのかとか、樽や甕の入手方法などを質問していたが全て快く教えてくれた。
しかし、「歴史」となると「泡盛は15世紀頃にシャムから、入ってきた」で終わりになり、ブランデーやウオッカの世界史的「歴史」は今まで質問がなかったのか、説明はなかった。
酒は飲むもので、語るものではない。二人は車だから試飲を控えめにしてお土産を購入し、記念の写真に納まって、酒造工場を辞した。
(蒸留酒の歴史は浅い。中世の錬金術師達が研究の糸口を着け、13Cのスペイン、14Cのフランスでワインの腐敗を防ぎ、ペストの薬として使われた記録が残る。実際にブランデーとして蒸留酒を楽しんだのは15Cになってからだと、ある。それにしても、あっという間に泡盛、焼酎、ウオッカ、バーボン、ジンなど、あっという間に世界に拡がったことに酒呑みでない私はただただ感心するのみだ。)
さて、昼食。Kは酒だけでなく食にもうるさい。もっとも引退後に農作業、ひいてはその収穫物を材料にした「料理」を自分でする同期は多い。昔、ゴルフを熱っぽく語っていた連中が同じ熱心さで、「ゴマ油をそこで使うと・・」なんて議論している。
Kは「沖縄は豚料理」と前から楽しみにしていて、ドライブインの豚料理でも、満足していた。
ところで、何故、沖縄で豚料理なのか。
豚が100匹ほど団体で海岸に泳ぎ着いた・・・なんてことはなかったろうな。
明の使節の供応に大量の豚が必要だったためでもある。しかし、その下地に豚の食文化が沖縄に根付いていなければならない。
そう、沖縄には、仏教の伝来が遅く、「肉食」に対するタブーがなかったからだと聞けば、「ウタキ」など沖縄独特の宗教の歴史を紐解く楽しみが、また、増える。
牛は食べない。牛は貴重な農作業用の機械だからだ。
馬もそうなのか?不思議なのは馬は朝貢貿易の沖縄からの輸出品なのだ。こんな狭い沖縄から、あの広い本来騎馬軍団の本場の中国へどうして馬を輸出したのだろう。
疑問を持ちはじめたら、際限がない。今回の今帰仁城は、沖縄北、中、南の三山抗争時代の13C頃「北山」の根拠地として造られ、沖縄の最終的覇者である「中山」に落とされた。その後も「城」として幾たびの戦闘を経験した名城だとここに記録して、次の城に移ろう。
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■99 中城(なかぐすく)城
沖縄県中頭郡中城村字泊1258
(訪問日 平成22年2月24日) |
■「100名城」には沖縄から、3城が選定されている。首里城、今帰仁城とこの「中城」である。ではあるが、首里城がトップクラスの知名度を誇るのと反対に後の2城の知名度は100名城の中でもワーストテンに入るかもしれない。
しかし、首里城だけでなくこの中城、今帰仁城、座貴味城、勝連城は「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として2004年日本で11番目の「世界遺産リスト」へ登録されているのだ。
確かに、沖縄の城は本土では見ることが出来ない特色をもっている。一番目を引く特色は城壁の平面が曲線になっていることだろう。また、石門も天井はアーチとなっていて、その「曲線」はいかにもエキゾチックで、あー、良いものを見たと嬉しくなる。
但し、その特色は日本の城と比較した場合で、沖縄の城同士を比べた場合、違いを指摘することは私には出来ない。座貴味も勝連も前に見たことがあるが同じような見事な曲線の石垣に畳まれ、感心して帰るだけだ。政庁が復元可能だった首里城はともかく、何故、他の4箇所の世界遺産の城の中から、この2城が「100名城」に選ばれたか。一番規模が大きく、旧状を保存しているからだとどこにも書いてあるが、今の私には他との区別が分からない。分からないのだ。例えば、小諸城と上田城。四捨五入して言えば似たような城だ。しかし、この場合、我々には、島崎藤村やら真田一族やらの知識があるから区別がつくのだが。
第一、我々は今挙げた沖縄の城を「城」と呼んでいるが、本来はこれらは「グスク」である。沖縄には300の「グスク」があると言う。それらは我々の考える「城」であろうか?
「世界遺産」にも入る大きな城にも必ずある、「御嶽(ウタキ)」の場ではないだろうか。実際、前回も、今回も、城のある部分に仏具を持ち込んでお祈りをしている夫婦、家族連れの姿を見ている。ま、この問題はこれ以上の解明は諦めましょう。
中城が「100名城」に選ばれた理由として、「旧状を良く残していること」の他に、「ぺリーが来て、見事な出来栄えに感心した」ことが挙げられている。
ペリーは日本で嫌われ、沖縄で歓迎されたととある。このペリーの航海記を読めばよいのだろうが、ペリーは何処に停泊し、何処から上陸し、どの道を、どうやって(馬か徒歩か)、この城に来たのだろう。もっと近い城があるように思うけど。
石垣の石は沖縄石灰岩だと言う。
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■100 首里城
沖縄県那覇市首里当蔵町3
(訪問日 平成22年2月23日) |
■首里城***年に既に訪問済である。今回はスタンプの押印のみだから物好きと言われても仕方がない。しかし、同行を申し出てくれた友人のKは、もっと、物好きである。
Kと、11:25発の飛行機に乗るべく羽田で待ち合わせた。同年輩の友人は考え方が同じらしく、待ち合わせの場所に行く途中で合う場合がママある。この日もそうだった。しかし、考え方が全て同じではない。Kは会うなり、「那覇まで2時間。昼食は機内だ。弁当は、ナントカの寿司がよいから、買いに行こう」と、案内してくれる。昼の手配など、こちらは考えもしなかった。機内の座席でも、彼は通路側が良いというし、私は絶対に窓側だ。考えが違う場合も良い時がある。こうして、10℃の東京から25℃の沖縄に着いて、ツアー代金に含まれているレンタカーに乗り込んだ。
首里城は日本の城の中でも、トップクラスの有名な城だ。姫路城や熊本城などと並んで、城だけで観光客を集めることが出来る。守礼の門は、二千円札の図柄になっている。(因みに、二千円札の不人気に沖縄県は気を揉んで、せめて、県内だけでもと「普及促進運動」をしたそうだが)しかし、この「守礼の門」はかっては、「ひめゆりの塔」と並ぶ太平洋戦争での沖縄の悲劇を物語る象徴だった。栄華を誇った首里城は戦争末期のアメリカ軍の猛爆で焼き尽くされた。昭和33年この門だけが再建された。広島の原爆ドーム、長崎の片足の鳥居などの原爆遺跡と同じく、戦争の悲惨を無言で訴える証拠品だったのである。
その後の再建の歴史は何処に書く?
しかも、沖縄の悲劇は太平洋戦争の時だけではない。17世紀に薩摩の侵攻を受け、明治維新後は「琉球処分」で、琉球王国は取り潰され沖縄県となり、国王は東京へ拘引されていった。
そして、未だに残る米軍基地。我々本土の人間が沖縄を想うとき、我々は常に加害者であり沖縄は被害者であった。
明治は勿論、太平洋戦争も遠くなった現在、改めてというより、初めて沖縄の関連図書を読み漁ってみた。最後まで戦場となった沖縄。非戦闘人の被害甚大。しかし、先の広島・長崎の罹災は?東京といえどもあの大空爆。江ノ島で通学の私が逃げ惑った機銃射撃。戦争も共通体験ではなかろうか。今の所沢の我が家から車で30分も走れば横田基地がある。そこは、民間機のみの発着と言うなら、同じく至近距離の入間基地はどうだ?年に一回、戦闘機部隊ブルーインパルスは、快晴の秋空に見事なショウを見せ、多数の日本人見物客が押し寄せる。もっとも 入間は我が自衛隊の基地だが。普天間周辺を走ってみた。沖縄の車にはレンタカーを示す「わ」ナンバーが多い。同時に駐留軍関係を示す「Y」ナンバーもそれに負けぬくらい多い。彼らの落とす金がなくなっても沖縄はやっていけるのだろうか。
明治維新の激動も、日本中を襲った。特に東北の各藩は、革命に必要な「血」を流す為に多くの戦火に曝された。廃藩置県では、職を失った士族が日本中に溢れた。この時、藩主は人質よろしく東京に集められた。琉球国王「尚」氏だけではないのだ。薩摩藩の島津氏とて、例外ではなかったのだ。
そして、「尚」氏はその後、どうなったか。4男の尚「順」氏(1873-1945)は男爵・貴族院議員となり、「琉球新報」「沖縄銀行」の創立者となる。白光真宏会の会長、西園寺昌美は次男誠氏の長女であり、西園寺公望の曾孫の妻である。
勿論、この感懐は帰国後、いや、帰宅後のささやかな勉強によるもので、当日は、地下に穿かれた、広くて立派な駐車場に車を置いて、大勢の観光客と一緒にゾロゾロと歩いた。
、 、 、門をくぐり、靴を脱いで 、 、 、を見て、 、から出て ジュースなんか飲んで、ホテルに戻った。
ツアーでシングルを手配するのはおかしいが、そうした。
一休みして、タクシーで市内。タクシーは情報源。それを頼りに飲む・打つ・買うのうち二つを楽しんで、若くない二人の那覇の夜は更けていった。
書き残し
首里城は度々火災に遭い、その度に立て直している。
明と薩摩を手玉にとった。
岡本太郎の論文 司馬氏の論調。
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