中国・四国の100名城
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鳥取県 63 鳥取城 平成24年11月6日登城 こちらから
島根県 64 松江城 平成23年7月8日登城 こちらから
65 月山富田城 平成23年7月8日登城 こちらから
66 津和野城 平成25年5月29日登城 こちらから
岡山県 67 津山城 平成24年11月5日登城 こちらから
68 備中松山城 平成23年3月9日登城 こちらから
69 鬼ノ城 平成23年3月9日登城 こちらから
70 岡山城 平成23年3月10日登城 こちらから
広島県 71 福山城 平成26年1月14日登城 こちらから
72 郡山城 平成23年7月7日登城 こちらから
73 広島城 平成25年3月14日登城 こちらから
山口県 74 岩国城 平成25年5月30日登城 こちらから
75 萩城 平成25年5月29日登城 こちらから
徳島県 76 徳島城 平成24年10月14日登城 こちらから
香川県 77 高松城 平成24年10月14日登城 こちらから
78 丸亀城 平成24年10月15日登城 こちらから
愛媛県 79 今治城 平成24年5月23日登城 こちらから
80 湯築城 平成24年5月24日登城 こちらから
81 松山城 平成24年5月21日登城 こちらから
82 大洲城 平成24年5月22日登城 こちらから
83 宇和島城 平成24年5月22日登城 こちらから
高知県 84 高知城 平成24年10月13日登城 こちらから
 ■63 鳥取城
  鳥取県鳥取市東町
  (訪城日 平成24年11月6日)


 
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** 維新後の鳥取藩主

 前夜、津山に泊まり、津山で中山神社などを見てから鳥取へ入ったので鳥取駅到着は昼を過ぎていた。その日は、鳥取城を見たのち、夜は岩井温泉に泊まる予定である。岩井温泉は鳥取県唯一の「秘湯を守る会」のメンバーである。この「守る会」もメンバーの「スタンプ帳」を発行していて、10箇所のスタンプを捺印すると、一軒の「秘湯」に無料で泊まれるというコストパフォーマンスの高い「会」である。
 岩井温泉へは鳥取駅からバスで行く。秘湯だから、駅から温泉まで二時間かかるし、本数もきわめて少ない。16時発が最終の一本で、それまでに城見物を終えて駅まで戻らねばならない。幸い、城は駅から近い。三の丸、二の丸、本丸と順序良くトントンと登り、「仁風閣」もゆっくりと見た。
(「仁風閣」とは、旧鳥取藩主池田仲博侯爵が、大正天皇の山陰行啓時の宿泊施設として城内に建てた、フレンチルネッサンス様式の建物。こうして由緒を書いてみると、維新後も旧エスタブレッシュは健在だったのだと認識新た。)
但し、秀吉が攻めて、飢えで開城に追い込んだ山城は勿論、本丸頂上へも行ってない。
写真の看板を見る前に、11月にみる筈がないヤツを石垣に見てしまったからだ。

「秘湯を守る会」
 岩井温泉行きのバスには間に合った。宿に入って早速に、「予約している遠藤です。スタンプをください」とスタンプ帳を差し出すと思いもかけず「ダメです。出来ません」と木で鼻を括る返事。「冗談じゃない。コッチは東京から新幹線、電車、バスと乗り継いで二日がかりで来たのだゾ」と息巻いてみても「スタンプ帳のここを読んでください。A観光経由の予約でなければナラナイと明記してあるでしょ」とテキも一歩も引かない。
 確かに書いてある。A観光の社主がこの秘湯の会を立ち上げたことは知っている。「しかし・・」と未練をぶつける私に同行の妻が一言「確かに書いてある。宿が正しい。あなたが悪い。」と。全く頼りにならない妻を持ったものだと諦めて宿泊した次第だ。
 おかげで、これを機会に「秘湯スタンプ収集の旅」から足が洗えた。

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 ■64 松江城
  (訪城日 平成23年7月8日)
  
 

■ 『松江城』は昔の天守閣が現存する12城の一つであり、お濠とその周囲にある城下町のたたずまいを美しく残し、「100名城」の中でも人気の高い城である。
 この知名度と、島根県の県庁所在地であることなどから松江市の歴史は古いと思い込んでいたが、意外に新しい。松江は、室町時代には京極家の「守護所」(最近の私は「守護」の文字に異常に関心をもつ。「ウィキペディア」は「守護所」に一項目を作り説明している。「注」に抜書きを書いたので関心を持つ人はお読み下さい)がおかれたが、戦国時代には京極家分家の尼子家の台頭で安来の月山冨田城の支配地にすぎなかった。

 1600年関が原の戦いで戦功のあった堀尾氏が月山冨田城に24万石を得て入城するが、この山城を嫌い、1611年に松江城を落成させた。松江市の歴史はようやくここで始まったのだ。
 1633年、堀尾氏は嗣子なく3代で改易となり、京極忠高が若狭国小浜藩より出雲・隠岐両国26万石で入封した。ところが、この忠高も嗣子なく没した為1633年に信濃国松本藩より松平直政が18万6千石で入封して、途中7代目に松平不昧公という茶人で有名な藩主を出したりして、松平家の治世は明治維新まで続いた。

 初期の頃、この藩はめまぐるしく藩主が替わった。親藩である松平家で落ち着いたからいいようなもの、全国には、更に藩主の「お取潰し」、「お国替え」が続いた
藩も多い。このような場合、藩主はもとより、藩士達の生活は激変しただろう。
 私は、社会人になって7年間は大企業の一員だった。7年間、職場は同じ部屋から動かず、机も部内の配置換えで数メートル移動しただけだった。配属替えも転勤の経験もせずに、入社後7年で、父が創業した会社に移り、幸い「お取潰し」(倒産)も経験することなく現在に至っている。
 多くの勤め人は、人事異動で転勤の経験を持っている。会社そのものを転々とした人も多々いるから、この藩のお国替え時の苦労は書かれてなくても察することが出来るのだろうが、私としては、もう少しこの「お国替え」の時の、藩主、藩士、あるいは町民たちの苦労を知りたい気がする。

 昨夜は松江に宿を取った。宍道湖のシジミを食したくて夜の街にでかけたが、飲食店街には、矢張り、人影はなかった。
 朝、城門が開く時間を見計らって、城の駐車場に入る。

 「松江城保存につくした人たち」(写真)お城の入り口に大きな案内板でこの城の保存を維新後の管理者である広島鎮台に懇請をし、且つ、入札価格で買い取った旧藩士と豪農を顕彰している。天守閣が保存されている他の城にも、このような保存に力を尽くした人々が紹介されている。彦根城は保存の経緯がよく判らないとは、彦根城の項で書いた。

 珍しく体調がわるいというKを下に待たせて、天守閣に登る。猫に小判。建築に興味が薄い私はざっと素通りをして、こんな見方は、勿体無いなのはわかっているけれど、どうも、感懐が沸いてこない。戦わない天守閣は外観を見るもので、中を見るものではないと云えば、城フアンから叱られるか。
 天守閣の最上階から美しいと感じたお濠、城下町も車で廻って、どうも既に観光案内で見たような、絵葉書で見たような感じしかしなかった。小泉八雲の旧居を見ても、彼の数奇な生き様に思いを馳せることができなかった。

 Hが友人に推薦されたという蒲鉾の店を探し当て、土産に購入して、月山冨田に向った。


 注 守護所とはー「ウィキペディア」より
守護所(しゅごしょ)とは、中世日本において守護が居住した館の所在地のこと。守護の政治的権限の拡大とともに政庁所在地としての機能が国衙より移されていった。鎌倉時代初期においては、守護の職務は大犯三箇条に限定され、朝廷が任命した国司の政庁がある国衙とは別の場所に置かれるのが一般的であった。また、守護は世襲ではなく交替制であったため、守護の交代とともに守護所も替わるのが一般的であった。
ところが、鎌倉時代後期以後、守護の職務が治安維持から裁判にまで広がってくるようになると、守護の権威が国司を圧倒するようになり、南北朝時代以後には守護が一国の支配権を得るようになった。また、守護の世襲化が進行したこともあり、守護所も固定される傾向が強まった。
世襲化した守護の守護所としては当該武家の本拠地、あるいはかつての国衙所在地である府中、その他交通・商業の要所などに置かれるケースが多く見られた。守護所の固定化によって守護の居館を中心に重臣の居館が配置され、その周辺に市場や寺社などが集まるようになり、地方都市としての役割を果たすようになった。
戦国時代に入ると、下剋上による守護大名の没落に伴う新興勢力、あるいは逆に領内支配の確立して守護領国制を脱却した旧守護大名による戦国大名が新たな支配者として浮上するが、守護所の所在地がそのまま本拠地として用いられたケースもあった。
 
 
 




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  ■65 月山富田城
   島根県安来市広瀬町冨田2188
   (訪城日 平成23年7月8日)
   

■先日、中国で剣道を教えている人が、中国人の弟子から「私はサムライの中では、山中鹿之助が好きです」と聞いて驚いた話を、新聞に書いていた。その弟子は山中鹿之助をテレビゲームの「信長の野望」で知ったというのだ。これから私はテレビゲームの勉強もしなければならないのか。
 私は、子供の時、山中鹿之助を講談社の絵本で知った。戦争中、つまり1945年に終わった太平洋戦争の最中に僅かに入手可能な子供向け絵本がこの講談社の絵本なのだ。

 山中鹿之助は毛利と互角に戦いながら、最後は敗れた尼子家で、尼子家再興に終生努めた今は死語となった「忠臣」の鑑である。(ついでに今は死語となった言葉に「孝女」がある。何故ここに孝女が出てくるのか?「孝女白菊」という講談社の絵本が私の本棚には鹿之助の絵本の隣にあったからです)
 忠臣鹿之助の影に隠れて、その主家尼子家は認知度が低いが、毛利と覇を争っていた時代はなかなかの実力者だったようだ。祖は、バサラ大名として名高い佐々木道誉。尼子を滅ぼした毛利家も、元は尼子の家臣だったのだ。今回、訪問した『月山冨田城』も巨大な山城のようだ。この城について、何も知らなかった。失礼しました。

 失礼したのは、この城がある安来市への私の認識にもいえることだ。単に観光用の“泥鰌すくい”の舞台がある町としか思っていなかったが、イエイエ、日本屈指の産鉄のメッカではないか。しかも、最近、世界遺産に認定された石見銀山から産出される銀の流通もその影響下に置いている。ここでも、城のみを見て、城下町を見られなかったことが悔やまれるが、そうなんでも出来るものではない。今、この「銀」について、銀が何故、「金」と並んで尊ばれるのか?知りたく思っている。金は工業用にも不可欠の元素と聞いている。銀も装飾以外に工業用の実用的価値があるのだろう。更に、金本位制度という。銀本位制度もある。紙幣を持っていけば金や銀に兌換してくれる制度など続く筈がないではないか。いつの時代にどの国が、何故、実施したのだろう?
 まあ、なんでも全てを調べることは出来ない。でも、もう一つ判らない事は、途中にあった足立美術館だ。松江から安来へ向う途中で足立美術館に立ち寄れると知った。幸い同行の二人は美術愛好家でありながらこの美術館を見たことがないという。日頃、わがままを聞いてくれるお礼に今度は美術に無関心な私が付き合うよと、車を走らせたが、着いてみると河原にポツンと立っている。ここにあの天下に名高い名庭園が内蔵されているのか?三人とも興をそがれて城へ急いでしまったが、あれは本当に足立美術館だったのだろうか?今でも不思議に思っていることだ。
 安来市立歴史資料館でスタンプを押したが、そこに車は止めず、そのまま山の中腹まで走らせた。大手門跡から御殿平、三の丸、二の丸、そして本丸と歩き、親切な案内板を写しまくる。一度資料館に下り、また、案内図を頼りに、山中鹿之助銅像、復元された花の壇・侍所などを見て、見るべきものは見たと、車に戻る。
 見ることは見たけれど、矢張り、この城を舞台にした攻防の様子が目に浮かばない。
 それも当たり前だろう。これから、映画・TV・絵巻などを心して見るようにしよう。

 この城を出たのは14時半。それから一路東京までノンストップ。ブルーインパルスもかくやのKの運転で無事終電前の石神井公園駅についた。







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66 津和野城
  鳥取県鹿足郡津和野町後田
   (訪城日 平成25年5月29日)

  
■何度も書くが、私が城探訪を始めたのは、地方の顧客はほとんどが城下町にあったからだ。その地の城を一通り見てしまうと、顧客から次の顧客に行く途中の駅に降り、駆け足でそこの城をみた。それも一段落して少しずつ近辺の有名な城を物色して足を延ばし始めた。その候補の城の中で、津和野城は早くから行ってみたい城だった。
 山奥にあり、アクセスが難しいことも魅力を増している理由の一つだが、この城を舞台にした役者の名が身近だったことが大きかった。列挙してみよう。

坂崎出羽守と山本有三
 津和野城城主。「救い出した者に姫を与える」という言葉を信じて、千姫を大阪城から救い出したにも拘らず約束を反故にされ、嘆き悲しみ、ついにはお家断絶まで荒れ狂う。
 当然異論があるストーリーだが、私は、高校時代に山本有三氏の戯曲で読んで、刷込まれている。「心に太陽を持て」の一篇で当時のカリスマだった山本有三の名前を知る人も今は少ないだろう。
 救出した男も悲しい最後を遂げるが、助けられた女性、千姫も幸せな一生を送れなかった。坂崎を振って嫁入りした名城姫路城の一室に名を留める。その部屋の窓から道行く男に声をかけて呼び込んだほど淋しい晩年だという。
 泉鏡花の異色戯曲「天守物語」は千姫の怨霊をモデルにしていると、私は自分で勝手に解釈している。先日、新装なった歌舞伎座で公演されたこの戯曲を見た。七之助の美しさに惚れ惚れとしてのこの解釈をしたのだ。

森鴎外と夏目漱石
 津和野が観光を産業としたのは早かった。1970年頃、街には貸自転車が準備されマルマルと肥った鯉が泳ぎ回っていた。自転車族の多くが立ち寄るのが森鴎外の生家だが、 時間がないから、私は行ってない。鴎外が苦手なせいもある。つれて漱石も苦手だ。しかし、二人を並べて論じた江藤淳氏の講演は面白かった。鴎外はドイツの留学で恋人も出来大いに楽しんだ。一方、漱石はロンドンで憂鬱をいや増しに増した。その理由を江藤氏は当時の為替レートから論じた。円が強い時代に外国に遊んだ鴎外。弱い時代の漱石。なるほど、文学研究とはこのような大人の見方があるのかと嬉しかった次第。
 
安野光雅と司馬遼太郎
 今回、行ってみると「安野光雅」の記念館が出来ている。思いっきりモダンな建物だ。
 安野氏は私の座右の書である司馬遼太郎「街道をゆく」の挿絵を途中から担当した。最初に挿絵を担当した須田剋太画伯は道元の心酔者で、その浮世離れをした言動は司馬師の大きな掌中で存分に躍動していた。彼の死後(1989年)、約半年、桑野博利氏が1991年まで担当した。この出入りにどんなドラマがあったのか私は知らず、恥ずかしながら知りたいと思うのだが。1991年から「街道をゆく」が1996年司馬師の没で幕を閉じるまで、司馬師のパートナーとして挿絵を提供したのが、この安野氏である。それだけで私は彼もまた懐の深い教養人だろうと大いに尊敬している。
 津和野はこの人も生んだ。神から何かを授かった土地なのだろうか。

津和野城
 この城訪城は三回目だ。最初の時は今以上に駆け足だから、リフトで上まで登ったが、これからどのくらい歩けば「城」を見ることが出来るか見当がつかずそのまま降りてきている。なけなしの金をはたいて、津和野の出版社が発行している案内書を購入した。「この城の山の上の石垣をどのように積んだのか、ワカラナイ」と書いてあって、大いに腹を立てた記憶が今でも残っている。「ワカラナイ」とはなんだ、折角お金を払ったのに!と。
 今回は,Kの車のおかげで一泊の予定がたてられた。リフトの乗り口でスタンプを押し、リフトを降りてから本丸へノンビリ歩き、城下をゆっくり見渡してリフトで降りてきました。下りくらいは歩けばよかった。当時の若さ(!)なら出来たろうと二年後の今は思うのだが。

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67 津山城
  岡山県津山市山下
   (訪城日 平成24年11月5日)

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津山城と我が家の先祖
 百名城の中でも、百名城だから行く(行かねばならない)城と、百名城に選定されていなくても行かねばならない城とがある。津山城は後者で、いつかは行きたい城だった。それも、ヒロちゃんと一緒に行かねばならない城なのだ。
 なぜなら、彼女は今でこそ、北海道の出だが、数代の祖先は津山藩のご家老で、世が世ならお姫様であらせられ・・はないだろうが、とにかく、津山の出身と彼女の家族たちから聞いている。
 例によって歴史には関心がないヒロちゃんの(文字通りの?)重い腰を上げさせて、二人で津山に降りた。彼女には一人の姉と4人の弟がいて、12歳年下の妹しか持たない私は彼女の夫になったおかげで、一挙に兄貴になったり弟になったりが出来た。その弟たちは家系に興味を持ち、銘々、津山時代の先祖を調べたようだったが、その成果を聞かずに来ている。土台、津山からどんな事情で北海道へわたったのか?
 では、我が遠藤家の先祖はどのような人か?なんと、貧しい父は拾われっ子同様に育てられていて、「家系」どころの話ではない。で、この件はここで打ち切り。

 津山城は堂々たるものだった。本丸に御殿が復元されていて、畳の部屋にあがってくつろいだ。
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津山城と「出雲の阿国」
 今でも時々有吉佐和子女史は著作を含めて話題になる。痴呆老人、日中問題、と、切り口は豊富だ。私の彼女へのアプローチは「歌舞伎」の始まりへの興味から「出雲の阿国」を紐解いたが、読み進むうちに「城」がふんだんに出てくるのが望外の収穫であった。
 秀吉だけでも伏見城、聚楽第、大阪城など阿国の身近で城を次々と建てていて、その様を武士に関係ない女性の視点で興味深く報告している。
 阿国の時代が、丁度、豊臣から徳川へ、大阪から江戸へと推移して、全国の方々で城が造られていった時代に重なるのだ。
 その数々の城の中に、津山城が登場するのが嬉しい。名古屋山三郎は稀代の美貌で、笛の名手。折角、阿国と芸の面でも相思相愛になったにも拘わらず、「城」への夢捨て去りがたく、津山城へ出仕するのだ。「阿国」の一生はほとんど資料はないらしい。その僅かな資料からこれだけの物語を紡ぎあげる女史の力技に感心するのだ。

美作一ノ宮 中山神社
 津山には一泊したので、旧街道の雰囲気が残る通りなどゆっくり見ることが出来た。そしてタクシーを奮発して、美作一ノ宮中山神社にも参拝で来た。見どころの多い神社で、写真でも牛の巨像、巨木、珍しい猿のコマイヌなどを見ることが出来る。
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68 備中松山城
   岡山県高梁市内山下 1
   (訪城日 平成23年3月9日)

■謎に包まれた鬼の城探訪に満足して、山を下り今度は川を遡る。川幅いっぱいの豊かな水量が、急ぐでもなく、淀むでもなく、濃い藍色を保ったまま滔々と流れるこの川の名を、運転のKも、私も知りたかったが、カーナビのモモコちゃんは教えてくれない。帰って地図をひもとけば、矢張り、高梁川。その気分の良い川沿いの道をひた走る。Kはこれから向う備中松山城を日のあるうちに見て、今日中に博多へ帰らねばならない。でも・・、途中ファミレスを見つけ、Kはビールをイッパイのみ、運転を交代する。
 備中松山城は、数十年前の城探訪の頃、来た記憶がある。山道を一人トコトコ歩いて登るとき、サルの親子に出会い、お互いに目を合わせないようにしてすれ違ったこと、城の受付の男性がそのサルに似ていたことが記憶にある。しかし、今、延々と車で登っているこの山道を良く歩いたものだ。若かったなー。あの頃は・・。

 「天守は430Mの小松山の本丸に建つ。二重二階の天守は現存する天守の中で最小であるが、日本一高いところに建っている」これは、学研の「100名城公式ガイドブック」の説明だ。最も高い城は「岩村城」だと思っていたので、この「公式ガイドブック」でこれも「100名城にノミネートされている「岩村城」の項を開くと「標高717Mの日本一高い地に築かれた城。高取城、備中松山城とともに近世城郭の3大山城」とあった。
 備中松山城は「天守閣が現存天守閣の中で一番高い」とマニアックな日本一だと判った。あらためて、この城は現存天守閣をを持つ12城の一つだったのか、そして、この天守は弘前城の辰巳櫓(現在天守扱い)より小さいのかと再認識した次第。
 この城は、天守閣も小さいが、城域も小さい。しかし、説明版は、登城口にも、天守閣の内部にも実に豊富だ[写真]。しかし、そこに登場する戦いも、戦う武将達も失礼ながら、マイナーで、どうも、読んでいて興味が湧かない。今、鬼の城という、「100名城」中とび抜けてスケールも謎も大きい城を見た直後のせいだからかもしれないが。城への連なる4つの山の一つ「小松山」のピークを削平しているから二の丸も本丸も幼稚園の校庭程度だ。靴を脱いで、本丸の展示物を見て、本来なら過っての本丸「大松山」へと登るべきなのだが、幸か不幸か、道が復元工事中で行けないので退却する。
 規模が小さく、城主にも戦史にも馴染みがないのだが、石垣に自然の巨岩をそのまま使用している城は珍しい。

 但し、この城の城下町である高梁には忘れてはいけない人物がいる。司馬師の「峠」で主人公河合継乃介が私淑したと絶賛されている「山田方谷」だ。パソコンは有難い。検索をすると直ちに方谷の生涯を詳細に知ることが出来る。
 方谷は1805年農民の子として生まれた。農民でありながら若くして学問で頭角を現し、江戸では昌平こうの塾頭になる。45歳の時、藩主板倉勝静(松平定信の孫。14代・15代将軍の老中)に藩政の参政に任命される。
そこからが、凄い。五万石の小藩でありながら藩が抱えていた赤字10万両を返済し、それだけでなくさらに藩に10万両の蓄財もさせたのだ。その方法が倹約や返済猶予などありきたりではないところが凄いのだ。彼は、高梁近辺の「砂鉄」を活かす。製鉄をして、その鉄で農具をつくり、それを藩から直接、大消費地である江戸に運ぶ。大阪などの中間マージンを省いて、巨利を得たのだ。その他、藩の領土全ての産業を藩の専売事業にしたり、藩札を全て買い上げ信用の回復を実現するなど、上杉鷹山や、吉宗などより一枚上の財政家として評価されているのも頷ける。維新の激動期にも、徳川幕府老中の立場から動きの取れない藩主に替わって、徳川を見限る選択をする。
新政府が参閣を要請するが、我々にとっては、残念なことに方谷はそれを断り、岡山藩閑谷学校の教師として、明治10年、73歳で生涯を閉じた。

 山麓に武家屋敷群がこれも小規模ながら美しく住み継がれている。
 方谷を思い、「峠」で印象的に書かれた、方谷と河合継乃介の別れのシーンを思い浮かべて、我々も美しい城下町高梁に別れを告げた。
 方谷の話が長く、肝心の名城・備中松山城については、書くことが少なかった。
 しかし、この城は私の「訪城記」に、再度、登場するような気がする。名刀の産地『備前長船』をはじめ、備前から出雲にかけては古来より、方谷が利用したように「鉄」のメッカだ。中国山系の各城はその利権の争いと無縁ではありえないと思うからだ。
 この城との再会を楽しみにしている。

 すんなりと岡山駅に戻り、ガソリンを満タンにしてレンタカーを返して、「祭りすし」を肴にイッパイ呑んだら、もう、博多へ帰るぎりぎりの新幹線の時間。
 

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69 鬼ノ城
   岡山県総社市奥坂、黒尾
   (訪城日 平成23年3月9日)

■昨夜は、私は、岡山に泊った。Kと、8時に岡山駅レンタカー事務所で待ち合わせる。博多に住むKは前回「大野城」を案内してくれた。この「鬼の城」は、大野城と建造時期をほぼ同じにした、朝鮮式山城と思われる。但し、大野城が建造年代、設計者、大宰府防衛という目的が全て「日本書紀」に明記されている城であるのに対し、鬼の城はそれらがどこにも記録がない謎の城なのだ。大野城探訪を共にしたKに、この城だけは是非同行をしてくれと頼んで、今朝、博多から駆けつけてもらったのだ。
 レンタカーのカーナビをセットして吉備路を走る。私はいつも案内するナビ嬢に名前をつける。今日は岡山県に敬意を表して「モモコちゃん」。モモコちゃんはトウが立っているらしく、新しく出来た道に戸惑う場面が時々ある。そのたびにハンドルを握るKが怒鳴りつけ、私はモモコちゃんを庇うのに忙しい。
 「吉備津神社」「吉備津彦神社」「備中高松城」。一度は訪れたい史跡のスター達は駅からこんなに近いのか。これらの指導板を次々に見送って一路車は山を登り、「総社市鬼城山ビジターセンター」着は9時30分。最近の発掘の成果が手際よく展示されたセンターを一巡。撮影自由との事なので、豊富な展示物と説明文をカメラに収め始めたが、とても収めきれず、ボリュームのあるパンフレットを購入するとなんと、300円という安さ。岡山の文化の深さに感心する。
 ここでスタンプをゲットして、案内リーフレットに従って歩き出す。復原された西門、角楼、礎石建物群へ下って東門へ。そこから、突出部(屏風折れの石垣)を遠望する。自然の巨岩を巧みに取り込んで築かれた石垣は、遠目にも迫力満点だ[写真]。第三水門。南門、高石垣、第一・第二水門を経てスタート地点の西門に戻る。これで、鬼の城を約半周したことになり、そろそろ増えてきた見学客とすれ違いに車に乗る。

 この城は昭和46年に「発見」され、以来、発掘・整備が進められてきた。建造は日本城郭史上、最も古く位置づけられていても、ある意味では最も新しい城かもしれない。現在、我々が歩き始めた9時半にはもう多数の作業員が石垣やら、水門の復旧に従事していた[写真]。
 残念ながら、私にはこの建築・構造には知識もなく、あまり、興味がもてない。
 興味があるのは、「誰が」この壮大な山城を築造したかだ。吉備に大豪族が居たことは、日本第4位に大きい造山古墳のなどで明らかだ。しかし、その豪族が大和国家と敵対していたかというとそうでもないと云えよう。第一、前方後円古墳の存在は大和ととの交流を物語っているし、第二に、もし吉備が大和の敵ならば、大和が敵中を通って九州大宰府へ通じることは困難だ。
 しかし、吉備と大和が親密ならば、何故、大野城が日本書紀に記載されているのに、この鬼の城は記載がないのだろう。もっとも、記録にないこの時代の山城は杷木城、高良山城、おつぼ山城など他にも約15城が確認され、「神籠石系山城」と呼ばれており、大野城、高安城、屋島城などの、記録にある約10の「朝鮮式山城」と区別されている。さらに、「神籠石系山城」は、高良山城などの「九州型」と、この鬼の城などの「瀬戸内型」に分かれる、とある。
 こうしてみると、鬼の城建造者の件は、多数の専門化が、多くの時間をかけて探求して、尚且つ結論がでないどころか、推論にも乏しい現状なのだ。したがって、これ以上の詮索は私には無理だ、と、あきらめる。

 一つのヒントは「吉備津神社縁起」にある。
 と、ここまで書いたところで、「神籠石(系)山城」の中に「杷木城」が、あることに気がついた。「杷木」とは、どこかで見た地名・・・、それもその筈、我が同好にして同行の士、Kの工場があるところではないか!Kよ、後はよろしく頼むぜ。可哀そうなK、旅の段取りだけでなく、こんなことまで私の面倒を見ねばならぬとは!
 もう一度、「吉備津神社縁起」に戻ろう。この縁起によれば、この城には「百済の王子・温羅」が住みつき、これを退治する為朝廷から吉備津彦が派遣され、激しい戦いの後、これを攻め落としたとのことである。おそらくこの伝承はこの謎の城の解明にヒントになるだろうが、我々には、この話は「桃太郎の鬼退治」につながる。桃はご当地、岡山の特産品で、お腰につけた「黍団子」はまさに「吉備だんご」だ。
 ところが、そうはいかないから、調べるということは楽しいやら、キリがないやらだ。
 「桃」が、岡山の特産になったのは明治の時代なのだ。岡山の人小川益太やその弟子大久保重五郎などが苦心して「清水白桃」を生産しはじめたのは明治34年の由。(因みに、桃の生産量は岡山県は、山梨、福島、長野などに次ぎ、全国第6位だ)とにかく、各地に残る「桃太郎」伝説を、岡山の話として売り込んだ、この県の智慧者に敬意を表することしきりである。

 帰京後、書店で、今年の2月に発行された「鬼の城―蘇る吉備の古代山城―」(同成社)を見つけた。1800円。当然、買うべきだが、ハラハラと目を通すと、発掘の細かいデータの報告書だ。この数字・出土品のリストからこの城の建造者を想定することは、私には、とても出来ない。専門家の地道な解析の結果が、私の生きている間に間に合って欲しいと、願うのみだ。「倭は九州」の説で孤軍奮闘する古田武彦氏も「神籠石系山城」は九州の首都を東のヤマトから守るためだと論をはるが、いかんせん、「瀬戸内型神籠石」については、一言の言及もない。
 この城の研究は、ヤマト王朝・九州王朝・吉備王国など定説がない分野だ。北海道のチャシと双璧をなす、今後の研究用のタイムカプセルだと思って、カプセルが開き、疑問が解決する日を楽しみにする他はなさそうだ。


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70 岡山城  別名 烏城
   所在地 岡山市丸の内2−3−1
   (訪城日 平成23年3月10日)

■岡山に連泊。駅に荷物を預け、市電に乗りたいけれど歩いたほうが早いだろうと歩き出す。駅の隣の広大な一等地は「林原」の有料駐車場。流石、一流企業は大資産家だなと感心していたが、帰って一週間後くらいに「林原」が整理されたとニュースで知った。
 「後楽園」をチラと左目に見て、入城。地面に、かって建っていた「表書院」の間取りが彫りこんである。玄関は探し当てるが、もとより「下駄箱」の記入はない。今、私は、武士達がどんな履物を履き、どこで着脱をし、どこに履物を収納したかに凝っているのだ。

 天守閣入り口でスタンプを押し、エレベーターで最上階に登る。そこで、見たいものがあるのだ。今回、この城に限ってパソコンで下調べをしたら、どこかの歴女が、天守閣の屋根に、桃の実をかたどった瓦があることを撮影したブログをみつけたのだ。なかなかニッチな発見で、是非私も撮影したかった。この金色の瓦は、簡単に見つかってカメラに収めた。彼女は「六十一雁木上門」にもこの瓦をみつけている。ガイドは彼女にこのかわらは復興前からあったと説明したと書いてあったが、他のところで書いたように、岡山が桃の産地になったのは明治後半だ。このガイドの話は、矛盾してないかと、これもニッチな疑問を持った[写真]。

 初期の岡山城主は日本史に名をとどめる錚々たる人達だ。個性が豊かで、エピソードを多く持ち、各々が一人で主役をはれる。
 創業者宇喜田直家は、権謀術策、悪逆非道、裏切り・寝返りが枕詞になる悪人。最後は毛利を裏切り、秀吉の配下に入るのだが、彼の死後も宇喜田家中の将領級の者は忙しく事件をおこす。直家の跡を継いだ弟の忠家は兄に殺されないように実直に生きたが、、その息子が、後年の坂崎出羽守。彼の波乱万丈の生涯は津和野城「訪城記」に書きたいが、その他の将官も秀吉の死後は秀家を見限ってサッサと徳川に走っている。
 創業者直家の実子である、秀家は、実直無比。可愛がってくれた秀吉に死後も忠節を尽くして、関が原の大戦犯にさせられた。徳川家から八丈島に流され、なんと、50年も流刑のままで、島で生涯を閉じた。
 そして、この秀家の次に城主に入ったのが、皮肉にもその関が原の大裏切り者小早川秀秋だ。天守閣の展示物や石垣の説明文に、小早川秀秋に対する岡山県人の些かの悪感情を読みとったのは、私の個人的主観だろうか[写真]。秀秋は、謎の死を遂げる。それが当然の報いといわんばかりの復興天守閣に展示されている年表の解説文だった。

 岡山城近辺には後楽園のみならず、市は例の「林原美術館」を始め(倒産後、この国宝級所蔵品の行方が心配されていると知った)、各種の博物館など文化的資産に富んでいるが、例によって、次の地への新幹線の時間に追われ、駆け足で岡山駅へ。

 もし、この城でもっと知りたいことがあるとすれば、「維新」の時に、薩長軍にどう対応したかだろう。この城に限らず、西の押さえのために作られた数々の巨城は、維新戦争の時、各々、どう、対応したか?城の発生と同じく各城の終焉を辿るのも一つのテーマになるだろう。

 或いは、ここのところ立て続けに見た、岡山城s41・大阪城s6国指定登録文化財・小田原城s35などのコンクリート製の「復興天守閣」歴史や比較もこの城でしてもよいかもしれない。

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71 福山城
  広島県福山市丸之内1−8
  (訪城日 平成26年1月14日)


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哀悼!三原城
 福山城は元和8年(1622年)に完成した。新規の築城として近世城郭で最も新しい城の由。この城は、新幹線・山陽本線・福塩線の福山駅の目の前にある。(左写真)白河城や明石城と並んで、駅から一番近い百名城の一つといえるが、本当はもっと近い城があったのだ。
 可哀そうな三原城がそうである。駅の目の前どころか駅の真下にある、いや、あったのだ!時は高度成長の真っただ中。私も出張にかこつけた各地の城探訪に最も熱が入っていた時代だ。(1975年の事である)天下の海城、三原城を見んと、勇躍山陽本線を降りたら途端に新幹線の工事にぶつかった。工事は、今、まさに三原城を潰して、プラットホームを建設最中である。殺人現場で、遺体を目の当たりに見たような義憤に駆られ、殺人犯人の工事責任者に食って掛かった。若い責任者が反論もせず、首項垂れて私の抗議を聞いていた、その姿を私は他の百名城で書いた記憶があるが、どの城だったろう。
 写真。一つは堂々たる復元天守閣と並んで、新幹線駅の下支えをしている福山城の石垣がある。三原城の墓碑のようだ。(右写真)
VIVA!鞆の浦!
 福山城は、駅は城を壊さなかった。しかし、もともと海城ではなかった。海への出口はこの城から南へ12キロ、鞆の浦に託した。その鞆の浦に宿をとった。
 鞆の浦は、「地の利」というより「海の利」があった。瀬戸内海の複雑な潮の流れが鞆の浦で千変変化するので熟達した船乗りは、鞆の浦を塩待ちの港とした。
 魏志倭人伝の投馬国の推定地になるくらい歴史は古い。万葉集にも詠まれ、平安時代の延喜式記載の沼名前神社はじめこの狭い土地に19の寺・神社が建てられた。
 航法の進歩で、鞆の浦は「潮待ち港」としての機能を失ったが、それが却って古代・中世・近世の豊富な史跡を私が訪れたこの日まで、まるで、映画のセットのように残った町となった。
 その街を歩く。写真に頼ろう。
旅装を解いた宿の部屋から。私のこれまでの旅での白眉の眺めだ。



▲鞆の浦のご紹介
▲鞆の浦城。
▲鞆の浦城。 ▲江の浦船
▲沼名前神社
 
 例によって日没まで歩き回り、宿の夕食を堪能。翌日、頑張って早起きしてお客が、私一人の定期船に乗って無人の仙酔島を往復し、福山へのバスに乗った。 

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72 郡山城
   広島県安芸高田市吉田町吉田字郡山
   (訪城日 平成23年7月7日)

■Kが九州を引き払って帰京するという。実家の博多で約一年間なにをしていたのか、いろいろ推測すれば一編の小説が書けるだろうが、それはやめよう。ともかく、彼が九州に滞在中に九州に13ある100名城の全てと、その道すがらの見所を最も効率よく廻れるように最善の努力で我々を案内してくれた。
 そのことに感謝しつつ、私は更にわがままをいう。「九州から東京へ車で帰るのだろう。一緒に帰ってやるから(!)帰る道中に車でなければ行きにくい、100名城の二つ三つを潰そうよ」と。なんという勝手な言い草だろう。しかし、Kは平然とこれを受け入れ、これまで同様、最善のスケジュールをたててくれた。私もこれまで同様、「スマナイ。スマナイ。アリガトウ。アリガトウ」と繰り返して平然としている。

 Kの指示で、H(ひろちゃん)と私は東京駅6時半発の新幹線に乗り広島で芸備線に乗換え、吉田口で、早朝に博多を発ったKと落ち合う。時に12時20分。そこからは、Kの車で城へ向かう。

 スタンプは「安芸高田市歴史民族博物館」に置いてある。こじんまりした博物館の簡単なパンフレットの中の
「中世には郡内の荘園・国衙領の地頭として、東国の武士が各地に入部しました」という短い文章に私が今関心を持っていることが凝縮されている。
 「地頭」とはなにか?「東国の武士」が何故ここまで「入部」出来るのか?
 鎌倉幕府・武士政権・守護・地頭など疑問を持たずに読み書きしている単語も、さて、定義をするとなると何も分かっていないことを思い知らされる。
 しかし、この『郡山城』の城主である毛利氏の祖が鎌倉幕府の重鎮、大江広元と知れば、東国の武士がこの地に根を下ろしたことは間違いない。

 NHK大河ドラマで「毛利元就」が放映されたのは1997年(平成9年)のことだ。その頃私は、長の病院生活でTVや読書を楽しんでいた。歴史に必ず登場する国の定義を考えていた。世界中でめまぐるしく起こる国の独立。あるいは滅亡。“国が国たる条件”はなにか?独立を守り続けた日本でも、戦「国」時代を生き抜いて戦「国」大名になったこの毛利元就の場合の国はどのような意味を持つのか?
 この問いに私は珍しく良い解答を出すことが出来た。曰く、「国とは徴税権である」と。学生時代のバイブルであったエンゲルスの「家族・私有財産・国家の起源」を懐かしく思い出せたのだ。(因みに、息子が大学生の頃、この名著を読めと強制した事があった。なかなか読まない様子に腹を立てなじると「本屋に売ってない」と云う。そんな馬鹿なと、自分で探すとそれは本当だった。我々学生時代に本屋の棚を埋めていたマルクス・エンゲルスの本が一冊も見えない!時代の流れをヒシヒシと感じた時だった。)

 郡山城は山城だ。天守閣は勿論、石垣も堀も少ない。我々はハイキングよろしく毛利元就墓所から、各郭を本丸まで丁寧に歩いた。しかし、公式ガイドに記された、「谷が複雑に入り組んだ山全体を地域として、270もの曲輪を持つ西日本最大級の中世山城」を歩き尽くすことは、当然ながら出来なかった。

 この城も戦った城だ。尼子氏の猛攻を幾度もはねかえし、遂には逆に尼子氏の籠る月山冨田城を滅ぼし、大内氏までも滅ぼして、中国地方に覇を唱えた毛利元就の本拠だった城だ。彼の孫・輝元が広島に築城し本拠を広島に移すまで、城下町としても栄えた地域だ。
 その後、島原の乱の後、安芸のキリシタンが城を利用するのをおそれ、幕命によって更なる破壊が行なわれたと、博物館の資料にある。なぜここでキリシタンが出てくるのか腑に落ちなかったが、他の本で広島城主となり徹底的に徳川幕府のいじめに会った福島正則はキリスト教に寛大であったと読んで腑に落ちた。福島正則はよくよく幕府にいじめられる全く要領の悪い政治家だったらしい。

 この城の100名城のスタンプの図柄は、他の城と少し変わっている。多くの100名城のスタンプは天守閣や石垣、濠などを描いているが、この城は「百万一心碑」を使っている。
 「百を一日」と、「万を一力」と分解して読ませ「一日一力一心」。日を同じにし、力を同じにし、心を同じにするという一致団結の大切さを教えたものだそうである。
 この碑の本物は所在不明で、模刻した碑が元就の墓所境内に立っている由だが、気がつかなかった。城下町も折角、車を乗り回しているのに素通りしてしまい、今になると残念だが、その時は、次の目的地である松江に早く着きたかったのだ。




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73 広島城
  広島県広島市中区基町 21−1
  (訪城日 平成25年3月14日)

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1973年。あれから40年

 早朝、ホテルを歩き出す。今、その写真はどこかに行ってしまったけれど、城の埋め立て石の跡や原爆ドームを写しながら、広い堀を渡り、城に入る。博物館になっている新築天守閣が開く時間まで城内の石垣を見て回る。開門と同時に飛び込んで、駆け足で天守に登り一望。駆け下りて、売店でタクシーを呼んでもらって予定の新幹線に飛び乗って帰京。

 このお城は、現在まで続く「城探訪」を始める切っ掛けになった記念すべき城なのだ。
1973年の事である。広島市内の1軒のハンコ店に名刺印刷用紙を100個単位で買ってもらう出張だ。1個、当時も今も100円。そして、次は山口市の代理店に飛ぶ。採算が合うか否かなど考えずに、前任者、つまり父の背中に付いて回っているだけだった。新幹線はまだない。東海道線もそうは本数がない。次を待つ間、父が城に連れて行ってくれたのだ。パンフレットで「華頭窓」「妻入り」「平入り」などの基礎的な言葉を学んだ。城主たちの運命に胸が騒いだ。数万円の売り上げの採算性を考える前に、こうした出張で出会う城を訪れる面白さの虜になった。
1973年。それから40年。ナントナク生きてきちゃった。

小布施の福島正則

 さて、広島城。毛利一族が堅城吉田郡山城を捨て、ここ広島に新城を建てる。この意思決定はどのような事情だろうか、今の私には不明だがとにかく移った。関が原で敗れ、毛利は萩に移されその後に福島正則が入った。毛利氏が鎌倉武士大江広元の末裔である面白さは百名城72郡山城の項で触れた。悲劇の武将福島正則にもその項で少し触れた。福島正則は石田三成への反感から家康の先鋒となり、多くの武功を立て、関が原の戦い後、この地(と備後鞆。鞆は福山城の項で)に50万石の大封で報われた。
 それからナントナク生きればよかったのに彼の後半生は「悲劇」を通り越して「悲惨」である。その悲運の正則に私が会ったのは小布施の岩松院の片隅であった。覆堂こそ建てられていたが崩れ落ちた2メートルの五輪塔がいかにも落魄を物語っていた。意外な場所での巡り合いだった。正則は広島城を勝手に改修した咎で、50万石から5万石の土地へ減封・国変えとなった。この件は外様大名を取り潰すことに懸命な家康に対し、正則の、脇の甘さを云うこともできる。
 しかし、正則の死後、幕府は「検視役を待たずに火葬にした」との理由で、領地を没収してしまう。こうなると、家康の執念、あるいは幕府官僚の点数稼ぎのすさまじさに、まことに味気ない思いがする。(幕府は福島家取り潰し後、子の福島正利に旧領から3112石を与えて旗本としたが)

原爆と広島城

 広島城は明治初年から本丸に広島鎮台として、大日本帝国陸軍の施設が建てられるようになり、日清・日露戦争中に二の丸、三の丸も軍の施設となった。
 太平洋戦争末期には本土決戦に備え本丸は司令部となり、本丸の南端で内堀の石垣に沿ってシェルター化した防空作戦室も建てられた。
 これらの施設があるがために、原爆は広島に落されたのだ。

 

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74 岩国城
  山口県岩国市横山 3
  (訪城日 平成25年5月30日)

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Kが錦帯橋の向かいに宿を取ったから、今朝はゆっくりと岩国城を登る。
(左上写真)

綺麗な石垣に沿った静かな山道だ(右上写真)。

天守台跡に着く。但し、天守台はここには再建されなかった。山麓から錦帯橋と新天守閣が一緒に写真に納まる位置に移されたのだ。
(左下写真)

それを知っているのに錦帯橋しか写してない実にマヌケナ写真。
(右下写真)

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しかし、岩国の城主吉川家は実にストーリーに富んだ家だ。第一、発祥だ。パソコンにいわく「吉川氏はかつて静岡県(駿河)の入江庄古河に住み、その地名をもって「吉川」を称し、その後、広島県(安芸)の大朝庄に本拠を移した」とあるが、移された方はたまらないだろうが。
「その後、梶原景時追討、承久の乱で功を挙げ、安芸国の地頭となる。次に、毛利の養子となり、秀吉、家康との微妙な関係をのりきった。にも拘らず、肝心の毛利家との微妙な関係が生じ、この岩国の藩主として移されたが、明治維新まで260年この地を治めたのだ。」
詳しく書けば面白いのだが面白すぎるので次へ行こう。
でも、新天守閣からの絶景は写した(左上写真)。
帰路ものんびりと下りる。途中の大井戸。これだけのスケールのある井戸はなかなかない(右上写真)。

降りてきたところにある白山比盗_社がある。詳しい説明版があるのだが、我々には肝心の、何故、ここに白山神社が祀られているのかには触れてない。仲間に白山神社縁の人がいるので知りたいのだ。
(左下写真)

佐々木小次郎の像もある。一乗谷城にも小次郎像があったが、こちらの方が、明るい地の利を得て本来の颯爽とした二枚目だ。
(右下写真)

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■75 萩城
   山口県萩市堀内字旧城1−1
   (訪城日 平成25年5月29日)
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■宇部空港に9時15分に着き、Kの車の出迎えを受ける。F夫妻も同行してくれ、いつものメンバーでガヤガヤと、11時に萩に着く。F夫人と一緒に入口で先ずスタンプ。(708)

ヤ ツ
 この城も出張現役の時代に寄り道をした。板塀・石垣塀・生垣・それもミカンの木の塀など、武家屋敷群の塀の多様さが印象に・・・、だが、それよりも根強く記憶に残っているのは、指月城山頂への途中で出会った例の長いヤツである。
 その時は単独行だから、遭った途端、逃げ帰ったが、今回は心強い友人たちを先に立て、安心して登城した。ところが、道半ばの時、さっき我々を軽々と追い抜いて行った単独行のうら若き外人女性が駆け下りてくる。すれ違う我々に「こんなに長くて太くて・・」とヤツの説明をする。いつもなら聞き取れない早口の英語がこういう時に限って、実によく解ってしまう。友人たちは「アッそう」と軽く聞き流してスタスタ登り続けるので、彼女に日本の城は姫路、熊本など見どころを紹介するのもそこそこに慌てて彼らについていく。この城はヤツらの棲家なのか。
 今度来るときは、ヤツが眠る冬でなければならないと肝に銘じよう。

 ヤツらは同行者が追い払ってくれたと信じてゆっくり初めての詰めの城を見物する。
 用水槽。貯水池。山頂にも拘らず「水」の備えに興味を惹かれるが、少し、通ぶって、実用性に疑いを持ってみた。堂々と鎮座している巨岩、巨石も城の機能にあまり関係なさそうなのが面白かった。
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海 城
 それから案内図に従って天守閣跡、福原家書院、志都岐山神社、などを巡って、潮入門(舟入門)跡に出る。
 この「潮入門」は良かった!私は海城が好きだ。お濠と直結していた海への出入り口がよく残っていて楽しみにしていた徳島城の汐入が埋め立てられて百名城の中では「海城」と云える城がなくなった。僅かに、今治城の天守閣からの眺めが海城の縄張りを彷彿とさせてくれた。気が付けば、萩城は海に突出した小山に築かれている。当然、海城であって不思議はないのだが、この汐入門から一歩出て、直接、海岸に出た時は、手あかのついてない萩城に接して嬉しかった。

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案内図 潮入門

海城と長州藩の経済力
 幕末の時代。幕府・朝廷・諸外国・薩摩藩などの強大な勢力と渡り合って、結局、最後に生き残った「長州藩」の力の源泉はなんであったか?
 誰しもが抱く疑問であろう。幕末史の権威、司馬師でさへその疑問から発して、吉田松陰・高杉晋作を追った「世に棲む日々」の筆を起こし、「花神」では村田蔵六を書き込んでいる。
 長州と並び称される薩摩が論じられるときは、必ず、その貿易による経済力が述べられる。しかし、長州藩の場合は、人的資源、その人材たちを活用できた長州藩の風土は説明されるが、経済力への言及が私には目に入らなかった。
 しかし、この「汐入門」を目の当たりにすると、長州藩もまた抜け目なく、密貿易に力を入れ、着々と富を蓄えていったのではないか、とも、思ってしまう。見てほしい。萩は大陸に最短距離に位置するのだ。
 いずれ、この私の仮設の正しさが証明され日を待とう。今はこの仮説を考え付いただけで満足しよう。

吉田 松陰先生
 それから、4人でゾロゾロ・ブラブラ城下町の一角を歩く。前回来たときは、板塀・生垣・石塀・・、各々の家の「塀」の多様さに感心したのだが、当時は、まだ横浜の団地住まいで所沢に引っ越す前だった。我が所沢も、通りから一歩入ると、多様な塀を持つ宿場町であり、茶畑が拡がる良い町であります。
 由緒ありげなお蕎麦屋さんにはいる。吉田松陰先生関連の資料が大切に展示されている。萩では「先生」というと、吉田松陰先生の事ですと、上品な女主人から教えられた。
 それだけが、書きたくて、このお蕎麦屋さんに触れた次第です。

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76 徳島城
  徳島県徳島市徳島町城内 1
 (訪城日 平成24年10月14日)


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脇道をして脇町へ
 
 10月13日は午前中高知城を見て、午後にはKの車で徳島へ走った。四国三郎の名を持つ吉野川沿いの気分の良い道だった。丁度一休み欲しいころ「脇城」の看板を見つけ、同行4名、ドヤドヤと降りる。脇城はいささか距離があり、探索を遠慮したが徒然と歩いた、ウダツの街、脇町は強く印象に残る城下町だった。写真をわずかにしか残さなかったのが残念だ。(左右の写真)
 そして、町の外れに「オデオン座」がある。今では、映画館でも珍しいのに現役の劇場なのだ。現役も現役、訪れた日も地元の素人集が舞台で踊っているのだ。入場無料。客席も程よく埋まっていて、我々は、二階の客席でしばらく舞台を楽しんだ。写真もしっかり残したのだ!(左右の写真)


船山馨「お登勢」
 ところで、「脇城」は見ないふりをして素通りしてしまったが、この城の城主稲田家は徳島城主蜂須賀家の家老でありながら、藩主と対等に近い力を幕末まで維持していた。
幕末の徳島藩のお家騒動の主役である。この顛末は船山馨「お登勢」に詳しい。この長編を偶然読んでいたことに、一人で満足して、ご機嫌で夜に徳島のホテルに入る。
徳島城
市内のホテルからだから8:50には外堀の写真を撮ってる。(左写真3点)
 そして、9:16には城山に登っている。
 9:21(右上写真) 「帳櫓」ナンジャこれは?『「帳」とは舞台に下りる幕の事ですが果たしてどんな建物か?』検索してみても疑問を持つタクジロー氏すら少数派で、あとは、城の案内板の丸写し。「夜の帳がハラリと下り〜テ〜」これは中村美津子歌う「島田のブンブン」の中の一節です。
 9:48(右下写真)百名城スタンプ台。設置してある「城博物館」が開くのをこの時間まで待っていたのか。
 10:45(下写真3点)スタンプを押して改めてお城を見る。
付録 蜂須賀正氏(マサウジ)氏
 私の場合、城見物の面白さはその構造ではない。お濠や石垣、本丸・二の丸、あるいは櫓・天守閣・東西南北の門。本来なら城探訪の主役たちには、私はあまり興味がないのだ。私の興味は、その城に拘わった人間たちにある。
 例えば、この徳島城。徳島城といえば、蜂須賀家。蜂須賀家といえば秀吉を世に出した夜盗の蜂須賀小六が有名だが、城に立つ銅像は嫡男の家政である。案内板では家政は「藩祖」で父の小六は「家祖」となっている。黒田官兵衛、細川忠興、現代まで生き抜く名家は初代、二代目とバトンタッチが鮮やかだ。
 ということを、この城に来て、二代目の銅像を見て初めて実感できるのが城見物の醍醐味だ。
 さらに、この城の場合、我が日本が太平洋戦争に苦闘していた時代、16代当主に蜂須賀正氏(マサウジ)というスケールの大きな変わり者が出てくる。
 正氏(マサウジ)は1903年生まれ。中学時代から鳥類研究に没頭。イギリスに留学して研究をつづけ、さらに、自分で探検隊を組織して世界を踏破した。
 1933年貴族院議員となるが、同年交際相手の女性が自殺する等、スキャンダルまみれとなり1943年宮内省から華族礼遇停止処分となった。
 生物の研究では数々の実績を残したかと思うと、単身飛行機を運転しポーランドへ飛んだり、財産を米国へ移そうとしたり。或いは、横井英樹襲撃事件の発端に名前が出てきたり。当時は週刊誌に多くの話題を提供した由だが私は知らなかった。何れ、また、大きく脚光を浴びるキャラクターとなるだろう。タノシミダナー。
  
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77 高松城
  香川県高松市玉藻町2−1
 (訪城日 平成24年10月14日)

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三本の指に入る城

 何事でも、三本の指・五本の指に入ることは難しい。高松城は、私にとって、百名城の中で確実にその三本の指・五本の指にランクされる城である。但し、悪い方からである。
 このくらい見事に期待を裏切ってくれた城は少ない。と、云うことは期待が大きかったということでもある。
 日本は、四方を海に囲まれた国であるにもかかわらず、海を利して世界に進出する気運を持たなかった。良い造船技術を江戸時代の鎖国の前から持たなかった。したがって海城が少ない。その中で、この高松城は「日本三水城」に挙げられている。他の二つは今治城、中津城だが、海城としては高松城が数段上だ。

 前回(3−40年ほど前)訪問時にはこの城は海に向かって大きく門を開いていた。
 潮が堂々と城の濠の中を自由に行き来していた。
 他では見ることが出来ない「海城」の見本として、再会を待ち望んで高松へ来た。
 Kの車をJR駅の駐車場に入れ、例の同行の士にこれぞ「海城」だよと説明すべく胸を張って足を速めた。
 ところが、ところが、ない!お濠と海を繋ぐ水門がない!場所を間違えたかと入念に歩き回っても、ない!
 なんと!城の外堀と海の間に道路が出来て、あの堂々とした海への水路は道路により、埋め潰されていたのだ!そんな馬鹿な!
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 今でも濠と海は道路の下で細々と繋がっている。しかしその水路は、写真で伝えることが難しいほどみすぼらしく、ささやかなものになっていた。

 がっかりして、型通り城内を一回りして、夕刻、次の目的地へ向かった。

 苦心して撮ってきた写真も、案の定、どこがどう海に繋がる水路なのか解らないだろう。私の腕のせいだけではないのだ。実物を見ても、昔を知らない人が見れば解らないのだ。

あー、私も充分に歳をとった!
 
 仕方がないから、昔のお城の本を引っ張り出してそこに載せられている水門の写真をここで使わせてもらおうと試みた。ところが、私の参考書の数々は、平成の時代に出版されていて、水門は埋め立てられた後である。「城ブーム」は周期的に度々おこるので、昭和の時代にも人物往来社から大類伸監修の「日本城郭全集」全16巻(1巻は写真集)1967年に発行されていて、私の座右の書になっていた。
 私が訪問したのは1980年代即ち昭和50年代である。それから30数年。
 
とにかく、空白のスペースを作っておく。いつの日かあった水門の写真を見つけたら、そこに嵌め込もう。

 さて、この海城を高松藩はどのように活用していたのだろう。幕末、井伊大老の娘を嫁に迎えた高松藩の処遇はとかいろいろもカット。

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78 丸亀城
  (訪城日 平成24年10月15日)
香川県丸亀市一番丁

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■四国よ、ゴメンナサイ。私が出張で「日本全国」を訪ね歩いた頃、四国には本土と繋ぐ「橋」がなかった。従って、四国は私にとっては、佐渡や大島と同じく「島」に近い存在で、行ったことも「無い」に等しい土地だった。
 歴史を学んでも、九州が、邪馬台国や熊襲・天応降臨や神武東征など華々しい舞台になっているのに反し、四国は全国区に登場する史実に乏しい。イザナギ・イザナミが國生みに選んだ土地であるのも拘わらずだ。

■丸亀城よ、ゴメンナサイ。その四国の中でも、丸亀城については全く関心がなかった。城を見る前だけでなく、前泊した同県の高松城から例のK御一行で昼に丸亀城の駐車場に入れ、スタコラ、スタコラ下記のように一回りしたのちにも、まだ、この城に興味が湧かなかった。「石垣の高さ日本一」を説明板で刷り込まれ、成程と感心したが、ここの天守閣が「天守閣現存12城」の一つという由緒を持つ全国区の名城とは訪問から二年半たってこれを書いている今初めて知ったほどだ。申し訳ないことです。丸亀城にも、城を永年の趣味にしている私自身にも、申し訳ないことです。

 
スタンプ設置場所の資料館は閉館。ならば、どこに置いてあったか?それを写してない。なんのための写真か?
立派な大手門
立派な喫煙所。三つの家紋は上から生駒家、京極家である。しかし、一番下の「扇」は、どこの家紋か?調べたのだが、解らない。順序から言えば生駒氏の次の藩主の家紋だろうが、それは居ない筈だ。
二の丸の井戸。これはすごいよ。説明板「直径1.8M。深さは絵図によると65M」
「絵図によると」が納得出来ないが。
天守閣。この城に天守閣などあったっけ?あるのだ!現存12天守閣の一つなのだ!それも知らずに行ってきたのだ!
三の丸の井戸
石垣。
どのようにして積み上げるのだろうか? 

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79 今治城
   愛媛県今治市通町3−1−3
   (訪城日 平成24年5月23日)

憧れの海城。しかし、「海城」とはなんだろう?
 日本は島国だ。四方を海に囲まれている。領海の面積では世界4位と読んだことがある。将来、海水や海底の資源開発の研究が進めば、またまた世界の超大国として君臨できる時代も夢ではない。しかし、歴史を振り返ってみれば、日本は海・船の活用で先進国とは言えず、常に、受け身であった。私見では、その理由は、強力な黒潮が日本列島を包み込んでいるからだと思っている。
 日本は、名も知らぬ遠い国から流れ着く情報・物品を受け入れ、国内で加工し、消費して、外国への発信力は弱かった。日本へ向かう黒潮と逆に日本から発信ルートとなるべき親潮は底流こそ力強いが、表面での流れは弱々しいのだ。
 飛行機のない時代、情報・物品が海を越えるには、船しかなかった。何故島国日本が、この優秀な日本民族が船の開発に熱心でなかったのだろう?何故、船を使って海を押え日本を支配する海人が出なかったのだろう?スペイン・オランダ・イギリスのように。
 日本でも海戦がなかったわけではない。それどころか、歴史の節目に海戦・水軍は大きな役割を果たしている。白村江・壇ノ浦・元寇・倭寇・信長の本願寺封鎖・秀吉の朝鮮出兵時の海戦・鎖国・黒船・日露戦争の日本海海戦。しかし、それらの戦闘で水軍はあくまでも使われる軍隊であって、主役の座を占めていなかった。
 論はすっ飛ぶが、だから、水軍が籠る海城は城の歴史の中でも注目をされていない
 三大海城とは、今治城・高松城・中津城を云うとある。(三大水城は今治城に代わって伊勢の津城ともいう。「西ヶ谷 100」)しかし、腑に落ちないのはこれらの海城と水軍が結びつかないのだ。瀬戸内海にあったとしても、河野・村上の瀬戸内海の水軍とは、縁の切れた海城なのだ。もっとも、松浦水軍の城平戸城や九鬼水軍の城鳥羽城を訪れても、現在は城跡は平山にしか残らず、往時を想像することはまことに至難の業である。
 せめて、船着き場・船溜まりを、欲を言えば、水軍の船を建造した造船所を見たい。見たい。何しろ、私の最初の職場は造船所で、そこに7年間お世話になったのだ。ついでに云わせて頂くと、前述した造船後進国日本が太平洋戦争後、いきなり、世界一の造船国になったのか?あらためて考えてみると興味深い話だが、キリがない。城に戻ろう。

●北方謙三「絶海にあらず(藤原純友)」・「武王の門(懐良親王)」(「破軍の星(北畠顕家)」も)ハードボイルドの旗手として登場した北方謙三氏は現在「水滸伝」「楊令伝」等の中国史の大著でベストセラー作家だが、その前に日本史の快男児の一生をわかりやすく、かつ、気持ちよく読者に提供してくれた時代があった。表記の三作はその時代の傑作で私はこの作品でどうにもわかりにくい純友の乱や南北朝の時代に入門することが出来た。水軍への興味と理解もこれらの書によること大である。
 熱心に説明する右の人物が首から下げたネームプレートを見てほしい。拡大しても読めないが、「館長 越智?」とあるのだ。越智一族は純友がまだ「官」の側の伊予掾として伊予に赴任した10世紀にも「官」に水面下で対抗する地方豪族の有力者であった。この館長に限らず、伊予では方々に越智姓を見かけ、息長いその底力に感心した。(左の男性は我が奇特な友人K。いまだに往年の色香を残したイケメン紳士)

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▲画像をクリックすると大きく表示されます
 
 今治城訪城後の大三島神社参詣の途中に寄った村上水軍博物館に展示されている村上水軍の軍船。勿論、指揮船はもっと大きいのだろうが、それにしても写真で見るバイキングの堂々たる勇姿は日本では見ることが出来ないだろう。あの、信長が建造させて本願寺封鎖の戦いで不敗を実証したという巨大な鋼鉄船はどのように建造され、戦後、どうなったんだっけ?

●藤堂高虎と今治城
埋め立てられてはいるが海城の
雰囲気を感じるハズの写真
濠と海を結ぶ小さな
水路を見つけて下さい
恒例の城内の井戸。
海に近くても真水が出るか?説明なし。
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 城内の藤堂高虎の銅像。今治城は高虎によって築城された。
「慶長7年(1602)藤堂高虎が瀬戸内海の築城予定地に海砂をかき集めて築城を開始したのが今治城である」この文は城郭協会の「日本100名城公式ガイドブック」の原文である。「公式」文書には珍しい「かき集めて」などという表現が面白く引用した。
 「慶長7年(1602)家康は来島村上氏を豊後の玖珠に移し来島海峡・芸予水道を押え西国外様大名を封じるため高虎に水軍本拠地としての城の構築を命じた。高虎は、内域区域の高石垣裾部に幅広の犬走りを設け、三重の濠には全て海水を引き入れ、軍船繋留を可能にした。港は城内の船手曲輪に取り込み、総構え内を侍屋敷地にするなど、平城であり軍港と商業港を城内にもつ未曾有の城郭を二年後の慶長9年(1604)に完成させた。
 この今治築城を契機に日本の近世大名の居城は、内城を方形の基調とする輪郭式縄張りや高石垣、櫓台を張り出す手法などを取り入れていった」(西ヶ谷泰弘 「新・日本名城100選」平成3年秋田書店より)
 成程、高虎が築城の名手と云われる理由は、同時代に建てられた隣の松山城の項で書いたように、城を既に戦闘の目的ではなく、平和な時代に適応できるような城を考えることが出来たからなのか。これで高虎が各地で次々に城を造ることが出来た理由も解かった。城が戦闘用目的のみであったら、敵に回るかもしれない国々に防衛秘密をバラまいて歩くことはできない筈だと、かねて疑問であったのだ。
 それにしても、高虎の人生は、まことに忙しい。度々主人が変わり、任地が変わり、戦闘も姉川の戦いの初陣から、三木城での一騎打ち、朝鮮戦争では水軍を率い(これは大事だ)敵を打ち破り、関が原でも戦功をあげ、徳川の平和な時代でも各地の城・街造りに東奔西走。二代将軍秀忠の覚えも目出度く、寛永7年(1630)江戸で75歳で大往生しました


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80 湯築城
   愛媛県松山市道後町
   (訪城日 平成24年5月24日)

日銀と湯築城
 申し訳ないが、湯築城は「100名城」のの中で知名度の低さからいえば、ベスト10(ワースト10?)、いや、率直に言わせて頂ければワースト3に入ると愚考します。
 私は、四国に親戚は勿論、友人・知人・取引先などに馴染みがないのです。四国の歴史も長宗我部と坂本竜馬・秋山兄弟程度しか、知識がありません。ただ、天皇が即位する時使うナントカという織物は、古来、四国産でなければならぬと読んで四国と天皇家の不思議な関係を知りたいと思っています。なんといっても。我が国の始まりは淡路島ですもの。
 しかし、この城の「100名城」入りにに関しては、私だけでなく多くの城フアンも意表を衝かれたのではないでしょうか。その証拠に私が捨てかねている過去の数々の「日本の名城集」にもほとんど記載がないのです。
 なぜ湯築城が日本二万余の城の中から栄えある「100名城」に選ばれたのか?
 ここで、日銀の登場です。私が学生の時、「公定歩合の決定は日銀の専横事項だ。理由の説明は不要である。強いて言えば、『日銀が公定歩合を上げた』・『下げた』がその理由だ」との授業を受けた記憶があります。今の日本の総理が日銀に『物価2%上昇を実現しろ、言うことを聞かなければ総裁のクビを飛ばすぞ』などというのは、筋違いも甚だしい暴挙ではないでしょうか。
 同様に、湯築城を「100名城」に選定した日本城郭協会は、日本最高の城専門家が討議の結果でありその討議の内容について、我々一般会員は、ただ、推測すればよいので、その推測過程こそ我々の勉強であり、レベルの向上になると思っている次第です。
 とにかく、この地味な城を知ることが出来て、大変、嬉しく思っております。
河野氏は白村江の戦いの時代から
 道後温泉の歴史は古い。万葉集・額田王の有名な歌「にぎたつに ふなのりせんと・・」はこの地で詠まれたことは周知のことである。この城は道後温泉の隣にある。従って、歴史が古い。当地の越智守興がこの白村江の戦いに伊予水軍を率いて出陣し、戦地の中国娘との間に生まれた玉澄がこの城の祖、河野玉澄としている。越智氏は嬉しいことに、再度、私の今治城に登場する。
 河野家の兵力は、瀬戸内最大規模の水軍となり、河野水軍とも呼ばれた。これは、道前平野での稲作による豊富な食料確保が可能であったからであり、島嶼部に拠点を置いた他の水軍との大きな相違点でもある。有名な村上水軍は、形式的には河野氏の配下であるが、独自での活動も活発であり必ずしも従属関係にあったわけではない。
 以来、源平の戦いや元寇の時代に水軍として大きな勢力を持つが、細川・村上・長宗我部などと争いを続け、次第に力を失い、関ケ原の戦いで完全に命脈を絶った。

城めぐりの写真   画像をクリックすると大きく表示されます
松山城遠景。
二つの「100名城」の最短距離では
なかろうか?
安土城と観音寺城とどちらだろう?


資料館は休みだったがスタンプは
外に準備されていた。
同行のF夫人はスタンプ・マニア。
城に限らず、駅・神社仏閣・資料館
など、あれば必ず押印をして満面の
笑みを浮かべます。
「湯築城址の由来」拡大して
どの程度読めるだろうか?
「聖徳太子が道後温泉碑をここに
建てられたこと。
この城の石垣が松山城へ持ち去られた
こと、松山から一遍上人が輩出したこと」
などが書かれている。
建立寄贈者一遍もなか本舗主人に敬意。
不充分ですが城の様子を見てください。
日本の城は直線・直角の集まりで、曲線は石垣の扇の勾配以外、ほとんど見つからない。
写真の小規模な円・曲線でも貴重品だ。特に、説明板によれば「いどでもない。トイレでもない。
不思議な円い穴」だそうです。



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81 松山城
   愛媛県松山市丸の内
   (訪城日 平成24年5月21日)
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■早朝、松山空港へ飛ぶ。例によって窓側の席を確保。太陽も順光で、残雪が豊富な北アルプス他の山々を堪能できた。空港で、車を提供してくれるため九州から来て前泊のKと、尾道観光中のF夫妻と落ち合って、お城へ直行。本丸は標高132M。4人で仲良くロープウエーで登城。
松山城は現存天守閣がある12城の一つ。数々の門・櫓その他で21の重要文化財を持つ。
 建造物はどうも苦手なので、城訪問の際は出来るだけ、井戸を探すことにしている。この城の井戸は立派ですね。本丸に堂々と、これなら籠城時でも充分に実用に耐えるだろう。
 しかし、松山城は町の真ん中の独立峰に作られている。築城は1603年、加藤嘉明による。既に、城は戦闘のためでなく、権威の象徴となった時代で、この井戸も実用性より、直径2M、深さ44.2Mを掘り抜いたという他では見ることが出来ない技術の誇示に目的があったかもしれない。
 石垣にもまた、私は興味を持つことが出来る。この城の石垣の説明版は親切で、城の各部にどのような石垣が残っているかを良く図示してくれている。但し、石垣の積み方の一般的な解説より、この城の独特な「登り石垣」と石材(花崗岩とはあるが)の産地の説明があればと、ないものねだりをする。

司馬師「街道をゆく」白眉の文章
 司馬遼太郎師「街道をゆく」は、私にとって歴史のエンサイクロペディアであり、旅のバイブルだ。全43巻、単なる知識ではなく歴史・史跡の見方・考え方を、只々、読ませて頂いている。私のホームページのタイトルは勿論この偉大な作品からお借りしている。僭越、身の程知らずは百も承知している。しかし、没後、師の影が少しずつ薄くなっていくのを、少しでも食い止められればという私の気持ちもご理解頂き、お許し頂きたい。
 この膨大な作品から私が迷わず白眉の文章と思う一節を紹介したい。
 舞台はここ松山、道後温泉である。道後温泉とくれば「坊ちゃん」。坊ちゃんが唯一東京より優れたものとして遊んだ道後温泉で「女が天目にお茶を載せて出す」。この漱石の一行を司馬師は文庫本数ページに亘って読み解く。曰く、“天目は、天目台のことだろう。洋行帰りの漱石にしてみれば、お茶を天目に入れて出す田舎の仰々しさをからかう積りであった。しかし、天目の茶碗を天目台に載せて出す場合、天目台は漆塗り、お茶は抹茶であったろう。たかが公衆浴場でお茶を天目台で出せる伊予松山の伝統文化の厚みとに「坊ちゃん」の葛藤がある。”(丁度、敗戦時、流れ込むアメリカ文化に日本の良き伝統が否定されていく我々の少年時代を思い起こす)
 更に、曜変天目・油滴天目などの天目茶碗の傑作を生んだ宋代の福建。それを持ち帰り茶道の祖を作り始めた鎌倉・室町の禅院。そして、“室町・桃山にかけて、茶道が勃興してからも天目茶碗・天目台は、別格のものとして遇された”背景へと筆は進む。
 この神業のような名文は、松山を紀行した時に書かれたものではない。朝日文芸文庫「街道をゆく 25巻 中国・びんのみち」にある。是非、原文に目を通して頂きたい。

「ライバル加藤嘉明と藤堂高虎」(森山英一「城 7巻」毎日新聞社より)
 ともに豊臣政権下では傍流であった。ともに朝鮮出兵の際には伊予水軍を率いて出征した。ともに関が原の戦いでは東軍に属し戦功を立て、ともに伊予に旧に倍する20万石(嘉明)、22万石(高虎)という領地を与えられた。
 そこから二人は違った道をたどる。嘉明は松山平野の中央にある勝山の峰を削り、谷を埋めるという難工事をして「城堅固の城」を築いたのに対し、高虎は海に近く、「一国大根城」という時代の求めに応じた城を、それも旧敵の家来を高給で迎えて、その助力で完成させた。
 そして、高虎が32万石の大大名に上り詰めるのに対し、嘉明は本人の固辞にも拘らず会津に移され、そこで没した。子孫は、水口藩2万石まで減封されている。

全く、松山城に登ってみると、徳川政権確立後のあの時代に、なんと旧式な城かと誰でも、思うだろう。
但し、この観光客の数を見れば、嘉明は、高虎のさらに先を読んでいた・・、なんてことには、ならないか。



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82 大洲城
   愛媛県大洲市大洲903
   (訪城日 平成24年5月22日)
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城の全景
(近景、中景、遠景とお城を距離を変えて撮るとまた雰囲気がつ渡りますね。山ちゃん・評)

井戸丸。直径3.8M。
国内で最大級の本丸井戸。

中江藤樹の七言絶句。吟詠会が建立。この素晴らしい岩に名前ありや?

築城の様子。
この天守閣は平成6年に
木造による復元を目指し、
10年後の平成16年に完成した。

スタンプ設置場所。
すべての城の設置場所を
記録したいのだが、
いつも忘れる。

大洲から荒川区への旅
 大洲城の歴史は1330年に宇都宮豊房が鎌倉幕府の北条氏から伊予国の守護職に任じられ大洲に築城した時に始まる。
 そう、この宇都宮氏の祖先は栃木県宇都宮市の出身である。島津家といい、毛利氏といい、西国の有力者の元を辿れば鎌倉の御家人が多い。頼朝の鎌倉幕府はまさに革命だということをひしひしと感じる。
 宇都宮氏と源氏の関係は前九年の役 (1051-1062)でともに戦った時代まで遡れる。宇都宮氏はその勝利後、日光二荒山神社の座主になってから22代・500年に亘って日本全国の治安維持に努めることになる。第8代当主宇都宮貞綱は、元寇に際して討伐軍総大将として九州に赴き勝利に貢献した。その後の南北朝・室町の時代も歴代当主の判断よろしきを得て戦国大名に成長し、後北条に対峙し、秀吉の小田原征討の時は有力な戦力になっている。その功績で、宇都宮氏は羽柴姓まで賜るが1597年突然の改易を受ける。原因不明。そして、お家再興を図るが果たさず、江戸の石浜で病死したという。
 スイマセン。「石浜」は私の勤務先のある荒川区にある数少ない城の一つ(他は道灌山城程度)なのです。今の石浜神社がそうだと云われていますが、行ってみても勿論、城跡らしいものは何もありませんでした。まー、こんなことで、大洲が私にとって身近になれば、嬉しいことです。
城下町には和菓子の名店が必ずある理由は?
 申し訳ないけれど、大洲のことをよく知らない。昔、NHK朝ドラのヒット作「おはなはん」が思い浮かぶ程度で、昭和の時代に訪城しているにも拘らず、その時の印象もほとんど残っていない。(城再建は前述の如く平成16年)この度は、初夏の爽やかな日に車を城の駐車場に停め、城を見たが、城よりもその後で一回りした街が、城下町の雰囲気を残していて印象に残っている。しかし、どこの城下町にも伝統ある和菓子の名店が必ず数多くあるのは何故だろうか?それほど武士の世界で菓子を必要とする「茶道」が盛んであったのだろうか?それとも、財布の紐を握っているのは当時から女性だったのだろうか?
 酒が飲めない私はそんなことをF夫人と話しながら、お菓子屋さんを覗き歩いて、時には買ってみる。他の二人の男達は、菓子には全く興味がないのでさっさと行ってしまう。おかげで、街やお店の写真を撮る暇がなかったではないか。

●内子も写真を失った
 そこから、Kは抜かりなく、内子を道筋に加ええ今治へ向かった。
 内子は、面白い観光スポットだったが、写真がどっかに行ってしまって、皆様に紹介できないのが残念だ。舞台で見えを切ったところも撮ってもらった記憶があるのだが・・。


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83 宇和島城
   宇和島市丸之内
   (訪城日 平成24年5月22日)
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宇和島へ走る。
Kの車があればこそだ。
途中、宇和町卯之町に寄る。

電柱の「中心街」という表示
が面白い。
■シーボルトとアーネスト・サトーのその後
 「二宮啓作先生住居の跡」(下左写真)この先生は、シーボルト、その娘で日本女医第一号のイネ、高野長英を陰に陽に助けた人だ。ついでに、シーボルトは日本開国後の1859年に再来日し、イネとも再会し、幕府の外交顧問に迎えられた。1862年オランダへ帰国。1866年没。70歳。
 もう一つ、ついで。幕末の名通訳、アーネスト・サトウも日本で家族を持ち、次男武田久吉をロンドンに呼び寄せ、植物学者とした。我々には、武田久吉の名は日本登山史の黎明期に活躍した人として親しみがある。
宇和島は四国の西端。鉄道もここでおしまい。テッチャン(鉄道フアン)のKに敬意を表して一枚(下右写真)。これから我々は旨い魚を驚くほどの安価で堪能したのだ。
宇和島城も天守閣現存12城の一つだ。「築城の名手藤堂高虎のの創建」と枕詞の如き説明がつくが、彼の登場以前の、この城の別名になっている板島城・丸串城時代の活躍の話を知りたい。平安時代、純友の乱の際に構えられた砦の由だが。勿論登城して町を俯瞰する。

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天守閣入り口にある
スタンプ捺印所
左の「御城下絵図」にあるように、本来はこの城は私が見たーいと思っている海城なのだが、中央・右写真に見るように周囲はほとんど埋め立てられ、想像力を逞しくするほかはないのだ。(右写真の天守の屋根瓦の異型は岡山城の桃のようになにか意味があったのかしら?)
展示物の漁船(左写真)のようで、宇和島城から海賊の匂いを感じることは難しかった。
しかしながら中央2点の写真見るように立派な井戸は見ることが出来、野面積みの石垣も(右写真)
古城の感を深く出来たけれど。

●陸奥の仙台藩から四国の宇和島へ
一の宮宇和津彦神社があるのだから、この地は、江戸時代初期の宇和島城築城以前にも水軍を中心とした豊かな歴史が在るはずだが、ざっとの一回りと、ざっとのパソコン巡りでは見つからなかった。遠い陸奥から宇和島へ移された仙台の藩士とそれを受け入れる地元の住民との葛藤。日本中で行われたこの変化を活写した文を不幸にして私はあまり読んだことがない。

 宇和島が全国区になるのは、幕末の伊達宗城、村田蔵六などの登場まで待たねばならなかったのだろうか。
 伊達家墓所(左写真)と闘牛所(右写真)を見学して次に向かった。

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84 高知城
  高知県高知市丸の内1−2−1
(訪城日 平成24年10月13日)



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*

高知の歴史は面白いゾ!

 面白いのです。どうか、最後まで読んでください。

「国宝 高知城」(左上写真)
 高知へ飛んで、例によって博多からのKの車に迎えられ、例のF夫妻と同行4名で四国の百名城後半の部を始める。
 この写真では「国宝 高知城」の石碑が大きいが、傍らの小さな茶色の説明板に「昭和9年に『国宝』に指定されましたが昭和25年「文化財保護法」で天守閣を始め15の建造物が国の『重要文化財』になった」と明記されている。
 しかし、この城は本丸の建物が完全に残る唯一の城だ。国宝の4城のうち、世界遺産の姫路には及ばないまでも、彦根、犬山、松本の諸城以上に見応えのある城といって良い。
行ってみよう。(右上写真)この魅力的な外観は、天守閣だけでなく、本丸御殿が現存していて(左下写真)、その書院(右下写真)も見ることが出来る。
*
 廊下や階段や壁の説明板も内容豊かだ。
天守閣からの眺めも気に入ったし(左写真)、エーイ、ついでにスタンプ設置場所も(右写真)も褒めてしまおう。何故か?ウーム、高知城にあるからだ、という、理由にならない理由でだ。
土佐の国(左写真)
写真を見てみよう。土佐は陸路で行くには気が遠くなるほど遠い。空路がない時代、海路のアクセスを誰でも考えるが、誰が最初にアクセスしたのだろう?何故、この僻地が「記紀」に記載され、紀貫之が「守」に任命されるほど全国区の知名度を持っているのだろう?
しかも、秀吉にも楯突く実力を持った長宗我部を生み、さらに、幕末には薩長に伍して、維新を生き延び、明治新政府の一角に大きな力を持っていた。
肝心の高知城の創業者山内一豊もまた、土佐の国を語るには外せない。特に、相撲大会と偽って旧反抗勢力を集めて、その場で皆殺しにした「非情」は日本人離れしている。
ところで、この僻地「土佐」にアクセスした最初の住民は?そして、ヤマト政権支配の証しである巨大前方後円墳の遺跡がないのが気になって、調べてみると、
田村遺跡群 
という、弥生遺跡の中で日本最大級の遺跡が高知空港付近で発掘されているのだ。近年に発見され、現在進行形で調査中で、いろいろな問題が未回答のままである。
「この、陸路を通って攻め込んでくることが出来ないこの地に何故このような大規模な集落が出来たのか?また、この集落は、紀元前1世紀にピークを迎え紀元2世紀頃に、急激に減少している。すなわち、邪馬台国の倭国の大乱時代に減少が重なる。出雲への海路、瀬戸内の航路は考えられても四国の太平洋側を通る航路はこれまで考えられてこなかった。鹿児島・宮崎から高知を経て紀伊半島へ、さらには、中国江南地方との強いつながりも想像させる」

パソコンからの引用である。北海道のチャシに似た誠に謎に満ち溢れた、僻地、高知県の今後の調査が楽しみである。皆様も、是非、御注目下さい。


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