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2024/2/3

「人生、生きたいように生きてきたのだから 終わりたいように終わろう」 をアップしました。→ こちら

2023/10/30

「常総 紀行」をアップしました。→こちら

2023/10/16

「宮代町 紀行」をアップしました。→こちら

2023/9/24

「はじまるよ」思いつ記、「カードのマジシャンたち」思いつ記をアップしました。→こちら

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2023/3/22

吉川市の隠れた名所こちら

 

人生、生きたいように生きてきたのだから終わりたいように終わろう」
2024・2・1

遠藤 晶土 (Tクラス 高橋泰蔵ゼミ)

Tクラス、高橋泰蔵ゼミの遠藤です。と、申しましても、今日ご出席の中には。Tクラスの方は僅か数名、高橋泰蔵ゼミの方はゼロという状況で、もっと皆様に声をかけるべきだったか残念に思っております。
 しかし、それを補ったあまりある、同期を代表するご夫人三名にご臨席いただきましたこと、誠に誠に光栄のことで、感謝・感激、厚く御礼申し上げます。
 今日のタイトルは「生きたいように生きてきたのだから」で、私の生涯をなるべくその趣旨に沿ってレジメにまとめて前にお送りしました。さいろくしてみます。

第一部 私の略歴
 
読書
 私の父は孤児で小学校も満足に卒業できなかった。その反動で、収入が得られるようになってからはその全額を「本」の購入に充てた。私は、本に囲まれ育ち、図書館などない時代、父の蔵書を借りに来た本好きの先輩、友人の薫陶を得て育った。
 
演劇
 幼稚園で友人たちの前で紙芝居を読んだのを皮切りに、中学、高校、大学と、演劇部は私の為にあった。
「修善寺物語」「大つごもり」「ガラスの動物園」「出口なし(サルトル)」、「どべ(創作劇)」
などの主演・演出。
今は死語になったサルトルやら実存主義やら、時間があったら皆様と論じてみたい。
 
山岳
 大学Tクラスで隣席になった生粋のアルピニスト倉知御大の誘いで山岳部で一年100日以上のの山生活を数年続けた。
 創部、今年で100年の我が山岳部「針葉樹会」。この歳になった良かったと思うのは
未だに、先輩・後輩との親密な付き合いがあること。
 「キリマンジェロ」「中島寛先輩が眠るヒマラヤ」「日本百名山」などの仲間隊との登頂。
 
会社経営
 30歳近く、父が60歳過ぎてからの独立に私も志願して零細企業を共に興す。
 バブルでの盛衰を経て無事、息子に譲る。
 寅さんのタコ社長同様、資金繰りに追い回されるのが、零細企業の「社長」。
「日本百名城」「続日本百名城」完登。「ヨーロッパ百名城」十数城で挫折。
 全国二万とある城の中から、各県二城以上5城以下の条件で百の名城を城郭協会が選び城ごとにスタンプを設置した。「百名城」の訪城・スタンプ捺印を終えたところで「城郭協会が「続日本百名城」を選定しスタンプを設置したので、もう一度日本を一回りしなければならなかった。
 「ヨーロッパ百名城」も日本城郭協会が選定した。スタンプの作成・設置はない。イギリス、イタリア、他、数城で脚骨折の為ギブアップして現在に至る。
 
全国八万か所神社 お由緒書き収集。
 神社の社務所には必ずその神社の「お由緒書き」が用意されていて申し出れば無料で頂けることを知る人は少ない。
 その収集をしている。八万のうち、1万どころか1千社にも満たない。
 只々、数百年も、生き永らえている「神社」の資金繰りの謎が、解けぬままでいる。
 
ゴルフ
 経営者の必要条件、ゴルフ。下手なゴルファー、私は、愛される仲間として接待ゴルフ
に最適だった。私は、経営者でありながら、数字が大嫌い。ゴルフもスコアの数字が大嫌いで、スコアを付けずに回ることを信条としていた。専ら、プレイしたゴルフ場の数のみを、計算していた。
 
 カラオケ・社交ダンス
 あー!追悼の久保田秀一君!ゴルフやハイキングの他にも彼は37年同期にいろいろの趣味の会のタネを蒔き、有能な幹事諸兄が幹事を引き継いで立派に育て上げていった。
 なかで、ダンスの会はその後育たなかった。なぜか?ダンスの会の幹事に遠藤晶土君を指名したからなのだ。彼は幹事というガラではなかったのだ。
 
 詩吟・剣舞 
 演歌のカラオケの歌詞に抵抗があった。女性が捨てられて泣いている。そんな女性は周りにいない。で、詩吟に転じてみた。今度は、女性が出てこないのに驚いた。
 詩吟は直立不動で吟じねばならない。それに耐えられず、剣舞に入門した。楽しかったが、袴の畳み方と、抜いた剣を鞘に納めることに苦労した。
 
伊藤晴雨の世界
 本邦初公開。めくるめくアブノーマルの世界。
「奇譚クラブ」「風俗奇譚」「裏窓」の三誌が書店の店頭を飾った
 
コロナ禍」転じて「作詞家」になる
地元吉川市のカルチャースクールがコロナにめげず独り開いていたので、ヴォイストレーニング教室に申し込んだ。その教室の先生がシンガーソングライターのMachiさん。お言葉に甘えて、私が作詞をした詩に曲をつけ、歌ってもらい、CDを作ってもらい、
ここ如水会館で発表会までした。
 
 僅かに皆様の知識が薄いところは、「奇譚クラブ」、「風俗奇譚」、「裏窓」などのアブノーマルの世界と思います。このアブノーマルの世界、平たく言えば、「変態の世界」について今日述べることはご夫人のご出席を汚して失礼と重々存じてはおりますが、今日ご出席のご婦人方は、皆様ご承知のように、鬼をもひしぐ男勝りの方々で、今更、この程度のことではびくともなさらないと思って、取り上げました。
 若い時からこの世界に耽溺し、「責め絵画家伊藤晴雨」研究誌や前述の雑誌購読のみならず、アルファインという専門のラブホテルに入り浸っていた時代、同好の士がここにいらっしゃれば席を改めて、昔話に耽りたいので、後でお知らせ下さい。
 今、この世界から遠ざかっている理由は、これまた、ご夫人の前では口に出してはいけない単語ですが、下手に遊んでそこで「腹上死」でもしたら、それこそ恥さらしもよいところですね。あ、遊びは、家庭内に持ち込まない。これは、私の鉄則です。
 但し、「腹上死」という病名はなく、脳溢血や心臓麻痺などに翻訳されて世間に公表されるそうですが
 
第二部 人生を終わりたいように終えた人たち
 
 本題に戻ります。我々は、生きたいように生きてきたのに、命をおえる時は、自分の意思を最初から捨てている。「寿命」といい「天寿」と言い、己の死期を論じるのは、無意味と思い、或いは。罪悪だと思う。
 今まで信じたこともない神や仏が出てきて、死ぬ時期は人間がが決める問題ではない、
と厳かに宣い、厳かに承る。
 それで良いのだろうか?
 
 学者の方々は古代から日本人は自らの意思として死をえらぶと論じています。曰く、古事記のオトタチバナヒメ。万葉集の手児奈。
 更に膨大な人々の「殉死」。
 私の幼い記憶にある人々では、日光華厳の滝に身を投じた藤村操。芥川龍之介。太宰治。
 中でも。芥川龍之介の作品は小学生か中学生の私の一生に深く刻み込まれております。
 
 曰く、芥川氏は「なぜ生きるか?」を問いません。
 芥川氏が鋭く問うのは、「何故、生むのか?」
 
 芥川氏の代表作「河童」。河童の出産で河童は生殖器から中の胎児に問いかけます。
 「これから、出産だが、貴兄は世に生まれいずる意思ありや?」
 胎児、応えて曰く、
 「俺は世に出るのが嫌だ。既に多くの悪い遺伝をおれは体内に持っている」
 かくして、彼は、端から(はなから)生きる苦しみを知らずに済んだ。
 
 深く深くこの場面を頭に焼き付けていたにもかかわらず、私は、生んでしまった!
 子供に相談することなく、生んでしまった!
 幸い成人した子供たちは、私に「何故生んだか?」と。問いたださない。
 しかし、問われたとき、私は何と答えられるか?
 
第三部 いくつで?
 
 一服しましょう。テレビなら、コマーシャルを入れるところです。実際、取り返しのつかない過去を嘆いてみても、意味ありません。
 さて、今の私です。皆さんではなくて、私自身です。これからの、私、です。
 どう、「生きたいように生きる」のでしょうか?
 身体障碍に加えて、体力・知力の衰えを日々感じます。リハビリして昔に戻るという期待は叶えられませんでした。このままゆけば「生きたいように生きる」どころか、ただ
「生きてゆく」ことすら人様のお世話になって、生きてゆくようになるでしょう。
 不本意ですね。そこで、私は、「終わりたいように終わりたい」つまり息を引き取る自由を自分に認めてやりたいのです。
 
 いくつで?
 
 毎日、新聞の社会面には人々の訃報が掲載されています。
 90歳前後の方々を拾ってみました。
 私が名前をよく知る人々が、功成り名遂げて、大往生された方々が軒並み並んでいらっしゃいます。
 
最近の新聞の訃報より
 J/Wチャイ 中村メイコ。藤沢博康。山田太一。森村誠一。保利耕輔。田淵義久。
牛尾治朗。赤塚充郎。椎名武雄。福原義春。扇千景。石原慎太郎。など。
 
そうです。
 90歳。
 この歳を、私は、自分の天命、寿命ときめました。
 
 そうしたら、生きてゆくのが、楽になりました。とても、楽になりました。
 何が一番楽になったと言って、「資金繰り」が楽になった。
 
 乏しい貯えを、延ばし延ばし使っていって、幾つまでこの男は、つまり自分は、生き延びるのか?金がなくなってどうやって生活してゆくのか?
 自分の寿命が90歳なら、あと数年。私の遺産など最初から誰も当てにしていないのだから、いくばくの遺体処理のお金を残せば、あとは、すっかんぴん、資産ゼロでも、誰にも迷惑をかけない筈だ。あー、楽だ。楽だ。と、昔、資金繰りに苦しんだ零細企業の経営者は心の底から安心できます。 
 
第三部 どうやって?
 
 ただし、まだ、最後に難問が残ります
 90歳。元気な私は、どのように、命を絶つことが出来るでしょうか?
 貯めこんだ睡眠薬の力が不足で、例え、執行は猶予されているとはいえ、「自殺幇助罪」を宣告された好漢、猿之助丞。自殺は罪にならないとはいえ彼は立派に罪人に仕立て上げられた。
 
 オランダ、ベルギー、カナダなどの国々では、政府は、敢然と自ら、最前の生きる道として「死」を選んだ人々、に部屋を与え、薬を準備して、あの世に送り出してくれる、
、、、そうです。
 日本からもいくばくかのお金を積めば、このツアーにさんかできるとか・・。
 
第4部 日本で永眠したい!法律を作ろう!
 
 ここれらの外国に行かなくてよいように、この法律を、日本でも作ってもらいたい。
ウーム、外国旅行を兼ねて旅先でと私の眠りにつくのもわるくはないともおもう。
しかし、外国旅行はしたでではないか。ヨーロッパのお城も、カナダでの友人との釣りツアーも経験したではないか。
 
 でも、私は、法律を作ったことがない。
 法律もまた国民のものなのではないか?
我々国民は法律を作る権利をもつのではないか?
権利を使う義務をおこたっているのではないか?
 
 私が住む街、吉川市を知る人は、残念ながら少ない。先ず、吉川市議会を動かして市の条例で自らの意思で安らかに永眠できるようにしよう。
さすれば、日本国民はこの吉川市に注目し、吉川市の人口は飛躍的の増加する・・。筈だ。
 
 90歳の最後まで、私には暫くの時間を頂いております。
その間、今まで考えたこともない「法律を作る」ことを勉強しようかと思っています。
 
これで約30分。私は、お寿司を頂かせて頂きます。
皆様ご自由にご歓談ください。
 

常総 紀行 2023・10・30

「道の駅常総」
 今日の目的地である。今まで我々の旅は史跡にしろ、巨樹にしろ、「過去」を訪ねる旅だったが、今日は、最近出来て、半年で100万人の客を集めたという「道の駅常総」を訪ねるという珍しく「新し物」訪ねの旅である。
 
「玉葉橋」
 吉川市の我が家から、野田市を経れば、常総市は目と鼻の先である。
 この埼玉の玉、千葉の葉からとった「玉葉橋」のネーミングは室町時代の和歌集「玉葉集」の風雅も踏まえて素晴らしいと感じ入っている。
 何故、全国に広まらないのか、残念である。
 
 「はまぐりラーメン」
 我が家を出たのが九時半頃か、道の駅常総には10時半頃には着いていた。
 既に、車が続々と入って来て、食堂の食券売り場にも長蛇の列が出来かけてていた。パソコンにある豊富なメニューから、迷わず「はまぐりラーメン」を選んで、あっという間に出来上がったラーメンをy夫人が運んでくれかぶりつく。ハマグリは、正直、大量にトッピングされてはいるが、味はしなかった。
日本産でないのだろうと、自分を納得させる。

「諏訪神社の巨樹」 
 広大な関東平野を上手く使った道の駅常総に敬意を表して古い町並みの水海道駅周辺に車を流す。大きくない町に相応しい大きくない諏訪神社。しかし、そのささやかな参道にある御神木は一家を構えるに値する時代物で一見の価値がある。

「諏訪神社の巨樹」 
 広大な関東平野を上手く使った道の駅常総に敬意を表して古い町並みの水海道駅周辺に車を流す。大きくない町に相応しい大きくない諏訪神社。しかし、そのささやかな参道にある御神木は一家を構えるに値する時代物で一見の価値がある。
 
 「鬼怒川」
 石毛と合併した水海道も共けをに江戸時代から鬼怒川の水運で栄えた町の由で、こうして走ってみると、レンガつくりの明治の建物がそこかしこに残っているなー。
流でも堂々と流れている!どこで利根川に合流するのか?
 調べると以外に苦戦する。江戸時代以降徳川幕府、伊奈家の治水の歴史は、敬して遠ざけるほかないのです。
 
「一言主神社」
 この常総の土地は往年の私のゴルフの古戦場で地名だけは知っている。
 一言主神社も時間をひねり出して、行ったような、行かないような・・。
 神様は皆さん謎に包まれているが、中でも一言主神というユニークな神様 は、これまた、敬して遠ざけてしまいます。
 神社は、いかにも古社という神社らしく、ようやく歩き始めた私の足で近くまでお参りして、ここでもさかんな樹勢を誇る御神木に挨拶して、お由緒書きを頂いて、満足して車に戻りました。
 
「お団子」
 今回は時間に余裕があった為か、私の足に余裕が出来たためか、買い物が出来た。10時半の道の駅では、既に雑踏の中、Ýさんが「すぐ売り切れになりますよ」とのアドヴァイスで、柿とメロンを確保した。実際、その時点でÝさん所望のカリントウは売り切れになっていたのだ。
 帰途、これもヴェテラン、Ýさんの導くまま、「春木屋の団子」を買って帰る。近所の娘の家に届けて帰ったら、夜、メイルが飛んで来て「お団子、メチャクチャおいしかった。また頼みます」と。

宮代町 紀行 2023・9・10

 
宮代町 紀行
 
 猛暑を嫌い久しぶりのドライブ旅。
 久しぶりだから、珍しく、出発前に目的地の下調べが出来た。
 
 下調べ 1 
私が住む埼玉県は日本一と誇れるものが少ないと肩身が狭いが、市町村数は日本一多いと覚えていた。しかし、今、確かめてみると、日本一は「市町村の数」でなくて、40という「市の数」のであった。
 
 市の数  1位 埼玉県 40市。 2位 愛知県 38市。
 市町村数  一位北海道、185。  2位長野県、77。 三位埼玉県、63。)
 
 市の数にしても「日本一」とは大したものだ。エヘン。
 全国有数の数の多さを誇る埼玉県の「市」「町」「村」の全てを訪問してみたい。市役所と郷土資料館と神社を一瞥して歩きたい。
 
 下調べ 2
 さて、宮代町  人口3万(吉川7万)、面積16m2、東西2k。南北8k
 我が住む吉川市 人口7万 面積 31.7km2。 東西4.2k。南北8k。
 
 旗本領が主であったと。これは、前に住んでいた所沢市に似ている。 
 因みに吉川は「天領」伊那代官傘下だと。天領なら天領らしい街でほしかった。
 天領について、そして、吉川市の天領について、パソコンに頼ったら、とても、一日二日では処理できない膨大な資料が溢れ出て、早々に、退散する。
 
 下調べ 3
  宮代町紀行から丁度一か月たった10月10日にこれを書いている。この一か月に私は二度家の中で転倒した。その度に体力も気力も落ち込んだ。
 何を下調べしようかも忘れた。多分、宮代町の小史を読み、二つの神社名から「宮」と「代」を取ったと書きたかったのだと思う。。
そうなのです。オシマイ。
 
 訪問記
 
 最初に尋ねた郷土資料館がセンスの良い展示で感心した。何故この町はこんなに裕福なのか?館の受付嬢に訊いたが、謙虚な笑顔が帰ってきただけだった。
 
 他に地名のもとになった「姫宮神社(本殿は1715年建立)」「身代神社(創建は1242年)」を、私は訪ねた。
 Ýさんはお目当ての 象設計集団が設計を担当した「町役場庁舎」と「進修館」。
 Ýさんは、この、木の持ち味を活かしたぬくもりある設計を特徴とする象設計集団に、
惚れこんでいて、彼らの代表作、沖縄名護市庁舎を見学に行くほどなのだ。
 
 近場のこじんまりした小旅行。でも、収穫は大きかった。

「はじまるよ」思いつ記 2023・9・23

 
私が住んでいる吉川市がミュージカルの自主公演を企画して一部のキャストを、市民から公募しました。
 ミュージカル出演は、私の少年時代からの夢でしたので、老齢、かつ、車椅子のわが身もものかわ、応募したところ、「前説」の役を頂きました。
 「前説」とは公演が始まる前に「お席におつき下さい。観劇中は飲食はご遠慮下さい」などと、普通は、妙齢の女性アナウンサーのパフォーマンスですが。
 この「役」だと、皆と一緒の舞台稽古の必要もなく、公演の日々も、録音のテープを流せばよいので、無事、役目を果たすことが出来ました。
 ただ、そこで私は、ハタと思いついたのです!
 この、前説を、ミュージカルの一部にしてやろう! 
 この、機械的な「放送」を、歌にしてやろう! 
 と。
 あとは、一気呵成、旧知のマチ姫に作曲・歌唱を依頼して、ハイ、出来上がり。
 良き機会を得て、世に出すことが出来ました。

「カードのマジシャンたち」思いつ記
 私は今、埼玉県吉川市に住んでいます。
 有名でないこの人口7万の無名の「市」をナントカ全国区の「市」にしたい。
 と、私は、かねがね、考えておりました。
 一つの「試み」として、「コントラクトブリッジ」の全国大会を、この吉川市で開いたら如何でしょうか?というアイデアが閃きました。
 皆様は、この、コントラクトブリッジというトランプのゲームをご存知ですか?
 そうです。どなたも、ご存知ないのです。
 それで、このアイデアは呆気なく潰えさりました。
 旧知のシンガーソングライター、マチ姫がそんな失意の私を憐れんでくれました。
 マチ姫はマジシャンの卵で、トランプカードはお馴染みなのです。
 で、二人で、こんな曲を作ってみました。気にいって頂ければ幸いです。

この二作は、いつものように、新日本音楽連盟の2023年度音楽祭に応募しました。
2023年9月30日に古賀政男記念館「けやきホール」で入選作品の発表があります。
結果をお知らせいたしますので、お待ちください。
ここまで〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
よろしくお願いします!


祝 タイガース優勝」 2023・9・15

 
阪神タイガース 優勝の歴史
 1937年秋季リーグ 石本秀一
 1938年春季リーグ 石本秀一
 1939年夏季リーグ 石本秀一
 1944年夏季連盟戦 若林忠志
 1947 公式戦   若林忠志
 1948 読売杯 中日杯 大毎杯  若林忠志
 1962 セリーグ公式戦 藤本定義
 1964 セリーグ公式戦 藤本定義
 1985 セリーグ公式戦 吉田義男
 2003 セリーグ公式戦 星野仙一
 2005 セリーグ公式戦 岡田彰布
 2014 クライマックス セ 和田豊   リーグ戦2位で突破。
 私は、1938年に東京で生まれ1944年頃、疎開で湘南は江ノ島で育った。
 にも拘らず、プロ野球はこの幼い時から一貫して大阪の阪神タイガースのフアンで通して来ている。関東で阪神フアンを貫き通す。私の人生に影響を与える出来事です。
 優勝監督若林はタイガースのエースであった。
 当時の他の投手は御園生。梶岡。捕手、土井垣。一塁、?。セカンド、本堂。サードはミスタータイガースこと藤村富美男。レフト、金田。センター、呉。ライト、後藤。
 小学生の頭に刷り込まれている当時のメンバーです。
 さて、18年前、私は、住まいを横浜から所沢に変えた。転校した小学生の長男に「お父さんは、引越しても、会社が変わらなくてよいね」と呟かれた。苦労して阪神フアンに仕立てた彼が、もう一言。「お父さん、セントラルリーグはタイガースを応援するけど、パシフィックはライオンズを応援していい?」所沢は西武ライオンズの本拠地。苦労を掛けて、悪かったな。
 1985年、タイガースは約20年振りにリーグ優勝をして、西武ライオンズと相まみえることとなった。勿論、貴重な入場券を握りしめて、西武球場に駆け付けた。ダフ屋に纏わりつかれたこと、と、スタンドの隅っこにいかにも動員されてきたとわかるブルー服の一段の他は超満員の観客席の圧倒的多数のタイガースフアンを鮮明に覚えている。
 次の日も試合はあった。私は出社したが、池袋から所沢の家路に向かう電車は試合を終えた西武球場からの観客で超満員。その超満員が全員「六甲おろし」の大合唱!
 2005年 18年前の阪神優勝の時、私は、なにをしていたでしょうか?
 全く、記憶にありません。
 今、自分の年表を作っている。永眠の為に作っている。誰も読まないのに。
 自分でさへ(え)読まないのに・・。


Yさんのユニホームコレクションから。先日駒ヶ根の某工場見学会場でこれを着ていたら突然「優勝おめでとう!」と声をかけられたそうです。

ハトガ マメクッテ パッ」 2023・7・21

 
 これは、私が社会人になりたてのころ、だから、今から60年前、出勤前の「おまじない」の言葉です。
 
つまり、
 
ハは、ハンカチ。トは腕時計、ガはがまぐち、マは万年筆、メは名刺(またはメガネ)、クは櫛、テは手帳、パッはパス(電車の定期券)。
 
あれから60年、今でも、外出前にこの言葉でのチェックは大切な儀式て欠かせません。
 
しかし、あれから60年。いろいろ変わりました。
ハの、ハンカチを男性は持たなくなった。私は、この3年、ハンカチをマスクと置き換えています。
トの(腕)時計も持たなくなったのは私だけではないでしょうが。(それでも超高級腕時計の広告をよくみるのは不思議ですが)
ガは蝦蟇口という恐ろし気な名を捨てて、スマートなカード入れとなり、さらにはスマホで代用されるようになったのは皆様ご承知の通りです
マは万年筆。これも今はすっかりボールペン。
メの眼鏡、クの櫛、これは、スマホでは代用が効かない。
 
まあ、こんなところです。では。


「ハト」繋がりの写真を2点(バッ旅の友、Yさんの写真を借用)。
左写真は鳩ヶ谷のパン・ピジョン(Pain Pigeon)さん、Yさんのお気に入りのパン屋さんの一つで人気店だそうです。
右写真はYさんの故郷・石川県のJA能美さんのはと麦茶で、これもお気に入りだそうです。


創作「生きたいように生き、死にたいように死ぬ2023・7・18

 
 彼は1938年7月に生れましたので、いま、85歳になります。
 
 2028年に、90歳になった時、彼は、この世に別れを告げます。
 
 生きたいように生きたのなら、或は、生きたいように生きようとした生涯なら、死にたいように死のうとするのが本当ではないでしょうか?
 何故かほとんどの人間は「死にたいように死ぬ」という姿勢を放棄し、罪悪視すらしているのではないでしょうか?
 生きている時は、神の定めに従うことを潔しとせず、自分の意思を貫こうとしたのに、死を迎えるときのみ、神の定め、と自分の意志を持たない。
 
 憲法をひも解けば、「人は幸福に生きるべき」と記載されているのに、「人は幸福に死ぬべきだ」とか、「死」に対しては一言も書いてないようです。
 「自分の意志で死を選ぶ」。これは、悪いことなのでしょうか?
 
 90歳という歳は、石原慎太郎氏、稲盛和夫氏、最近のニュースでは池田啓子氏、中西太氏など。何れも、充分に、生きたいように生きた錚々たる人材が生を全うした年です。
 一生懸命生きて、言いたいこと言い、やりたいことをやって、功成り名遂げた人たちが満足して世を去ったのが90歳という歳です。
 彼は、せめて、世を去る年齢だけでも自分で選びたい。と、言っています。
 
 命を絶った人達も多いですね。
 芥川龍之介、太宰治、川端康成。何故思い浮かぶのは作家の方々ですが、理論的に生を組み立て行けば自死が当然の答えとして選ばれたのでしょうか?
 日本人の自殺者の数、若者の自殺者の数。自殺を望んで「最良の生き方」として敢然として死を選んだ人々。
 自殺。それは、悪いことなのでしょうか?
 
 法律で救ってもらいたい。
 彼は、90歳で世を去ります。
 自分で、90歳とい生命の定年を決めて実行します。
 政府よ、楽に天国に行ける薬をご用意ください。
 決して他人に使わないよう厳重な管理と届け出が必要なことは覚悟します。
 この薬はあくまでも私が自主的に自分の選択の意思として使用します。
 政府は届けられた「選択制定年法」に基づき、提出された希望の定年になったら本人に認証します。
 或は、「もう少し延ばして下さい。」という人も出てくるでしょう。
 そうしたら、改めて届けなおせばよいのです。
 
 彼は、死にたいように死ぬ。
神様が「百歳まで生きなさい」と言っても、「嫌だ。死にたいように死なせてくれ」と自分が決めた90歳という人生の定年を守ります。
その為の準備をこれから始めます。
彼の亡き骸の周りには何一つないように片付けます。
 
ラストシーンは、骨壺を墓に入れるシーン。
列席者は。娘家族。息子夫婦。妻は?これは一つの物語。
もしかして、幻のツヨシが。
もしかして、幻のケイコが。
これも、一つの物語。
 
何よりも、資金繰り試算が出来ますよー!
 
即身仏。あのように、苦し気に死にたくないが、積極的に死を選んだ先達は居た。
 
余談
 トムソーヤーかハックルベリーか?自分の葬式に静々と登場して、大満足したシーンがあったなあ。アメリカ文学が身近だった時代があったなー。その時代は、イギリス文学も、フランス・イタリア・ロシアの古典は皆常識として読んでいた。

 
「死者のカタログ」
(ニューミュージック・マガジン1979年2月増刊号)
 写真はバッ旅の友、Yさんの蔵書からでサブタイトルに「ミュージシャンの死とその時代」として50年代〜70年代に至る、各ミュージシャンの死に様(事故死からアル中、殺害、自死などなど)からその時代の背景を読み解くという特集である。
 さて彼が死に至るという2028年という年は、どのような時代として読み解かれ、その時代の中の彼の90年間はどのように捉えられるのであろうか?
戦時下で生まれた彼の90年後が、まさか戦時下で終えるということが無いことを願うと、Yさんは言うが、、、。ちなみに彼が生まれた1938年は4月に「国家総動員法」が公布され、日本軍の中国侵攻が拡大した年でした。


色 いろいろ。人類と色。私と色。三原色。2023・7・14

 
先ず、人類と色。
人類にとって最初の色は何色か?
人類を他の動物から峻別する条件。火の使用。
火からの色。黒と赤。これが人類最初の色。
だとして、次は?
生活必需の水。よって、水色。
食品としての緑。黄色。
高貴な身分制度の確立に伴っての、紫。黄金。
 
次に、私と色。
黒。一番好き。会社経営者時代、決算が黒字になればこの世は幸せ。だった。
赤。老後。のど自慢予選に出場した。その時、初めて、赤いジャケットを着た。
白。社業を忘れてゴルフに入れ込んだ時があった。スコアをつけるのを嫌ってスコアカードは常に白紙にした。
茶。この色は何にでも合わせやすいと何かで読んだ。それを金科玉条として、気がつけば靴、鞄、ジャケット、ほとんどが茶色の製品に囲まれている。 
紫。紫煙を禁じられて以来、縁がなくなった色。紫の上の出現もなく。
緑、黄、橙、特にこだわる色もエピソードもなく、彩りに乏しい人生を送ったようだ。
 
三原色
色に無関心なことを反省して、勉強しよと三原色で検索したら、ザックザックと出てきたのはサウンドグループの三原色。
これは無縁だ。めげずにさらに検索すると。
三原色には二種類ある。「光の三原色 ライトの光 赤、緑、青」、と、「色の三原色 シアン(やや深みのある明るい青)、マゼンタ(明るく鮮やかな赤紫色)、イエロー」
こんな事、小学生以来初めての知識だ。 

 
写真はバッ旅の友、Yさんの色鉛筆。
Yさんによれば、江戸っ子が「ひ」が「し」になるのと同じように、新潟では「い」が「え」になるらしい。
つまり新潟弁では「いろえんぴつ」は「エロいんぴつ」となり、あのお千代さんの名曲「人生いろいろ」も「人生えろえろ」となるという。
言葉にもいろんなcolorがあるということですね。


国土地理院 地図と測量の科学館 2023・6・17

 
 「百名城」「続百名城スタンプラリー」を完遂して、次の我々「行き当たりバッ旅」のテーマは決まらなかった。「銘木百選」も「神楽殿参拝」も中途半端になっている。それで良いのだ。と、今回私の介護者にしてバッ旅のリーダーÝさんは、標記の「科学館」を目的地に選んだ。
  前回、日立製作所の歴史を訪ねて、茨城県に足を延ばしたとき受領した「いばらき ミュージアムガイド」というパンフレットに紹介された多くの魅力的な茨城県の「博物館」の中からÝさんが選んだ。Ýさんも私も、かっての山男。地図と首っ引きで山と格闘した想い出を共通に持っているのだ。
 
 さて、いろいろ。
 
 「IBARAKI MUSEUM」であって「IBARAGI MUSEUM」ではないのだ。つまり、イバラ「キ」であってイバラ「ギ」と濁ってはいけないのだ。私は今回初めて知ったが、聞いてみると、家族も友人も施設のスタッフもみんな知っていた。
 但し、誰も、何故、濁ってはいけないのかの理由を説明してくれないが。
 
 科学館の展示の中に「記号宛てクイズ」があって、私は、ほとんど分からず、写真を撮ってもらった。勿論、山には登らず、カーナビさへ使わなくてよい私は、これらの記号を知らなくても生きて行けるが、誰が、どのような機会にこれらの記号を必要とするのか。
 
 展示の多くが「紙」から脱却した映像の世界だ。
 思えば、「歴史」と銘打たない博物館の見学は、私にとっては、初めてでないか? 
 剣岳頂上の「錫杖」や「現代と重ね合わせる江戸時代の古地図」など、私好みの展示もあるが、それは、おざなりで、主役は原題の測量最新技術を、どのように、、私が日本の平和・安全・に役立ててゆくか。明るい前向きの姿勢に満ち満ちている気持ちの良い科学館だった。
 
 ここは、茨城県「つくば市」だ。隣に、「つくばみらい市」がある。苦労するな。
 昼食に入った「百香亭」。良く繫盛している定員50-60人位の普通の中華料理店であるが、料理の紹介は我がÝさんのブログを参照(こちら)してほしいが、お客がオーダーをするには、自分のスマホを使わねばならない。ファミレスでは備え付けの器具でオーダーするが、この店にはそれがない。流石、最先端のつくば市の店と、変に納得する。
 持ち帰った紙ナプキンを今拡げると「中国家常料理 百香亭」とある。
 「家常料理」とはどんな料理?私は、食べたでしょう。あれが「家常料理」です。 


地下資源を訪ねる もう一つの歴史」 2023・5・13

 
大上段に振りかざしたタイトルは最近入手した猪木武徳著「地霊を訪ねる もう一つの日本近代史」に耽溺、耽読しているためだ。
 
 動物の肉を食べ、植物で住居を作るなどの工程は、他の動・植物も生きるために実行している。しかし、露頭の石ころ、更には、地下の鉱脈から生活必需品の金属製品を作り出すことを、人類以外、ナニモノが、考えつくだろう?
 イヤ、人類の中でも、その技術を考えついた人間は、ごくごく、限られた人間で、その人たちが、青銅を、鉄を、金を、産み出し、富を得て、ファラオになり、秦の始皇帝になり、或は、天皇になった、・・カモシレナイ。
 
 本書の原題は「もう一つの日本近代史」である。生々しい日本の実業家の活躍が実名で豊富に出てくる。アダム・スミス「国富論」に日本の銅も例にあげながら金属の価格と時代との関係を論じた箇所も、さりげなく、引用されている。
 従って、多くの日本大企業の誕生についても、淡々と書かれている。
 その中に、「日立製作所」があった。
 
 私の友人達は何故か三井、三菱に多く、「日立製作所グループ」所属はほとんどいないので、私は、このコンツエルンに関する知識を持たなかった。
 一昨年の秋(2021年10月)、我々は、日立(この場合地名)の山奥に御岩神社を訪ねた。その時素通りした日立鉱山の記念館を無性に見たくなり、例によってÝさん夫妻に同向を願って、5月13日に見学でかけた。
 久原房之介、小平浪平、鮎川義介。更にはこの偉人たちを題材にした、海音寺潮五郎、新田次郎の作品。車椅子を借りてゆっくりと無料の館内で勉強した。
 
 ついでに、今迄、何の興味もなかったを日立市内を一巡。天ぷらの昼食。
 帰途、さらについでに、久原氏の後継者、小平浪平氏の記念館「日立オリジンパーク」と、そこに付属する「大みかゴルフクラブ」見学した。特に、「6ホール」とはいえ、手入れの行き届いたゴルフ場とクラブハウスに、ああ、これは、誰にでも門戸が開かれた日立製作所グループの「迎賓館」だと、その懐の深さに感じ入った。
 三菱にこの雰囲気は、あるだろうか?
 
 「JX金属グループ 日鉱記念館」 茨城県日立市宮田町3585
 「日立オリジンパーク」      茨城県日立市大みか町6-19-22


▼2021年10月に参拝の御岩神社

▼日鉱記念館にて

▼日立オリジンパークにて

「歌」の交換  2023・5・2

 
シカゴの友人から「Gembelと言う歌手をご存じですか?奇妙な歌い手ですが何故か魅せられる歌いぶりに思われます。」との便りが届きました。
ともにAmerica's Got Talent という番組からです。

その1⇨こちら
その2⇨こちら

このシカゴの友人にはお返しに以下の2曲を勧めておきました。


LIFEのYouTubeは⇨こちら
見習いマジシャンは⇨こちら

「コントラクト・ブリッジ」をご存知ですか?  2023・4・22

 
 コントラクト・ブリッジというトランプのゲームをご存知ですか?
 知る人は、極々、稀だと思います。
 麻雀と同じように、テーブルを4人で囲みプレイをしますが、麻雀と違うところは、ブリッジの場合、対面同士がパートナーになって、二組の争いになることです。 
 私は、この珍しいゲームを大学を卒業して就職した造船所の職場で覚えました。
 当時の造船所は石油を運ぶタンカー建造で忙しく、日本の輸出の稼ぎ頭でした。
 ブリッジは、高級船員たちが長い航海の手慰みとして人気があったようで、つれて船員達との交流が多い造船マンにも広まっていったと思われます。
 あれから半世紀。石油も、造船も、かっての花形産業の地位を譲って、つれてブリッジも知る人が少ないゲームになったとは、穿ちすぎる見方でしょうか。
 今、私は、この忘れられたトランプのゲームを普及させようとしています。
 それも、この、埼玉の小都市、吉川市の「街おこし」としてです。
 
 ブリッジに、或は、吉川市に、少しでも興味のある方、是非是非、こちらへご連絡ください。
 


神楽殿 萩日吉神社と箭弓神社    2023・4・10

 
 全国に城跡は2万か所といわれている。そのすべてを訪問しよとする人は・・、いるかもしれない。
 しかし、神社は八万社あると聞けば、その全てを参拝しようと思う人は、「いない」と断言できるだろう。
 神社愛好家は各々テーマを持っている。祭神、例えば猿田彦命に特化する人、猿や、兎やの変わった狛犬さんを尋ねる人。
 土俵のある神社を探す人。その他。その他。
 私は、今迄、手当たり次第に各神社の「お由緒書き」を頂いて保存していた。
 何れ、整理するつもりが、出来ないでいるが・・。
 
 最近、私は、訪問神社に「神楽殿」があると嬉しくなる。
 ただ、写真に写してくるだけだが、この神楽殿は、いつ、誰が、いくらで、建てたこの神楽殿では、いつ、何が、舞われるのか?
 それだけでも、知りたいと思う。
 今まで、私のアルバムに残る神楽殿は、またの機会に紹介するとして、今回のの旅で出会った、二か所の「神楽殿」を見て頂きたい

萩日吉神社の神楽殿

箭弓神社の神楽殿

堂々たるサクラ並木         2023・4・3

 
私は、十年前に、ここ、吉川市美南に越してきました。
その頃植えられたサクラの幼樹が今は堂々たるサクラ並木となって近隣の人を楽しませています。
その頃、幼稚園児だった孫娘が、今年、大学生となり、この写真を送ってくれました(夜桜の写真のみ孫の父親撮影)。
その頃、老人だった私は、今も老人です。メデタイことです。

GODIVAのシンボルマークの由来         2023・3・25

 
GODIVAの頂き物のケースの中にGODIVAのシンボルマークとその由来が入っていました。
初めて見て、甚だ興味深く、アップします。
しかし、あまりにも、小さく、検索でも適当な資料なく、どなたか助けて頂ければ幸いです。

吉川市の隠れた名所         2023・3・22

 

このサギのコロニーは吉川市側からよく見えます。
吉川市の隠れた名所です。