国内外の旅
HOME 山の世界 歌の世界 旅の世界

  遠藤ワールド、「旅の世界」です。

目次(各目次項目をクリックして下さい)
国内の旅 海外の旅

■古河城と関宿訪問
■布袋ヶ岡城と織姫神社
■利根運河
■栃木県さくら市への旅
■加曽利紀行
■益子を我らの新車で訪ねる旅
■下野の古墳を訪ねて
■真岡の鹿古墳を訪ねて
■千葉県勝浦市探訪
■豪華な山と海、富山県を一走り
■法師温泉と赤城神社


■中国・三門峡市紀行

欧州百名城⇒こちらから

欧州百名城⇒こちらから

欧州百名城⇒こちらから


古河城と関宿訪問  2018年3月25日
桃と梅の違いは?
 Yさんの企画で「古河桃祭り」にドライブ。
春が来る度に、桃の花と梅の花を見分ける方法に悩んでいる。この悩みは私だけでないらしく、パソコンで検索すると忽ち「見分け方」に、多数、ヒットする。曰く、「花が枝につき方が違う」「花びらの形が違う」「木肌が違う」など。ただ、残念ながらこれらは傍によってジッと見なければ解らない。車や電車の車窓から遠くの紅色、桃色の満開の花を、「あれは梅」「あれは桃」と一刀両断できないのが惜しい。
 結局、ここ数十年、多くの人からの教えを纏めた私の自己流のチェックポイントを使わざるを得ないようだ。それは、@花の咲く時期が違うA桃の花は串刺しの団子のように花をつけるB梅の木は枝が錯綜して木登りに適さない。デス。
 「梅まつり」は各地であるが、「桃祭り」は多くはない。ここ「古河桃祭り」は人出も多く、「ミス桃祭り」も花に花を添え、(写真1、2)賑やかで良いお花見ができた。テントの売店もある。そのうちの一つが「電子タバコ」を展示していたので付き合った。今まで、訪問地でいつも「一服」の写真を撮ってもらっていた習慣を絶やしたくないからだ。(写真3)
 ただ、配られたパンフレットには「日本一の花桃の里」と、ある。「花桃」と「桃」はまるで違うように思うのだが・・。私の隣の市、八潮市の市の花は「花桃」だ。今年で13回目を迎える「中川やしおフラワーパーク」での祭りは最初から「花桃まつり」とタイトルされていてスッキリするのだが・・。

▼画像をクリックすると大きく表示されます。
写真1 写真2 写真3

古河城は何処に?
 享徳4年(1455年)[京都では康生と改元したが鎌倉は認めず]足利成氏が鎌倉から古賀に本拠を移し、初代「古河公方」。となり、その後約130年引き継がれた。室町時代から戦国時代の歴史は誠にややこしいのだが、古河公方の名は常に登場する。その居城が「古河城」であるが、こちらは歴史にはあまり登場しない。そして、現代も、地図にはあるが、存在していない。実に不思議な城なのだ。
 その城を探して、戌年のYさんは車を河川の上下・左右に走らせる。そして、遂に、標識を見つけた!土手の上のサイクリングロードの傍らだから、車では見つかり難いのは当然だ。土手の上まで私の足では攀じ登れない。いつものようにYさんの写真に依頼するほかはない(写真4,5)。私は下から覚束ない手足でYさんの雄姿を写すだけだ(写真6)。
 この案内板のアップ(写真7)を読むと、この城は江戸時代はおろか、明治の初めまで威容を誇り、明治43年に渡良瀬川改修工事の犠牲となって失われた由である。昭和の時代でも
高速道路で大部分を失った小机城、新幹線の駅の下になった三原城、その他枚挙にいとまがないことだが、・・。
 パソコンで偶然、この案内板を建てた有志の方たちの苦心話を読む事が出来た。感謝だ。

 北海道で百名城の一つ、「チャシ」を尋ね、見つけた時に似た感激を味わいながら、古河市内に車を走らせ、「頼政神社」、「篆刻美術館」、などに寄る。数十年前、妻と城巡りした時に、城跡と教えられて寄った「古河歴史博物館」、「鷹見泉石記念館」は、古河城出城諏訪曲輪の由で今回はパス。大きなお城だったのだなあ。
 《話は全く別だが、郭、廓、曲輪、の違い。更に、この字が吉原などの色町に使われているのはなぜか?誰か、教えて頂きたい》

写真4 写真5
写真6 写真7

 利根川・江戸川・中川・そして、吉川は何処を流れる?
 関東平野の川は勝手気ままに流れていたという。それはそうだろう。しかし、その地で、戦いは絶え間なく続いている。関東武者の強さは馬にあった筈だ。この川の水、湿地帯で馬は縦横に働けたのだろうか?
 ま、そんなことはともかく、家康が、あるいは、伊奈一家が利根川をはじめ関東の治水に成功した功績は大したものだ。利根川東遷と云う。元はどうであったのか?どう付け替えたのか?これを時間をかけて勉強したい。

 それには、先ず、現地を見てみたい。取りあえず、江戸川を分岐した場所に行きたい。
 地図で見るとそこは関宿だ。早速に帰りに寄ってもらう。私がかってこの地に来たのは「関宿城」を見るためだった。威風堂々「城」が建っているが、勿論、模擬天守で本名は「千葉県立関宿城博物館」という。館内は、今、最もありがたい「近現代・近世の利根川・江戸川」の展示が豊富なのだ。今日は、とても、観きれない。4階の展望室で江戸川の分岐をジックリと見て、関宿水閘門を遠望して、再訪を期して引き上げる。
良い博物館だ。シルバーは他県人も無料だし。(写真8,9)
写真8 写真9


布袋ヶ岡城と織姫神社  2018年2月18日


大柿花山

 今年は寒い日が多い。関東地方にも雪が盛大に積もった。Yさんとの小ドライブも暫く出来なかったが、春を待ちきれず、梅ならぬ椿咲くの知らせに栃木市都賀町の栃木植物園・大柿花山を訪れた。

 Yさんに7時に我が家に来てもらい、空いている4号線を順調に走り、9時には着いた。無人の受付に二人分の入園料、千円を投げ込み歩き始める。

 今日は、Yさんに写真術のレッスンを依頼し、Yさんも快く受けてくれた。レッスンの第一歩は、カメラの持ち方。左手の添え方一つでカメラは固定され、手振れがなくなる。そんな基礎的な第一歩から始めたが、私の足元が危ない。

 両足骨折から二年、リハビリで家に中ではようやく杖を持たずに歩けるようになったが、屋外ではマダマダだ。ましてやこの傾斜のある山道である。おまけに、地面は木屑が敷かれ、朴ノ木の落ち葉やら、モグラの通路やら、モシャモシャと柔らかいと思えば、次の一歩は岩があったり、残雪が凍っていたりと身障者を卒業しきれないわが身にはしっかり立っていることさえ努力がいる。丁度、ゴルフの練習みたいなもので、フラットな好条件が揃っている練習場ではナイスショットを連発できるが、前後・左右にアンジュレーションに富む本番のコースではミスショットの連発である。妻がいみじくも言うように「あなたは練習場からはニコニコして帰ってくるけど、コースから嬉しそうな顔をして帰ってきたことがない」のだ。まだ私の脚力では、被写体に近づいたり遠ざかったり、右へ行ったり左へ行ったりなど出来ないと思い知らされた。

 ルートには「椿」はまだまばらだが、ここかしこに満開の「蝋梅」が今日の青空に枝を伸ばしている。(写真)しかし、今日はそれらを伝える写真のレッスン受講は諦め、ひたすら、杖に頼ってヨチヨチとトレッキングルートを上り下りして、最短のルートで、先ほどの受付のある小屋に帰り着いた。

 ヘトヘトと一人で一休みしているとこの植物園のオーナー大出氏が登場。ヴィデオなどセットしてくれる。「開拓に50年かけています」などお話を伺っている間に、この植物園の山頂にある「本丸跡」に行ってもらったYさんが帰ってきたので、大出さんとツーショットを撮ってもらった。(写真)


▼画像をクリックすると大きく表示されます
蝋梅 マンサク

布袋ヶ岡城


 実は、この花山は「布袋ヶ岡城」という山城なのだ。パンフレットにいわく

 「藤原の秀郷が938年頃築城した山城で、1504頃、秀郷の子孫の皆川氏が再構築し皆川城の出城としたのが布袋ヶ岡城。しかし1588年常陸の国、佐竹氏と宇都宮氏連合軍との合戦で落城したと伝えられる。」

 私が城に興味があると知るや大出さんは手持ちの関口和也氏の「下野深沢城再論」を数ページに亘ってコピーしてくれた。今までの発掘結果を詳細に図示している資料であるが、まだ埋もれた部分が多く、これからの研究が楽しみだと結んであった。

 発掘現場の一つ「本丸跡」は行って来て呉れたYさんの話ではとても今の私の足では登れない由(写真)。城跡の見学は諦めるが、大出さんの「この城は平将門の城だった」説が魅力的だった。将門。この関東の英雄の遺跡を私は全く訪ねたことがないのだ。いや、一つある。東京都千代田区の「将門の首塚」だ。ほんの数分間の訪問中にも、ビジネスマンの参詣が絶えなかったのが印象的だった。
 この「布袋ヶ岡城」が将門探訪のきっかけになれば良いのだが。

本丸跡 本丸跡
狼煙台 お堀の痕跡

足利織姫神社

 そこから、佐野の巨大にして大繁盛のラーメン屋を見学して足利へ。織姫神社を参詣する。幸い、神社へ直登する急にして長い石段は脇道を車で登れて本殿直下で降りる。

 若き参詣者達の買い物で賑わう社務所で「お由緒書きを頂けますか」と頼むと、そんな依頼はないのだろうか、気持ちよく出してくれる。私もお礼に、いろいろ種類がある御神籤の中から2百円の「とんぼ玉根付入り 恋のおみくじ」を購入。帰宅後、開けてみると、『中吉。良縁への道しるべは、身に纏うものを新調せよ。おもてから見えぬ肌着も常に清々しく保ち、内側からあふれる自信を身につけよ。(お相手の)星座はてんびん座、血液型はAB型、同い年で、午歳が良い』とのご宣託。もう少し早く教えてもらっていればなー。

 さて、カラー刷りでパンフレットと云う方がぴったりのご由緒書きを紐解くと、
「祭神は皇大神宮に織物を奉納した伊勢の神服織機殿神社の祭神。1705年に勧請した。旧社殿は明治12年に建立、翌年消失。昭和12年現社殿。平成16年国の登録有形文化財となる。」と、神社の歴史としては珍しく、馴染みのある最近の年号が並ぶ。

 足利学校など歴史の古い足利には多くの古い神社があるだろう。それを差し置いて、1705年という江戸時代に何故麗々しくこんな立派な神社を新しく建立したのか?(写真)

 足利の織物の歴史も、奈良・平安の時代から都に知られていた。徒然草第216段にも記載されていて、その段は碑となって足利市居宅に建っている。それ程の伝統を持つ織物を何故、江戸時代に改めて神社を立てたのだろうか?また、明治の話とはいえ、社殿建立の翌年に消失とは少しきな臭くはないだろうか?

 ま、ちょっと寄った観光客に解る筈ないか。

 更に、解らないことがもう一つ。神社脇に「大山阿夫利神社参道」の石碑が建つ。(写真)

 大山と云えば我が神奈川県の人気の神社だ。この地からどうして大山へ参詣するのか?鎌倉幕府との関連でもあるのだろうか?パソコンでも参詣者は同じ疑問を持つが、写真を写してさっさと帰っている。残念ながら私もそうした。

 最近、出羽三山の湯殿山は葉山の代わりに三山入りを果たすために、湯殿神社が急遽名付けた山だと云う卓説を得た。今まで、何故、登山道もない湯殿山が出羽三山の一角を占めたか不思議でならなかったのだ。足利と大山との関係も気長に待てば知る事が出来る・・と思おう。



■利根運河を訪ねて   2017年12月9日
流山市

 私の住む吉川市(埼玉県)の東端には江戸川が流れ、そこを渡ると流山市(千葉県)である。流山といえば、すぐにこの地で自害した近藤勇の名が思い浮かぶ全国区の地名である。その点、埼玉県人でさえ知らぬ人が多い我が吉川市と訳が違う。
 流山市は近藤勇の陣営の他にも見るべき史跡は多い。「流山」という地名そのものも、「市内の小山は赤城の山から流れ着いたからだ」と、ユニークな伝承を持っている。また、小林一茶の逗留地や古墳、神社などが豊富にある。
 幸い、この地に長く住み、生来の世話好きで、土地の民生委員やら自治会役員やらを務める大学の同期生が居て、足の不自由な私を憐れんで、度々、彼の車で流山市内を案内してくれる。そのうち主な史跡は、
(1)三輪野山貝塚

▲三輪野山貝塚 説明版
クリックで大きく表示されます
(2)茂呂神社
 これも説明版をアップして読むと、「式内社であること」「この地が早場米の生産地として万葉集にも載せられていること」などが、要領よくかかれている。書いた人は「氏子」としか署名がない。それだけに、学識・人格、申し分のない人と推測できる
 

利根運河
  
 「運河」は私だけでなく狭い日本に住む我々日本人にはあまり縁がない・・、だろう。
 世界三大運河とは「キール」(1895年完成。98k)、「スエズ」(1869年完成。193k)、「パナマ」(1914年完成。80k)の由だ。なぜか、中国の「大運河」、610年に完成し、2500Kの文字通りの大運河は入っていない
 日本は?琵琶湖疏水、高瀬川、などがあげられるが何れも10k程度であり、この「利根運河」でも約8Kと、ささやかなものである。むしろ、江戸幕府が行った利根川の付け替え工事に感心し、関心を持つが。

 東武野田線運河駅近くの「運河水辺公園」車を停め、NPO法人コミュネット流山が運営する、「利根運河交流館」に入る。(山崎さん0002挿入願います)展示物はなく、一人の事務員がパンフレット、書物などを販売している。数冊を購入し、よく整備された運河に沿った道を、車を走らせてもらう。左岸に「割烹新川」がある。明治25年創業の旅館をそのまま使ったという風情充分のレストランで、パンフレットによれば、一橋大学のボート部もこの旅館を、合宿に使用した由。
▲利根運河交流館 ▲流山市観光協会発酵の絵図 ▲利根運河の生態系を守る会
発行のパンフレット
それぞれクリックすると大きく表示されます
 後で、購入した複数の「崙書房」発行の書物を読む。立案者広瀬誠一郎、協力者の茨城県令人見寧、設計者のオランダ人・ムルデル、資金繰りに苦労しながら1890年完成させた志摩万次郎など。そして、数年の全盛期ののち、鉄道の完成による衰微、追い打ちをかけた水害でこの運河は、本来の目的を果たせず、現在は観光施設として再起を図っている。

 今回は江戸川への出口は見る事が出来た。しかし、遡って利根川からの取り入れ口は見る事が出来なかった。併せて、利根川の東遷工事探求の第一歩もこの近辺から始めてみたい。これを書いている1月下旬は大雪が続いた。春が来たらS君、よろしく頼みます。








■栃木県さくら市への旅         2017年11月19日
勝山城跡

 例によってYさんに7時に来てもらい、出発。9時に城跡の広い駐車場着。寒さと、動きがなかったために両足は膠着している。Yさんに励まされたり、手助けされたりして、階段を登り、大手に架けられた橋を渡って本丸へ。
 久しぶりの城見物だがこの城の魅力は「昭和」に造られたことだ。一度、観光施設に成り果てた城を町が整備して、今見るように、空堀・土塁を旧に近づけて公開したことだ。
 城主は氏家氏。何故、氏家城でなく勝山城なのか。また、「さくら」市というネーミングもあまり感心できないが。2005年、喜連川町との合併を機に、小学生3人の命名とウイキペディアにある。折角、見事に山城の雰囲気を伝えてくれる名城にしたのに惜しい気がする。
 鬼怒川を城から遠望し、また車で川べりを走って堪能した。


紅葉狩り

 今年の春、しもつけに古墳を訪ねたときは桜・菜の花・ラベンダーの三色の「三春」を楽しんだが、今回は紅葉だ。Y氏の写真をご参照ください。見事だ。
 しかし、なぜ、紅葉見物を、紅葉「狩り」というのだろう?ごもっともな疑問だが、「桜狩」という言葉もあって、藤原定家の和歌や芭蕉の句にも使われているそうだ。「いちご狩り」「キノコ狩り」「ぶどう狩り」の言葉は我々普通に使っているし。
 私の場合、「紅葉狩」といえば絢爛たる歌舞伎の名舞台だ。ついでにウイキペディアしてみるとここでの「紅葉」とは女性の名前で彼女が鬼女となったのだそうです
今宮神社

 「楽宴会」(大学同期約50人の月例スピーチ会)で今度は「百名城」でなく「百神社」をテーマで話してみたい。神社が如何に分らない存在かを説明し、只々、今まで集めた『御由緒書』を展示してみたい。ここの所、神社を訪れても『御由緒書』の蒐集は疎かにしていた。
 幸い、今日、予定どうり参拝できた「今宮神社」は、丁度七五三で賑わっていて、A4一枚のコピーではあるが『御由緒書』を頂けて満足した。多数の氏子の氏名が刻まれた鳥居奉納の芳名碑もこの神社が地元に根を張っている様がほの見えて頼もしかった。

「華とはな」

 この単語を知っていますか?土曜日と日曜日にしかオープンしない畑の真ん中にポツンと立つお蕎麦屋です。女性だけで運営してるといういかにもYサン好みの名店です。
 Yさんは夫妻でドライブ中偶然見つけた由。お金持ちにはお金が向こうから来るように名店好きには、名店が向こうからくるよです。







■加曽利紀行               2017年6月24日
 土偶について友人が紹介してくれた土偶の本に誘われて千葉県加曽利博物館に行った。
加曽利貝塚は 訪問日の一週間前に特別史跡に指定され地元では盛り上がっていると、ニュースにあったが行ってみると広々とした駐車場は閑散としていた。
 実際、史跡が特別史跡に昇格すると、どう変わるのだろう?
この疑問は文化財でも言えることだ。土偶を国宝に指定してもらうため努力がこの本に書かれてあった。しかし国宝になると重要文化財以上の補助金でも出るのだろうか?

▼画像をクリックすると大きく表示されます

 そんな疑問は別にして、例によって車椅子を借りて館内一周。古い博物館だからバリアフリーへの気くばりが欠けていると思うが、仕方ないことだ。
 真っ先に土偶をみるか、完成品がシヨウケーススの商品のように並べられているので臨場感がない。仕方ないではないか。この加曽利貝塚だって、坂の上の住宅街にあって、現代では波の音も、潮の香りもしない。この海のカケラも見えないこの公園では、どう創造力を働かしても私には貝塚の全体像をイメージ出来ない。初心者だから仕方ないことだ。


 そこから、手賀沼へむかい、道の駅しょうなんの気分の良いレストランで食事をする。「しょうなん」とは手賀沼の南という意味か。この南側にも、眼鏡を2.5から3.5に変えて見ると古墳だの城跡だのがあるのだが、ざっと走っただけでは見つからないので、帰途につこう。
 北側の白樺文学館は前に訪ねたことがある。志賀直哉、山崎宗悦、武者小路実篤等の遺品を見、その夫人達のピアノ演奏を聴き、「扉あり 入るべきか 出るべきか」という恐ろしく意味深い文の絵葉書を買って帰った記憶が鮮明だ。
で、今回は寄らず、埼玉県でも意外に近い吉川市の我が家に帰った。


▲道の駅で一服

益子を我らの新車で訪ねる旅               2017年5月27日

「家出カー 第二号」

永年、永年、労りながら乗り続けたY氏の「家出カー」が、商業施設の駐車場で安らかに大往生をしたと、知らされた。Y氏いわく「長年連れ添った、家族の一人を失ったと」(享年19年、35.5万キロ走行。戒名「家出院旅汽車捨負和金居士」)。
 心臓部が部品を替えるなどの手当てでは再起不可能の由である。人間に、特に老いた我が身には身につまされる話で、詰まらない連想は止めて、ただ、冥福を祈ろう。
 
 幸い、Y氏が拘ったスペックを備えた車が入手でき今日はその試運転を兼ねたドライブだ。
最後の旅となった
丸塚古墳での
先代家出カー

※画像をクリックすると大きく表示されます。


小山市田間「血方神社」と吉川市「蕎麦高神社」

 朝7時に、我が家から出発。
 4号線を快適に下っていくと今日は早目に「血方神社」の看板を見付けて寄ることが出来た。何といっても名前がオドロオドロシイので一度寄ってみたかったのだ。
 神社は無人でお神楽の説明板と神楽殿はあるが、お由緒書きは頂けなかった。帰ってパソコンに頼れば良いと甘く考えたが、パソコンでもご由緒はなかなか見つからなかった。
 どうも、我々は「血」の字に引きずり回されているようだ。近くの「智方神社」加須市の「千方神社」、日光の「智賀都神社」、松本市の「千鹿頭神社」あるいは、「ちかつ神社」、「ちかと神社」など「血」の字から解放されると様々な関連の神社が拡がるようだ。
 しかし、写真にあるように「血方神社」の狛犬さんは牙を赤く血塗られているのだ。いつの日か塗った人の意見を聞くことが出来るだろうか。

 日本史の場合、この漢字で書かれた情報から、我々は時に大きな誤解をしてしまう。私の住む吉川市には「蕎高神社」という大きくはないが小さくもない神社が数社ある。一方、
 超、大神社の「香取神宮」の第一摂社は「側高神社」と言い「利根川下流域には「そばたか」と社名を読む神社が多く分布する」とウイキペディアにはあった。私はこのことを大林太良氏の「私の一宮巡詣記」で知って嬉しかったのだが。

道の駅「益子」

 この「駅」は2016年10月にオープンした新しい「道の駅」だが、流石、老舗の焼き物の町名を名乗るだけあって、店内のレイアウトも、並ぶ商品もなんとなく垢抜けている。
 この「なんとなく」というのは気のせいかも知れないが、矢張り重要だろう。益子町に敬意を表す。Yさんが100円ショップで見つけてきた身障者のステッカーを車に貼って、身障者の駐車スペースに車を停め、トイレに行って、タバコ一服の写真を撮って、何も買わずに退散してきた。

「いい里 さかがわ館」

 益子や笠間、新大宮などに、かって私は複数のホームコースを持っていて、日帰りやら、泊りがけでゴルフに耽っていた。バブルと呼ばれていた時代だ。
 その時にこの路はしきりに往来していた筈だが、この蕎麦屋さんには気が付かなかった。当たり前だ。創業10年の新しい店なのだ。しかし、Y氏がわざわざ寄るだけあって、建物は新しくても、味も、従業員も充分に年季が入っている。
ここでも一服他儀式をすませ帰途についた。

石臼挽き地元そば粉100%使用の二八そば

あたらしい「家出カー」を背景に一服


下野の古墳を訪ねて                   2017年4月16日

しもつけ風土記の丘資料館

 例によって、7時に来てもらい、日曜でもまだ交通量の少ない4号線を走る。朝食はY夫人の心尽くしの「おいなりさん」を車中で食べる。9時、ピタシ、開館時間に「しもつけ「風土記の丘」資料館」に到着し、入館。館備え付けの車椅子に乗る。

 「しもつけ」は漢字で書けば下野だ。歴史は古い。そもそもこの辺りは律令では「毛野」と呼ばれていた。毛野が二つに分かれ「上毛野」と「下毛野」となり、肝心の「毛」が消えて「上野国(コウズケノクニ。群馬県)」「下野国(シモツケノクニ。栃木県北部)となる。不思議に我々は上野や下野をルビなしで自然に「コウズケ」「シモツケ」と読めるのだが、何故「コウズケ」は「ス」に濁点で、「シモツケ」は「ツ」なのだろう?千数百年の歴史を数日で理解出来る筈もなく、この辺で諦めよう。

 この歴史の長さに比して「下野市」は2006年に南河内町、国分寺町、石橋町が合併してできたまことに新しい「市」なのということも初めて知った程の初心者なのだから。

 館名では「風土記の丘」も引っかかる。「毛」の国に「風土記」はあったのか?そういえば、房総でも「風土記の丘」に行った記憶がある。ウイキペディアにまとまった解説があるので少し長いが引用する。


▲しもつけ風土記の丘資料館にて
(写真はクリックすると
それぞれ大きく表示されます)
 文化庁では1966年に風土記の丘設置構想を発表し、これに基づいて同年には最初の風土記の丘である「西都原風土記の丘」がオープンした。
 次いで、翌1967年には「さきたま風土記の丘」、1968年には「紀伊の国風土記の丘」、1969年には「立山風土記の丘」、「安土風土記の丘」が開設され、2007年現在では、全国16か所に風土記の丘が設けられている

 「風土記の丘設置要項」によれば、風土記の丘は、古墳・城跡等の遺跡等を広域保存するとともに、歴史資料等を収蔵・展示する資料館を設置することによって、遺跡と資料の一体的な保存や活用を図ることを目的としている。
              (ウイキペディアより)


▲琵琶塚古墳

 という訳で、「風土記」には直接関係ないのか。この16カ所の「風土記の丘」の中には、那須、さきたま、などと共に、数年前にこの「バッタ旅」で訪ねた山形県の高畠町も含まれている。我々が寄ったのは「高畠町郷土資料館」だけで「風土記」はカットしたかな?


三春

 館の出口で一服し、古墳へ向う。少し走って琵琶塚古墳駐車場。ここでは、先ず、花の見事な写真を見てください。花は一瞬。古墳は永劫。我々、同行二人は名うての晴れ男だ。前日、翌日の悪天候もにも拘らず今日はこれぞ春という絶好のお花見日和。梅・桃・桜が一度に咲くから「三春」と言うわが故郷もものかわ、桜・菜の花・そして名を知らぬ紫色の三色の花。その向うにあるのが琵琶塚古墳です。私は車の中。花の写真を撮り終えた後、Yさんが一回りしてくれました。(尚、我が三春城はこの度、「続百名城」に選ばれました)


▲琵琶塚古墳

さて、古墳


 全国に城の数は、数万。神社は8万。それに対し古墳の数は驚いたことに16万!(内訳、兵庫県16千基。以下、千葉県13千基、鳥取県13千基、福岡県11千基、京都府11千基とつづく。平成13年3月末 文化庁調べ)

 今回の古墳もそうだが、よくこの人里に、1500年の長い間、保存されているものだ。先ずそれにホトホト感心する。私は、古墳に白石太一郎氏「古墳とヤマト政権」(文春新書)で入門した。この書は、この膨大な数の古墳を、地域は勿論、円墳・前方後円墳・方墳などの形、全長・高さなどの大きさ、などで整理・分類している。そして、その客観的数値から、いわゆる古墳時代の日本の政権構造を導き出していて、説得力充分だ。

 今回入手した下野市・壬生町・上三川町の教育委員会発行のパンフレット「古墳」はこう纏めている。『これらの古墳は全国がまだいくつかのブロックに分かれていて、統一されていないため王者が各地に居たことを示します。しかし王たちは各々割拠していたのではなく最大の勢力であったと考えられる畿内地方の大王を盟主に仰ぎ、それに従属的に同盟することによって王者としての地位を補強しあっていました。このことは、全国に分布する古墳が墳形だけでなく埴輪や葺石、埋葬設備の構造、副葬品の至るスタイルがほぼ一定の斉一性(きまり)を持っていることから判ります。また、このスタイルは規模・量の面で相互に明らかな格差を持っていることから王にもランクがあったことがわかります』



今日は、琵琶塚古墳。


 この膨大な古墳に一つ一つ名前がついていることも驚きだ。この古墳は空から見れば琵琶の形をしているのだろうが、いつの時代に鳥の目を得て、名を付けたのだろう?

摩利支天塚古墳

 ここでは車を降りたが、高さ約10Mの後円部頂にある摩利支天社までは登れなかった。多くの神社の原型はこのような古墳に祀った社だろうと、学者ぶって推論してみる。

丸塚古墳

 この古墳を探しにYさんは私のカンと反対の方向へ車を走らせる。エーっと思う間もなく、丸塚古墳。「よく解りましたね」と感心すると「私は戌年だから」とコトモナゲ。

 畦道をバックで入り込んでもらい、横穴式石室を覗きに歩く。小さい室だが、使っている石は大きく、立派な石組だ、と、城博士を気取る。尚、この石は栃木産の大谷石の由。



▲琵琶塚古墳


▲摩利支天古墳にて


▲摩利支天古墳

▲丸塚古墳


今市へ

ここから、壬生町を通って今市へ。壬生の地名は新撰組の京都の拠点として名高い。栃木県の壬生は京都とどんな関係にあるのだろう。検索ではありそうに思えるが今回はカット。

今市では、「二宮尊徳記念館」と「船村徹記念館」を館備え付けの車椅子で見て、おそばを食べて、帰宅した。「船村館はどうだった?」「ウーン、イマイチだった」

おあとが よろしいようで。

▲二宮尊徳記念館


▲「日光の庄」で昼食



真岡の鹿古墳を訪ねて
    2017年3月26日

イチゴ

第二回の足骨折もようやく杖を突けば歩けるようになり、また、Yさんの「家出カー」でのドライブを企画してもらった。施設の朝食をキャンセルして7時に施設を出発したから最初の目的地「道の駅にのみや」には9時前に着いた。こんな早い時間にと言う勿れ、イチゴ目当ての人たちで駐車場は既に一杯。そこで一パックを平らげ次に向かう。


二宮尊徳資料館

 入場料無料。立派な紳士が二名案内につく。車椅子まであるので借用しこじんまりした館内一周。二宮尊徳というと道徳というイデオロギーで寄り付きにくいが、二宮金次郎というと実践・実務の人として尊敬に値する。Yさんは金次郎が「幼くして両親を失い、離婚もし、武士でもないのに武家社会で出世している」その人物像に感じ入っているが、同感だ。名前だけは知っているが生い立ちや生涯を知らなかった。これから知りたいものだ。

陣屋

 資料館から車椅子のまま陣屋へ向う。平坦とはいえ砂利道だ。Yさんに押して貰うが力が要る。「ナーニ、大丈夫ですよ」と返事する声が既に息が上がっている。

 真岡市にも城があった。宇都宮家の配下、芳賀氏の城で城下町の名残も市内にある。らしいが、残念ながらよく見ることが出来なかった。
 しかし、宇都宮家が秀吉により改易されると真岡は小田原藩の飛び地になり、さらに天領となった。1783年のことだから、天領としての歴史は浅い。同じ、天領の飛騨の高山などに比べるとこの陣屋は、質素この上ない。
 ここに金次郎は住んだというが、井戸こそ立派だが、どこで寝たのだろう?

二宮神社

 隣だがこれも車椅子で悪路を押して貰って。しかし二宮神社にはいささか恨みがある。もともと「二宮」は「一宮」に対応して、全国全ての令制国にあるのだ。二宮金次郎の二宮にしても、彼の生地が今も東海道線の駅名に残る「二宮」(相模の国の二宮、川勾神社)

だからなのだ。全国で「一宮」巡りをしている人は多い。で、私は、「二宮神社」巡りを今もしている。二宮神社を見付けていざ行ってみると、ここと同じように「二宮尊徳」を祭った神社だというケースにぶつかるのだ。(先の館のスタッフ曰く、全国で80か所あると)

 仕方がない。注意するしかない。この神社の狛犬さんは昭和の時代に奉納されたとあるが、まことに世を経た面魂をしていた。車椅子を館に返して、次へ。
▼画像をクリックすると大きく表示されます

大前(おおさき)神社

 延喜式内社は全国で2861社、下野国で12社。この神社はその一社ではあるが、10円のご由緒書きとパソコンを読む限り、延喜の時代のこの神社の歴史が解らない。この神社の両部鳥居も同じで、成程、両部鳥居の構造は判ったが、この鳥居を持つ神社の共通点が解らない。但し、十数メートルに及ぶ「管内神社のご紹介」の案内板は他にはないものだ。

 この神社は「現代」に熱心で、巨大な恵比寿像やバイク神社(足尾山神社。この神社の由緒もワカラナイ)5種以上の御神籤などお客集めの種が豊富だ。
▼画像をクリックすると大きく表示されます

真岡にはたくさんの神社がある



真岡のラーメン

 真岡はSLの街だ。先の神社見学中にも汽笛と蒸気機関車が走る音が聞こえた。流石に駅も立派で、観光案内所も完備だ。Yさんがその案内書に市内の「ラーメン」の名店を訊きに行ってくれた。女性スタッフの推薦店へ、彼女の心許ないヒントを頼りに車を走らせて着いた店はなんと、市外。ラーメンの味は良かったが、市の案内所が市外の店を紹介するのは、なんとなく、後味がよくなかったね。

 なぜ、「ラーメン店」に拘ったか。施設は一時に多人数に食事を供するので、伸びてしまう麺類は出ないのだ。で、外出時は麺類が食べたい。帰途の夕食は日本蕎麦屋に寄った。
▼画像をクリックすると大きく表示されます

ラーメン工房くろべぇ(栃木県市貝町赤羽)

味噌チャーシュー


物部氏

 この旅では珍しく行程の下調べをした。
真岡市の東端に「物部」の地名があると知り、「物部」大好き人間の私は胸をときめかした。山形県高畠の宿泊地では信号に「物部口」の名があり写真に収めてきた。 
 今回は上手く見つかるだろうか。あった!
古墳を見付けるためにアチコチしている時に「物部採石株式会社」の大きな看板!無断で写したが、もし、クレイムを付けて頂けたら、これは幸い。いろいろ物部の話を聞けるだろう。

 (翌日会ったKR氏にこの話をすると、彼は、ゴールデンレイクスC.C.のメンバー。ゴルフ場近辺には物部小学校・物部中学校・物部郵便局などがゴロゴロある由)

真岡の鹿古墳群

 白石太一郎著 「古墳とヤマト政権」(文春新書)は全国の古墳を年代順に並べ、ヤマト政権が「連合体」の主として成立してゆく過程を判りやすく纏めてくれた名著だ。おかげで、ようやく、古墳に興味を持つことが出来、今回の旅の主役になった。

ナビにも定かでない、無名の古墳を畑の中で探す。この車は保険に入っているか?と、心配するほど脱輪ギリギリの狭い農道を走る。こんもりした小さな茂みを一つ一つ潰してようやく、鹿古墳群に辿り着く。小さな円墳。それを祀る屋根にタップリと枯葉を残した社殿。それでいて新しい弊紙が奉げられており、草に覆われていても長い参道が今に残る。

 この真っ平らな畑の中にどうして古墳を造ったのか?周りに豊富に流れる河川が一度氾濫すればたちまち流されてしまうだろうに。この広々とした田畑にいかにもいかにも邪魔ゲに残っている古墳の杜を、農民の皆様はよく千数百年の間、残しているものだ。

そして、この古墳を神社として拝む。成程、神社の起源の一つを目の当たりに出来た。

 最初の古墳見学行は、実に、有益なものだった。
▼画像をクリックすると大きく表示されます





■千葉県勝浦市探訪
  2016年10月2日

早朝、7時きっかりにラフェスタ吉川美南にY氏の車を迎える。この家出カーでの史跡探訪は5年前の兵庫県竹田城訪問を手始めに年に数回、北陸・東北などをキャンプして回ってもらった。
 今回は日帰りだ。私が1年前に右足骨折してリハビリ途中だから仕方ない。私にとっては、事故後の最初の記念すべき旅なのだ。

 千葉県に行こう!ただし帰りは19時頃にしたい。これだけの私の希望を聞いてY氏の家出カーは走り出す。何故私が千葉に行きたいのか。千葉県は私が住む埼玉県の当面のライバルなのだ。テキを知らねば。私は千葉県をゴルフ場と佐倉城、大多喜城、館山城、関宿城、千葉城程度しか知らないのだ。アクアライン(高速代800円と安くなっている)経由、9時勝浦朝市見学。

 勝浦市は首都圏の市で唯一人口が2万人を割り込んでおり、一番人口が少ない市である。2014年(平成26年)4月1日には総務省から過疎地域に指定[された。20歳前後の人口が突出しているが、これは市内にある国際武道大学の学生である。国際武道大学の学生が市の全人口の約1割を占める。(ウイキペディア引用)
 吉川市の人口7万人。勝った!(自慢にならないが)

 早速だが、ニンニクだのイワシのフライだの、Y氏は馴染みの特産物の買い出しに余念がない。
私は、神社のご由緒書きと御神籤集めに余念がない。朝市の外れにある「遠見岬(とみさき)神社」へ。垂直な石段ははなから取っ付かないが、石段下の社務所で入手したご由緒書きは300円したがA4、16ページ、多色刷の小冊子。内容も読みでがある。要約は下記のウイキペディアのコピーに任せるが、教科書には載ってない神々が歴史上の人物になって生き生きと活躍している。

 「神武天皇の側近として活躍した天富命は、阿波の開拓を終えた後、東国により良い土地を求め阿波忌部氏らを率いて黒潮に乗り、房総半島南端の布良の浜に上陸した。そして祖神である天太玉命を祀る社を建て、安房の開拓を進めたがその後当地で没したという。天日鷲神の後裔の勝占の忌部須須立命は、八幡岬突端富貴島の天冨命の居跡に社殿を建立、開拓の祖神として祀ったのが当社の起こりとされている。なお、勝占の忌部が住んだこの地は勝占と呼ばれるようになり、「勝浦」の地名の由来といわれている。」

 阿波と安房、那智勝浦町と勝浦市。この関係も神の名の下に明白だが、何故か学者は「神話」として扱い、「歴史」としては扱わない(ヨウナキガスル)。

 この神社の御神籤もユニークだ。買って帰り、写真に撮る。私のホームページの新しい項目、「全国神社 御神籤・ご由緒書き蒐め」のスタートである。乞うご期待!(と、大見得を切るが誰も見てない、聴いてないか)

 其の後、Y氏行き付けの、いや、定宿の繋船石柱公園で一服し、「勝浦城」「お万の布さらし」へ登る!緩い勾配だが、それでも百歩の山道を休み休み完登した。頂上(!)のベンチで15分ほど長々と伸びて大休止。Yは48キロの私を背負う積りでこの小山へ案内して呉れたのだ。

 帰途に就く。Y氏は仕事でもないのに何故か日本中の道を知っている。しかも数回の訪問も厭わない。「道の駅」だけでなく各地のスーパーマーケットもこまめにチェックしていて、ここには無料の味噌汁があるのだと停まったりする。その度に私もトイレと一服の写真を撮りながら勉強する。多少の渋滞があったが、予定通り19時帰着した。

▼画像をクリックすると大きく表示されます。
勝浦朝市にて 遠見岬神社ご由緒書き 繋船石柱公園で一服 勝浦城址前にて
勝浦城址開設板 お万の布さらし 於萬の方像前にて 養珠院於萬の方、開設板




■豪華な山と海、富山県を一走り(2015年8月)


8月8日
学生時代山岳部だから山には登っている。
しかし、トロッコ列車には乗ったことがない。
「それは気の毒。乗せてあげましょう」とYさんは今回のキャンピングカーの予定を宇奈月から始めてくれる。
前夜20時30分に日暮里を出て今朝1時半に「宇奈月 道の駅」着。仮眠をとる。
早起きして取りあえずトロッコ電車の始発駅に7時に着き乗車券を確保する。酷暑を避けて登ってくる観光客が群がる一足早い時間だった。
終点の欅平を散策して帰る。


▼画像をクリックすると大きく表示されます。
黒四ダム
一世を風靡した映画をみてない。しかし、こうして黒部川に次々に建設されたダムを案内されると、ここにダムを作ろうと発想した人間に恐れ入るばかりだ。宇奈月にも欅平にも入場料を取らない博物館があってそこで丁寧に説明されているがここは吉村昭の「高熱墜道」を一読しねばならないだろう。
黒部川。高山から海へ一直線に流れ落ちる川。平野をつくって一休みすることをしないでただV字に谷を刻み込んで奔流となって海を目指す。この流れと発電を結びつける。考え付くのも素晴らしいが、実現した工事の人々も大変な人達だ。見て初めて実感できる。
その難工事については前述の吉村氏の著作は迫力十分に書き込んである。しかし、工事に取り掛かる前の企画の部分の記載はごく少ない。この急流に発電所を作ろうと発想した人たち。どんな人達だろう。
 
キャンピングカー
山を充分に堪能したら次は海だ。富山湾の魚津では、今夜「たてもん」と云う行事があるのだ。Yさんは我々が神社・仏閣に寄るように地元のスーパーに寄り、主婦のように地元の食品を仕入れ、夕食に供してくれる。地元の「道の駅」に早目に場所を確保して、手早くデッキチェアとテーブルを組み立て、二人はそこにドッカと腰をおろして彼が下ろした鮮魚や、例えば富山なら「べっこう」などという土地の人しか知らない郷土料理を肴に宴を始めるのだ。
私も少しづつ覚えて手伝おうとするのだが今のところ全く役に立たないし、彼もいささかも私の手助けを期待をしてないようだ。
今夜は、まず花火。目の前の海から上がる花火は大きく、迫力満点。写らないことを確認するためのように写真を撮ってみる。

魚津の「たてもん」
花火が終わると人々は諏訪神社の「たてもん」に参加するためにゾロゾロと動き出す。
どこにこんなに沢山の人が居るのか?
しかも若い人が居るのか?
須賀川の火祭りを見て以来、私は日本の祭りのフアンになった。
リオのカーニバルと比べても劣らぬ立派なものなのだ。
「たてもん」は秋田の竿灯のように提灯を三角形に高く積み、台に載せた7台を大勢で引き回す祭りだ。
ここにも若きリーダー達が各々の台を仕切っていて頼もしい。

富山の北前船
富山の道の駅の向かい側に「四十物昆布」というお店がある。「四十物」には「あいもの」とルビが振ってある。この由来は頼みのパソコンが故障中で詳細不明だが利尻昆布はこの地で下され加工されさらに肥料となって富山の大地を豊かにした。と、耳にしている。
富山市の北前船の寄港地は「岩瀬」。ここには酒田の本間家と肩を並べる森家という海鮮問屋があり、お屋敷を入場料案内人付き100円という超低価格で公開してくれている。
今、パソコンが不調だ。富山に関して地図・港・城・藩の歴史を調べるのに時間がメチャかかる。「岩瀬」もそうだ。
三津(安濃・博多・堺または坊津)・七湊(三国・本吉・輪島・岩瀬・今町(直江津)・土崎(秋田県)・十三湊)。造船から入った北前船は日本の歴史に大きくかかわってくる。
パソコンによると岩瀬の大きな問屋は馬場・米田・もり・畠山・宮城の5軒であり、特に大きな問屋は馬場家の由。それはそれとしてここから帰途を急ぎました。

立山・富山湾。豪華な山と海をセットにした大満足の旅でした。
(ついでに、満足・不足に足が使われていることに注目しましょう)
▼画像をクリックすると大きく表示されます。
魚津・魚の駅「生地」にて 北前船の町「東岩瀬」にて


■法師温泉と赤城神社(2015年5月)


有名な法師温泉とあまり知られてない500円玉の裏図
 27年5月18日に有名な法師温泉をようやく訪ねた。勿論、私は学生時代の山岳部の合宿以来、公私の知人達を機会あるごとに案内しているので、入湯回数は二桁になるほどのフアンだ。日本はどこにでも、今は我が家の隣にも「温泉」があるのだから「好きな温泉」など論じ始めたらきりがない。しかし私は一番のお気に入りの温泉と云えばこの法師温泉を挙げて70年生きている。
 ところで、私の妻は温泉に全く興味がない。土台、旅行が嫌いだと言い切る世にも珍しいお人で、私の旅行記には滅多に登場しない。
 それはそれでよいのだが、私の最愛の「法師温泉」だけは、最愛の妻を案内して二人で行きたかった。何年も機会をスッポカサレ、もう、余命も残り少なくなったからとの説得に今年ようやく妻が応じての今回の旅行となった。
 上原謙・高峰三枝子の熟年旅行のポスターは、いつまでもシルバー世代の憧れであったが、その舞台となったのがここ法師温泉である。広い浴場は木枠に囲まれ、底地は砂利。そこから滾々と適温の湯が沸き出でる。季節は皐月の中旬。これだけ条件が整ったご旅行にも拘らず妻の感想は「・・・」。ああ、そうですかと私も「・・・」のままで次は彼女の指定地「笠間」へ向った。

27 5 19 赤城神社と500円玉
 ▼画像をクリックすると大きく表示されます。
 法師温泉と笠間の窯元見学の帰途、赤城神社に寄る。
 ご由緒書きを頂くが、水を降らせる古代からの大切な神社だ。ご由緒書きの写真を見てほしい。
 正面にご紋が3個飾られてある。中央の菊の御紋と右の葵の御紋は皇室、徳川家との関係からと解るが、左の五三の桐は豊臣家のものだろうか?
 社務所に訊くと「違います。あれは、菊の御紋の裏紋です」と。「裏紋」とは何だろう?帰宅後検索すると膨大な資料を読むことが出来る。面倒くさくなる位だ。で、とにかく、この場合、桐の御紋は菊の御紋とセットになっていていずれも皇室の御紋なのだ。
 この御紋は賞状など公式文書に時々見る。しかし一番身近な使用例は「五〇〇円玉」だ。
 五〇〇円玉の裏(?)を見てみよう。円一杯にこの御紋が使われている。
このようなニッチな知識を見付けるととても嬉しい!
 これを読んだ皆様方も今まで知らなかったら、私は、もっと嬉しい!









■中国・三門峡市紀行(2009年4月)

●2007年4月18日
 5:40西所沢発。7:30日暮里駅スカイライナー乗車。書道雑誌出版社K社長夫妻、同社編集長H氏。K夫人の友人S嬢。と会う。7:30成田。書道家O氏夫妻と会う。
この7名が今回のメンバー。9:30機発。
 中国の便なので、つい、アラを見つける。曰く、「ビーフ?フィシュ?」と訊かれ、「フィシュ」と答えたのにチキンが出る。(H氏そこで一言。「キチンとしてよ」。)イアフォーン、一つ穴の座席に二つ穴をもって来る。スチュワーデスは客席に目配りせずに只歩く。云々。
 北京着11:30.これは、現地時間。東京時間10:30.時差1時間。
慌しく乗り換えて、鄭州へ。例によって、窓際を譲ってもらう。広大な土地が隅々まで耕作されていて、歴史の永さを感じる。面として広大、永さとして悠久。この中国を「知る」など、最初から諦めている。自分の住む所沢の歴史さえ、定かではないのだから。
 
 鄭州着16:20。紙に殴り書きしたのではない、大きな字で「K氏一行様」と印刷されたボードを持った人の出迎えを受ける。雑誌社が出版する、(我社「和香」が印刷製本)季刊誌(400ページ。半分カラーのページ。)がトランク3個。その他、私物のトランクをマイクロバスに積み込み高速道路を延々4時間。今回のメンバーの年齢、(S13、17、20、30年生。女性は不問)、出身(江ノ島、栃木、宇都宮、秋田、札幌、津久井の湘南)、現住所(所沢、越谷、茂原、相模原)など、気持ちよく会話が弾む。窓外の景色もこのルートでさえ数回経験しているK氏の的確な解説で退屈を知らない。「あれは、石炭発電所。だけど、電線が伸びてない。」「紫だけど桐の花ではない。桐を街路樹にすると根が持ち上がって不適。」「同様に、水田の周りには木はない。水を吸ってしまうから。」「黄河は東に流れるだけではない。北へも、南へも流れる。こんな河は他にない。」
 21:30三門峡市着。遅い時間にも拘らず大勢の出迎えを受ける。チェックインなど不要。荷物を部屋に運んでもらって、遅い時間にも拘らず、宴会。市・組合・書家、大勢と、名刺交換。そして乾杯につぐ乾杯。23:30終宴。予定表にもそうなっている。
 但し、ここで、事件。通訳として紹介されたのが陳さん。黒子社長と思わず顔を見合わせてしまう。前回、開封での書の交流会の時、彼の通訳で、多大な時間と労力と感情の無駄を使わされた強烈な記憶があるのだ。今更、仕方ない。私は個室でバタンキュー。

●4月19日
 7:30朝食までホテルの周り散歩。片側3車線、並木があって、側道があってまた並木があってそして歩道という堂々たる大通り。これは、所沢にはない。但し、大通りを一歩はずれると、小屋がけの住居と下着姿の住民。これも、所沢にはない。
 8:30 昨日のバスで、三門峡博物館へ。大勢の人。民族衣装をつけ、チャルメラ、太鼓の楽隊と踊る一群。近寄ってくると皆さんかなりのお歳の男女。かと思うと、小学生、中学生、の一団。真っ赤な中国服の美女達が我々に「来賓」のリボンを付けていく。やがて、壇上に案内される。「三門峡市主催中日韓国際書画百人展」のここが会場であり、今は、開幕式なのだと壇上で、初めて知った。我がK社長、O氏始め壇上の要人が次々と紹介されていく。幸い、私は素通りだ。時々、学生たちから歓声がおきるのは、自分達の先生が紹介された時だ。K社長はかなり中国語を勉強しているのだが、この地では訛りが強く通じにくい由。それでも、挨拶の冒頭に中国語を入れて、大いに受けていた。スピーチもようやく終わり、解散。博物館内で書を見る。韓国勢は、開封に出席の由今日は不在。
 
 行事を終え、さあ、帰ろう。いや、帰らない。長い挨拶の続く式典で時間は大幅に遅れても予定表通り、宝陀寺の古塔に寄る。25M。この高さは、昨年見た「ネプタ」の高さと同じだ。ガイドの少女が懸命に解説するが、通訳がチンプンカンプンで、気の毒だ。いつも思うが、社会主義国中国が観光に寺院を案内するのは何故なのだろう。宗教は阿片ではないのか。お寺に皆お参りしているが仏教徒なのか。イスラム教徒、他、他民族の諸宗教はどなのだろう。
 レストランを変えて昼食。ここでも、宴席の途中、入れ替わり名刺交換と乾杯と写真を写しにやってくる。乾杯が出来ないので、食事に専念。気を許すと、ひどく辛いものを食べてしまう。
 ホテルで、ゆっくりしたけれど、ちゃんと予定通り函谷関(かんこくかん)へ。それも、我々は、高速道路の案内板で知る。高速の左下にいかにもそれらしい建物が見え、バスは谷底近くまで下りて止まる。なんだ、お寺ではないか。ここでもガイドが付くが、私は気もそぞろ。お寺に興味はない。左手に「鶏鳴地」の案内板を見つけるや、一直線に駆け上がる。ウーン、いい景色だ。大きなお寺の向こうに、函谷関の建物も一望に出来る。皆も、ようやくに上がってくる。お堂に収まる像。像の胸の袋に、手渡されたコインを投げ、うまく入ると、鶏の鳴き声がマイクから流れる仕組み。K夫人がうまく投げ入れた。でかしたでかした。
 斉(齊、せい、紀元前1046年 - 紀元前386年)の孟嘗君が西安から逃げる途中、夜明けにならねば開かぬこの関で、部下が、鶏の鳴きまねをして門を開かせたという故事が有名なのだ。但し、ここは、物まねをした場所。肝心の関所へと、駆け下りる。寺を巡っては入れない。一旦入口に戻って、数百メートルを走って。あった。大きな函谷関の楼門だ。皆に教えようと駆け戻ったら、バスでそこへ行く為に、皆が待っていた。皆はご苦労さんでしたと言ってくれるが、いい年をして、独りよがりの行動を取りました。反省してお詫びします。
 
 「函谷関と清少納言
 このタイトルで、ピンと来る人は偉い。函谷関といえば普通、「箱根八里」だ。歌詞に曰く「箱根の山は天下の険 函谷関もものならず」。の作詞に滝廉太郎が懸賞に応募して作曲した唱歌だ。この程度は、知っている人はいるだろう。しかし、清少納言の百人一首の歌、「よをこめて とりのそらねは はかるとも よにおうさかの せきはゆるさじ」、この札を取れる人も、この「とりのそらね」がここ函谷関の先程の故事を踏まえていることをしっているか。「謀られませんよ。逢うことは出来ませんよ」の意味を・・私は知らなかったなー。しかし、清少納言も凄いけど、この歌を読んでデートが出来ぬと悟らねばならない男性も楽ではないね。こんな教養知っていてどうなる。そんな暇があったら、一文でも多く稼げ。それはそうだ。でも、稼いでどうする?稼いでゆとりが出来たら、史跡を訪ね、故事を学びなさい。おあとが、よろしいようで。
 「?国博物館(カクコク)博物館
 函谷関でも時間を取ってしまったので、もう一つのお目当て、「?国博物館」はカットされるかと諦めかけていたが、中国の官僚を見損なってはいけない。夕闇に賑わい始めた市の雑踏をすり抜けて、閉館間際の博物館に滑り込む。例によって、真っ先かけて飛び込んで、整然と、そして美しく展示された出土品や解説を無視して真っ直ぐに最後の部屋「車馬坑」に。BC1100年頃の「?」という聞いた事もない国の皇族の墓。ここで発掘された「馬車」を是非、見たかったのだ。西安の「兵馬俑」発見の少し後に発掘されて、これまた、広大で現在も発掘中の墓。この博物館での展示はほんの一部らしく、体育館ほどの一室は一台の馬車の残骸と、数引きの馬の白骨。もう少し小さな一室には、何層にも分かれた墓。「兵馬俑」のスケールを期待したのは間違っていた。また、兵馬俑と異なり、馬車も馬も復元したものでないので、実物の姿がかえってわからない。
 でも、それが、解った。騎馬民族の渡来まで馬がいなかった日本。「馬車」は馬と一緒に渡来しなかったのか。京の大路を練り歩いたのは牛車。日本の馬車は文明開化まで、消えていたのか。西欧ではアレキサンダー大王、ベン・ハー、を経て、自動車に繋がっていく。中国もいつの頃からか、馬車は実用に供されなくなったのではないか。疑問は限りない。
 最後のお墓に中国の人がヒラヒラとお札を投げ入れる。私もと、10元札を取り出すと、ダメダメと1元札に取り替える。1元は、成田で17円。北京で16円。この1元が、中国入国から出国まで使ったお金の全てだ。いや、ホテルの小さな売店で煙草を買いました。煙草は、パッケージのみならず吸い口まで、箔押しされているので、見本の為購入。宴席には一箱付いていることが多いが、今回は珍しく、吸ったのは我が日本人二人だった。
 興奮してさっさと博物館を出たので、ご婦人方を待つ羽目に。「ご熱心ですね」「だって、あのガイドさん、イケメンでしたもの」そうでしたか。ここは珍しく男性のガイドでした。
 
 19時過ぎ「煙草大廈」とレストランで宴会。個室でないのが不思議だったが、この約10卓の全員が「市長宴請招待」。なんだか解らないが、日本人が二人。この市は北上市と姉妹都市で林檎栽培の技術指導者と日本語講師。講師は、中国古代史の研究もしている由で、早速、先程の馬車坑の墓の話を訊く。「深い墓は貴人。身分が低くなるにつれ、浅い場所に埋葬される。」これが、訊きたかった。
 宴が終わったが、バスはホテルに戻らない。雑踏する人込をかきわけ、「薬局」に寄る。すわ、土産物屋かと、一同身構えるがどうも違う。店主、店長、その親戚等々、次々に紹介され、一人一人と握手して、その度に写真を撮る。薬の説明などなく犇くほど大勢いる若い女店員に見送られて外へ出るが、暫く走ってもう一軒。ビルの暗い階段を三階まで登ってベッドがズラリと並ぶマッサージ店。ここでも、治療を受けるでなく、店主や助手たちが紹介され、握手をして写真を撮る。ようやく、ホテルへ。K社長の推測では、「今回の世話役の商工会議所の立場があるのだろう。」と。

●4月20日
8 時。昨夜、「TVに出演するので正装を」との指示がある。皆は、緊張し、私は、浮かれて、バスに乗り込む。昨日の「百人展」会場へ。昨日を100倍する人の群れがゾロゾロと。見渡して、地下鉄もバスもないのだから、歩くしかない。その中を我がバスは静々と何処までも奥まで入っていく。我々を空港で出迎えたボードがその後いつもフロントに置いてあるが、その威力らしい。「百人展会場」の隣は大広場になっていて、大群衆はそこに集まってくる。正面にこれまた大舞台。背景は大きく引き伸ばされた三門峡ダムの写真。
 その大舞台に案内される。足元の番号で指定された場所は大分後列で、これではTVに写らないだろう。今は、「第十三回三門峡黄河旅遊節開幕式」なのだ。「旅遊節」は市を挙げての「お祭り」で、学校もお休み・・らしい。
 これも、指定された席に戻ると、プログラム、帽子、飲み物がセットにされた袋が配られる。我々の背後は沢山の人々。何人か?阪神戦の観衆には及ばず、西武戦の観衆程度として、一万人弱か。雨が降ったら、この野外でどうするのか?とにかく、昨日のような炎天でなくて良かった。
 プログラムは、これから始まる大音楽会のものだ。少年達の少林寺の演武から始まって、乙女達の楽器演奏、アクロバット、民族歌舞、男女人気歌手の独唱、掛け合い漫才、その他盛り沢山に、計十三種の出し物だが、若者向きで、我々も決して飽きることなく二時間を過ごす。舞台の両袖には学生達が座り、整然と赤・黄・緑・ピンク・ブルー等の旗をとっかえひっかえ、各ステージにあわせて見事な人文字、模様を描いて見せる。この人数は数えた。横に45人が十列。それが、両側だから計900人。舞台では100人が踊れる。
 フィナーレ近く、突然、マイクが切れる。「よくあること・・」という雰囲気ではないが観客も舞台と一体化しているから、じっと待つ。少林寺の幼い小坊主たちが次々に飛び出してきて、見事なトンボを切って見せ、合間を繋ぐ。次に少年達の出番というときに、マイクが繋がった。
 日本の婦人方は、マイクのヴォリュームの大きさに辟易していたが、私は耳が遠くなっているので、大満足で、また、大群衆をバスでかきわけ、昼食会場へ。
 今日で別れの日。昼食後には歌を所望される。k社長は東京で私と打ち合わせる時も、喫茶店でなくカラオケ・ボックスを指定するくらい喉に覚えがある。見事な高音で日本民謡の小曲を披露する。O氏が、歌いこんだ故郷の「秋田音頭」と続く。先方の書家が、手振りも鮮やかに京劇の一節。次に、私・・というところで「書」の用意が出来た。
 両国の書家が、持ち込まれた紙に、これは常に持ち歩いている筆でさらさらと何枚も何枚もかいてゆく。墨汁をたっぷり使うので、紙が破ける時もあるが、気にしない。乾いてから落款をおし、表装をするそうな。どんな単語、文章を書くか?書家は候補をコピーしてポケットに入れてある。「表装」の歴史は明朝、日本では室町の時代から。今では日本の技術が上だと。これは、翌日のバスの中で、O先生から聞いた話。先生は、金石文の専門家。紙以前の文字の書き方など、流石にもう少し勉強してからと、遠慮したが。
 書の交流も終わり、予定は「空相寺」、日中とも律儀にスケジュールをこなす。達磨大師縁の寺へバスを走らせ、なんで、こんな何もないところに大伽藍を建てたのかと疑問を持ちながらまた取って返し、最後のお別れの宴。
 言葉が通じず、努力をして交流をしようとの若さもなくなったが、先方の誠心誠意のもてなしは、充分伝わってきた。御礼の言葉を私も述べる。「本当にありがとうございました」
 通訳氏は曰く「どういたしまして」。あのね、貴方に云ったのではないの。あちらに、「通訳」してもらわないと困るの。
 それでも、S夫人が先方に気に入られ、一人残ってくれといわれたり、中国でも話題の血液型の話で盛り上がったが、明日早いからと早めに打ち上げても22時。北上市の人から教えられた「お土産ならコンビニのお茶が一番です」もコンビニが閉まっていて、次回。

●4月21日
 4時バスが出る。今回の世話役のシャーさんの若夫人が朝食を差し入れてくれる。良い夫婦だった。へまた、永いバス行。しかも、二時間ほど走ったとき、はたと、大きなトラックの群れの真ん中で、大渋滞どころか大停滞に巻き込まれる。その便に乗る為に四時に出発し、その便に乗らないと北京の接続が出来ず、今日中に帰れないのだ。
 まだ、6時。運転手と三門峡市と頻繁な携帯のやり取り。事故は、炎上車が前にあるとのこと。やおら、運転手氏の大奮闘が始まる。路肩を飛ばす。割り込む。すれすれを追い抜く。彼の免許証が汚れても、命を無くしても、とにかくも突っ走った彼のプロ魂に頭が下がった。ようやく、我々の気持ちの幾許かを彼のポケットにねじ込んで、深夜、成田に帰ることが出来ました。

書くのも、読むのも、大変な苦労でしたね。

次回から、写真の勉強を、致しましょう。







































Y氏と行く「行き当たりばっ旅!
大神神社 奈良桜井市 準備中
安宅住吉神社 石川県小松市 準備中
塩竃神社 宮城県塩竃市 準備中
零羊崎神社 宮城県石巻市 準備中
日和山鹿島御子神社 宮城県石巻市 準備中
涌谷神社 宮城県涌谷町 準備中
涌谷黄金山神社 宮城県涌谷町 準備中
安久津八幡神社 山形県高畠町 準備中
烏帽子山八幡宮 山形県南陽市 準備中
西奈彌羽黒神社 新潟県村上市 準備中
赤城神社 群馬県前橋市 ⇒こちら
遠見岬神社 千葉県勝浦市 ⇒こちら































Y氏と行く「行き当たりばっ旅!
平成22年
(2012年)
12月 兵庫 竹田城、丹波篠山城
平成23年
(2013年)
3月
奈良
岐阜
大神神社、三輪山参拝登山、甘樫の丘、高取城、
岩村城
5月 滋賀
福井
石川
湖北みずとりステーション
一乗谷城、丸岡城、新田義貞公墓、東尋坊、雄島
山中温泉、安宅の関、安宅住吉神社、橋立町北前船の里、小松城
11月 福島 芭蕉記念館、須賀川城址、「松明あかし」祭り、宇津峰の山城
平成24年
(2014年)
12月 宮城 塩竃中卸市場、塩竃神社、石巻の零羊崎神社、
日和山鹿島御子神社、涌谷神社、涌谷城、涌谷黄金山神社、
平成27年
(2015年)
6月 山形
新潟
高畠、安久津八幡神社、赤湯の烏帽子山八幡宮、
村上の西奈彌羽黒神社、笹川流れ、温海温泉、米子漁港
8月 富山 宇奈月温泉。黒部トロッコ列車、魚津じゃんとこい祭り、
海の駅蜃気楼、新湊・海王丸パーク、北前船の町・岩瀬
平成28年
(2016年)
10月 千葉 勝浦朝市、遠見岬神社、繋船石柱公園、勝浦城址、お万の布さらし
平成29年
(2017年)
3月 栃木 真岡の鹿古墳を訪ねて
4月 栃木 下野の古墳を訪ねて&今市「二宮尊徳記念館」と「船村徹記念館」        
5月 栃木 益子
6月 千葉 加曾利
11月 栃木 さくら市(勝山城跡・今宮神社)
平成30年
(2018年)
2月 栃木 布袋ヶ岡城と織姫神社


Copyright (c)2012 遠藤晶土 All Rights Reserved.