関東・甲信越の100名城
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  関東・甲信越
 
茨城県 14 水戸城 平成21年2月23日登城 こちらから
栃木県 15 足利氏館 平成24年5月8日登城 こちらから
群馬県 16 箕輪城 平成21年2月11日登城 こちらから
17 金山城 平成21年11月24日登城 こちらから
埼玉県 18 鉢形城 平成22年2月3日登城 こちらから
19 川越城 平成26年2月13日登城 こちらから
千葉県 20 佐倉城 平成21年2月22日登城 こちらから
東京都 21 江戸城 平成26年2月26日登城 こちらから
22 八王子城 平成21年2月6日登城 こちらから
神奈川県 23 小田原城 平成23年3月30日登城 こちらから
山梨県 24 武田氏館 平成23年10月19日登城 こちらから
25 甲府城 平成23年10月19日登城 こちらから
長野県 26 松代城 平成21年10月26日登城 こちらから
27 上田城 平成21年10月27日登城 こちらから
28 小諸城 平成21年10月29日登城 こちらから
29 松本城 平成22年6月3日登城 こちらから
30 高遠城 平成22年6月2日登城 こちらから
新潟県 31 新発田城 平成22年7月1日登城 こちらから
32 春日山城 平成23年11月29日登城 こちらから

 ■14 水戸城 
  (訪問日 平成21年2月23日)

■大洗ホテルは観梅ツアーで超満員。9階の風呂場はスリッパでさへ入りきれぬほど。強引に入った理由は五時半からロビーで実演される「アンコウの吊るし切り実演」を見たかったから。演者・料理長の話が勉強になった。「大きくて我々が食べるのは全て雌。雄はこんなに小さく、雌に寄生していて最後には雌に食べられてしまう」と。
 昨夜は7時半には布団に入りそれきり今朝6時まで眠り呆ける。
 朝、風雨。今日の予定は水戸城のスタンプ押すだけだから、ゆっくり、ゆっくり。9時半にホテル発。二食付きで9500円。お目当ての鮟鱇鍋も付くのにビジネスホテルより安い。それでも妻は「超満員で海の見えない部屋しかないから、7800円で予約したのに約束が違う。私がフロントに行けばよかった。」と、ぶつぶつ。
 雨の中、茨城県立歴史館。月曜でも開館。駐車場無料。他県人でも70歳以上入館料無料。特別展「めでた尽くし」。
* 水天宮の本社は久留米。1818年江戸三田の赤羽に。
* 婚礼の儀式、1750年にマニュアル本が。
* 平等院の鳳凰の像。
* 日光東照宮の上棟式に使われた絢爛たる大工の道具箱。使用は武士か、大工か。
* 源氏物語に「竹取物語」が物語の祖。と。同じく「雛に調度をしつらえる」と。
* 大正時代の和船の進水式の写真。進水式は日本のみか?
* 福助の元祖は不明。
 常設展は駆け足。
* 「茨城」の由来は「風土記」の故事から。埼玉は「さきたま」。群馬、栃木の由来は?
* 水戸藩の幕末の動向は?
 敷地内の「水海道小学校」も中へ入れる。
* 明治5年、国定教科書となる。では、小学校が義務教育となるのはいつ?
* 全国各地の小学校の、ここに似たファザードの写真。でも、有力県に限られるようだ。

車を置かせてもらい、「偕楽園」を見学。計算どおり雨は小止みになったが、流石にトップシーズンで、「好文亭」も押すな押すなの盛況。

目と鼻の先でも迷い迷い、ようやく「弘道館」に辿り着き、スタンプ。
* 詳しい水戸藩の年表がとても参考になる。薩長に痛めつけられなかったが、内乱で大変な様子。天狗党や加波山事件(?)、維新史の一方の主役。
寒い寒い中、二の丸から本丸へ歩く。
* 本丸は水戸一高。すぐ側に水戸三高。争いの種を蒔いているようなもの。

Wのお言葉。

昨夜は暑くて眠れない。
博物館の空気が乾燥していて、口の中が痛い。熱い物を飲んだら沁みたー。
寒さで、手の皮膚がチリチリと真っ赤になった。
てんぷらを食べ過ぎて、気持ち悪い。
数独のやりすぎで、目がむくんでいる。



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水戸藩にも内戦があった。その弾痕がここ弘道館の門にある。 水戸城唯一の遺構である「藥医門」




 
15 足利氏館 
   栃木県足利市家富町2220
  (訪問日 平成24年5月8日)


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■数ある未執筆の訪問済百名城の中から足利館を選んで書き始めた。それがどこかへ行ってしまった。アーア。
 偶然、5月18日の各紙で、「鑁阿寺が国宝になった」と伝えられた。いや、そう書いてはいけない。正確には、「鑁阿寺を国宝に指定するよう文化審議会が下村博文文部化科学相に答申した」と伝えられたと書くべきなのだ。
日経では「鑁阿寺本堂は、室町幕府の初代将軍足利尊氏の先代(晶注:父とは書いてない)、貞氏が1299年に建てた真言宗寺院。典型的な密教建築でありながら、鎌倉時代最新の禅宗様式をいち早く取り入れ、以後の宗教建築に大きな影響を与えた。」とある。
 この由来も興味深いが、この地が最初は「館」であったのか、寺院であったのか、その経緯も興味がある。その当時の豪族は、戦うためあるいは防御のための館と、信仰のための寺院と、どちらに価値を置いたのか。

 もう一つ。最終的に、鎌倉幕府を倒したのはこの足利氏である。源氏三代を滅ぼし、三浦・畠山・私の大好きな比企に至るまでライバルの粛清に辣腕をふるった北条家は当時新田・足利家をどう見ていたのか?足利家と北条家とはどのような関係であったのか? 

 足利氏館は古い。長い歴史を持った館であり、城である。百名城の中で末尾に「城」が付かないのは、他に根室のチャシ群・五稜郭、武田氏館、そして、吉野ケ里の4城のみである。性格・構造の似ている武田氏館との時代の差を考えると面白い。
 「百名城公式ガイドブック」によれば、足利氏館は「平安時代」に分類され、武田氏館は1519年の室町時代の築城としている。

 足利氏館よ、長い年月、鑁阿寺境内として生きてきたのか?
 武士の館として生きて来たのか?

 屋根つきの橋 マディソン郡の橋
 お堀に架かる橋に壮麗な屋根が載っている。百名城の中では、大分城で一か所見たが、日本では、貴重な屋根つきの橋である。
 一時、「マディソン郡の橋」というアメリカの小説が日本でもベストセラーになった。
 母親の不倫を子供たちが懐かしげに回想するという父親としてはいささか、腑に落ちないベストセラーだが、アメリカの友人によるとアメリカでは「屋根つきの橋」は多いそうだ。凍結防止のためという。母親の不倫も多いかどうかは聞き損った。
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屋根付きの橋。

説明
足利氏館への途中、新田義貞が旗揚げをしたという生品神社に立ち寄った。訪問日の5月8日は、偶然、旗揚げをした日だと史書に明記されている日で、これまた偶然、新しい義貞像の除幕式が行われていた。

帰途はフラワーパークや茂林寺に寄った。
茂林寺の狸の写真です。

 

  ■16 箕輪城
   群馬県高崎市箕郷町西明屋ほか 
   (訪問日 平成21年2月11日)


■ロウがあるからハイがある。この城訪問はロウと言っても良いか。つまり、あまり、満足できなかったのだ。
かといって、「城」が悪いのではない。長野業尚の築城した山城はその後、井伊家12万石の時代に手を加えられているとはいえ戦国時代の平山城の縄張りをそのままに残している。誰でもが感嘆する大堀切。本丸、二の丸、その他の郭。ザット一回りしても一時間では足りない立派な城だ。
 行った日が悪いのでもない。二月にしては暖かな陽射しで、念のためのコートを二の丸に駐車させた愛車に忘れても気付かずに歩き回れたほどだ。このような山城はSが眠っている間しか訪問できないので、この日の暖かさは有難かった。
 目的の「百名城のスタンプ帳」を忘れた為でもなかった。もし、持っていってもスタンプのある場所の指示は「二の丸あたり」と頼りない。このような記載は全国100名城のうちここと***城のみだ。二の丸には、作業用の小屋があるのみ。幸い、作業員がいて「スタンプは役場にあるらしい」と教えてくれた。「役場」は、城見学後に、今日、大活躍のカーナビで辿り着き、当直の女性が(今日は国民の祝日)快く押してくれた。二の丸の無人の作業用小屋にスタンプを置いたのだが、「すぐ無くなってしまう。休日には7−8組がここにスタンプを押しに来る」由。そうだろうな。今日はカーナビに頼りきりだったが肝心の「箕輪城」はその名では検索できず、近くのゴルフ場を入れて、我が家から出発した。
 パートナーが悪かった訳でもない。「寒いのイヤダヨー。歩くの面倒くさいヨー、お家でコタツに、じゃーない、テレビでも見てたいヨー。『数独』がいいヨー。」といいながら、早朝、朝食を整え、食後の始末もし、道中の食糧も積み込んで我がパートナーは助手席に座ったのだ。城も一緒に歩いた。彼女にとっても、杉の花粉が飛び始めない今がささやかな山歩きのチャンスなのだ。落ちている杉の小枝の先にまだ蕾の花を見つけ、「これが花粉症のオオモトね。」と感慨に耽っている。
では、何故、この「訪城」が不満足だったのか。それは、この数日前に行った「八王子城」の峻険さにあった。同じ時代の箕輪城もあの厳しさとすると、我がパートナーにはとても無理だと、パソコンで下調べをした。その結果、彼女でも歩ける山城だと解ったが、同時に、城の細部の写真も豊富に観てしまった。だから、いざ、行った時に新鮮味がなかった。感動が薄かった。
じゃー、矢張りパートナーが悪かったのだ。連れていかず、一人で行けば余程気楽だろうに。イヤイヤ、困難に挑戦して初めて人生は有意義なのですよ。
帰途、「少林寺達磨寺」「高崎観音」に寄った。この有名な観光地のほうが、私にとって予備知識が全くない分、新鮮に感じたのだから難しいものだ。      












17 金山城 
  群馬県太田市金山町40−98
  (訪問日 平成21年11月24日)


■11月23日
 昨年、白河城訪問の帰途、棚倉城から烏山に寄った。その時は、日も暮れかかり、草生い茂る山城で前途が未明なので、再訪を期して帰宅した。
 今回は、先ず烏山城を目指し、岡本、喜連川、氏家、矢板など、今まで、数えきれないほど通過しながら、「小石のように」関心をもたれなかった沿線の都市の歴史に触れ、那須で一泊、帰途は、佐野、田沼など歴史に名高いのに訪れたことのない市・町に触れ、最後に百名城の大田の「金山城」のスタンプを取得して帰宅するドライブの予定をたてた。

 昔なら、朝家を出て、ゴルフをしての日帰りのコースだ。歳をとった自分とひろちゃんに敬意を表しての一泊するのだから楽勝のコースと考えた。
 宇都宮のインターを出て、ナビがなければ到着が難しい岡本の国指定文化財「岡本家」に無事到着。古民家大好き人間のひろちゃんを喜ばしたのが12時。[写真]。更にカーナビ「お島さん」に導かれて「烏山和紙会館」着が13時。そこで烏山城址の場所を聞き昼食も割愛して登り始めたのが13時40分。
 「お島さん」
 車で未知の土地を訪ねる時、以前は助手席のひろちゃんが地図と睨めっこでナビをしていたが、今は、カーナビに頼りっ放しだ。しかし、カーナビは不慣れの為もあり、目的地の設定が意外に難しい。特に私の場合、マニアしか訪れない城址が主な目的地だから、リストには出てこない例が多い。地番で検索しても、使う案内書も、このナビのソフトも少し古いと、最近の都市合併の波に乗り切れず、検索不能の場合が多い。
 ようやく目的地を設定しても、左折・右折の指示で「700M先」、「300m先」の次の「まもなく」と教えてくれるタイミングが、ヤヤコシい交差点や、見落としそうな小道の場合合わせるのが難しい時がある。「機械のやることだから間違いがない」と諦めるのも面白くないので、カーナビを使う時はナビに「名前」をつけて、彼女に(だって、女性の声だから)文句を言ったり、感謝をしたりしている。彼女の名前は行く場所によって変えている。松代、上田、小諸の時は信濃の国に因んで、シナちゃん、ではなく「ナノちゃん」。金沢、七尾の時は加賀とくれば加賀まりこ(知っていますか?)だから「まりちゃん」。私は彼女の小悪魔的雰囲気が大好きだったのだ。
 今回は、「お島さん」。知っていますか?烏山と言えば川口松太郎(知っていますか?)の「蛇姫様」だ。「お島さん」はこの小説で、姫様以上の主役の旅役者。器量が良くて、キップが良くて、博打が強く全編、大活躍をする。本当は、「お島」と呼び捨てにしたいのだが、彼女は「『檜や』の若旦那、千太郎」にゾッコンだから、「お島!」と呼びかけるのは歌の中だけにしよう。歌?そう、この小説はカラオケ・デユエットのセリフ入り名曲「お島・千太郎つれまい道中」の原作になっているのです。私もこの歌をレパートリーにしていて幾多の女性と・・、いや、もうやめましょう。隣にひろちゃんが居たのでした。
 前回、烏山城のこの入り口に来た時は、城よりも小説「蛇姫様」の紹介を主にしたような古びた案内板があったので、その物持ちのよさにホッとするような、呆れるような気持ちになった。今回に備えて「蛇姫様」にも目を通して来たのだが、あの懐かしい案内板がない。この一年で烏山は「さくら市」になったのだ。それで行政の担当が替わったためか?

 『烏山城』(「100名城」に入れて貰えなかった城だが、話題豊富な城なので訪れた)
 ひろちゃんも今回は車に積んできた長靴に履き替え気合が入っている。昨年、草茫々だった山道が整備されている。「七曲り」の山道をジグザグと登ること30分だがあまり「山城」の雰囲気はなく、軽いハイキングだ。[写真]。ようやく「車引き橋跡」で、空掘を降りて登り返す。さほどな急坂ではないが、ここでひろちゃんは一人で引き返す。私は一人で先へ。ささやかな石垣。[写真](それでも案内板には「東北では珍しく石垣が・・」とあった)「二の丸」も過ぎて「東江神社」の指導標。そこが本丸だろうと目指してみたが、道がなくなりかけ、山の中に一人残したひろちゃんも心配なので、城探訪を打ち切って駆け下りて、無事再会。
 この城は戦いらしい戦いもなく、築城以来、歴史の表舞台に出る人物もいない。「蛇姫様」が居なかったら、この小田原大久保の分家、大久保三万石の居城を訪れることはなかったろう。

■11月24日
 Rホテル。
 私は全国の観光地に点在するRホテルが好きだ。立地が良い。視界を遮るものがない高台で、しかも、部屋が表側でも裏側でも満足が行く風景が楽しめる。丹波?でも、函館?、松代、それに、ここ那須でも期待は裏切られなかった。今日も快晴。窓からは茶臼岳、朝日岳の那須連峰。遠くに磐梯山。眼下には今が盛りの燃えるような紅葉。[写真]。
 9時半にユックリ出る。こんな良い季節にこんな好い天気。これまた通過地でしかなかった「那須」をドライブするのも良いだろうと、史跡探訪の旅は一転、那須観光へ。
 
 殺生石と那須温泉神社
 そのきっかけは、「殺生石」。その名と九尾の狐の話は頭の片隅にあったが、他の予備知識はなく、350円の有料道路代にしり込みしたが、二人で割れば175円、お賽銭と割り切ってこれも「お島さん」の世話で。
 大涌谷、各地の地獄谷の小型版だったが、赤い頭巾を被って、両手を合わせた「千体地蔵」が可愛い。噴火で出来た岩石に薀蓄を傾ける日が何れ来ることを願う。[写真]。
 そのまま「那須温泉神社」の境内へ。御神籤を買う。訪問先の神社の御神籤蒐集は私の趣味だが、一番安上がりにして保存場所も要らず、良い趣味だ。と、本人は、思っている。  ついでに「お由緒書」を頂くのが、私の神社めぐりの儀式だ。「お由緒書」にお金を取らないのが何事にもお金が絡むお寺と違って、いかにもお金に淡白な神社らしくて良い。ここでも「お由緒を頂けますか?」「何枚必要ですか?」「一枚で結構です。」気持ちのよい会話だ。しかし、このように、金儲けをしない神社の資金繰りはどうなっているのだろう。これに薀蓄を傾ける人はいないので、私には永遠の謎だろう。
 知人に競馬の予想表があれば、一日時間を潰すことが出来ると豪語する人が居る。その表の短いデータから読み取る情報、推理、で飽きることがないという。それほどではないが、私もこの「お由緒書」から教えられ、考えることは多々ある。

 時間を気にすることなく那須の山頂は無理でも、ケーブルだけでも乗ろうと、車を走らせる。下の駅は5℃。終点は3℃。雪が残り、あるいは溶けてぬかるんで、車を降りたとき長靴に履き替えることを忘れたひろちゃんは、ケーブルの終点駅から一歩も動けず18分の滞在で、乗ってきたケーブルカーでトンボ帰り。[写真]。

 私は十数年前、この那須の山頂に登った時を想い出している。私の数年の闘病生活も終わる頃、山の仲間が、私の山への復帰行として、小学生でも登れるこの山を選んでくれたのだ。前にM、右にD左にH、そして後をKが固めて五人で一時間以上かけて登り、同じ時間をかけて下りてきた。今でもその時の話がでると、「お前は手を離すと右へフラフラ、左へヨタヨタ行っちゃった」と彼等は言う。本人はしっかりと歩いた積りなのだが・・。下山して那須の秘湯「北温泉」に泊った。バブル華やかなし頃、皆、忙しかった。人手不足でこの秘湯も従業員は日本人ではなかった。私は風呂場に安物の腕時計を忘れたが、探しに行った時はもうなかった。

 道の駅
 もう、昼近い。昨日同様、食事の時間も勿体無い。「道の駅」で何かつまもう、ということになった。「道の駅」に凝りだしたのは最近だ。二本松城への途中、ふと、寄った道の駅にひろちゃん好みの特産品?があって以来、彼女へのせめてもの安上がりなサービスで寄ることにしている。それに、「道の駅」はナビの検索で簡単に出るので「お島さん」に言いやすい。今日は「道の駅 那須高原友愛の森」に寄ってみる。那須の家並みはなんとなく洒落ているが、ここもなんとなく洒落ている。建物をブラブラ見ている間にひろちゃんはなにか重たげなものを車に運んでいて、手伝いに行ったので写真を撮りそこなった。

 『金山城
 また、時間がなくなった。日が暮れても空気だけ吸えばよいと、「お島さん」にここ那須から高速利用ルートで、太田の市役所を設定する。彼女は佐野藤岡インターから50号、407号経由のルーとを選ぶ。「5キロ以上道なりです」と言うと長い間会話がない。ま、ひろちゃんと会話でもするか。
 大田市役所に着いたが、城の見当がつかない。大光寺を入れてみる。出る。へー、有名な寺なんだと感心して行ってみたら、あー、「呑竜様」なんだ。有名な筈だ。そこら辺をウロウロするまでもなく城への指導標があった。それに導かれて山道を登ると、広い駐車場に着く。時に、4時近い。
 歩き出す。立派だ。尾根道の片側は今では木が生えているので恐怖心はないが、かつてはスパッと切りたっていて、これは、難攻不落。案内図、説明板、完備。そして、堅牢な石垣!縄張りの見事さ。本丸近くに、つまり、頂上近くに、堅牢で緻密な石垣で囲まれた直径10M以上?はある円形の「月の池」、「日の池」が豊かに水を貯えている。[写真]数枚。
 どなたがお造りになり、どのような歴史を持つお城か、これからお調べ致しますが、このお城の立派さは、決して、予備知識がなくて見たから意外性があったから感心する訳ではないと思うのだけどなー。
 スタンプも押して、迫る宵闇にも心満ち足りて急ぐこともなく、「お島さん」も我が家へ407号、47号線、東松山からの高速をうまく組み合わせ、短時間で案内してくれました。

金山城 追記

 金山城につきお調べ申し上げました。ところが、これが、意外に解らない。多くの場合、パソコンに頼れば、おおよそは解るのだが、市の教育委員会のHPでも、城はおろか太田市の歴史にも触れることが少ない。
城の発掘は「平成」になって始まった。築城者を「1469年岩松家純」としているが、当時、あのような石垣を組めるものが居ただろうか?
城探訪マニアのブログでも二つの「池」からマチュピチュや聖なる儀式などを連想している。
私も日本には稀な「円形」のの構造物に、沖縄や、朝鮮の山城を連想した。坂口安吾氏が喝破したように関東武者は半島からの移住者がルーツだ。この城がその証明になれば大万歳だが。
 気が付けば、昭和の御世に私は既にこの城を訪問済だった。その時は単なる山城を駆け登り、駆け下った印象しかない。スタンプが置いてある「中島公園」の中島氏の銅像は、富士重工の創始者、いや、中島飛行機の創始者の中島氏ではないか。
この城を知るためには、もう少し時間がかかるだろう。
 
 
 


18 鉢形城(はちがたじょう)
   埼玉県大里郡寄居町大字鉢形
  (訪問日 平成22年2月3日)


■今年の冬は大寒に暖かく、立春が寒かった。その寒い日に鉢形城を歩いた。電車で行く場合、案内書では交通至便な寄居駅を起点とするのだが、我々は東武東上線の鉢形駅から歩き始めた。同行者はKとF。Kは「鉄ちゃん」(鉄道フアン)だから、時刻表を小まめに繰って、神楽坂、所沢とばらばらのメンバー各々に乗るべき電車、乗換駅をメールで指示してくれる。

 ちょっと本題をそれるが、感想をひとつ。
 一昔前なら、車と違って電車はダイヤ通り動いたから電車での待ち合わせは心配なかったが、今は違う。毎日のように、「人身事故」が起きて、遅れが伝えられる。「人身事故」はほとんどが年間3万人を記録し続ける「自殺者」と考えられる。そのまた殆どが、零細企業の経営者だと考えるのは、余りにも我が身に引きかえての考えすぎだろうか。しかし、先日聞いた講演でも、講演者は出席の経営者達に向かって、開口一番「この中で、生命保険を掛けている人は今すぐ解約しなさい」と呼びかけた。我々は直ぐに意味が分かった。経営者は皆、善人だ。自分の「死亡保険金」で、借金を少しでも減らし、関係者に迷惑を掛けないように最後まで努力をしてしまうのだ。今日は事故もなく、小川町でKの指示する電車に落ち合うことが出来たのはご同慶の至りだ。

 閑話休題、本筋にもどろう。
 鉢形駅なのだから、駅前に当然鉢形城への案内図があると思ったが、豈図らんや、大きな案内板は「川の博物館」のもので、我々は改めて地図と首っ引きで城への道を確かめねばならなかった。狭いが、交通量の多い車道を辿って最初に出てきた道標は「鉢形城歴史館」への案内だった。「100名城スタンプ」はここに置いてある。ここでスタンプさえ押せば、城は見なくてもいいやと冗談を言いながら、雪の原っぱを突っ切って博物館になだれ込む。
 ここの受付嬢は気持ちが良かった。例によって70歳以上は無料だが、キチンと証明書類の提示は求めるし、「お若く見えますね」とお愛想も言ってくれる。城や寄居の歴史書が売られていて、「ここは資料が多すぎて」とこぼすと「そうですね。井伏さんも、司馬さんも書いているし」という。「遠藤周作もね」と返すと「あら、遠藤さんも書いてますか?」と素直に受けてくれる。Kが城にあったという椎茸畑を聞けば調べてくれる。ついでに城訪問後に予定している車山への取っ付き口も方々に問い合わせながら親切に教えてくれた。
 ところが、私が後で調べてみると、遠藤周作「埋もれた古城」には鉢形城の記載がない。「歴史館」彼女に電話をして謝罪した。
 
 我々は、その後、博物館、城址を一巡し、車山山頂へはロープを頼りによじ登った。このあと八高線の折原駅に出て、小川町の酒蔵二箇所を訪問、名代の『忠七めし』を賞味して、ほろ酔い気分で帰宅した。

 ここで、余談になりそうだが、鉢形城についての“薀蓄”を!
 博物館で200円という安価につられて「鉢形城指南」を購入した。ところが、このA5版32ページの小冊子は内容が実に濃く、帰宅後、読み解くのに一ヶ月近くの日数が必要だった。以下、この冊子の一部を紹介しながら、小生の意見もしくは感想を述べたい。
 (裏ページ 用語解説
  縄張り、虎口、馬出、曲輪、大手、などに関する基礎用語を2、3行で解説してある。城見物が趣味と自称している私だが、城そのものには興味があまりないようだ。では、なにに興味を持つのか?それは、次のような事である。)

先ず、1ページ(ゴチック部分は「鉢形城指南」から)
[はじめに]
 「鉢形城は昭和7年に国指定史跡となり、その後、地権者達のご理解のもとで、公有化を進め、・・」
 と、ある。幸い「昭和7年」が大阪城天守閣の再建の年と記憶が残っていた。この頃、今のような「城ブーム」があったのだろうか?「日本史年表」に当たってみたが、勿論、そのような記述はなかった。但し、満州事変、ひいては太平洋戦争の引き金となった、柳条橋事件は昭和6年の出来事。今の暗い日本での「城ブーム」が、何かの予兆と・・は、ならないだろうね。因みに我が所沢市の年表を繰ると、この年、「山口貯水湖」が竣工なったと、景気が良いニュースだ。 
もう一つ。「城を整備する為、土地を地権者から買い取って(或いは借りて)『公有化』とした。」と、ある。この地権者とは、誰だろう?本書では、鉢形城は関東が家康の所領となった時に廃城となり、「徳川氏は家臣を派遣し直轄地として支配した」とある。この直轄地は、維新の時にどう、処理されたのだろうか?新政府に没収されたのなら、既に「公有地」であり、「地権者の理解」はいらない筈だ。他人事ではない。所沢の多くの土地は、旗本に細分化されていた筈だ。維新後、旗本たちの土地の所有権はどうなったのだろう?
支配者は土地からの「年貢」で生活している。徴税者と所有者は別と考えるべきなのだろうか。もっと、学生時代に日本史の時間を、もっと熱心に聞いていればよかったと、後悔する。
2ページ
[鉢形城の歴史]
「文明8年(1476)、関東管領山内上杉顕定の家臣、長尾景春が鉢形城を拠点に乱を起すが、文明10年(1478)大田道灌の力で、城を追われ・・」
本書の「歴史」は1476年から始り、それ以前の記述はない。頼朝の挙兵の時代、南北朝の時代、この城には、誰が居たか?いずれ、調べよう。しかし、これ以降1560年頃の北条氏那の入城、さらに1590年の秀吉軍による小田原攻めまでの約百年は、山内、扇谷の両上杉、古河公方、後北条、に謙信、信玄などが絡んで、関東は閉店バーゲンのようにごった返しており、この鉢形城は律儀に多くの戦いの舞台になっている。
それだけ、重要な土地なのだろう。北条家は、一族を重要な城に配置しただろうが、かつて私が住んだ小机(横浜)、幼少時を過した玉縄(大船)は歴史の舞台への露出度が少ない。地形的にも「重要な」土地とも思えないのだが・・。
城に一番興味を惹かれる時は、その滅びの時にあり、その時の城主の運命にある。100名城の多くの城は明治維新の時に幕を閉じるのだが、この城の幕引きは早い。北条氏邦は、1597年に没するまで、金沢で生きながらえた。遺骨は彼の家臣によって旧鉢形領の正龍寺に葬られた。生き延びた7年の彼の胸中を察することは難しい。
本書の年表によると、氏邦が入城する前は上杉憲房が50年近く居城していた。50年は決して短い時間ではない。この動乱の50年の間、彼はどのような経営努力はをしたか?零細企業の経営者はまことに興味がある。

「鉢形城案内」
「三の曲輪の石積みは、西国の石垣とは技術的な差異が認められるため、石積みと呼んでいます」
多くの城址で残るのは「石垣」だ。野面積み、牛蒡積み、打ち込みはぎ、など石積みの形態、技術の説明は各城の説明に欠かせない。しかし、この「石積み」のように根本的に近代の石垣技法と異なっている城は珍しい(と、思う)。関東武者はその源を中央から送られてきた「帰化人」に発するという坂口安吾の説を忘れかねている。この技法が朝鮮の影響を残していたら・・、私は、とても、嬉しい。

「三の曲輪の四脚門と四阿(あづまや)は洛中洛外図屏風の細川官領邸の意匠を採用しました。」(「あづまや」は原文のまま。正しくは「あずまや」だが) 
 「歴史館」にも、実物大の「櫓門」が復元され、迫力充分だ。しかし、この門も「花巻城、長浜城、真壁城の構造を参考にした復元と明記されている。努力は多とするが、ここ鉢形城に置くのは、なにか違和感を持つのだが・・。

 「出土遺物は発掘調査がされてない曲輪があることや、開城後の持ち去りなどによって遺物量が少ない。八王子城ではベネチア製ガラス器、景徳鎮の椀などの高級陶磁器が出土しているが」
と、嘆きながらも、「博物館」にはかなりの発掘土器が展示されていた。しかし、ここでも発掘品は土器類に限られ、武器や鎧の欠片も展示されていない。ここは城だ。しかも、幾たびも戦場となった城だ。人骨とは言わないが、戦闘の跡を示すナニガシカの遺物が発掘されないものなのだろうか?
全国区の古戦場、千早城の「博物館」を訪ねた時も、同様の不満を持ち、館員氏に直接、訊ねもしたが、はかばかしい答えは返ってこなかった。

「案内図」
博物館には、この城の全容を示す詳細な模型が一室を占めている。ヴィデオと連動して隈なく案内される筈だ。また、この「指南書」の案内図も丁寧でよく分かる筈だ。
それが、城を歩いて、よく分からない。通り一遍に見た自分が悪いからと思っていたが、城探訪者のブログでも同じような意見を散見した。また、ブログでは発掘から復興の過程に立ち会って、公園化への「方向性に疑問を持った」人もいた。
労を考えると、とても、文句は言えないのだろが。

「鉢形城周辺の遺構」
本書によると、城下町は城同様、荒川が左へ直角に曲がる右岸の「凸」の部分に形成され、現在、寄居駅などがある、左岸の「凹」の部分ではない。そこに、鉄砲小路、鍛冶小路、御弓小路、内宿、荒宿、寺町などの魅力的な地名があったと言う。行ってみたかったが。

[周辺の史跡]
 天神山城跡。鉢形城へ移る前の城の由。ここに最近復元の城を建てた。面白いことに、その復元天守閣が訪れる人がないまま、今、既に廃城となっていることだ。行ってみたい。
正龍寺。北条氏邦夫妻(夫妻ですよ)の墓がある。
 車山。226M。城攻めの際、大筒を山頂に据付けた。その時、轍が出来たので、「車山」の名がついたという、説もある。
ここにハイキングをしたのだが、こんな垂直に近い山に大砲を担ぎ上げるのは大変なことですよ。

さて、この名著「鉢形城指南」に記載されてなくて、興味をひいた数点。
田山花袋の碑。本丸にある。パソコンで調べると、地元の有志が昭和30年、武者小路実篤に揮毫を依頼したとあるが、若者で「花袋」を知る人は少ないだろうな。
荒川治水工事の構造物。本丸から、荒川対岸をみると、河原に、曰くありげな敷石が並んでいる。きっと、曰くがあるのだろう。再度、「川の博物館」に行かねば。
諏訪神社の石柱の文字。読めない。但し、写真には撮ってある。いつか、解る日が楽しみだ。 



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19 川越城 
 埼玉県川越市郭町2−13−1
 (訪問日 平成26年2月13日)
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「私の履歴書」
 長いこと所沢に住んでいた。「長いこと」とは正確には何年か?少なくとも自分は知っておいたほうが良い。もうそろそろ、自分の年表を造らねばならない。エッ、そうかな?何故、何故、家族さえ読まないだろう「私の履歴書」書くのだろうか?理由は簡単。書きたいからだ。誰も見ないことは充分承知している。でも、誰かに読んでほしい気持ちがある。
こうしてホームページに書きたいことを、ただただ書くのと同じ。
 で、私が横浜から所沢に越してきたのは1981年(昭和56年)。丁度、これを書いている2014年(平成26年)に同じ埼玉県だが吉川市に転居したのだから30年、正確には33年住んでいたことになる。所沢と川越は近い。まして、所沢へ移ってきて早々に初詣では川越の御大師様と決めて、毎年お正月にお札を頂きに参詣している。
 横浜に居た時代は年始は川崎大師様だった。会社の業績がドンゾコの時、初めて参拝した川崎大師に、握りしめていた1万円札を御払いしたところ、家族で座敷に通され、お茶をごちそうになり護摩も隣の席で読経を聴いた。アーラ、不思議。それから我社の業績はたちどころに持ち直し、こうして所沢にローンで家を買うことが出来たのだ。
 生涯で、あの時の1万円ほど有効なお金の使い道はなかったと、今は毎年、数万円で大きなお札を頂き、本堂を埋め尽くす沢山の善男善女に交じって聴いてくる。
 ところで、未だに、「御大師様」とはなにかがわからない。弘法大師の事らしいが、川崎にしろ川越にしろ何故ここはナントカ寺でなくて「川崎大師」「川越大師」なのだろう?
 毎年、懐中汁粉と一緒に頂くお由緒書きを読み、パソコンで検索するのだがワカラナイ。そこで、参詣者のうちこのような疑問を持つ人はどの位いるだろうか?滅多にいないよ、という優越感でこの件はオシマイ。「私の履歴書」もこれでオシマイ。ご苦労様でした。

 川越城
 さて、川越城。江戸城を開いた大田道灌が自分の有力な支城として建てる。後北条との1531年頃「川越夜戦」に勝利した後北条の持ち城になる。家康の関東支配により有力な支藩となってゆく。この城の「本丸御殿」は江戸時代そのままで高知城と並ぶ貴重な遺構であるが、失火で焼け落ちた旧御殿を1848年に再興したもの(割合、新しい)。
 新年の川越大師参拝の時、混雑している喜多院の駐車場を逃れて利用するのが「川越城本丸御殿」駐車場である。百名城のスタンプはここに設置されているのだから、スタンプはいつでも押せるけれどこの日まで押さなかった。我が家から約30キロで百名城の中で一番身近の城だ。こうして、度々来ているけれど「川越城」の遺構・遺跡は市内にほとんど見ることが出来ない。
 だから、この城の見学にはボランティアのガイド氏を頼もうと思っていた。その手配を終え、今まで九州・四国・山陰の城のほとんどに力を貸してくれた我が良き友KとFにも都合をつけてもらい、2月の良き日川越駅に集合した。
 「ガイド氏の川越市シルバー人材センター観光案内グループリーダーI氏は川越在住30年で、身に着いたガイドで、川越城の遺跡を巡る。本丸御殿でスタンプ捺印。いやー、市内には城は他には何もないねー。それでも、中の門の復興など少しづつの努力があるようだ。お目当てのあづまやが定休日で、小川屋で、4人でウナギを食べ、15時I氏とわかれ、また、一杯飲んで、解散。99城目。付き合ってくれる両人に感謝。」
その日のメモの写し。全く、川越城にはガイドブック以上の遺跡はないのだ。

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20 佐倉城 
  千葉県佐倉市城内町官有無番地
  (訪問日 平成21年2月22日)
** 1 百名城訪城の同行者
 訪問は妻と一緒です。気が進まない素振りでいながら、百名城訪問に妻は結構私に同行していて、この機会に数えてみると、ざっと31城になる。ちなみにこの百名城訪問完結の最大の恩人Kには35城で企画・手配・運転案内をしてもらっている。
 数えてみると単独行も19城と少なくない。後半に世話になったYには数は6城だが、行き難い山城を中心にキャンピングカーで同行してもらった。

2 百名城スタンプの設置場所
 城は国立歴史民族博物館の一郭にある。違う。博物館が城の一郭にあるのだ。
 この城の住所を見てみよう。「城内町 官有無番地」こんな番地が世の中にあるとは。
 とにかく、城の中に国立博物館がある。但し、百名城のスタンプは当然この博物館の入口にある筈なのに、「100名城スタンプは佐倉城址公園管理センターで押印できます。管理センターは自由広場の隅にあり」と、遠くに余計者のように追いやられている。百名城スタンプのフアンは多いし、今後も増えるだろう。地方活性の有望な戦力をこのように冷遇するケースは他にどこがあったろうか?
 もっとも管理が「佐倉市役所[都市部]公園緑地課」とあるのも同じく珍しいケースかもしれない。
 
3 千葉県の百名城
 千葉県で百名城にリストアップされているのはこの佐倉城のみ。大多喜城、里見城、など私が行った城だけでも候補は沢山有る筈だが。
 その候補に比しこの城の歴史は浅い。戦国時代に、数度、築城を試みられたが、その度に主役が暗殺され、江戸時代、家康の命で土井利勝によって完成した。城主は堀田家など幕府の要職を務める藩主を多く出した。

4 第一軍管東京鎮台の兵営
 その縁に寄るのだろうか。「維新後この城には1873年(明治6年) 第一軍管東京鎮台佐倉分管が置かれ、存城処分とされ、兵営設置のため旧城の建物を払い下げ、られたが、撤去する。」
 佐倉城にはこの「軍営」の遺構が残っている。これも他では見ることが出来ない遺構ではないか。特に、ローマの遺跡や現代の中国を想起させる「便座」など、私の瞼に焼き付いている。写真にも撮ったのだが、解るだろうか?
   
 また、この「軍営」に関するパソコンの資料が乏しいことは、この城の魅力だ。
 埼玉県吉川市に転居したら、この城は身近になった。今後、「軍営」について、調べてみたい。
                                 
                                 以上
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21 江戸城 
  東京都千代田区千代田
  (訪問日 平成26年2月26日)
**  祝 登城完了
 この日江戸城へスタンプを貰いに行った。百名城の掉尾を飾る城は勿論江戸城以外にはない。本来は江戸城に皆を集め、スタンプ捺印後その足で如水会館に席を設け、大祝賀会を開こうと思っていた。それが、自分のスケジュールや準備の手間や、呼ばれる人の迷惑えを考えたりしていて、ウヤムヤになってとにかく一人でも捺印だけはとなった。
 Kだけが、最後まで付き合ってくれた。二人で一橋から清水門へ入り北の丸を抜け休憩所で捺印した。九州・四国から山陽地方の全ての百名城探訪をスケジュールを作り、自らの車で案内をしてくれたK。大学同期。S商事を優秀な成績で卒業したKとはこんな好男子なのです。二人で捺印するところを「休憩所」の店員さんにシャッターをおしてもらう。(写真左)最後にKに仮面を脱いでもらいました。休憩所で一番高価なお皿を並べて祝宴をはった写真です。Kの持つ紙コップの中にはビールが入っているのですが、それにしても質素な祝宴の献立ですね。(写真中央)
 数えてみると、Kは百名城中35城に同行してくれていた。改めてお礼を申し上げる。
 (ついでに数えると、私の妻は百名城中33城に同行していた。改めてお礼を申し上げるのは、はなはだテレクサイので記載するのみに止めておく)

 その足で「日本城郭協会」へ行って「認定印」を貰う。協会は何故か永年、清貧を続けている。この事務所も裏通りの小さなアパートの一室だった。(写真右)後に完登記念の「盾」の募集があった。申し込み、送られてきたのがホームページ巻頭の写真だ。

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 江戸城は日本一の巨城だ。身近だし、皇居として現役だし、書きたいことはこれからも沢山出てくるだろう。例えば、堀の水量と流れ。門や見付けの探索。かなり前からテーマだけでも別ファイルを作ったのだが、例によって、今は見つからない。思い出す二件を列挙してみる。

大田道灌の江戸城遺構
 江戸城は大田道灌が基礎を築いた。その遺構を探してみたい。と、思っていた時代は数十年前で、パソコンなどなかった。今は、パソコンを検索すれば一発で解る。
 ここに書くことは、今は、ない。
 
江戸城天守閣再建
 平成17年、江戸城の天守閣を再建しようとNPOが立ちあがった。先ず金だ。NPOだから、0円からのスタートで会員の入会金・年会費・寄付が頼りだ。資本金もないから忽ち金に詰まって、年会費は翌年から値上げになった。総工費いくらいくら。出るか出ないかこれから交渉する政府か東京都の予算を当てにしての寄付頼りの運営はとてもアブナイ。あるていど金が出来て「無理でした」と云われてサギだと騒いでも後の祭りだ。私は、平成18年の年会費の値上げの通知で会を辞めた。
 江戸城の天守閣は明暦の大火(1657年)での焼失後再建はされていない。今さらとも思ってその後も再建の会に関心がなかった。
 しかし、地方では多くの城が天守閣を復興・再建している。その原資は一部の篤志家が個人で出した城(伊賀上野)、市民の寄付金に寄る城(大阪城)、市が予算を付けた城(名古屋城)と様々だが堂々たる天守閣を建てている。
 日本の首都東京。観光が重要な外貨獲得の手段に返り咲いた現在、熊本・姫路・大阪・名古屋に負けない城があっても良いではないか。いや、むしろ、オリンピックの市、東京のシンボルとしてあるべきではないか。
 幸い、平成27年未だ「江戸城天守閣を再建する会」は活動を続けている。全国で創生した地方の城を手本に立派な城が建ったら嬉しいのだが。





22 八王子城
  (訪問日 平成21年2月6日)

■八王子駅前の教室で、ダンスのレッスンが終わったのが二時。ダンス・シューズをトレッキング・シューズに履き替えて、中央線高尾駅。バスで「霊園前」下車。そこから、「八王子城」は徒歩20分。広々とした駐車場とそれに相応しい大きな「八王子城」の石碑が。その石碑に「国指定史跡」と並んで「日本百名城」と刻まれているのがひっかかる。「百名城」はそんなに権威があるものなのか?指定されたのは一年ほど前、わざわざ、石碑を作り直す予算に値するのか?まーいいや。深く考えるのはやめよう。

 管理事務所でスタンプと資料を貰う。珍しく若い管理人君で、スタンプの管理だけでなく、周囲の手入れや整備に身体が良く動いている。
ここ入り口が海抜200M。本丸が400M。往復して日没に間に合うかなー?なーに、私は山男だ。大丈夫だろうとか、会話を交わし登り始める。成る程、山道だ。八合目から九合目など息を整えて登らねばならぬ程だ。九合目を超えると道は平坦になり、新宿、池袋の高層ビルが霞んで見える。左手は川越か、所沢か。西武球場のドームははっきり見えると後で管理人君は言っていたが気が付かなかった。
八王子神社」、その上の「本丸」。その他、「なんとか丸」が沢山あるが、何れも狭く小さい。数十人が犇くのがやっとだ。ここまでの細い山道といい、どうやって、ここで、北条と豊臣の大戦争が出来たのか?まーいいか。
新道を駆け登り、旧道を駆け下りて、彼に早いですねと褒められ、満足したが、登山ではない。城訪門なのだから、もっとゆっくり研究しなければいけなかったのだ。デジカメも久しぶりに持ってきたので電池が切れていて・・。
その後、ご主殿や引橋も見て、夕闇と寒さに包まれて高尾駅へ。
 ここいらは、霊園が多い。「霊」の良く出る場所とも何かで読んだ。そのせいか、途中の北条氏照とその家臣の墓が印象的だった。氏照は城主。同じ八王子の滝山城をここに移した。前田利家・上杉景勝連合軍に攻められていた時は小田原の本城で「小田原評定」。北条家滅亡の時は、北条家の代表の一人として切腹。その敗軍の将の墓があるのか?その疑問は我ながらもっともでこの墓は氏照100回忌法要の時に家臣中山某?が建てたと。
 墓は建てられる人がどんなに偉くても、建てる偉い人がいなければ建たない。ましてや、敗軍の将。百年後にともらった中山氏は偉い。

信玄は百年後。勝頼は二百年後に墓が建つ。





23 小田原城 
  神奈川県小田原市城内6−1
 (訪問日 平成23年3月30日)

■「100名城」の中に、神奈川県からは、この小田原城しか選出されていない。
 では、他にどの城を選べば良いのかと訊かれるとそれも答えに困る。「三浦城」、「大場城」「玉縄城」など候補は思いつくのだが、これも「いつでも行ける」と思っているから、実際に訪城をしていないのだ。あー、それでも「石垣山一夜城」は数十年前に行きましたよ。
 秀吉が小田原に篭城した後北条氏を兵糧攻めにしたとき、小田原城を眼下に見下ろす石垣山に築いた城だ。完成間際まで樹木で隠し、城の完成の時、樹木を切り払い、いかにも一夜で作ったように演出した有名な城だ。北条氏はこれを見て戦意を喪失して開城したといわれている。
ミカン畑の間を縫って、山道をトコトコ登って、巨石がゴロゴロしている本丸を見て、宵闇に追いかけられて道端に停めた自分の車に走りこんだ。珍しい「個人の所有地にある城」ということで、荒れ果てたままの城跡に好感をもった記憶が鮮明だ。

 小田原城だって今日行く城は、徳川政権になってからの城だ。
 本来の小田原城は、秀吉も攻め倦んだ前述の後北条氏の「全長9KM。城下町まで取り込んだ総構」であらねばならない。私は、その総構えの遺構を見たいし、見なければならない。その意欲はあったのだが、結局は「小峰御鐘台大堀切東堀[写真]で車を停め、一人でホンの少し歩いただけで、すぐ下の小田原城駐車場に車を入れてしまった。総構えの遺構がどこで見ることができるか、もっと研究して、またの機会にしよう。

 坂の途中の石垣の所々が崩れ落ちたままになっている。これは半月前の「東日本大震災」の被害ではない。この城の地震との闘いは長い歴史を持っている。
 年表を繰ってみると、城が徳川政権の下に入ってからだけでも、1633、1647、1648,1703、1782、1843、1853、1854年とめまぐるしい。
 なかでも、1703年の大地震は「富士山大噴火」を誘発し、その被害は甚大だった。
 小田原藩はこの損害に耐え切れず、領地の一部を幕府に返上するという異例の処置をとった。幕府はどうしたか?幕府は全国の大名から一律100石あたり金2両の「高役金」を計40万両(800億円)を集め、そのうち、16万両(320億円)を小田原藩に投入したという。

 
 東海大地震、山々の噴火などの自然災害は、この度の「東日本大震災」で直接の被害が少なかった我々にも身近な問題になった。
 小田原城も、その観点から改めて研究の対象になる城だ。

 「天守閣内の展示物を撮影してよいですか?」と私は必ず受付で確認をする。殆どの城で「どうぞ」との返事を貰うがここでは「ご遠慮ください」だった。最上階からの石垣山の遠望は展示物でないから堂々と撮影をしたが、展示物で一つだけ盗み取りをしたかった「絵図」があった。
 それは、「秀吉の小田原攻め包囲図」で家康がどこにいたか?を知りたかったのだ。
 家康はこの小田原北条氏殲滅の陣でも中心になって働き、その功により秀吉から関八州を賜った。小田原北条家と家康はお互い政略結婚を重ね、親密な関係であった。従って、秀吉からの小田原攻めの命令は、辛いものがあったろう。しかも、秀吉はこれまでも、家康の忠誠心を試すべく常に無理な要求を家康に強いている。
 信長でさえ、一目も二目もおいた家康の実力は秀吉もよく承知している。その家康に究極の選択を迫り、尚、家康を服従させた秀吉も冴えているが、その無理難題を耐え抜いた家康の力にはほとほと感心する。それまでの秀吉の仕打ちを考えれば、秀吉の死後、豊臣家への家康の復讐は当然であろう。
 包囲軍での家康の位置は小田原城の東北で、西南に陣取る秀吉の本陣と180度反対方向だった。これには、どのような意味があるのだろか。
 尚、この「包囲図」はこの城の入り口にも大きく掲げられていて、無理に盗み撮りする必要はなかった。


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24 武田氏館 別名  躑躅ヶ崎館
   甲府市古府中町2611
   (訪問日 平成23年10月19日)

■「100名城」には「別名」を持っている城が多い。城郭協会が発行している「100名城公式ガイドブック」には住所や築城者などの基礎的データの中に別名の項目がある。
 江戸城の千代田城、姫路城の白鷺城、熊本城の銀杏城など良く知られた別名もあるが、小諸城の酔月城、大坂城の錦城、人吉城の織月城などこのガイドブックで初めて知る名も多い。この武田氏館の場合は躅ヶ崎館という別名の方が本名よりも多くの人に知られた名であるかもしれない。ただし、一部の城フアンを除けばこの館は武田神社の名がさらに有名であろう。我々が訪れた日も、お宮参りや車のお祓いなど多くの参拝者、観光客で賑わっていた。(武田神社に用意されているパンフレットのタイトルには「甲斐国総鎮護 武田神社 国指定史跡武田氏館跡鎮座」と武田氏館を正式名としている

 武田神社の祭神は武田信玄ただ一人である。大正天皇即位を機に創られた新しい神社であり、甲府と言えば武田、武田といえば信玄だから誰もそれに疑義をもたない。
しかし、本来、この武田氏館は信玄の父、信虎が乱れた甲斐の国をようやくに平定し、永正16年(1519)に石和の地からこの地に築城したのだ。築城後も信虎は駿河の今川、相模の北条、諏訪家、越後の謙信、などの群雄と和・戦を使い分けて着々と清和源氏に始まる名門武田家再興に心血を注いできたのだ。その努力が結果を出し始めて余裕ができた頃、信虎は嫁がせた娘に会うために今川義元を訪れた。
 その時である。信虎は息子の晴信(信玄)によって甲斐への帰国の道が封鎖され、駿河へ追放されてしまうのだ。天文10年(1541)、信虎が47歳のことである。
 その理由は我々は、勝者である信玄側からの情報でしか知ることが出来ない。
 曰く、度重なる外征資金確保の為、農民や国人衆に重い負担を課した、側近の近臣までも非情に追放・手討にした、嫡男晴信(信玄)を嫌い認めなかった、等々である。
 しかし、これらは戦国時代を生き抜くために当時の多くの領主が取らざるを得ない処置であって、信虎一人が異常とも言い切れない。信玄は父を追放こそしたが、決して抹殺はしなかった。今川家で暮らす父の為に信玄は金銭的援助を今川家にしていたようだ。

 興味を惹くのはその後の信虎だ。だ。永禄3年(1560、66歳)の桶狭間の戦いで庇護者であった今川義元を失うと、信虎は今川家を去り、京へ上り室町将軍に「在京前守護」として仕候したりしている。天正元年(1573、80歳)の息子の信玄の死を知るや三男信康の居城である高遠城に身を寄せ、その地で翌天正2年(1574、81歳)に永くて波乱に富んだ生涯を終えた。自分を追放こそしたが、武田家をあわや全国統一の武家にまで成長させた信玄の活躍を見聞きしてなにを考えただろうか。武田家伸張のために陰で力を貸しただろうか。信玄憎しで、足を引っ張る工作をしただろうか。残念ながら今の私にはわからない。かって、一世を風靡した花田清輝「鳥獣戯話」はこの信虎を正面から取り上げた本だが、ここでも勿論信虎の本心は不明である。

 信玄はこの躑躅ヶ館の城主として約30年を過すのだ。この間信玄は100回以上の戦いをしたという。一年平均3回以上の計算だが、信玄がしたことは戦争だけではない。信玄堤として今に残る治水事業、金山の開発、何れもこの館で構想を練り、差配したかと思うと神社境内を館として一層興味深く見ることが出来た。
 信玄は「人は城、人は石垣」という有名な言葉を残したとされている。実際、信玄の代になってからは敵にこの地まで攻め込まれたことはなかった。だからといって、躑躅ヶ館は今武田神社になっている一郭だけではない。神社の東側では大手門、三日月濠の跡が現在発掘・調査されている。北側には「ご隠居曲輪」や「お屋形さまの散歩道」が公園化されている。調査の過程を詳しく説明する案内板があるが、この説明文は、これらの遺跡が信玄の時代のものか、滅亡後の新しい時代のものか、慎重に断定を避けている。
 
 信玄の嫡男勝頼は、城を韮崎にその名も「新府城」として新しく築城する。偉大な息子を持った父も不幸だが、偉大な父を持った息子勝頼の不幸は多くの人が知っている。
 しかし、勝頼を滅ぼした信長は、もしかしたら信玄でも敵う相手ではなかったかもしれない。長篠の戦いで天才信長が発案した鉄砲使いの戦術は、アナログを駆逐したデジタルのような次元が違う思想が必要だったろう。ただ、勝頼は、信長が何故戦闘準備に長い時間をかけたのか、その情報を持とうとしなかった。或いは、持っていても評価しなかった。信玄ならばここに動物的カンが冴えたかもしれないが、これはレバ・タラの類で結果論に過ぎない。
 1575年の長篠の戦いの後、1578年に甲斐の宿敵、上杉謙信が没する。その時、勝頼は越後との同盟のみならず相模の北条家まで巻き込んだ三国同盟で信長に対抗しようと画策する。それが失敗に終わると、佐竹の仲介で信長に和睦を申し込みさえしている。
 勝頼は、やるべきことをやっている。
 だから、一層、1581年に始めた新府城の築城が惜しまれる。築城の翌年2月、築城に課せられた重税に耐えかねての名目で木曽から反乱が起きる。鎮圧に向う矢先の、2月14日に浅間山で噴火が起きる。武田軍は、これで大いに気勢をそがれた。翌3月の3日、勝頼は移ったばかりの新府城に火をつけて脱出する。そして、臣下の相次ぐ裏切りにあい、3月11日に夫人・息子と自害をして、名門武田家は滅亡した。

 全ての男性は父を持つ。多くの男性は息子を持つ。しかし、偉大すぎた父や偉大すぎた息子を持つ男性は稀だ。多くの男性と同じく平凡な父と平凡な息子を持った自分が平凡だが平和な人生を送れたことを感謝しよう。
 

25 甲府城
  別名 甲府府中城 一条小山城 府中城 舞鶴城
  甲府市丸の内1−5−4
 
  (訪問日 平成23年10月19日)

■甲府城と武田館は近接している。「100名城」の中で、これほど近くに2城があるのは珍しい。滋賀県の安土城と観音寺城も近いが、両者は平山城と山城の違いだけでなく、その個性が全く違う。
 ところが甲府城と武田館の場合は違いがよくわからない。おそらく甲府城を誰が、何故、この場所に、このように作ったのかを説明してくれる文献に今のところ出会っていないからだろう。武田館という旧領主の色を濃く残した館を破却して新しい支配者を明確にする為の新城は各地で見ることが出来る。しかし、発掘中の武田館の仮称大手門郭の説明版に「この石積みの技術は徳川か豊臣の家臣によって導入されたと思われる」とあるように、新支配者は武田館を再生・再利用しようとした気配がある。また、一条小山城との別名にあるように今の甲府城はもともと武田館の郭の一つであったかもしれない。
 城で受領したパンフレットにある詳細な舞鶴城年表(パンフレットのタイトルは「舞鶴城公園 県指定史跡甲府城跡」なのだ。発掘が進んでいない新府城でさえ国指定史跡なのにここは「県」指定史跡だ)の最初の数行は

1582(天正10)本能寺の変。徳川家康が入国。平岩親吉を置く。
1590(天正18)秀吉天下統一。家康関東へ転封。羽柴秀勝が入国
1591(天正19)秀勝が岐阜へ転封。加藤光泰入国(24万石)。築城を本格的開始。

 と、あるが、この本核的築城以前、彼らがどこに入城したかぬは触れてない。「ウィキペディア」も同様であり、この甲府城がいつ、誰の縄張りで現状となったかが分からないのだ。
 そして、「分からない」というのが正解なのだろう。なにしろこの城に天守閣があったかなかったか?専門の研究者も今のところ「分からない」のだ。江戸時代の話なのに、だ。

 こんなにこの城の草創にこだわるのは、久しぶりに訪れた甲府城の大きさに圧倒されたからだ。甲府駅や山梨県庁に大半の土地を提供してもまだ、充分歩きでがある鍛冶曲輪、二の丸、本丸、天主曲輪を残している。石垣の石は大きく、勾配は急にして高々としている。現在も、石垣の石に一つ一つ番号の白紙を貼って、修復の準備に余念がない。
 建設途中のスカイツリーが人気があるのは、完成した姿はいつでも見ることが出来るが途中の姿は二度と見ることが出来ないからだという。なるほど、子供の成長の姿をあくことなくカメラに収める親と同じ気持ちか。その伝で言えば、この修復の過程は二度と見ることが出来ないかと、私もカメラに収めてきた。

 パンフレットに戻って年表をたどってみると、この城は時代の価値観の変遷に大きく影響されている事がわかって興味深い。
 先ず、最初はこの城は、豊臣が関東の徳川を封じ込める為の役目を持った。徳川が政権を握ると逆にこの城は、関東の徳川の防衛拠点としての役割を担った。
 親藩の為の城になったと思えば、その原則を破って家臣ながら実力十二分の柳沢家に与えられもした。そして、天領になった。天領とはなにか?他の事はよいけれど、天領には城がないように思うのは、結びつかないのは、何故だろう?

 この城が、価値観の変遷で困っているのは現在も同じだ。「謝恩塔」の存在だ。
 城の本丸に突出する台座を含んだ高さ約30Mの「謝恩塔」は、大正年間に御料林が県に下賜されたことへの謝恩として建てられた。四角錐でガラス状のこの塔は、一時は甲府のシンボルであった。この城が「舞鶴城『公園』」であった時代はそれでよかったが、、『公園』を「城」として再生されようとしている平成の現代になるとこの塔は場違いもはなはだしい建造物となった。城に「あったかもしれない天守閣」を再建しようという動きがもっと活発になったらこの塔の運命はどうなるのだろう。
 既に入り口にある大きな「舞鶴城公園案内図」にはこの塔の記載が一切ない。

 余話を一つ。謝恩塔をパソコンで調べていたら山梨高校のブログに面白いことが書いてあった。いわく「御料林といってももともとは、地元の入会地であった。甲府を囲む山々は急傾斜のみならず、地質的に樹木が育ちにくい。従って、信玄をはじめ治水に苦労した。維新の混乱で御料林になったが、管理が杜撰で水害が増えた。下賜されたというが返してもらったに過ぎない。また、謝恩塔を水晶に擬して、甲府のシンボルという人がいるが、とんでもない話だ。水晶は六角柱状なのにこの塔は四角柱状で、全く違う。」と。
 もう一つこのブログでは「富士山には月見草がよく似合うと太宰治は書いたが、月見草は当時は野生では見ることが出来ない。それではなんだろう?マツヨイグサか?いや、これは富士山北麓では育たない。どうも、オオマツヨイグサらしい。」と地道な追求をしている。数多の太宰フアンが峠の聖地を訪れるが月見草を見つけようとした人はいなかったのだろうか。
 「野菊の如き君なりき」の「野菊」の種類を特定する苦心談を植物学者から聞いたことがある。学問の世界も大変だ。


 

 






26 松代城 
  長野県長野市松代町松代44
 (訪問日 平成21年10月26日)

■なんといっても高速代の「休日乗り放題千円」は安い。旅に休日を利用する必要がないシルバー族も多くは時間はあっても金はないから、現役連中のお邪魔虫を承知で利用してしまう。我々夫婦は、この日曜に信濃の「百名城めぐり」に利用した。

 所沢から長野・新潟県境の「豊田飯山I.C.」まで240kmを高速道路に乗った。これでも千円。一般道路に下りて、安い、安いと喜んだが、さて、ここに何があるか?オー、幸い駐車場。なになに?

高野辰之記念館」。
 “ウサギ追いし、かの山”(「故郷」)、“菜の花畑に、入日薄れ”(「朧月夜」)、“秋の夕日に照る山紅葉”(「紅葉」)、その他「春の小川」や「春が来た」などを作詞した方の生家です。茨城では野口雨情記念館をつぶさに見たのにこの館は駐車場で地図を見たり、ナビをセットさせてもらったのに館内を素通りしてしまった罪滅ぼしで曲名を少し詳しく書きました。入場料300円をケチったわけでは・・、ない積りですが。
 さて、今日のナビ嬢の名前を信濃(シナノ)に因んで、「シナちゃん」、ではなく、「ナノちゃん」。こっちの方が、ハイテクっぽいでしょ。さて、彼女に託す目的地は

高梨氏館跡
 何といっても、国指定史跡です。我々の身近の足利館に似た土塁で囲まれた中世の方形の館。土塁、空掘りを数人の子供達が風に舞う枯葉のように駆け上り駆け下りて遊んでいる。この様子が運転に疲れた目を休ませてくれる。城ではなく、館だから内部の半分は「庭園」で、遺構が良く残っていて、これは確かに珍しい。
 石碑が建っている。「日野井碑銘 明治13年」とあるので碑文は当然磨耗して判読不能かと思うとさにあらず。最近のデジカメは最高級でなくても、光線だの露出だのと難しいことを言わずにシャッターを押しさえすれば文字を写し取り、後で拡大でもすれば文字はわかるのだ。但し、問題はそれから。このような古い「碑」は多くは漢文だ。一つ一つの文字が判っても、句読点のない漢文だから書いてあることがよく判らない。
 私の最寄駅の西所沢駅にも小さな駅にそぐわない大きな碑が建っている。通勤に利用すること数十年経って最近初めてその存在に気が付いた。写し取って拡大してプリントアウトしたが、どうやらこの駅を建てた経緯の碑とは判ったが、細部はいまだ悪戦苦闘している。もっとも利用客の99%は半年前の私同様、この碑の存在すら気に留めてないようだし、駅員に聞いても読み下せる者はいないのではないかな。あーあ、これから漢文の勉強もしなければならないとは。

小布施 岩松院
ここから小布施へは一本道で「ナノちゃん」には休んでいてもらう。日曜の小布施はゾロゾロの人並み。今が旬の観光地だ。その人並みに押し出されるように外れの「岩松院」に車を停める。本堂の天井絵、北斎の最晩年の作「八方睨み鳳凰図」で有名な寺だ。90歳になってもこの大作を仕上げ、且つ、まだ描き足りないと言い残して世を去った北斎は、今、我々老人を叱咤激励する良い教材になっている。そのことは脇において、今に色褪せない最高級の顔料、高価な金箔をふんだんに使えた北斎の恵まれた晩年に思いを馳せた。
 本堂を出ると縁先で皮を剥き、小さく切ってすぐに食べられるようにしたリンゴをビニールの袋に入れて売っていた。いいですねー。早速に齧りながら裏へ回ると「福島正則の霊廟」がある。徳川の陰湿な謀略で広島城を改易となった正則は直ちに切腹か配流になったと思っていたがこの信越の片隅の土地を4万5千石で5年間統治していたのだ。廟を覗くと崩れかけた五輪塔。高さ2.5Mとあるがそれは「高い」と言えるだろうか。64歳で没。没後もその遺体の焼き方にまで徳川から難癖をつけられたのだと。
今夜の宿、松代までこれも一本道。両側はリンゴ畑。車から手を伸ばせばいくらでももぎ取れる。その誘惑に打ち勝って、宵闇のホテルへ。

11月26日
松代城(海津城)
 今日は、雨。出発前から天気予報で承知しているので、須坂に戻り、「豪商の館・田中本家」の屋内を見学する。衣装、漆器、陶磁器、玩具などがかっての土蔵の内部にさりげなく展示されている。藩主を迎えた時の豪華なお膳立て一式もある。さて、須坂にも藩があるのか?「城」もあるのか?そういえば「城持ち大名」の言葉を聞いた事がある。とすれば、「城なし大名」が当然居たわけだ。調べると、前者は158家。後者は100家。平均1万5千石以下の大名は(大名は1万石以上)「陣屋敷」のみの大名の由。勉強した。
須坂はかっての「富士通」の城下町。今、その看板をどこにも見かけないのが淋しい。
本藩の「富士通」が健在だから、まー、よしとしよう。

 さて、ようやく松代城へ。雨、降り止まず、遠い駐車場からのぬかるみ道に、(おまけに肝心の「スタンプ帳」を車に忘れ再度往復)戦意喪失し、新装成って木の香が残るようなこの松代の古城を北門から入って、本丸、太鼓門と駆け抜ける。
かっての海津城。謙信、信玄が激しく争った日本史上名高い全国区の城だが、感懐に耽るまもなくさっさと無人の管理棟で、出しっ放しの「百名城スタンプ」を押して退散した。
「これで『訪城記』といえるか!」云えませんね。ゴメンナサイ。

象山地下壕
 松代は一時、頻繁に起こる地震で有名だった。その時にこの第二次大戦末期、大本営の最後の拠点と計画された地下壕も話題になった。佐久間象山神社には軽く頭を下げ、象山記念館は無視して、昼食をとった蕎麦屋に車を置いて、地下壕を見学に行く。備え付けのヘルメットをかぶって総延長6kmのうち500mを往復する。しかし、図を見ても通路ばかりの設計で完成した様子が想像できない。完成しなくて良かったといえるのだが。戦争の記憶も我々の世代で消える。入り口に立つ「反戦の誓い」の碑が永遠なことを祈る。

真田宝物館・文武学校
 松代は見所が多い。広くない町だが城下町特有の屈折した道と、郊外への新しい道とが無理にくっついていて、同じ道を何度も通ってしまう。狭い道だから「ナノちゃん」も戸惑ってしまうのも無理がない。ようやく、真田宝物館の駐車場に辿り着く。
 宝物館には型通り色々陳列されているが、「御両敬御留守居名前帳」が凄かった。部厚い和紙の冊子に細かい字で真田家が付き合う他大名家の人々の情報がビッシリと書き込まれているのだ。近親を西軍の大将にし、本家は東軍に隷属した真田家ならではの気遣いかと思ったが、他の諸大名も皆、幕府のみならず同輩の監視に曝されていて、席次や部屋への入り方の順序まで気を使っていた様子だ。
私のメモには「両敬」、「片敬」、「不通」とある。又何処かでこれらの言葉に再会できる日があるように願う。
文武学校は槍の道場まで現存している。太平の世、そして維新後、槍の教師達は何を考えていたのだろう。
宿の電話番号さへ入れれば、あとは「ナノちゃん」任せ。ほぼ日没に宿に着く。

11月27日
別所温泉
 司馬遼太郎氏の「街道をゆく」でかなりのページを費やして紹介されている別所温泉は今回の旅の主目的の一つだ。
 宿に車を置かせてもらい一回り。北向観音、常楽寺の重文・石造多宝塔、安楽寺の国宝・八角三重塔。まだ、9時というのに善男善女多数。私は誰も訪れない別所神社にも参拝。上田市指定文化財の本殿と立派な能舞台をカメラに収める。途中、山本宣治記念碑に足を止める。1929年に暗殺された彼の記念碑を当局の弾圧に1971年まで庭に埋め隠していた斎藤氏の記念碑も一緒だ。長野県人は岩波書店や法令出版社の創始者を始め、印刷、出版関連業種に多い。私もその関連業種なので、長野出身者との付き合いが多い。夫々個性的で何処となく反骨の精神を内に秘めている。この碑はよい例だ。(でも、「信州の鎌倉・別所温泉」との謳い文句はプライド高い長野県人にはそぐわない感じがするけれど・・。)




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27 上田城 
  (訪問日 平成21年10月27日)

■途中、「ナノちゃん」の活躍で、修復中の「海野宿」の街並みを散策して上田城。
上田は真田六文銭一色だが、真田家は早々に松代に移され、現在の城は仙石氏の手によるものだ。しかも、南櫓、北櫓、そして東虎口櫓門も復元され、かえって、徳川を二度に亘って撃退した古城の匂いが薄れている。しかし、東櫓門の案内の方は親切だった。「靴のままでどうぞ。展示物は自由に写真を御撮り下さい。あっ、お二人での写真を撮りましょう。」これには写真嫌いのひろちゃんもにこやかに私と肩を並べて写して頂きました。
 少し気になったのは、本丸に立つ大きな石碑。「戊辰役上田藩従軍記念碑」とある。[写真]
当時の藩主は松平家。これを建て、現存させ、案内書にも載せない経緯が興味を惹く。
 もう一つ。矢張り本丸。真田神社裏手の「真田井戸」。“城内唯一の大井戸で、抜け穴だったとの伝説がある。”との説明。この“伝説”の真偽を実証しようとする「学者」はいないのだろうか?
スタンプは博物館。観光会館だったかな?ここにもドラマがないスタンプ押しでした。


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28 小諸城 
  (訪問日 平成21年10月29日)

■いわゆる「古城」が軒並み修復、再建され、かえって古城の雰囲気を失っていくのに反しこの小諸城は正真正銘、古城の貫禄がある。何といっても、「小諸なる古城のほとり、雲白く・・」と島崎藤村のお墨付きだ。遠足や合宿の途中で訪れた学生時代から、駅前という地の利もあって、「城」というより観光地「懐古園」としてのほうがなじみが深い。第一、入り口の「三の門」の大額は「懐古園」となっている。しかし、今回も、昔と変わらず、松蔭濃く、石垣苔むし、建造物の復元もなく、藤村と古城の感懐を共にすることが出来た。
 園内いや、城内に新築された藤村記念館他の建物も既に歳を経て周りに溶け込んでいるのだ。ただ、今回は見落とした部分が多かった。線路の反対側の「大手門」は途中で引き返したし、肝心の本丸の「自然石の野面積み」の石垣もそれと気付かず素通りした。僅かに、「二の丸」で「関が原への途中、徳川秀忠が上田城に阻まれてここに二十数日滞在した」旨の説明を読み、他人事ながら、秀忠とその傅役の苦衷に胸を痛めた。
 そう、スタンプは真っ先に「徴古館」で押しました。しかし、館の内部を見ませんでした。
「徴古館」は懐古園入り口の外にあります。従って、スタンプを押すだけなら無料です。
 晩秋。日は短く、夕暮れは急速に寒くなる。どう「ナノちゃん」に案内されたか覚えがない。山道を上下し、妙義の俊峰を逆光で見て、どこかで高速に入り4時間で我が家。
三日間の走行距離は600Kでした。

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29 松本城 別名「烏城」
  長野県松本市丸の内 
  (訪問日 平成22年6月3日)

■昨夜は松本駅の近くのホテルに泊った。なかなか名を覚えられないややこしいカタカナのホテルだ。14階のレストランで朝食を取りながら遠くの山々と市内の眺望を楽しむ。
 高いビルがなくこの14階が市内で最も高い展望台になるのだ。曇天で遠くの北アルプスは薄っすらとしか見えない。はっきり見えたら槍だの穂高だの山名を比定するのに落ち着かなかったろう。はっきり見える近くの山もウエイターに聞いてみても美ヶ原以外は知らない名前ばかりだ。高山植物同様、山の名前もどうせ端から忘れるのだから聞かないことだ。
 見渡して、ホテルが多い。このレストランもスーツをビシット着こなしたビジネスマンが多く、遊び着の我々夫妻はいささか場違いだ。松本はまだ経済活動が活発なのかと安心。

 学生時代、山岳部に属していたから、松本にはよく寄った。縦走や長いテント生活の間、下山後の、松本の某レストランでの乾杯が話題の中心でもあった。しかし、いつも素通りで市内をゆっくり歩くのはこの日が始めてだ。ホテルで地図を貰い、こう歩いてお城へ行ったら如何ですかとアドバイズも貰い、車をホテルに置いて、本町通りを歩き出す。野菜の朝市があって、妻は早速、ウドや蕗を仕入れ私のリュックに仕舞いこむ。城見物に私は妻を「連れて行ってやる」と思っているが、妻は「ついて行ってあげる」の感覚らしい。本町通りを右に折れて名店が並ぶ中町通りに入ると、今度は漬物、味噌を買い込む。流石にここにこれまでの買物をこの店に預け、女鳥羽川を一ツ橋で渡り、なわて通りの屋台をひやかし、四柱神社。二人の神主が各社(やしろ)を巡って礼拝をしておられるがカメラを向けることを遠慮する雰囲気があった。
 大名町通りの「観光情報センター」で豊富なパンフレットを集める。オヤ、ここに「江ノ島」のパンフレットが。聞けば松本市と藤沢市とは姉妹都市で「山国は海に憧れがあるのですよ」と、元江ノ島の住人の私に花を持たせてくれた。

 さて、松本城。入場料を払い、管理事務所でスタンプを押す。ケチな話だが、入場料を払わなければスタンプが押せない城はよくない城だよ。でも、ドーンと大きな「国宝 松本城天守」の石碑は貫禄だ。別名「烏城」という黒い松本城の天守閣に合わせた漆黒の石が用いられ、「国宝」の二文字に実感が籠っている。感激して写した写真なのに、帰ってから見ると、「碑」は片隅に小さくしか写っていないお粗末な写真だ。しかし、それでも尚「碑」は何かを語りかけてくる。アップしてみて、「碑」が何を云いたいか判った。「国宝」は松本城ではなく松本城の「天守閣」なのだ。現在、日本に現存する創建当時のままの天守閣は12箇所で、その内、彦根、姫路、犬山とこの松本の天守閣のみが国宝で、他の8城(弘前、丸岡、松江、備中松山、丸亀、高知、伊予松山、宇和島)は「重要文化財」である。国宝と重文の線引きの基準はここでは論じ得ないが、いずれにしても、一般には「城」というと天守閣を指すらしい。我々、城フアンは天守閣は城の一部にしか過ぎず、堀、石垣があれば、充分、城として想いを駆け巡らせることが出来るのに。
 天守閣には靴を脱いで上がる。木造建築技術、城防衛の工夫、いろいろ見所はあるのだろうが、こちらは狭くて急な階段をいかに無事に上り下りするかに神経をすり減らす。一緒になだれ込んだお年寄りの(先方から見れば我々二人も年寄りなのだが)男女の後に付いてようやく天守六階(29.4m)まで登り、四方の山を眺め降りてきた。
 泰平の世になってから増築されたという「月見櫓」も通ったが、この櫓だけには案内書に乗っていないことを知っている。私の学生時代だったか、時の松本市長が役所の女性に腰元の扮装をさせ、(勿論本人は殿様の扮装をしただろう)この櫓で本当に月見をして、問題になったのだった。今、実際に、見てみると、この櫓を月見に使わないほうが問題のような気がするが・・。

 松本城は私にとっては石川数正の城だ。これも、私の若い時代、山岡荘八の大著「徳川家康」が大ブームになった時代があった。山岡氏は、それまで狸オヤジとして不人気の代表だった家康を、成功への教科書風に書き込んで、あの時代の成功を追い求めていた人々はこぞって読んだものだ。その書の中で、山岡氏はこの石川氏にも新しい解釈を加えていた。石川数正は徳川家の重鎮中の重鎮だった。だからこそ、最大のライバル秀吉との渉外責任者に任じれれていたのだ。従来の解釈では、その数正はあろう事か、秀吉に垂らし込まれて徳川家をしゅつぼんして、秀吉の配下になってしまったとのことである。
 しかし、それでは、家康の面目丸潰れ。完全無欠人間として家康を書いている山岡氏の意図にそぐわない。山岡氏の書く数正は、やがてくる秀吉・家康の最終的対決の時に、秀吉側の情報を家康に流し、両者の和平を図る為の重要な捨石として暖かく扱われている。
 その石川家も関が原以後も徳川政権の一員として生き延びたが、結局は大久保長安の疑獄に連座して没落する。その後、もともとの領主たる小笠原家が返り咲く。この小笠原家の戦国末期の生き様も、武田・上杉・織田・・とめまぐるしく主人を変え、主人を裏切る。
 長野県人の性だと言ったら、それは失礼だ。あの時代は誰でもそうすることがお家を守る正義だったのだ。丁度、バブルの時代には多額の借り入れをすることが成長の為の、経営者の正義であったように。

 城を出て、少し歩き、「旧開知学校」を見学する。明治9年に新築された「擬洋風校舎」は、建築文化史上貴重な遺構として昭和36年に重文に指定された。現在は教育博物館に生まれ変わって、開校当時の教室風景や教科書など展示物は実に豊富で、初めて見るもの、懐かしく見るものと興味深く回ることが出来る。
 それも道理、長野県は、教育県として名高い。我々の若い時の教員の勤務評定闘争では独自の「長野方式」を編み出している。また、紙、印刷、出版関係には長野出身者が断然多い。岩波、筑摩書房、法令出版、そして、私の会社のルーツ「星名詞」も創業者は長野の出身者だ。我が社の社員を始め、関連業者の誰彼と、長野出身者を思い出しながら、ここを辞した。

 地図で見ると、松本は井戸が実に豊富だ。「美ヶ原西麓の扇状地松本は豊富な伏流水が湧き出す町」と案内書にある。現在も保存されている「地蔵清水の井戸」、「北馬場柳の井戸」、「北門大井戸」などを辿り、口に含んだりしながらの戻り道、「浅井洌邸跡」の案内板(城北地区文化財保存会作成)をカメラに収め、本日一番の写真と満足する。写真にあるように、同氏は長野県歌「信濃国」の作詞者だ。日本全国、長野以外のどこで「県歌」の存在を意識している県があるだろうか?ところが、長野県人は私が知る範囲では誰でもがこの歌を知っているのだ。しかも、県人が集まると、皆で歌うのだ。この歌が、山々で各市が分断されている長野県人の、アイデンティティなのだという。しかし、どこの県だって各主要都市は離れ離れで、県知事、県庁以外はそこに同県人の意識を求めない。(神奈川県の横浜と小田原、埼玉の所沢と深谷など)県歌のみならず、その作詞者までこうして顕彰する長野県人の郷土愛に脱帽する。

 松本ホテルの落ち着いた食堂で遅い昼を取り、預けた土産を引き取り、車に戻って、後は帰宅するだけ。それも、脳がないと甲州街道をドライブすることにした。甲州街道は私にとっては、新宿近辺しか馴染みがない。この街道に沿った川の名は?水源はどこだ?何処でどの川と、合流して太平洋に注ぐのか?宿場町は何処だ?これらは後で地図で調べることにしよう。今まで城を妻につき合わせたのだから、今度は野菜の掘り出し物を探す妻に付き合ってなるべく道の駅に寄っていこうと走っていたのだが・・。
 途中で「新府」の指導表をみたので、アレレ、ナビ嬢に断りなくそっちへハンドルを切ってしまった。
 新府は勝頼が甲府を捨てて新しく城を築き始めた場所の筈だ、と胸が躍る。ところが、山道を登っても登っても、ない。道さえ心細くなってきて、妻の忍耐力も心細くなってきたので撤退を決意。ナビ嬢にも詫びを入れ、高速の入り口に案内するよう依頼して、走り出したら、皮肉にも今発掘中の新府城の脇に出た。
 
 けれど、これ以上、女性達を敵に回したくないので、ナビ嬢の案内に従って、無事、我が家に着いた。


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30 高遠城 
  長野県伊那市高遠町
  (訪問日 平成22年6月2日)

■高遠城へは車で行った。地図を見れば、中央高速を諏訪南で下り、杖突峠を越えれば近く見える。しかし、どの峠道も地図では近く見えても九十九折を上り下りするので、決して得にはならない。それを承知で今回は杖突峠越えの道を選んだ。
 数年前に、友人とこの道を走って守屋山に登ったのだ。守屋山は諏訪神社のご神体だ。
 諏訪神社は、タケミナカタノ命がヤマト政権との武闘に敗れ、出雲から逃れてこの地に開いた神社だ。その時、諏訪には守矢氏が勢を持っていたが、タケミナカタは守矢氏を滅ぼすことなく共存して、現在に至っている。日本人は外来文化をこなすのが実に上手だ。多少の血を見たにせよ、縄文は弥生を受け入れ、神は仏と共存し、キリスト教も、黒船も、我々の記憶に新しい進駐軍ともゲリラなど組織しないで、仲良く暮らしている。出雲と守矢氏の日本的な関係が「現在に至っている」と書いたのは、同期に守矢氏がいて、出雲に怨みを持つことなく暮らしているし、守矢神社はあるし、著名な建築家が設計した守矢記念館まであるからだ。
 私はこのいかにも日本的な話が大好きで、格好の日本人論として、この知識を「薀蓄」として披露していた。だから、峠を越えて暫くして道端に「守屋神社」を見つけた時は、当然、車から降り、カメラを向けた。しかし、この「薀蓄」は浅はかだったようだ。
 鳥居の纂額を写した時に、この神社は「物部守屋神社」と知ったのだ。ここに物部一族がいたのか。守屋は物部守屋の守屋なのか。この氏の祖、ニギハヤヒノミコトは古代神々の中のスターでフアンは多い。私もオッカケの一人で、所沢にも彼を祭神とする神社があることを知り、なんとなく嬉しくなったり、秋田市郊外の物部神社に案内してもらい、円い池の中にあるいささか異様な神殿に心躍らせたりしたものだ。東北の物部については高橋克彦氏のエミシ3部作に詳しい。氏は物部を渡来の産金業者として捉え、藤原3代を支えた「金」の供給者として紹介している。「金売り吉次」は文字どうり「金」を京の都に売りに行き、文物・情報を仕入れて、(義経も仕入れて)また陸奥へと帰ったのだ。
 物部氏は全国どこにでもいる。長野にもいて不思議はない。長野善光寺の本尊を見つけたのが物部ナントカだと読んだ時に「なぜ長野に物部が」と不思議に思っていたのがここで生きてきた。
 と、なると・・。タケミナカタノ命は、偶然、諏訪に来たのではないのではないか?
 ニギハヤヒノミコトは、日本海を渡ってきた神だ。物部一族は秋田に見るように、(そして、今の北朝鮮脱国者のルートに見るように)日本海側の日本の北から南まで勢力を植えつけていたのだ。その本家が出雲にあって当然だろう。タケミナカタノ命は守屋を頼って諏訪に来たと考えてよいのではないだろうか。
 
 今回は「100名城」紀行だ。この壮大にして魅力的な仮説は暫く胸中深く仕舞いこんで、高遠城に急ごう。(しかし、いつも思う。城は学べば知識が増えるが、神社は学べば学ぶほど謎のみが増える)

 高遠城の歴史はどの本でも、「古くから諏訪氏の勢力圏にあって、南北朝の頃よりその支族である高遠氏が治めていた。しかし、ここは諏訪から伊那へ抜ける交通の要衝であり、南信濃から駿河や遠江に進出するための重要な地点であったことから、信玄に攻められ、彼の旗下に属した。」その後、織田の猛攻で、信玄の五男仁科五郎の今も語り継がれる奮戦も空しく落城し、さらに織田家滅亡後は、高遠藩として、幾多の藩主を迎えた。
 数十年前に、この城を訪ねたときは伊那から遡った。今回は峠を下って高遠へ入ったのだが、ここが、「交通の要衝」である感覚が掴めない。天竜峡に扼された伊那の方が余程「交通の要衝」と思うのだが、今回は、帰途、簡単な道なのに山道に迷い込んで伊那の町を素通りしてしまったので尚更二つの町の関係が判らなかった。伊那には名のある城はない。
高遠が伊那市に合併されるのは、なんと、2006年だ。伊那とはどんな市なのだろうか?市のホームページを見てもよく判らない町だ。(財政は長野県ワーストの部に入るらしいが)この私のモヤモヤが晴れる日がいつか、来るのを待とう。

 城には櫻は付き物だが、なかでも高遠の櫻は有名だ。明治初年、城の建物を撤去した後に地元の人達が根気よく植えていった桜が、文字通り、今、花開いたのだ。但し、あまりにも「櫻の高遠」が定着してしまって、一年を十日で過すよいお城になってしまい、櫻の季節以外はあまり人気がないのは皮肉なものだが。
 二方は谷に挟まれ、他方は深い空掘りを巡らし、石垣を殆ど使っていない。典型的な戦う為の城であり、前述のように豊富な戦闘経験を持っていて、その遺構がよく残っていて、いかにも平山城を見学している感になる。
 しかしだ。お目当ての「100名城スタンプ」が置いてある「歴史博物館」に展示されている発掘物の中には、矢やら、鎧の欠片やらの戦闘があった事を証明する遺物はない。
 「ないのか?」との質問に「ありません」と答える事務員との問答も、他の山城と同じだ。数千人が立て篭もり、数万人が攻め寄せた戦いは本当にあったのか?
 このモヤモヤも晴れる日がくるまで仕舞っておこう。

 この城のもう一つの見所は、「絵島囲み屋敷」だ。ご存知、大奥大年寄り絵島が、功なり名を遂げた、齢(よわい)、30歳を過ぎて役者狂いをして、60歳を過ぎるまでここに幽閉されていたのだ。私も齢(よわい)70歳を過ぎると、相手の役者も遠島で済んだのに死罪になった2名は誰かとか、この絵島の賄費用は誰が負担したのかとかつまらない疑問ばかり浮かんでくる。
 写す写真も、「間取り」とか、絵島の待遇を「火鉢の使用の可否、鉄漿の使用の可否、などなど」細かく問い合わせた往復文書の現代訳とかにカメラを向け、肝心の「屋敷」の全景など写さないのだから、歳はとるべきか、とらざるべきか。

 他にカメラに収めたもの。高遠が徳川政権の藩となって初代藩主として19年善政を施いた、保科正之公の「母の像」。正之はその後会津藩主、将軍家綱の後見役として名が高く、高遠町は今彼をNHK大河ドラマの主人公とするよう運動中の由。彼の母が像となるのが面白い。
 新宿区長の記念植樹碑。歴代藩主の一人に内藤家がある。新宿は内藤家の下屋敷
 城下の博物館から見上げると、「案内図」に載っていない三重の塔。聞けば、物好きが、史実に関係なく、勝手に建てた由。駐車場に帰る途中、寄ってみたが、説明もなく全く無視されている。建てた人はどんな「物好き」か、興味津々。

 昼時を大幅に過ぎていたが、幸い、城下目抜き通りにある、そばの名店は開いていたので、おいしい天ぷらそばを食べて松本へ車を走らせた。今日は日が長いから高速でなく、一般道路をはしろう。


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31 新発田城
  別名 菖蒲(あやめ)城 浮船城 狐尾曳ノ城 
  (訪問日 平成22年7月1日)

■3つの別名を持つ新発田城

 新発田市の市名を知っている人は多いだろう。しかし、われわれの仲間でも、この駅で降りた人は少ないのではないか。ましてや、わざわざ新発田城を訪れる人は余程の城フアンだろう。この城が新潟県では大河ドラマ「天地人」で有名になった春日山城と共に「100名城」に選ばれた。私の好みでは、ここから少し北に位置する村上市の「臥牛城」がいかにも平山城らしく好きなのだが、新発田城の本丸表門、旧二の丸隅櫓は城郭建築では新潟県唯一の国指定重要文化財だからこちらが「100名城」に選定されたのだろう。
 ただ決して無理に探し出した城ではない。手持ちの昭和の時代に発刊された、数種類の「100名城」にもこの新発田城は必ず入っているのだから。

 新発田城は駅から遠くない。数十年前に訪れた時は、表門のみが残り、門から一歩中に入ると忽ち自衛隊の駐屯地となり、丁度、かつての金沢城が門を入ると金沢大学の建物に占拠されていたと同様、ひどく興醒めしたものだった。
 それが、平成16年に「三階櫓」と「辰巳櫓」が復原され、自衛隊とも城壁で仕切られ、小規模ではあるが「城」の体裁が整っていた。スタンプは表門入り口にあり、入城無料だが案内人が居てもちろん無料で説明をしてくれる。
 小さい城だが別名が三つもある。「菖蒲(あやめ)城」は、周囲を自然の要害とするため水田開発をさせない湿地としたのであやめが沢山咲いていたから名付けられた。現在は「車で20分」に「あやめ園」がある由だが行く時間はなかった。
 「浮船城」は大雨になると城が水面に浮かんでみえるからだという。「狐尾曳ノ城」は城の縄張りを考えている時、狐が尾を引いて設計のヒントを与えたの伝説からつけられた。「狐」はともかく、「湿地」、「城が船になるほどの大雨」と言葉を拾えばここ「新潟」の「潟」との闘いに想いを馳せざるをえない。

 現在、穀倉になっている新潟県の水田が、永くかつ困難な努力の積み重ねの結果であることは司馬師の「街道をゆく・潟のみち」にも詳しい。新発田藩も慶長3年(1598年)秀吉の命で溝口氏が入封して以来、幕末まで、「倦むことなく農業土木をおこない稲作地をふやす努力を続け、入封時、5万石が幕末時は表高10万石、内実は40万石の草高」となった。
 しかし、司馬師は続ける。「新発田藩は米作一本槍に熱中したあまり、江戸中期から隆盛になった商品経済にきわめて鈍感な体質をつくってしまった」
 司馬師が「潟のみち」を執筆されたのは、1976年である。いまや折角苦心して築き上げた農地が都市化の波に押し流されていく時代となっている。司馬師は日本の土地高騰に警鐘を鳴らし続けて世を去った。現在の「シャッター通り」に成り果てた各都市の現状を見たら、何を思うだろう。

 城門前に堂々たる「堀部安兵衛」の立像がある。前回の訪問時も堀部安兵衛が目立っていたが、彼は新発田出身で赤穂藩士の養子となって、のちに「忠臣蔵」に登場するのだ。その程度の人物しかこの市が誇る人材はいないのか、いささか憮然とする。
 実は、今回は「大人の休日倶楽部12000円乗り放題」での旅だ。昨日は鶴岡を訪れた。鶴岡城は何度も訪れているがその城内にある「郷土ゆかりの人物資料館 大寶館」を初めて見学した。そして、鶴岡出身の多彩な群像の展示に、大いに感銘をうけたばかりなので、一層その感を強くした。
 鶴岡には、作家だけでも、今を時めく藤沢周平などまだ若造の口で、横光利一、高山樗牛などの歴史の洗礼を潜り抜けた巨人から、明治・昭和の田沢稲舟、赤木由子などの女流作家が紹介されている。
 音楽では鶴岡で楽想を得たという「雪の降るまちを」の作曲者中田喜直、「国境の町」の阿部武雄。関東軍参謀として有名な、石原莞爾、アイヌ擁護に努力した松本十郎。
 更に感心するのは、リンゴの改良に努めた須佐寅三郎、庄内砂丘を一大農産地に変えた斎藤松太郎など、産業分野にも目配りが効いて、心が洗われる様な人選がされていた。
 (但し、新発田駅で戴いた市の観光振興課作成の「さんさく シバタ・ビ」「しばた観光マップ」などには堀部安兵衛については全く紹介されてはいなかった。それはそれで不思議な話だが、私としては安心しました)。

 さて、新発田城に溝口氏が入部する前は、この城は新発田氏の居城であったが、上杉景勝との幾度の壮絶な戦いの末敗れ去った。新発田氏は宇多天皇源氏佐々木氏の流れである。
 佐々木氏は頼朝の挙兵に初めから加わり、鎌倉幕府が成立すると諸国の守護・地頭に任じられた。越後国加治荘は、佐々木盛綱に与えられ、この盛綱の子孫が越後に分立した。
このことを、「100名城」の観音寺城を訪れた時、この城の滅ぼされた城主である六角氏の末裔である近江商人の家柄の友人に教えてもらったばかりである。六角氏も佐々木氏の有力な一族であった。この友人は全国の佐々木氏分布の研究に余念がなく、全国佐々木氏の会の有力メンバーである。

守護と地頭のこと

佐々木氏の研究は彼に追々聞くことが出来るが、私はここで「守護・地頭」を改めて初歩から研究し直さねばならない。
佐々木盛綱は、越後を与えられた。島津家の祖・島津忠久は薩摩である。「守護」としてか?「地頭」としてか?「守護」は有力な「地頭」の中から任命されるので「得分(収入)」はない。
では、「地頭」の「得分」は?「一定の決まりはない。場所ごとの慣例による」とされている。
 「守護」は国ごとに一人。「地頭」は「荘園・公領(郡・郷・保)」が設置区域。」
 荘園領主・国司らはその設置に猛反対する。それはそうだろう。で、最初は謀反人の所領(平家の官領500余ヶ所を没収)に限定した。
 鎌倉幕府は1192年(「いい国作ろう鎌倉幕府」)に成立したと思っていた。しかし、この「守護・地頭」の設置を朝廷に奏請し、勅許を得たのはそれより7年前の1185年である。
 この1185年に、頼朝を支えた関東武士は財政的に報われ、実質的に武士の政権が誕生したと思うのだが、頼朝自身の、つまり、源(みなもと)家の収入はどこから得るのだろう?
 徳川家は全国の半分を自分の領地にしていた。源(みなもと)家の場合はどうなのだろう?

 その他、「守護・地頭」の各々の任務・権限は?とか、各地の守護の変遷は?とか、わからない事が多すぎる。わからない事は、判らないままにして、暑い中、新発田の中心地を、急ぎ足で歩き回る。今日中に帰れる汽車の時間が迫っているのだ。今回の旅の相棒である妻が見たがった蕗谷虹児記念館はカットしたが、清水園・足軽長屋には付き合った。諏訪神社は私があきらめて、宝光寺では二人で感心して見物し、あー、ようやく、駅に着いた。
 


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32 春日山城 
  新潟県上越市中屋敷字春日山ほか
 (訪問日 平成23年11月29日)


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**  このような山城は例の動物が地下に眠るこのシーズンにしか私ひとりでは行けないので久しぶりに単独行。
 早朝、所沢を出れば、越後湯沢からスノーラビットに乗り換え、3時間で直江津、つまり春日山城下に着くのだから驚く。このラビット号はトンネルが多いことを逆手に取って車両の天井のスクリ−ンに情報を流すスグレモノである。で、11時前にスタンプが置かれている「春日山城跡ものがたり館」に着く(下の左写真)。折角無料なのに時間がなくゆっくりみなかったことは申し訳なかったが。
単独行だからバシャバシャ手当たり次第シャッターを押す。写したけれど、「説明板」の案内がなければどの場所もも単に山の城の一部であって皆同じような写真としか見えない。かといって、「説明版」を大きくしても「字」は読めるが、「字」しかわからない。
どこの城もこの悩みは同じだが、この城は思い切って「説明版」から、数枚を紹介しよう。
 「御成り街道」(下の中央写真) 先日、引っ越して、今まで最寄駅まえ1200歩であったのが、1500歩になって、ささやかに不満を感じている。昔の人は良く歩く。この地から京都まで軽々と歩く。関白近衛前嗣。この妖怪が3年もこの地に滞在してたのか。
 縦堀(下の右写真)「山城には尾根を分断して敵の侵入を防ぐ堀切と、深い沢を造って郭を独立させる縦堀の二つの形式の堀がありました。この縦堀は対馬谷から二の丸の直下まで伸びてくるもので、自然の沢をうまく利用しながら人の手を加えて、要害にふさわしい堅固な守りにしています。
**
縦堀
 津久井湖城は40数年前に初めて城めぐりを始めたころに、家族を引き連れて登った懐かしい城だ。この城に「縦堀」があると知ったが、「縦堀」とはどんな構造か?目的は?効能は?が解らなかった。それから、50年たって沢山の城を見、縦堀を見て、その度に熱心に観察するのだが未だによく解らない。ここでも丁寧な説明版がついているが、この説明は読めば読むほど解らなくなる。縦堀がどれだかわからないまま写真を撮った。
縦堀
 津久井湖城は40数年前に初めて城めぐりを始めたころに、家族を引き連れて登った懐かしい城だ。この城に「縦堀」があると知ったが、「縦堀」とはどんな構造か?目的は?効能は?が解らなかった。それから、50年たって沢山の城を見、縦堀を見て、その度に熱心に観察するのだが未だによく解らない。ここでも丁寧な説明版がついているが、この説明は読めば読むほど解らなくなる。縦堀がどれだかわからないまま写真を撮った。
毘沙門堂
 謙信は、戦いの前に、この山頂にある小さなお堂に籠って戦勝を祈願した。と書かれている。
井戸曲輪
 「廃城後400年の星霜を経て今なお満々と水を湛える大井戸は春日山城が山城として最適な地に造られていることを教ええくれる。どのようにして水が湧く地点を調べたか定かではないが地質学的には西方の山々と礫層でつながっていてサイフォンの原理が働いて水が湧くとのことである。」以上説明版の写し
福島城そして御舘 そして一ノ宮

 今回は直江津駅で素直に観光タクシーに乗った。城入口で数時間後の出迎えを依頼して別れた。今度の若い運転手は、私の次の目的地「福島城」を知らなかった。「エー知らないの?」と私が大仰に驚いてみせたせいか、ドライバーが道を会社に訊けず売店の御婆さんに訊いていたのが面白かった。
で、苦心して見つけた福島城は「古城小学校」(写真下左)の校庭の片隅に立つ「碑」(写真下中央)とその隣の「説明版」(写真下右)が残るのみであった。

福島城説明版の全文を下記する。
 「福島城は慶長12年(1607年)に完成され、同19年に廃城になった。慶長15年堀氏が改易になり、家康がわが子忠暉を信州川中島から移し75万石の福島城主とした。しかし、忠暉も4年後福島城を廃し高田へ移ってしまった。理由は明らかではないが毎年雨季になれば関川・保倉川が氾濫するからだだという(説明版にはここに句読点ナシ)まことに短命な城であったが、(この左の)図によって日本海・関川・保倉川の二河の地理を考えたその規模の大きさを、かっての野面積みの石を用いた左の碑壇の石垣を見ることによって、豪壮な城であったことを知ってほしい。」
私の友人に忠暉の大フアンがいる。彼のお蔭で私はこのような優秀なライバル群を押しのけて二代将軍の座に座った秀忠を高く買うようになったのだが、それを置いて、かの忠暉フアンから福島城移転の内情を聞きたいと思っている。
次は「御舘」
 謙信は女性と接しないから、養子を用意した。二人も用意した。どちらを後継者にするか決めずに他界してしまった。生前に指名して、体制を整えておけばと誰しもが思うところだろう。各々担ぐ人が多いから謙信の跡目を巡って争いになる。
 御舘に寄った景虎は敗れた。写真のように「御舘」の遺構は皆無に等しい。しかし、まわりを見てもこんな平地で守りに強い筈がないと思うのだが。
「二重の堀に囲まれた、東西250M・南北300M、東京ドームの1.6倍の大きさ」とは案内板の記述。
ついでに「越後一ノ宮 居多(こた)神社」
 福島城を見付けかねている最中、「越後一ノ宮」の前を通る。慌てて、タクシーを停めるが、鳥居の前で参拝するのがやっと。でも、一ノ宮にしては小振りな印象を受けているが如何だろうか。今、思い出す。越後一ノ宮は「弥彦神社」ではないか。ウイキペディアを見ると二つとも正しい。それはよかった。



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