各種投稿集・その他
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  これまでに各種刊行物などに投稿した記事などです。

目次(各目次項目をクリックして下さい)



■悠々会投稿文「鹿島神宮・香取神宮と人生百年」(2021年6月)
■上野さんの「GO−TOトラベル体験記」の驥尾に付して(2021年3月)
■悠々会の上野様・櫛部様・杉森様・平林様(2021年3月)
■岡山県矢掛町を訪ねて(2020年11月22日)
■有賀さんの訃報に接し(2020年12月、針葉樹会への投稿)
■小平の思い出(2020年10月20日、「楽宴会」投稿文)
寅さんとコロナ
■日本城郭協会会報「城郭ニュース」2019年夏号への投稿掲載記
■2017年5月、「如水会会報」No.1034に掲載されました。
■如水会会報(一橋大学卒業生会報)2012年12月号への投稿掲載記事

●2017年、私の年賀状
●2016年、私の暑中見舞い
●2016年、私の寒中見舞い


悠々会投稿文「鹿島神宮・香取神宮と人生百年」
遠藤 晶土(Tクラス 高橋泰蔵ゼミ) 
 私は永いこと零細企業の社長をしていた。貧乏会社の社長の仕事の大半は、資金繰り、つまり、借金をすることである。ただ、勘定科目では「借金」と云わず「借入金」と云う。「借入金」は貸し手が金融機関であり、担保を提供して初めて導入できる。担保の有無が「借金」との違いだ。逆に言うと、担保付の借入は利息さへ払っていれば、返済の必要はない。
 ところが、この理屈がシロウトには判らないのだ。私の妻も「借金は悪」との教育が身に沁みついているから、自分が住む家が担保に入っていることが不安で仕方がない。で、自分で「へそくり」をチマチマと貯めて家を一軒買って、私の退職を機に移り住んだ。仕方がない、私もササヤカにお金を出して、同居を許してもらった。
 先日、不動産税の徴収通知が来ていた。何気なしに見ると宛名は妻の名で、隣に「他一名」とあるではないか!私は世帯主の地位から転落して「他一名」になってしまったのだ!

 コロナが蔓延し、我々は自粛を求められた。私は気にしないのだが、私のたった一人の同居人は感染を恐れ、私が数泊の旅行を計画すると「行ってもよいけど、帰る家は有りませんよ」とキッパリ云う。で、同居人に気を使ってここ数か月は日帰りの「旅」に徹している。
 我々夫婦は今、千葉県との県境に近い埼玉県吉川市に住んでいる。私の家から歩いて行ける神社を「蕎麦高神社」という。ご由緒には千葉県の「側高神社」を勧請したとあり、更にその「側高神社」は、かの「香取神宮」の外摂社と知った。で、早速に「香取神宮」と、ほぼ香取神宮と隣接する「側高神社」の両方に参拝に行った。

 その時は他にも寄るところがあったので、近くの「鹿島神宮」には参拝をせずに帰宅した。先日、再びコロナ下の日帰りの旅として鹿島神宮に向った。
 この両神宮への参拝記は私の「ホームページ」に詳しく載せてある。私のホームページは2008年頃から「日本百名城紀行」の為に作った。「百名城」は完登し、「続100名城」も残すところ10数城となって、今は「神社探訪記」が多いが、いずれにしても訪れてくれる人はマバラだ。これを機会に「遠藤 百名城」でパソコンを検索して、その中の「鹿島神宮」「香取神宮」の項を一読して欲しいけれど、どうせして頂けないだろう。私の言いたいことをここで繰り返す。

 この両神宮(両社とも「神社」ではなく「神宮」であることに御留意を!つまり日本に数社しかない格式がとても高い神社なのだ)の御祭神は「鹿島」が「タケミカヅチノオオカミ」で、「香取」が「フツヌシノオオカミ」。お二方とも、出雲の国との「国譲り」交渉成功の立役者として名高い。
 そのお二方が、手を携えてこの東国に居を構えたのがこの両神宮である。
 問題は、これからだ。古事記は(多分、日本書紀も)この「出雲国譲り」の後の事柄として「ヤマトタケルノミコト」の東国遠征の記に多くのページを割いている。ミコトは焼津事件などを経て、横須賀から房総半島に渡る。その時、海を鎮めるため愛妻「オトタチバナヒメ」が身を投じたエピソードはとくに有名だ。我々の懐かしの「ハイキング悠々会」の「横須賀歩き」でもこの二人を祭神とする「走水神社」に参拝したことを昨日のように思い出す。
 しかし、ミコトが折角、苦労して安房からさらに東北へ歩を進めたのに、古事記には鹿島神宮、香取神宮については、何の言及もないのが不思議だ。ヤマトタケルノミコトはこの旅立ちの時、伊勢神宮に参拝しそこで後に活躍する「草薙の剣」を頂いている。つまり、「神宮」は既に創建されていたのだ。伊勢にあるのだから、鹿島・香取にも神宮があって当然ではないか。
にも拘わらず、ミコトは、いや、古事記はこの神宮の存在に全く触れていない。
ミコトは東国で何をしたのだろう?関東の平定?それはこの鹿島・香取に祀られる二人の偉大な先輩があらかた成し遂げたのではないか?だから、二つの「神宮」が建てられたのではないか?

 更に問題がもう一つ。鹿島の「鹿」は伊達ではない。ここの白鹿が、藤原氏の氏神である「タケミカヅチ」を背負って遥々奈良へ運んで、「春日大社」に祀ったのだ。無事辿り着いた鹿が増えて、今、ご存知のように「春日大社」では鹿が群れをなしている。しかし、大元の鹿島神宮では最近鹿が居なくなってしまい、逆に奈良から鹿を迎えてささやかな鹿苑に住んでいる。「無事辿り着いた鹿」と書いたのは「辿り着けなかった鹿」も居た訳で、その鹿を祀った神社が都内にもあるという。他にもあるらしく、その鹿の由緒を持つ神社を辿ってゆけば、タケミカヅチが奈良へ行った道筋が解るのだともいう。
 全国の鹿にゆかりの神社を訪ねることは出来ないが、江戸川区鹿骨にある鹿見塚神社へ行ってみた。小さな神社だが、説明版にその事実が書かれていた。
 しかし、何故、大和政権で常に中枢にいた藤原家が、鹿島の地から、大和に向ったのだろう?奈良から鹿島へなら解るのだが、何故、逆なのだろう? 

 この二つの問題に対して、答えを見いだせないでいる。
 いや、この「疑問」を真正面から論じてくれた学者も見いだせないでいる。

 この悠々会同期でプロのシャンソン歌手のT兄に歌の事で質問をしたことがあった。彼は回答に付け加えて、『高天原は関東にあった』なる本を紹介してくれた。チョット引きたくなる題名だが、著者田中英道氏は、東北大学名誉教授。逆転の発想でいろいろ参考になる。私のバイブル、司馬史観では触れられてないと思うが、対談や講演の隅々まで目を通せば何か卓見が述べられていたのかもしれない。松本清張史論は司馬師のライバルだから、と、私は敢えて読まないできたが、彼の著作には参考になることが書かれているだろうか?
 悠々会には、H兄、F夫妻始め清張史論に堪能な俊英が揃っている。皆様の御意見を聴くのが楽しみだ。


 今は、人生100年の時代の由。我々にはまだ20年の歳月が待っている。
 その間にまだまだ多くのことを学べるだろう。
 あの世へ行って多くの友人たちと旧交をあたためるのも楽しみだが、その前に、この世で会える皆様と交遊を続けるのが先だ。
 まして、私は、最近、心配している。先に逝った先輩・友人たちは、この世で善行を積み重ねていたから、間違いなく天国で暮らしているだろうが、善行を積むこと薄い私は、果たして、彼らと一緒に談笑できるだろうか?
 私だけ、違う世界に行かされたりしたらどうしよう。
 と、云う訳で、生きている間に、生きている友人達に、沢山、遊んで頂きたい。
 幸い、わが37年卒の同期は優れた幹事諸兄に恵まれている。幹事諸兄の永年のご努力・ご尽力のお蔭で、我々会員は密な親睦を保っていられる。
 有難うございます。
 これからもよろしくお願いします。

                        以上





上野さんの「GO−TOトラベル体験記」の驥尾に付して

上野さんの「GO−TOトラベル体験記」興味深く読ませて頂きました。
格調高い首相の肝いりの施策での京都旅行を、いつもの上野さんの格調正しい文章でご案内して頂き、自分が旅をしたような満足な気分でした。上野さん、有難うございました。

ところで、私も先週末に富山県・石川県に一泊のドライブ旅行に行ってきました。
上野さんの旅とは違って、「緊急事態」のもと、世を忍び、身を屈めての出発でした。
夫婦仲睦まじく旅を楽しんだ上野さん御夫妻と異なり、私の場合は妻は頑なに同行を拒否します。それどころか、「帰ってきても家に入れると思うな」「二週間、病院で隔離されてこい」と強い圧力をかけてきます。思い当たる御同輩もいると思いますが。
「止めてくれるなヒロコチャン(これは私の妻の名前です)。行かねばナラヌノダ」と、二回り歳下のYさん夫妻の迎えの車に乗りこんだ次第です。

今度の旅では、「越中一の宮 高瀬神社」「「白比古神社」「久麻加夫都阿良加志比古神社」という、いずれも日本古代史を飾る由緒正しい神社を参拝してきたのですが、その詳細は私のホームページで読んで頂くことにして(どうせ読んではいただけないだろうが)、コロナ下の越中の町の様子を少しご報告しましょう。

「高岡では駅前のビジネスホテルに泊まった。そこから歩いて数分の居酒屋を高岡の友人に予約してもらった。予約しておいてもらってよかった。土曜日の夜6時に入店したのだが定員20名くらいのごく普通の居酒屋に、30名近くのおじさん・おばさんが犇めいて、たばこの煙があちこちでユラユラしている。僅かに空けてあった我々の席で約二時間、富山湾の魚料理を楽しんでホテルに帰ったが、客は一向に減らなかった。
次の日の昼は七尾市の「能登かき街道」。牡蠣小屋がずらりと並ぶが、これまたどこも満員。一時間待てば入れるという店を見つけて待つ。待つ間、車で直ぐの「仲代達也演劇堂」にも寄ってみるが、ここは日曜でクローズ。ようやく店に入れて、これまた30人位がぎっしり詰まった炭火焼を楽しんだ。」

緊急事態の中で出歩いた私は本来犯罪人で堂々と発表する資格はないのですが、上野さんの驥尾に付して、提出致します。
二週間後、私が感染していなかったら、5月6日の楽演会で皆様にお目にかかれるでしょう。その日を楽しみにしております。



悠々会の上野様・櫛部様・杉森様・平林様
 「緊急事態宣言」の国禁を犯して不要不急の旅に出奔した私を、責めることなく暖かく出稿の手配をして頂いた上野さん、また、コメントして頂いたご三方に感謝です。

 私は生をお江戸日本橋の本町で受け、江の島に疎開し、横浜に就職先と新居を構えました。東京に転職し住所を埼玉県に移してからは、他県に赴任する機会もなく過ごしてきました。
 従って、日本海沿岸の各県については知識を持たずに生きてきました。しかし、Yさんと云う小松出身の旅仲間を得て、ここ10数年、七尾・金沢・富山・鳥取(平林さんゆかりの若桜城を含む)などの名城を訪ね、各地の北前船の寄港地でその栄華を偲ぶ旅が増えてきました。
 最近は、さらに日本の歴史を遡って、出雲に代表されるアジア大陸への玄関口としての日本海沿岸の諸都市に惹かれています。

 今回は、「令和」命名の縁で脚光を浴びている「万葉集」を訪ねて、「万葉歴史館」にも寄りました。万葉集に多数収録されている「防人の歌」に疑問を持っていたからです。
 何故、無位無官の防人諸君の歌があんなに沢山集まるのか?防人諸君は文字が書けるのか?紙はどこから調達したのか?何処に保存されていたのか?
 これ等の疑問を「歴史館」で案内の女性に質問する。当然、彼女は解らない。しかし、彼女は、職務に忠実だ。奥から若い男性を連れてきてくれる。彼は開口一番、一刀両断、「あの歌は、防人に決意表明の証として上司が書かせたのです」と。了解。了解。これで腑に落ちました。「何か、文献を?」とねだる私に「館内を見学していてください。帰りに受付に用意しておきましょう」と。帰りがけに頂いた参考リストに付けられた名刺で彼、鈴木崇大氏は、若いが、歴史館主任研究員にして文学博士とわかった次第です。

 北陸のご三方、お目にかかって、親しく故郷のお話を聴かせて頂く日を楽しみにしております。


岡山県矢掛町を訪ねて
2020年11月22日
 NHK・BSのTVは時々、昔の名画を上映する。先日は「1937年のフランス映画「踏会の手帳」を放映した。1938年、つまり、私の生誕の年に日本で公開された由。
 未亡人となったヒロインが、昔、舞踏会で踊った相手の名を書きとめていた手帳を頼りに、それら踊り相手を訪ねて回るオムニバス映画だ。

 私はその真似をすることにした。といっても頼りは勿論「舞踏会の手帳」ではない。
 「年賀はがき」である。毎年交換している年賀状に「今年こそ会いましょう」と一筆書き添える友人・知人が多数いる。その人達と、「今年こそ会おう」、と、一念発起したのである。時、アタカモ、コロナの発生期。政府からの自粛要請を受けて、皆、自宅に籠り、連絡が取りやすい筈だとの思いも、私の背中を押した。
 そして、かなりの確率で、その再会は実現した。地方の昔馴染みにも連絡したので、この「バッ旅」の途中で旧交を温めた人達も数人いる。
 その紹介の時、この「舞踏会の手帳」方式を、私は、書いたかもしれない。と、すると、重複するわけだが、自分でさえ、忘れるのだ。どうせ、誰も読んで呉れないこのホームページ。読んで、前にも同じことを書いた、と、注意してくれる人がいたら、有難い。その人に、当社特製「箔押し美麗カレンダー」を進呈しますよ。
 
 今回の浜田城では、Yさんの旧知で浜田市内で写真館を営むIさんを訪れたし、岡山県矢掛町ではYさんと私の山の仲間Kさんと夕食を共にした。

 Kさんは香港駐在の時に、同じく証券マンとして香港で活躍中のYさんと香港の山歩きで知り合った仲だ。私には山岳部の10年後輩にあたるが、一緒に山に登ったことはなく、社会人になっても、知り合ったのはつい最近。お互い現役を離れてからなので、後輩でありながら「K」と呼び捨てにはしにくく「Kさん」とよんでいる。
 Kさんは引退後、奥さんの実家のここ矢掛町に居を構え、矢掛町の観光宣伝に大きな役割を果たしている。その努力もあって、今回、矢掛町矢掛宿が国の重要伝統的建造物群保存地区選定へされたのだ。今回の訪問はそのお祝いの意味もある。

 地元の旧家を良い雰囲気を残したまま改良した料亭で地元の食材・銘酒で旧交を温める。その席で私は非常にプリミティブな質問をする。「矢掛町は宿場町とあるが、何の街道か?」怒りもせず後輩は答える。「山陽道です」そうか、我々東の人間は東海道しか知らない。古代以来山陽道は、大和朝廷と九州の太宰府を結ぶ大路であったのだ。
 山陽道を知ろう。そして、この風情ある矢掛を再訪しよう。これでまた今後の楽しみが増えた。







 2020年12月、「針葉樹会」投稿文

2020年12月

  針葉樹会報幹事へ

    有賀さんの訃報に接し。
遠藤 晶土(S37卒)  

                          
 有賀さんがご逝去された由、まことに残念に思います。もう一度お会いしたかった。
 「お会いして一緒に山に登りたかった」とは、お互いの年齢・健康状態からとても無理な話ですが、お会いして有賀さんのヨーデルを聴きたかった。
 有賀さんと云えばヨーデル。有名な有賀さんのヨーデルを、私は聴いた記憶がないのです。有賀さんは昭和36年卒。私は37年卒。現役の山岳部時代から卒業後の現在に至るまで、長い間、お付き合いをさせて頂いたにも拘らずです。

 しかし、もう一度お会いしても、どこで、ヨーデルを聴けば良いのだろうか?カラオケ・ルームでもスナックでも有賀さんのヨーデルの舞台には相応しくない。

 仕方がない。今度、あの世でお会いする時まで待ちましょう。あの世では、ヨーロッパ・アルプスでも、日本の高原でも、舞台は自由に選べるでしょう。我々も学生に返っても良し、男盛りの社会人でも良し、好きな時代を選ぶことが許されるでしょう。

 有賀さんの同期のヤロー会の面々、中川リーダー、中島寛さん、小林進二さん、山本さん、大賀さん、仲田さんなどと、又、私の同期のクロー会のメンバー、大リーダー、朝木君、宮本君、など、あの世の先輩住民も一緒に、耳を傾けることが出来るでしょう。

 但し、それは、私が善行を積んで先輩住民が逝った天国に私も行ければ、の話ですね。
努力しましょう。

                                 以上

 2020年10月20日、「楽宴会」投稿文
  私が昭和37年(1962年)に卒業した一橋大学は、一学年が400名と纏まりやすい人数のせいか、卒業後もいろいろ名目を付けて集まっている。集まるだけでなく、メイルのネットワークも整っていて、時々テーマを決めて投稿をしている。
 今回のテーマが「私が心のふるさと小平キャンパス」なので、下記の文を投稿した。
「小平キャンパス」とは我々が入学してから、国立にある本校で学ぶ前の二年間(教養課程)を過ごす分校の事である。今は閉鎖され、「一橋小平国際キャンパス」となっている。

 「わが心のふるさと小平キャンパス」
  遠藤 晶土(Tクラス 高橋泰蔵先生ゼミ)

 私の敬愛する歌手森進一氏は今年で歌手生活55周年を迎える。それを記念して、最近、新曲「昭和・平成・令和を生きる」を発表した。少々前までは「三代を生きる」と云えば「明治・大正・昭和」の事であった。私の父は明治43年生まれで平成5年に没しているから、三代どころか四代を生きた人であった。
 私の父は幼くして両親を亡くし、その後、ミナシゴとして、親戚の人たちの間を転々として幼・少年時代を送った。当然、学校は小学校卒で学歴はそこで終わっている。あの時代は別に珍しいことでもないが、父は、読書が大好きでその後一生かけて本を買い込み、自分の回りに積み重ねていた。 

 私が一橋に入学した時、小平の校舎で、新入生とその保護者に対して「大学案内」の機会が設けられた。国立の本校舎は「合否発表」の時、私に付き添って見ているが、小平校は初めてであり、父は喜んで出席した。
 今まで、縁遠い存在の「大学」に初めて接する父は、「期待」と「気おくれ」で相当緊張していたようだ。
 だから、一通りの説明が終わった後、保護者からの質問の第一号が「通学の定期券の買い方だった。学歴のないオレにも解る質問だった」と、父はいかにもホッとした声で語っていたことを覚えている。

 父は亡くなるまでほぼ健康で、息を引き取ったのも自宅であった。朝、隣に寝ている母が、寝苦しそうにしている父に「苦しいの?」と聞き、父が「ああ」と答えて父はそのまま息が絶えたという。何ともうらやましい最期ではないか。

 父の享年83歳。来年、私はその齢を迎える。           以上


寅さんとコロナ

2020年6月
**  

 隠寅さんとは「男はつらいよ」の国民的ヒーロー、車寅次郎氏の事である。
 しかし、彼についてはコロナであろうが、大地震であろうが心配はない。立派に一人で生きてゆけるだろう。ただ、彼の実家、葛飾柴又帝釈天参道でダンゴ屋を営む「とらや」が少し心配だ。この観光客激減の影響は如何だろうか?いや、あの老舗、老夫婦二人での店だ、人件費も、家賃もかからぬだろうから、余計な心配は必要ないだろう。
 ここで改めて考えてみたのだが、「とらや」の商品、「ダンゴ」は誰が、作っているのだろう?何処で作っているのだろう?あのお店ではないだろう。店番をしながら、二人でダンゴを作っている場面を私は映画で見たことはないのだけれど、誰か見た方は居るかしら?
 業者から仕入れをする場面を見た方は居るだろうか?

 どっちにしても、「とらや」は心配ないとして、私が本当に心配しているのは、隣家の印刷屋さん(朝日印刷という社名です。知っていましたか?)であり、その経営者、寅さんの盟友、タコ社長である。
 タコ社長は(桂梅太郎という本名です。知っていましたか?)、コロナ騒ぎがあろうがなかろうが半世紀も前からいつも忙しく駆けずり回っている。印刷業者でありながら印刷工場にいる姿はめったに見ない。
 でも、仕事で忙しい。営業か?それも少しあるだろうが、私の観たところ、彼の時間と脳力の殆どは資金繰り、つまり、銀行との折衝に費やされている。とらやさんと違って彼の朝日印刷は工場があり、機械があり、オペレーターがいる。機械のローンがあり、修繕費があり、人件費があり、借り入れ返済がある。
  彼の苦労は実によく解る。私自身が約50年間、ひたすらその苦労を味わってきたからだ。
 いや、私だけではない。日本で多数を占める零細企業の社長はほとんどが、同じ苦労を体験していることだろう。

 残念ながら、私は寅さんシリーズの熱心なフアンでないのでバブルの崩壊後の修羅場をタコ社長はどうやり過ごしたか知らない。しかし、ものの本に寄れば、いや、今は、ネットを検索すれば、バブルの崩壊は1991年から1993年とあり、寅さんシリーズは1995年まで続いたのだから、彼は確実にあの強烈な「貸し剥がし」の洗礼を受けていたはずだ。

 一時、日本の自殺者が年間3万人を超えた年が続いた時があった。1998年に初めて3万人を超え、2003年の3万4千人をピークに2009年まで約10年間、毎年、3万人の自殺者が出た。合計30万人以上。コロナや数々の大災害に匹敵する人数ではないか。

 私の心情ではこのうちの多数が、零細企業の経営者だと思っている。ヤクザな金融機関は「死ねば保険金が入るだろう。死でもって借金を支払え」と脅す。マットウな金融機関は「生命保険を解約して借り入れの一部を返却してください」と執拗に迫る。

 私が、この危機を乗り越えた時の経営学のバイブルは、残念がら、フリードマンやドラッカーなどではない。邱永漢氏の「銀行と付き合う方法」というお手軽なノウハウ本である。この本で邱永漢氏は「銀行員の立場になれ。彼が上司に説明しやすい資料を作れ」と、懇切に説いている。おかげで、わが社は生き延びる事が出来た。

 邱永漢氏は述べていないが、当時の銀行は、支店長と雖も権限はなかった。彼は、「本部」に報告し了承を得ねばならなかった。「本部」すなわち銀行自体も当事者能力を持たなかった。日銀、大蔵省などの締め付けから自由ではなかった。そして、日銀、日本政府もまた国際的資本の意向を汲まねばならなかった。と、今にして、零細企業主は思うのだ。

 バブルの崩壊の時期はは、ネットに寄れば、「1991年―1993年の土地規制からを云う」とある。
 しかし、私の実感では1987年の「BIS規制」に始まると断言できる。この規制以後、成長の為の資金調達能力を持つ経営者は、それまでの「有能な経営者」の評価から、一転、「バブルに踊るピエロ」役に転落した。
 当事者としては堪らない。友人も含めた金融関係者に私は必死に問い合わせた。「BIS規制とは何か?」訊かれた皆さんは、たちどころに「バーゼル銀行が決めた自己資本比率がウンヌン・・」と、立て板に水の説明をしてくれる。
 ところが、「では、バーゼル銀行とは?」と訊くと、冒頭の「とらやのダンゴの製造元」と同様、答えは得られなかった。ましてや、「何故、日本が、そして我が社が、その自己資本比率を守らネバナラヌノカ?」という当然の疑問にも、当然、答えはなかった。
 現在、この規制は種々の不具合の反省から「U」を経て、2010年に「バーゼルV」が制定され、2013年から段階的に実施されている由である。
「バーゼルT」に、政府の援助もなく、どころか、政府に足を引っ張られて、自らの命で借金を贖った30万人の英霊に心から追悼の祈りを捧げる。

 そして、今度の「コロナ戦争」である。今回の敵は国際資本ではない。その故か、日本政府は自由に、身軽に、次々と援助の案を打ち出している。
 どこからその金が出てくるのか?どうすれば、その借金を消す事が出来るのか?
 政府はどこまで国民の面倒見なければならぬのか?それならいっそお札を刷って刷って刷りまくって国民にばらまけば、誰も働かずに安楽に一生を過ごせるのか?


 これまた、誰も答えない。今度は、考えても、調べても、答えは見つからないから。
 しかし、この政府の援助がなければ、再び、自殺者数万人の年が続くだろう。

 でもねエ、だからといって、国民全員に一律10万円を配らなくてもよいではないか。
本来は、コロナ禍によって生活を脅かされた人たちの為の一時金の筈だ。コロナによっても収入が変わらない年金生活者、公務員・議員などにもばらまくのは、安易で、拙速で、検討不足ではないか。いくら、お金は印刷すればいくらでも出てくるにしても、少しでも子孫の苦労を減らしてやろうと考えなかったのか?

 我々、貰う方も貰う方である。辞退を申し出た人たちを私は知らない。いや、この優秀な日本人の事だ。きっと沢山いるに違いない。それが、厚いマスコミのヴェールによって、隠されているに違いない。辞退者がいれば、苦心してこの制度を世に出した政治家たちの面目は丸つぶれになるからか。あなたならどうする?私は答える。「私なら、受領して本当に困っているところへ寄付する」ふと、気が付くと私を見据えている女性がいる。妻だ。ウーム、妻は日頃から我が家にお金がないことを嘆いている。ヤレヤレ、寄付する先はここか。

 蛇足。私のリハビリの若き美人トレーナーから最近仕入れたジョークを一つ。
「コロナ後はどうなる? 男性の答え『出生率の上昇』 女性の答え『離婚率の上昇』
オアトガ、ヨロシイヨウデ。

                  以上
**

 2017年5月、「如水会会報」No.1034に掲載されました



 2017年、私の年賀状 

 この賀状は文面がオカシイ。
 私はこの前年の2015年9月に右足を骨折し、続いてその年の11月に左腕を骨折した。
 1年間、リハビリに励んで、「サー、快気祝」と日取りまで決め、賀状の文面まで決め、印刷に回そうとしたこの年2016年の11月末に、三度、転倒し今度は左足を骨折した。
 賀状が皆様に届く頃、自分の状態が不明なのでこのような文章となった。その後、手術を終え、年末年始はその年リハビリに専念した施設で送ることになった。



 2016年、私の暑中見舞い

 このハガキから文章を外した。
ヒマワリのみの「絵葉書」ではない、「箔葉書」は若い女性たちに人気があった。


  画像をクリックするとそれぞれ大きく表示されます。
   
 2016、年私の寒中見舞い
 このハガキも文面が主役だ。年賀に間に合わず「寒中見舞い」となった。


 








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