続日本100名城
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  「続日本100名城」は(財)日本城郭協会が平成29年4月に発表。平成30年4月からスタンプラリーを開始した。
***スタンプはこれからながら既に登城済 **たぶん登城済
北海道 101 志苔舘
102 上ノ国勝山舘
青森県 103 浪岡城 令和2年(2020年)9月20日登城 こちらから
岩手県 104 九戸城 令和2年(2020年)9月21日登城 こちらから
宮城県 105 白石城 令和2年(2020年)6月27日登城 こちらから
秋田県 106 脇本城 令和2年(2020年)9月20日登城 こちらから
107 秋田城 令和2年(2020年)9月19日登城 こちらから
山形県 108 鶴ケ岡城 令和2年(2020年)9月19日登城 こちらから
109 米沢城 令和2年(2020年)6月27日登城 こちらから
福島県 110 三春城 平成30年(2018年)7月28日登城 こちらから
111 向羽黒山城 令和2年(2020年)6月28日登城 こちらから
茨城県 112 笠間城 平成31年(2019年)1月18日登城 こちらから
113 土浦城 平成31年(2019年)1月18日登城 こちらから
栃木県 114 唐沢山城 平成31年(2019年)1月18日登城 こちらから
群馬県 115 名胡桃城 平成30年(2018年)6月24日登城 こちらから
116 沼田城 平成30年(2018年)6月24日登城 こちらから
117 岩櫃城 平成30年(2018年)6月24日登城 こちらから
埼玉県 118 忍城 平成30年(2018年)8月30日登城 こちらから
119 杉山城 平成30年(2018年)8月30日登城 こちらから
120 菅谷館 平成30年(2018年)8月30日登城 こちらから
千葉県 121 本佐倉城 平成30年(2018年)5月27日登城 こちらから
122 大多喜城 平成30年(2018年)5月27日登城 こちらから
東京都 123 滝山城 令和2年(2020年)2月16日登城 こちらから
124 品川台場
神奈川県 125 小机城 令和2年(2020年)2月16日登城 こちらから
126 石垣山城 令和2年(2020年)2月16日登城 こちらから
山梨県 127 新府城 平成30年(2018年)9月27日登城 こちらから
128 要害山城 平成30年(2018年)9月27日登城 こちらから
長野県 129 龍岡城 令和元年(2019年)8月7日登城 こちらから
130 高島城 令和元年(2019年)8月7日登城 こちらから
新潟県 131 村上城 令和2年(2020年)6月28日登城 こちらから
132 高田城 平成30年(2018年)4月22日登城 こちらから
133 鮫ケ尾城 平成30年(2018年)4月22日登城 こちらから
富山県 134 富山城 令和2年(2020年)7月19日登城 こちらから
135 増山城 平成30年(2018年)4月21日登城 こちらから
石川県 136 鳥越城 平成30年(2018年)4月21日登城 こちらから
福井県 137 福井城 令和2年(2020年)7月18日登城 こちらから
138 越前大野城 平成30年(2018年)11月18日登城 こちらから
139 佐柿国吉城 平成30年(2018年)11月17日登城 こちらから
福井県・滋賀県 140 玄蕃尾城 平成30年(2018年)11月17日登城 こちらから
岐阜県 141 郡上八幡城 平成31年(2019年)3月29日登城 こちらから
142 苗木城 平成31年(2019年)3月28日登城 こちらから
143 美濃金山城 平成31年(2019年)3月28日登城 こちらから
144 大垣城 平成31年(2019年)3月29日登城 こちらから
静岡県 145 興国寺城 平成30年(2018年)9月24日登城 こちらから
146 諏訪原城 平成30年(2018年)9月24日登城 こちらから
147 高天神城 平成30年(2018年)9月24日登城 こちらから
148 浜松城 令和2年(2020年)8月30日登城 こちらから
愛知県 149 小牧山城 平成31年(2019年)3月29日登城 こちらから
150 古宮城 平成31年(2019年)1月27日登城 こちらから
151 吉田城 平成31年(2019年)1月27日登城 こちらから
三重県 152 津 城 平成31年(2019年)1月27日登城 こちらから
153 北畠氏館 平成31年(2019年)1月26日登城 こちらから
154 田丸城 平成31年(2019年)4月20日登城 こちらから
155 赤木城 平成31年(2019年)4月20日登城 こちらから
滋賀県 156 鎌刃城 平成30年(2018年)11月17日登城 こちらから
157 八幡山城 令和2年(2020年)10月11日登城 こちらから
京都府 158 福知山城 令和元年(2019年)7月27日登城 こちらから
大阪府 159 芥川山城
160 飯盛城
161 岸和田城 ***
兵庫県 162 出石城・有子山城 令和2年(2020年)10月11日登城 こちらから
163 黒井城 令和元年(2019年)7月27日登城 こちらから
164 洲本城 令和元年(2019年)11月2日登城 こちらから
奈良県 165 大和郡山城 令和元年(2019年)6月9日登城 こちらから
166 宇陀松山城 令和元年(2019年)6月10日登城 こちらから
和歌山県 167 新宮城 平成31年(2019年)4月21日登城 こちらから
鳥取県 168 若桜鬼ヶ城 令和元年(2019年)9月23日登城 こちらから
169 米子城 令和元年(2019年)9月22日登城 こちらから
島根県 170 浜田城 令和2年(2020年)11月21日登城 こちらから
岡山県 171 備中高松城 令和元年(2019年)11月3日登城 こちらから
広島県 172 三原城 令和2年(2020年)1月13日登城 こちらから
173 新高山城 令和2年(2020年)1月12日登城 こちらから
山口県 174 大内館・高嶺城 令和2年(2020年)11月22日登城 こちらから
徳島県 175 勝瑞城 令和元年(2019年)11月2日登城 こちらから
176 一宮城 令和元年(2019年)11月2日登城 こちらから
香川県 177 引田城 令和元年(2019年)11月2日登城 こちらから
愛媛県 178 能島城 令和2年(2020年)1月12日登城 こちらから
179 河後森城 令和2年(2020年)1月11日登城 こちらから
高知県 180 岡豊城 令和元年(2019年)11月3日登城 こちらから
福岡県 181 小倉城 令和元年(2019年)10月17日登城 こちらから
182 水城 ***
183 久留米城 **
福岡県・佐賀県 184 基肄城
佐賀県 185 唐津城 ***
長崎県 186 金田城 令和元年(2019年)10月16日登城 こちらから
187 福江城 **
188 原城 **
熊本県 189 鞠智城 令和元年(2019年)10月18日登城 こちらから
190 八代城 令和元年(2019年)10月18日登城 こちらから
大分県 191 中津城 令和元年(2019年)10月17日登城 こちらから
192 角牟礼城 令和元年(2019年)10月17日登城 こちらから
193 臼杵城 令和元年(2019年)5月8日登城 こちらから
194 佐伯城 令和元年(2019年)5月8日登城 こちらから
宮崎県 195 延岡城 令和元年(2019年)5月9日登城 こちらから
196 佐土原城 令和元年(2019年)5月9日登城 こちらから
鹿児島県 197 志布志城 令和元年(2019年)5月9日登城 こちらから
198 知覧城 令和元年(2019年)5月10日登城 こちらから
沖縄県 199 座喜味城 **
200 勝連城 **



          ■103 浪岡城  
    
   スタンプ設置場所 「青森市浪岡交流センター あぴねす」
    (登城日 令和2年9月20日)


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 秋田から青森へ。そして、津軽から南部へ。みちのくのドライブは稲穂の道だ。岩木山を遠くに望むとき、ありふれた田圃を前景に、ぼやけた山が見えるだけの景色にも拘らず、全国をドライブし尽くしているYさんでさえ、わざわざ、道端に車を停めて写真を写したくなる風景だ。

 スタンプ捺印所の「青森市浪岡交流センター あぴねす」では鉄道のジオラマ展示をしていた。コロナの自粛の中、はなはだ、遠慮がちな人出であったが。
 ここに飾られる「ネブタ」は(勿論青森はNEBUTA。弘前はNEPUTA)懐かしの北畠顕家が主人公。北畠顕家氏について私は、この「百名城」探訪の幕を切って落とした、「05根城訪城記」に敬愛の辞を捧げている。
 顕家の時代から約200年後、この地は再び戦乱の地となり、九戸城の悲劇につながっていくのだが、それでも、この地の顕家への思慕は現代でも消えてないのだ。
 
 浪岡城は「浪岡御所」として記憶の隅にあるが、かっての度々の東北出張時にも、寄ることもなく現在に至った。この城が昭和15年に青森県で初めて国史跡に指定されている、
レッキとした名城であるのにだ。
今回も空気を感じただけで今夜の宿、八戸に向かった。


  

          ■104 九戸城  
    
   スタンプ設置場所 「九戸城ガイドハウス」
    (登城日 令和2年9月21日)


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 石垣
 昨夜は八戸駅前のホテルに泊まったから、二戸市にある九戸城には8時頃着いた。スタンプがある「九戸城ガイドハウス」のオープンは9時なので、それまでYさん夫妻は城を一回りしてくれた。撮ってきてくれる写真が一枚一枚、城の全てを紹介してくれていて、有難い。
 なかでも、(写真・12や14)石垣の写真とその説明版が「石垣マニア」の端くれの私には嬉しい。 「九戸城の落城後、蒲生氏郷によって築かれた石垣と判明したが、それでも、年代が解るから、貴重な石垣なのだ」と。

 高橋克彦「天を衝く」と九戸政実
 この城は、今回一緒に訊ねた脇本城や浪岡城に比べて馴染みがある。それは、高橋克彦「天を衝く」で九戸政実の一生を読んでいるからだろう。秀吉の天下統一の仕上げに総攻撃を受けて、この城で死闘を繰り広げた。当時は、私も感心して読んだが、司馬師の「峠」で脚光を浴びた幕末の長岡藩家老、河合継之助同様、無駄な抵抗をして多くの犠牲者を出した、と、云えなくもない。

 土居晩翠と田中館愛橘
 九戸政実は今でもこの地の英雄だ。ここ九戸城入口にある「ガイドハウス」には、小冊子の資料が豊富だ。「戦国ダンシ 九戸政実物語」という題名の劇画の小冊子まである。無論、無料だ。政実一辺倒の資料たちだが、それでも、城内の見るべきものの案内もキチンとされている。その一つが、写真6の「荒城の月」の歌詞の碑だ。私はこの歌詞は仙台青葉城と思い込んでいたが、この城も、会津若松城も候補なのだと知った。(ついでに、作曲の候補地は豊後竹田市の岡城の他に富山城もある由)
 隣に、ローマ字の創始者田中館愛橘の詩碑「九戸城懐古の詩」がある。昨日、田中館駅のアートに強い印象を受けてから、「田中館」の名をどこかで聞いたことがあると引っかかっていたのが、氷解した。この多方面に足跡を残された博士は、この地に生まれたのだった。          

 大阪の人
 ガイドハウスの開場を待つ間、一人で車で来て、矢張りハウスが開くのを待つ人と、自然に話し合うようになった。大阪の人なので、コロナの話が弾んだが、スタンプを捺すでもなく、このみちのくを一人旅。お互い、物好きな人間だ。

 一戸・二戸・三戸…九戸
 この城、「九戸城」の住所は、「岩手県二戸市福岡字城ノ内、松ノ丸」である。九戸城が二戸市にある。一戸、二戸、・・、どだい、「戸」とは何なのだ?「検索」してみよう。ところが、私の多くの疑問と同様、パソコン読めば、答えは単純でなく、疑問はますます深まるばかりだ。パソコンでの収穫は、一戸から九戸まで実際に現地を訪ねた奇特な人のリポートだ。矢張り、現地を歩かねば実感がわかないのだ。私もいつか、一戸から九戸まで一回りしてみたい。その時までに、消えた「四戸」や「遠野」は「十戸(とおのへ)」か?などの他の疑問も調べる機会があればよいのだが。


写真・1
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          ■105 白石城  
    
   スタンプ設置場所 「白石城天守閣」
    (登城日 令和2年6月27日)


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 若い時から、というより、小さい時から、と云うより、幼い時から、日記を欠かさず毎日書いてきた。但し、読み返すことをしてことはなかった。青年時代の自己嫌悪だのナンダノを引きずっていて、読むのがつらかったのだろう。
 齢(よわい)、ようやく傘寿を超えると昔の自分が愛しくなり、嫌悪でなく同情を持ってみる事が出来るようになったようだ。
 その勢いで、自分の年表を作ってみる気になった。エクセルを使って少しづつ記入しているのだが、主の目的は、現在のところ、訪城の記録の整理にあるようだ。
***  訪城も「続百名城」となると、城探訪を始めた時、真っ先に訊ねた名城が目白押しだ。
 この白石城も東北の入り口、特急の停車駅、駅から徒歩範囲、そして知名度。全ての条件が揃っているから早々と訪れている。が、印象はない。一つの理由は私が訪城したのは1976年1月だが、現在の城のシンボル天守閣が再建・完成したのは1995年で、城の体裁が整っていなかったからだろう。(東北新幹線開通は1982年)

 今回の訪城は例によってYさん夫妻との車だ。ナビは最初に白石駅に我々を連れて行く。
 駅前に停まるバス・キャッスル君の車体を飾る絵は、片倉小十郎と真田幸村。(写真・右)
 片倉小十郎は解る。伊達政宗の傅役としてと云うより、「イケメンの小十郎」として、「暦女」や「城ギャル」に人気が高いと聞いた。山もゴルフもカラオケも、かって、我々男性が独占していた趣味の世界は今やギャルやオバンなしでは存在し得ない世界になったらしい。
 しかし、もともと人気抜群の真田幸村だが、白石城との結びつきなど半世紀前には考えられなかった。1967年頃発売された私の当時のバイブル人物往来社刊「日本城郭全集」を紐解いても真田家との関連は何も書いてない。
 片倉家は「大坂の陣」の好敵手、幸村の依頼で真田家の遺児を引き取ったそうだ。

 伊達家、片倉家と徳川家との絡み合いは、私の理解を超える。一国一城令がありながら、この伊達家の支城白石城は三重の天守閣を持つ堂々たる城だ。伊達藩の遣欧使節も堂々たる違反ではないか。

 


***
今回、訪城して、片倉家の二万石はどのような形で支給されたのか?どのように使われたのか?さて、現代の白石市はどうなのか?我が吉川市に比較してどうなのか?に興味を持った。チョット比較。
             白石市          吉川市
人口         33000人        72000人   
歳入(支出)     175億円         230億円 

  
  


      ■106 脇本城  
    
   スタンプ設置場所 「史蹟脇本城跡案内所」
    (登城日 令和2年9月20日)


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 「なまはげ」と「秋田美人」
 ホテルで簡単な朝食を済ませ9時には巨大な「なまはげ像」に着く。今まで、「なまはげ」を単なる観光資源と思っていたが、「なまはげ」の鬼が渡来人だという伝説を読んでからは俄然、興味が湧いてきた。あの異形はアジア系ではない。ロシア系ではないか?日本海は昔の日本の表玄関だ。朝鮮半島からの物部族だけではない。渤海やらロシアやら大陸から直接多数の人間が入ってきたのだろう。秋田の女性に美人が多いのは、その血を今に伝えているからだ。色白の白系ロシア人を連想するではないか!それは、調子に乗りすぎです。「白系ロシア人」というのは「赤くないロシア人」つまり「非共産党」のロシア人という意味ですよ。もう一つ。この私の説は、何故、盛岡にも美人が多いかの説明がつかないのだが。

 

 「脇本城」と「守護地頭」
 10時前に「脇本城」に着く。誠に申し訳ないが、S社長のおかげでこれだけ秋田をくまなく歩いた筈の私が、「続百名城」にノミネートされるまで、この城の名前を知らなかった。
 もっとも、この城が「国指定史跡」に指定されるのは、平成16年(2004年)だから、仕方ないか。Yさんならではの運転で山道を登り切って着いた無人の「案内所小屋」でスタンプを捺し、A4三つ折りのパンフレット一葉を持ち帰る。その最終ページにある「年表」の最初の数行を写してみる。

年 号 西 暦 事   項
元弘 4 1334 北条方の勢力、小鹿島や秋田城に館を築く
康永 3 1344 嶋郡地頭安倍兼季、北浦日枝神社を再建
康正 2 1456 安東政季、小鹿嶋に入り、ついでに河北郡(現在の山本郡)支配
延徳 3 1491 安東政季、小鹿嶋に入り、ついでに河北郡(現在の山本郡)支配

 全く、解らない地名・人名だが固有名詞だけでなく、普通名詞も、こんなところで「地頭」などが出てくると、ウーム、自分の歴史の勉強の浅はかさを思い知らされる。

 菅原神社と菅江真澄
 脇本城への登り口に「菅原神社」がある。これまた申し訳ないことに私はこの神社を「菅江神社」とハヤトチリをして神社名の入った幟と得々と写真に納まった。
 「申し訳ない」のは神社名を間違えたことではなく、菅江真澄の書を読んでないことだ。
 旅が好きで、紀行文が好きな筈の自分でありながら、この菅江真澄氏と宮本常一氏というこの道の両巨人の著作を紐解いてないことに、はなはだ、引け目を感じている。
 私としては、司馬遼太郎師の「街道をゆく」全43巻を読破し、座右の書として、事あるごとに参照するだけで手一杯で、他に、印象に残る紀行文としては、田辺聖子女史の「姥ざかり花の旅傘」くらいで、芭蕉の紀行文も、「東海道中膝栗毛」も本棚の隅で、出番を長年待っているノデス。
 田舎館駅
 14時前に田舎館駅。このナンノ変哲もない文字通りの「田舎の駅」に一歩中に入ると、コリャ驚きのアートが四方八方、天井・壁面・ゴミ箱・ベンチに至るまで隈なく埋めつくしている。Y夫人が東京新聞でこの紹介記事を見つけ、切抜きを大切にこの地まで持参してくれたのだ。
 イヤハヤ、ユキアタリバッタリ、楽しい我々の「バッ旅」らしい、掘り出し物だった。
 黒石「こみせ通り」
 車は黒石をに入る。この雁木を残す古き黒石津軽家の街を、素通りすることは許されない。車で一回り。数十年前に来た時から格段に整備され、我々、観光客を暖かく迎えてくれる「こみせ通り」で、写真を数枚撮って。次へ急ぐ。尚、「こみせ」は青森・秋田の言葉。新潟では「雁木」と呼ぶそうな。



 
  

      ■107 秋田城  
    
   スタンプ設置場所 「秋田市立秋田城歴史資料館」
    (登城日 令和2年9月19日)


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 東京を5時に出て、昼に鶴岡城に寄り、秋田に向かった。海岸線を走る国道7号線(「おばこおけさライン」・「日本海東北自動車道」)は出張時に何度も利用した鉄道「羽越本線」と殆ど並行して見飽きた道なので、今度は、新庄・横手などを経て秋田に向う。丁度、菅新総理大臣を生んだ湯沢市も通れるし。但し、これらの私の古戦場の市や街を再訪することは出来ない。いつものことだが、スタンプ捺印所の閉鎖時間に間に合わねばならぬからだ。
 今日の設置場所の閉鎖時間は16時。いつものように、ギリギリに間に合う。

 この前にこの「秋田城」を訪ねたのは、ざっと20年前だが、今回の感じはそれほど変わっていないようだ。この場所を「城」と呼ぶのは違和感がある。A4一枚の簡単な「歴史資料館」のパンフレットにあるように、この場所は、「大規模な地方官庁で、政治・文化(・そして私見を言わせてもらえば、交易)の中心地であった。
 律令国家の地方官庁の遺跡は『城柵官衙遺跡』と呼ばれるが、この最北端の官衙遺跡は天平宝字4年(760)頃に『秋田城』と呼ばれるようになった。平安時代、10世紀中ごろまで機能した」と書かれている。
 これもA4一枚の簡単な「史蹟秋田城跡」のパンフレットのタイトルにある英文表示はNATIONAL HISTORIC SITE‘AKITA FORT RUINS‘であり、ここにある‘FORT‘の表示が正しいように思うが、私はそれほど英語に堪能ではない。プロの云う事だ。逆らわない。

 18時、Y夫妻も参加して、私の秋田の顧客、S商事社長と秋田市内で会食をした。S社長が家を継ぐために東京から秋田の実家に戻った時と、私が家を継ぐために入社した時期が同時期であったことで、S社長とは半世紀以上の付き合いだ。しかし、この夜もそうだがS社長との話題は商売の話はほとんど、ない。いつも、S社長の車で、秋田県内の名所・史跡を城や神社を中心に、くまなく案内してもらっていた。

 S社長の案内で訪問できた数々の、土地の人しか知らないようなニッチな訪問地の中で、一際、印象深いのが、「唐松神社」である。円形の池の中に石垣を積み上げた円形の島があり、その石垣の上に「天日宮」が建っている。その奇抜な神社の配置だけでも十分記憶されるに値するが、この神社の宮司が物部家であり、「秋田物部文書」を伝承しているとなると、物部フアンの私には全国屈指の忘れ得ぬ神社となっている。
 何故、私が「物部フアン」になったか?それは、「炎立つ」などの高橋克彦氏の一連の蝦夷を題材にした小説に心酔し、その中で、みちのくの「金」を掌握して蝦夷を陰に陽に支援した物部家の存在を知ったからだ。
 そして、この物部家の履歴を、私は勝手に「こうあって欲しい」と創りはじめる。
 「物部族は朝鮮半島から大挙日本にやってくる。上陸地は山陰から越後、そして当然、この秋田港にも上陸した。つい最近まで全国屈指の鉱山学部を秋田大学に備えていたほど、鉱物資源が豊富な秋田県でも物部一族は水を得た魚のようにその技術を展開していったことだろう。義経を助けた「金売り吉次」の「金売り」の呼び名は伊達ではない。名前の通り、秋田の「金」を都に売って、京都にも多大な影響力を持ったに違いない。そして、それがために強欲な権力者たちに狙われ、滅ぼされていったのだが。」

 物部一族は秋田だけではない。日本各地に上陸し、移住している。神社や地名に残る「物部」は数多い。これから、折に触れそれらを探訪してゆきたい。忙しいなー。


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        ■108 鶴ヶ岡城 
     スタンプ設置場所「荘内神社社務所」 
       (登城日 令和2年9月19日)


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 荘内神社
 早朝の5時半に我が家を出て一路、東北道・山形自動車道を走って、鶴岡城に着いたのは12時半であった。この城のスタンプ設置場所荘内神社は、城の本丸にある。「続100名城」のスタンプと、神社のお由緒書きが一度に集まって効率が良い。
 但し、「お由緒書き」によると神社の祭神は、初代・二代・三代・九代の酒井家当主で、新しい神社だ。曰く『元和八年(1622)に酒井家三代忠勝公が出羽国荘内に入部され、歴代藩主が明治維新まで善政を施かれてきました。藩主を慕う当時の人々の総意により荘内総鎮守として、明治10年に鶴ヶ岡城本丸址に創建されました』

 徳川四天王
 酒井家の初代酒井忠次は徳川四天王のひとりである。他の四天王は、井伊直政、本多忠勝、榊原恭政である。御存じ井伊家はここ鶴岡の酒井同様、幕末の大老井伊直弼まで彦根藩を動かなかったが、本多家、榊原家は、藩主亡き後、譜代中の譜代大名にも拘らず、転封に転封を重ねている。
 維新の時、酒井家は東北同盟の重鎮として幕府側についたが、驚いたことに井伊家も、本多家も、榊原家も、最終的には新政府軍の一員に加わっている。もっとも、義を全うした酒井家は、西郷隆盛の恩情で、明治政府から冷遇されなかった。鶴岡市はその恩を多として、現在、鹿児島市と姉妹都市の縁を結んでいる。

姉妹都市
 鶴岡・酒田には、各々一社の顧客があり、わずかな額の取引だが、その売り上げを頼りに、年に数回出張して、由緒ある市の雰囲気を味わっていた。
 40年ぶりの訪問だが、城は勿論、致道館も藤沢周平記念館も変わりなく、駅まで寄ってみたが、これまた変わらない。当時の人口18万。現在、12万。面積1300km2。人口密度100人/km2.
人口・面積を調べていたら、鶴岡市の姉妹都市がもう一つ見つかった。それは、東京都江戸川区。今日も同行してくれているYさんの現住所だ。戦争中、江戸川区の児童が鶴岡市に疎開をして、暖かく迎えられたのが縁の始まりだという。この小さな縁がいつか大きな縁になれば良いなあ。因みに江戸川区の人口70万。面積50km2.人口密度14000人km2.
 余計なことだが、私の住む埼玉県吉川市の姉妹都市は国内では岩手県一関市室根町である。どのような縁であったのか?平成9(1997)年に結ばれたの他はパソコンではよく解らないが。


***
人口・面積・人口密度 三市区比較表
都市名 人口(2020年)万人 面積(km2) 人口密度(人/km2)
鶴岡市 12 1300 100
江戸川区 70 50 14、000
吉川市 32 2、200









          ■109 米沢城 
    スタンプ設置場所
    「米沢観光コンペンション協会観光案内所」 
    (登城日 令和2年6月27日)


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 今から50年前の1970年に私は父が始めた「和香名刺株式会社」に転社した。父が、1965年、55歳にして創業した出来立ての会社へだ。社名でもわかるように「名刺」の会社だ。「名刺の会社」と云っても「名刺を印刷」するわけではない。印刷する「名刺の紙」を製造し名刺印刷業者に販売する会社だ。「駕籠に乗る人、かつぐ人。そのまた草鞋を造る人」大判の紙を名刺の大きさまで裁断して販売する会社の存在など、なかなか説明が難しい職種なのだ。
 その当時は、誰でも名刺を盛大に交換したものだ。セールスも訪問・面談が主だから、名刺は不可欠のビジネス・ツールだった。従って、名刺の印刷は規模の大小に拘わらず印刷業者には不可欠の営業品目だった。
 名刺の印刷用紙を製造する会社は矢張り大都市にしかなく。地方の印刷業者は名刺用紙をこれら限られた会社から購入せざるを得ないので、我が社のような創業間もないメーカーでも地方に結構顧客が存在したのである。
(この私の会社については、以前、どこかの城で書いたような気がするが、本人でさえ、書いたか書かないか、どこで書いたか記憶がないのだから、誰も覚えがないだろう。もし、万が一、万万が一、ご記憶の方がいたら、ご一報下さい。金一封を添えて感謝状を送ります。)

 この米沢にも一軒の顧客があった。そこへ、年に数回か、営業を兼ねた集金に伺うのである。勿論、出張は鉄道利用である。米沢駅に下車して、顧客のある街の中心までかなりの距離があることが米沢の最初の実感だ。街の人が、鉄道を敵視・蔑視して、駅を遠くに設置させたのだ、と、聞いた。地方を回っていて、多くの都市で似たような話を聞き、結局は駅前が繁華街となり、かっての中心地が寂れ果てた例を見てきているので、この地もいずれ・・、と懸念していたが、私が通っていた10数年では、変化がなく、駅前は相変わらずの寂しい雰囲気であって、流石、上杉家の由緒ある歴史を持つ米沢だと感心したものだ。

 その後、「名刺」も、「名刺印刷」も廃れ、我が社の業態も様代りして、細かい地方回りの仕事はなくなった。が、観光地として有名になった米沢には、いろいろのツアーで度々訪れる機会があった。けれど、ツアーだから自分の時間は少ない。駅前の変化を確かめることは出来なかった。

 いや、時間がないからではない。忘れていたのだ。今回、「続百名城」スタンプ集めの旅で米沢に来たのに、いつものYさんの車で来ているのに、昼食に私の希望で米沢牛の駅弁を買いに駅前まで来ているのに、アーア、問題意識を忘れてただ、帰ってきてしまった。
スタンプ捺印もY夫人にお任せして、帰ってきてしまった。お粗末でした。
(掲載の写真は何れも拡大して読むに値する良い資料です。)
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          ■110 三春城 
    スタンプ設置場所 「三春町歴史民俗資料館」
    (登城日 2018年7月28日 )


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 桜、梅、桃の三つの花が一時に咲くからこの町を三春と呼ぶという。本当にそうなのだろうか?こんなロマンチックでオトメチックな地名をいつから名乗っているのだろうか?こんな簡単な疑問をネットではなかなか回答が見つからない。
 三春は私の故郷に近く、「滝桜」のせいもあって馴染みの深い土地なのだ。小さいけれど有名な三春藩田村氏の歴史は芦名、佐竹、岩城などと争って、結構ヤヤコシイ。結局、愛姫が正妻として嫁いだ伊達家の後ろ盾で生き延びたのだが、徳川の時代はそれが仇になったか、田村家は改易となる。その後、これまた、ゴチャゴチャといろいろな藩主が入れ替わり、最期、維新の時には新政権に先走って、隣の二本松藩の恨みを買うなど落ち着かない歴史を持っている。
 この戊辰戦争後に福島県で所領安堵された大名家は、中村藩(相馬家)、守山藩(松平家)、そして、この三春藩(秋田家)の三家のみである。三春藩士の自由民権家・河野広中の誕生。3万石の小藩「福島」が県庁所在地になった理由。調べれば面白いことが沢山ある城である。
***
 この城に相馬野馬追祭りを見物に行った時に寄った。相馬に宿が取れず、郡山まで戻って一泊する途中である。不気味に静まり返り、すれ違う車も稀な浪江の通りを粛然として通り過ぎた日暮れ、16時半。スタンプ設置場所が閉まりかける時間を承知で押しかけ、無理に開けてもらって捺印したのだ。
 台風の余韻で降ったり止んだりの雨の機嫌を取りながら、城へ向かう。1504年築城と「公式ガイドブック」に明記された山城。何故、その時、田村嘉顕は「城」を造ろうと思ったのだろう?誰の真似をしたのだろう?例によって、私は駐車場で同行三名が本丸まで登って写真に記録してくれるのを待つ。「公式ガイドブック」には、スタンプ設置場所に「本丸(ボックス設置予定)」とあるが、「二之丸跡」の写真後方に移る赤いボックスがその設置場所だろうか?
 三春の町はなんとなくお洒落な街並みで、三春というオトメチックな町名にふさわしい。



          ■111 向羽黒山城  
    
   スタンプ設置場所
    「向羽黒山城跡整備資料室前」
    (登城日 令和2年6月28日)


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 平成生まれの名城

 私の父は福島県の小名浜出身。母は同じく福島県の郡山市の出身だから、私は福島県は度々訪れている。当然、福島県のお城も沢山知っている。「日本百名城」には県を代表して「二本松城」「会津若松城」「白河小峰城」が入っている。妥当な選択だ。そして、今回の「続百名城」には「三春城」とこの「向羽黒山城」の二つが選ばれている。「三春城」はともかく「向羽黒山城」はあまり名を聞かない城で、意表を突く城の選択だった。
 なぜなら、福島県には他にも棚倉城、相馬中村城、平城、福島城などかって藩邸が置かれていた由緒ある城が多々あるからだ。

 しかし、「向羽黒山城」はれっきとした国指定史跡の城である。ただ、指定されたのが平成13年8月と「名城」として名を挙げたのが遅いのだ。ただ、私の座右の書、1967年(S42)発行の日本城郭全集の第二巻、福島県の部にはチャント記載されている。
 『永禄4年(1561)芦名盛氏が築城して居住した。天正3年(1575)6月その子盛興が早世したので盛氏は再び黒川城に帰り、この城を廃した。本丸東西36M、南北18M。二ノ丸東西54M、南北31M。三の丸もある。石垣、礎石も残り、会津中興の英主盛氏の山城として構築の妙が窺われる。』
 
 「続百名城」には平成の世になって改めて「名城」になった城が多い。私の地元、埼玉県から選定された城は三カ所だが、一番有名な「118忍城」は「県指定史跡」で、全国的には無名な、「119杉山城」と「120菅谷館」の二城が平成29年10月に同時に「国指定史跡」となっている

 久し振りにスタンプを自分で捺して(白石城は天守閣の中。米沢城は駐車場から遠く、最近はスタンプ捺印もY夫人の手を煩わせるようになっていた)車で探索。降りる間もなく一回りして下界に帰ってきてしまった。

 城の持ち主は誰か?

 さて、今、私は、城の持ち主は誰か?の難問に凝っている。
 徳川幕府は、秀吉に代わって、全国を所有した。各地の藩主は幕府から「借りて」藩を経営しているのだ。だから、幕府は好き勝手に藩主の「国替え」をする。城を後にする藩は、城を綺麗にして次の藩に引き継ぐのだ。城は、誰のものだ?幕府が所有しているのか?

 時代を一足飛びに現代に移そう。この「向羽黒山城」は誰が所有しているのか?
 エイヤッと、スタンプ捺印所で頂いたパンフレット記載の「会津美里町教育委員会教育文化課生涯文化係」に電話してみる。担当者が丁寧に教えてくれた。
 『ほとんどが美里町の所有です。一部の私有地は地主さんと契約して町が管理しています。いつからか?と云うと、昔は百人位で所有していて、いろいろ使っていたようですが町に寄付して頂きました』
 正確さには全く自信がないが、とにかく、今は、国ではなく、町が大部分を所有していることは確かだ。


 




          ■112 笠間城 
     
    (登城日 平成31年1月18日)  
     スタンプ設置場所「かさま歴史交流館井筒屋」

   

***
 「続百名城」に選ばれた城は山城が多い。それも、「知る人ぞ知る」城が多く、城博士を自任するこの私でさえ初めて名を知る「名城」が多数ある。知らない自分を責めるべきなのだが、時には、畏れ多くも、この城を百名城に選定した権威たちの見識を疑ってみたりする。

 この私の疑問へ選定委員長は「公式ガイドブック」の冒頭で詳しく経緯を説明されているので、皆様も熟読しよう。

 この笠間城も、ここに城があることさえ知らずにこの年まで生きてきた。新大宮ゴルフ倶楽部(現在マナゴルフクラブ)や希望ヶ丘カントリークラブに大金をつぎ込みメンバーとなり、所沢の自宅から遠路、日帰りやら、泊まり込みやら、散々通った。笠間はその通り道で、笠間稲荷や日動美術館にも寄ったりもした。
 城探訪はお金がかからない分、ゴルフより早く始めていたから、笠間にお城があることを知れば、少なくとも寄ろうとしたはずだ。寄ってないことを残念に思っていたはずだ。
 しかし、その存在を知らなかった。今度、「続百名城公式ガイドブック」で初めて知った。

 唐沢山城を見学して、KとSと笠間城へ。山城だから私は最初から城見学を諦め、スタンプ設置場所「井筒屋」へ直行。かの「千と千尋」の舞台にも似た日本建築にスタンプは大切に扱われている。帰宅後、パソコンのYOU TUBEでこの建物の曳き込み作業を見た。
 笠間市をパソコンで見るといろいろ面白い。1622年から1645年まで浅野家が城主であったことから、家老大石家の屋敷跡がある。義士の坂本九ちゃんが笠間稲荷で結婚式を挙げ、20年住んだとかで家が保存されている。更に、座頭市の生まれ故郷とかで「笠間の血祭り」が作られこれも碑が建っている。
***
スタンプ設置場所「井筒屋」 井筒屋内部。
スタンプが主役の場所を占めている。
井筒屋内部

 ⇒右写真
 入るなり「オイナリサンは売り切れ」と云われた蕎麦屋で。
 「笠間義士会蕎麦講処」の看板に注目。
 赤穂義士の多くに笠間藩出身者がいた由)

 昔、私が城巡りを始めたころはパソコンなどなかった。参考は全て書籍だった。なかでも人物往来社の「日本城郭全集 全15巻」は座右の書で、訪城する度に紐解いていた。今でも書棚の一等席に鎮座している。久しぶりに埃を払って参照してみた。「第三巻千葉・茨城・群馬の城 予約特価860円。1967年3月18日初版発行」今から50年前、昭和42年のことだ。記事は1ページ丸々費やされ、縄張りも、現状と同じように説明され、当時から名城扱いされていたとわかる。つまり、この城を知らなかった私の浅学菲才を告白して、次の城へ進もう。

昼をした蕎麦屋で。
「笠間城主下屋敷跡」。
トイレの中の張り紙に注意!
「笠間城主下屋敷跡」 親切・丁寧な案内板。
親切・丁寧な「枯れ枝注意」の
看板に注意!
井筒屋全景 「笠間城主下屋敷跡」にて。KとS。




          ■113 土浦城 
     
    (登城日 平成31年1月18日)
    スタンプ設置場所 「土浦城東櫓」


   


***  112番の笠間城を出て約1時間で113番の土浦城に着く。かくのごとく、土浦は交通の便が良く、手近の平城として数回訪れている。簡単に行く事が出来、簡単に見て回れるので、その分印象も薄く、史実との組み合わせも思い出せない。しいて言えば、「予科練」だろう。我々の年代はまだ「予科練の歌」は宴会の定番で、「貴様と俺とは、同期の桜」と酒にも歌詞にも酔いしれていた。今は、宴会も放歌高唱もなくなった。(ついでに言えば、山でもテント場が制限され、「山の歌」を歌う機会がなくなった)

 そんなわけで、土浦城とは縁が薄い。土浦市立博物館の駐車場に車を停める。
ヒョッコ、ヒョっコと杖を突きながら、100円払って博物館に入ったが、そこにはスタンプはなく「東櫓」にあるという。そう、ガイドブックにはそう書いてある。仕方がない、「今まで、「正・続百名城」の中で、スタンプ捺印の為にお金を払った城は何処だっけ?」などと考えながら、また、ヒョッコ、ヒョっコと杖を突きながら平城を歩く。しかし、「東櫓」は見上げるような階段の上。戦意を喪失して、スタンプ・ゲットをKに託した。

 土浦と、いつか、ご縁が出来るだろうか?神のみぞ知るとは大袈裟な・・。
 土浦からはSの「おおたかの森」も、Eの我が家も近い。Kの丁寧な運転に送られ、今日は早目に家に着いた。


***
多分、西櫓 東櫓への直登の階段。
小さな石碑には「本丸跡」とある。 東櫓遠景。






          ■114 唐沢山城 
     
    (登城日 平成31年1月18日) 
     スタンプ設置場所「唐沢山神社社務所」


   

***
 7時にKに迎えてもらい、「おおたかの森」駅でSが同乗し順調に城へ行く。取りあえず蔵屋敷の駐車場に停めKとSは山道を登り、私は茶店で一服。手持無沙汰な店番のおばさんが相手してくれる。佐野ロータリークラブ発行の「戦国唐沢山城」を購入し、甘酒を所望。
 見晴らしが良く、「あの枝と枝の間に見える山が浅間山だ」「へー」。甘酒に生姜が付いていることに感心しているところへ二人が帰ってきた。Sは地元栃木県の出身だから忽ち云う。「甘酒に生姜を付けるのは常識だ。感心するとは恐れ入る。それに、あの山は方角からして浅間山ではない。男体山ではないか」Kは福岡出身。本当の酒飲みだから甘酒など呑まないので生姜論争には加わらなかったが、「山」の比定には即座に参戦。スマホを取出し「現在地はここ。北はこっち。よってあの山は男体山」と断定。おばさんは外できりのない落ち葉掃除に専念し始め、論争に加わらなかったが、私は今でも浅間山ではないかと思っている。
 
***
佐野市一瓶塚稲荷神社。
銅製の鳥居は国の重要美術品
案内図。
図の中の「関東七名城」の
リストが面白い。
どこかにも書いてあったが、
ネコがやたらに多い。
見えにくいだろうが
平成26年念願の
「国指定史跡」になった。
見えにくいだろうが
枝の間に浅間か男体山か、
問題の山がある。
甘酒。生姜付き。

 「上まで車で行ける」と私を乗せてスタンプ設置の唐沢山神社まで、一車線で擦れ違いに苦心しながら往復。この神社の祭神は藤原秀郷。平将門を討伐した将だ。将門の史跡は歩きたい場所だが、秀郷の史跡・履歴となると今まで考えもしなかった。秀郷の子孫は奥州藤原家の祖となり遠藤はおろか、Kこと近藤、Sこと斉藤の藤一族の祖となってゆくのだ。今日、K、S、Eと、偶然、藤一族が揃って祖先参りをした不思議。感心しませんか?

 もう一つの偶然を。この神社のパンフレットに曰く「明治13年、佐野家ゆかりの人々は
唐沢山の古城跡に秀郷公を祀る神社の創建を図った。この念願を相談された大蔵卿佐野常民は志に感動し、国や県に働きかけ、神社設立と広大な官有林払下げが許可された」と。
 これを読めば、佐野常民は当然佐野出身と思うが、彼は佐賀藩出身で、「下野佐野には直接の関係はない」とパソコンに明記されている。佐野市に佐野氏が貢献と云う偶然に、感心しませんか?

肝心の城・城主。パンフレット・スマホに詳しいので割愛。

車で登った唐沢山神社。
ここがスタンプ設置場所。
見えにくいだろうが
二ノ丸に立つS。
立派な石垣。
車から降りもせずパチリ。






          ■115 名胡桃城 
    スタンプ設置場所 「名胡桃城址案内所」 
    (登城日 平成30年6月24日)


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 久し振りに城探訪のフルコースをした城だ。いつもの通り7時にYさんの迎えを受け、関越月夜野ICからすぐの名胡桃城の駐車場に着く。9時30分。駐車場もかっての般若郭の由だが、城の案内所はすぐそば。(写真1)立派な建物。ヴィデオ、展示、鎧兜(写真2)、常駐の案内人と内容も立派。満足してスタンプを押す。
 城を一回りする。山城ではあるが、郭は堀切で区切られていて、さほどの高低差がなく、よく整備されているので、今の私の足でもなんとか本郭の先の物見近くまで行って、帰る事が出来た。(写真3〜5)最近の城見物ではそこまで見る余裕がなく見過ごしてしまう「碑」(徳富蘇峰の筆)や小さな祠に奉納されている訪問客持参の六文銭などにも目を向ける事が出来た。(写真6、7)
***
写真・1 写真・2 写真・3
写真・4 写真・5 写真・6 写真・7

 フルコースに欠かせないのが城の故事・来歴だ。その点、この小さな城は全国区だ。小田原北条が豊臣秀吉の調停をないがしろにして、真田が守るこの名胡桃城を攻めたのだ。秀吉はこれに激怒して、北条征討のキッカケとした。そのキッカケとなった城として歴史に登場するのだ。
 しかし、北条が名胡桃城を積極的に攻めるとはチト不自然と思う。おそらく秀吉・真田などの名うての役者たちが巧妙に挑発し結果的に北条討伐の口実をデッチ上げた。と、信じる人は私の他にも多いだろう。
 
 名胡桃、沼田、岩櫃。群馬の「続百名城」は全て真田ゆかりの城だ。往年のベストセラー池波正太郎「真田太平記」を紐解かざるを得ないだろう。新潮文庫第3巻には「偽書」が飛び交い、北条が名胡桃攻略に踏み切った、と、記されているがこれが真実とは作者も思っていない、と、邪推するが。いずれにしても、北条は秀吉に服せず、滅ぼされた。



          ■116 沼田城 
    スタンプ設置場所 「沼田市観光案内所」 
    (登城日 平成30年6月24日)


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 この城は今まで数度訪れたことがある。近辺には観光地が多いので、沼田城は寄りやすい場所だからだろう。交通の要衝として重要な城とよく解る。しかし、城そのものは、公園と化し、中を歩けば移築された国重要文化財生方家や土岐邸などの見物が主になるほどだ。
 従って、今回は前の訪問時にはなかった城入口の立派な「観光案内所」の立派な「スタンプ捺台」で捺印し、Yさんの散策を待った。

 待つ間、考える。この城は1532年沼田氏が築いた由。それまではなかったのか。なくても沼田氏は生きてこれたのか。しかし、城がないと忽ち滅ぼされる時代となった。
 これは沼田氏だけでなく、日本中、地方豪族は同じ運命背負ってしまった。
 これらの築城の費用は?いくらくらいか?誰が、誰に払うのか?

 改めて、日本の城の歴史を考えねばならない。「日本百名城公式ガイドブック」には百名城を築城年代順に整理した資料がある。第一号は「吉野ヶ里」だ。あの史跡を「城」と定義した見識には敬意を表するが、誰からの攻撃に対する「守りの城」か?が、定かではない。「吉野ヶ里」に匹敵する攻撃者が、国内にいたのか?その遺跡があるか?大陸からの敵を想定する論者の方がまだ説得力がある。
 吉野ヶ里の次の城は、大野城、鬼ヶ城で、これは目的は「大陸」だと明確だ。しかし、不思議なのはそこで日本の築城は長い眠りの時間があるのだ。記紀にも壬申の乱にもヤマト政権の全国統一にも城は出てこない。精々、稲城であり茨城である。古墳の形状、大小によって、大和朝廷が地方豪族を傘下に入れていく過程が解るだけで城は出てこない。
 ヤマトは東北に手を伸ばす。そこで多賀城などが登場するが、さて、頼朝の全国制覇、源平の戦いでは城の出番はない。大体、武士の相手の朝廷は城を持たないではないか。ようやく南北朝の混乱期に楠正成の千早城で城が歴史の表舞台に登場する。先ほどの築城年代史にも登場する。

 この辺で私が持つ城への疑問を述べるのはやめよう。城を築く費用がどう作られるかも、又別途に考えを纏めよう。でも、でもだ。これら中小豪族の収支はどうなのだろう?租税。しかし、年貢というように収入の主は秋の収穫の時一回ではないのか?負け組は勿論、勝って新領地に入っても、収穫期まで年貢は入ってこないだろう。
 城の縄張り・普請・作事・歴史への興味から、その資金繰りに興味を持つのが私のこれからだと思うのだが。
 
 こんな事を考えているうちに、Yさんが写真を撮って帰ってきてくれた。
 以下、その写真。
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スタンプ捺印 沼田城にあったという天守閣模型。
よく造る金があったものだ。
鐘楼。綺麗な写真。
今回のもう一つの主役、
名胡桃城が遠くに。
絵図
 
 ■今回の真田三城巡りの昼飯は道の駅・中山盆地の「レストラン 中山盆地」
3色蕎麦の「中山盆地スペシャル」と「ひもかわカレーうどん」をそれぞれチョイス。
ローケーションも味も素晴らしい道の駅です。






          ■117 岩櫃城 
    スタンプ設置場所 「平沢登山口観光案内所」 
    (登城日 平成30年6月24日)


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 名胡桃城から国道145号で岩櫃城へ向かう。この道はドイツにならって「日本ロマンチック街道」と名付けられ四万、草津、河原湯などの温泉やロックハート城などへ行くときによく使った。約1時間、11時半に平沢登山口着。案内所は仮の小屋だが(写真1)、林立する「続百名城岩櫃城」の幟が初々しい(写真2)。小屋の中のパンフレット類も実に豊富だ。その中の「真田街道ガイド」などはパンフレットと云うより充分に読みごたえがある一冊だ。なにしろ、上田、長野から始まって、妻恋、沼田、片品などの群馬県11か所を網羅し、白石、由利本荘、蔵王の東北に飛び、大阪、九度山まで全国の真田関連の史跡を案内している。発行は上田市観光課内。流石、岩波の牙城、長野県だ。
 有難くスタンプを押印し、山城の模型など見てから、やおら、登山口へ向かう(写真3、4、)。岩櫃山、標高こそ802Mと高くはないが、頂上付近は200Mの断崖絶壁。コースによっては鎖場もあると。名前からして恐ろしそうで、登山の現役時代も敬遠してき
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写真・1 写真・2 写真・3 写真・4
 その中腹の山城だ。身障者の手に、ではない、足におえる城ではない。ここもYさんにお任せ。でも、Yさんが本丸へアタックしている間、単独、「中城跡」まで足を運ぶ。足を上げて歩けたのだ。往復30分。このような記事が訪城記のメインになるのだが仕方ない。
(写真5〜8))

 池波正太郎の「真田太平記」は武田勝頼の滅亡の時から始まる。新府に逃げ帰った勝頼に当時の真田の党首、昌幸はこの岩櫃城に籠って陣を立て直すことを強く勧めているが容れられなかった。この大長編の真田家の物語は真田家は既に武田家の有力な武将となってから始まって、その前の真田の庄の小豪族の時代には触れていない。
 それならそれでよいが、一将卒の真田家は主の武田家から俸給を貰っていたのか?それとも自分で稼いだ金を上納金として主人に収めていたのか?真田家も家臣を抱えている。彼らに俸給は支払っているのか?各々、自分の衣・食・住をどう賄っていたのか?
 
 現代。市と県。県と国。各々、補助金を貰うのか?納入するのか?PCで吉川市の予算を覗いたのだが、今のところよく解らない。
 
 城を建てる金の捻出をはじめ、「真田家の家計簿」を調べてみたい。
写真・5 写真・6 写真・7 写真・8



     ■118   忍城  
         登城日 2018年8月30日 
         スタンプ設置場所 「行田市郷土博物館」
 

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 館内は車椅子利用

 「続百名城」では初めてのKの車での訪城。7時吉川駅。8時57分行田市郷土博物館。3分間開館を待つ。入口にスタンプ台。100円の入館料を払わずに捺印できるが、開館してなければ無駄足も。
 博物館の展示を見る。城見物を諦めているのでゆっくりヴィデオを数か所見る。「ヴィデオの前に椅子がない」と係に云うと、「車椅子をどうぞ」と。ナルホド。

 忍城水攻めは秀吉の指示
 展示見学の収穫は、忍城の「水攻め」を石田三成に指示した秀吉の書状を見たことである。巷間、三成が秀吉を真似て実施して失敗したと云われている。だから、三成は実戦が下手だ、だから、関が原で負けたのだ、と、云われている。往年のベストセラー「のぼうの城」も三成主導説に基づいている。話は違うが、「松島や ああ松島や 松島や」を、「私は」、ではなく、「私も」長い間、芭蕉の句と思い込んでいた。季語がないと気がついて調べて初めて他の狂歌師の作と知った。クワバラクワバラ。

 大名と国変え

 忍城は秀吉の小田原攻めで唯一、落城しなかった城とも知った。名城なのだ。だから徳川家も大事にして、城主には松平家や阿部氏などの親族、譜代が続いた。
 しかし、この城に限らず、藩主の交代・移封は何故行われたのだろう。功績があっての加増や失政があっての左遷などの明白な理由がある場合は解りやすいが、なんとなくあっち行ったりこっち行ったりする大名・家臣、或いは御用商人たちの苦労を、私は知ることが少ない。だから、百名城の丹波篠山城で「大名と国変え」の絵図は貴重品として、私のホームページで異彩を放っているので、見てほしい。大名の国変えは疑問を持つ人が多く、パソコンで検索すると、多くの質問に多くの回答が寄せられている。これも併せてご覧ください。

 行田市散策

 行田市は観光資源が豊富な市だ。古代ハスの里、埼玉古墳公園などこれ一つで充分人を呼べる。ナントカ通りの人形群など面白いのに市の観光案内にも載ってない。それほど多士済々なのだ。屋内でさえ車椅子を使ったくらいだから、博物館で見つけた郊外の石田堤を
一つだけ訪れて次に向かった。 




***


     ■119   杉山城  
         登城日 2018年8月30日 
         スタンプ設置場所
 


ご報告準備中







          ■120   菅谷館  
         2018年8月30日 
         スタンプ設置場所 
         「埼玉県立嵐山史跡の博物館展示室受付」
 
***
 埼玉県比企郡嵐山町菅谷がこの菅谷館の住所である。埼玉県人で40年過ごしたので、県名はすっかり身についている。比企郡は島津家の出身地として、嵐山は名門ゴルフ場の名として何れも好印象のある地名だ。菅谷も然り。昔、スリーデーマーチの集合地として知り、その後、城探訪で一日かけて歩いたところだ。とりわけ比企一族は頼朝の乳母比企尼、修善寺物語にも語られ北条政子にいびられる若狭局など悲劇のにおいが立ち込める一族だ。
 それでいてこの博物館に入るのは初めてだ。ここでは最初から受付で車椅子を借り、下りのスロープではKに支えて貰ったりしてゆっくりヴィデオを勉強する。
 私が勉強している間にKは城見物。直ぐ帰ってきた時間からして一部しか見なかっただろう。この暑さだ、無理に勧められない。

 畠山重忠の居館でその後山内上杉の城になったという。重忠は、頼朝の奥州征討でも武力を発揮しているらしいが、それは平家物語のような語り部がないせいか皆は知らない。

 Kの車に戻る。この齢で彼は燃費の良い新車に乗り換えている。ただ、乗っていて前より安心な運転になった。スピードはあまり出さず、無理な追い抜きなどしないし、車間距離も充分だ。と、褒めたが、彼は褒め言葉と取ったかどうか。
 ナビも勿論搭載しているが、それにはあまり頼らずスマホを手放さない。危険じゃないかと思ったが、スマホもチャンと音声で案内するのだから安心だ。
 昼にトンカツを食べたいとリクエストすると、アーラ不思議、ヒキちゃん(今日私が名付けたスマホナビの名)は人里離れて繁盛しているトンカツ屋に案内してくれ、満足した。


***







          ■121 本佐倉城  
    スタンプ設置場所 酒々井中央公民館 
    (登城日 平成30年5月27日)


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***
 千葉県は隣の県だから数えきれないほど行っている。しかしその殆どが、千葉カントリーであり、大利根カントリーであり、茂原や果は夷隅などのゴルフ場であって、千葉市を訪れたのはこの長い人生で二回のみである。
最初は顧客開拓に行った。わが社は、北海道から沖縄まで全国に顧客を持つのに一番近い県に顧客口座が一つもないのが如何にも口惜しく、見込み客に飛び込んだのだ。ケンモホロロに扱われ意気消沈して一度で諦めた。
 二回目は、既に仕事から片足どころか両足を抜いて、城見物に熱中し始めた時である。東京から乗り換えなしで1時間。更に歩いて行ける千葉城に登った。「竜馬がゆく」を読み耽っていた時代である。千葉は北辰一刀流千葉道場の千葉で、竜馬と婚約したともいわれる、息女千葉佐那と北辰一刀流の北辰つまり北極星に興味が集中していて千葉の歴史には関心がなかった。。

 現在の千葉でさえ馴染みがないのだから、歴史を遡って頼朝の時代からこの地に根を張っていた千葉一族の盛衰は全く頭に入っていない。この本佐倉城は「千葉氏の最期の地」とあるのだが、鎌倉・室町期の関東は、千葉氏のみならず誰も彼もゴチャゴチャの時代だ。
 群雄割拠と云えば聞こえは良いが結局はドングリの背比べで、ようやく小田原北条が
統一したと思ったら、忽ち、秀吉に降参して、北条傘下に入っていた千葉氏も永い内憂外患に苦しみぬいた歴史を閉じた。

 さて、本佐倉城。国指定史跡の典型的な山城。最初から登城は諦めて、真っ先にスタンプ設置場所の酒々井町中央公民館に車を停める。写真の如く公民館は入口に「祝続百名城選定」の垂れ幕があり(写真・1)、内部の一等席にご丁寧な「スタンプはこちら」の指示がある。(写真・2&3) 
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写真・1

写真・2

写真・3
 訪問数はまだ少ないが、今回選定された「続百名城」の土地の人は、最初の「百名城」の諸城より、選定されたことを光栄と思い、城フアンと共に知名度を上げようと盛り上がる姿勢が嬉しい。
 本佐倉城の廃城後、徳川政権は佐倉城を設け、佐倉城は早々と千葉県で唯一、百名城にノミネートされている。当然私は訪城している。その時のスタンプ設置場所の印象を、私の、百名城訪城記佐倉城の巻から以下転記する。

 佐倉城の百名城スタンプの設置場所
 城は国立歴史民族博物館の一郭にある。違う。博物館が城の一郭にあるのだ。
 この城の住所を見てみよう。「城内町 官有無番地」こんな番地が世の中にあるとは。
 とにかく、城の中に国立博物館がある。但し、百名城のスタンプは当然この博物館の入口にある筈なのに、「100名城スタンプは佐倉城址公園管理センターで押印できます。管理センターは自由広場の隅にあり」と、遠くに余計者のように追いやられている。百名城スタンプのフアンは多いし、今後も増えるだろう。地方活性の有望な戦力をこのように冷遇するケースは他にどこがあったろうか?」

 本佐倉城に話を戻そう。場所はそこから車で直ぐだ。山城の入り口を歩いて少し登ってみる。(写真・4&5&6)100歩位は歩いたかな。今の私にはこれ以上は無理、と、いとも簡単に諦めてサッサと車に戻り、帰宅へ。ここから松戸は近い。したがって吉川も近い。千葉と埼玉はかっては同じ葛飾郡に属していたのだから、近くて当然だ。


写真・4


写真・5


写真・6



          ■122 大多喜城  
    スタンプ設置場所 大多喜城内
    (登城日 平成30年5月27日)


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 今、私の住む埼玉県吉川市の東を流れる江戸川を越えれば、そこは千葉県だ。関東一都六県のうち、東京・神奈川は視野に入れず、私は埼玉県のライバルは千葉県と思い定め、折に触れ勝手に両県の優劣を頭の中で論じている。今日は、千葉県の「続百名城」を訪ねるというのでいささか身構えている。千葉県の百名城は佐倉城のみ。埼玉は鉢形・川越の二城。
 「続百名城」でも千葉は本佐倉と大多喜の二城に対し、埼玉は忍・杉山・菅谷の三城。何れも埼玉が勝った!ワーイ、万歳!私の優劣論とはせいぜいこんな程度なのだ。

 例によって、7時にYさんに迎えられ千葉県へ出発。今回、千葉県に行くのはYさんが新聞で見つけた長生町役場周辺の蕎麦畑の花を見るのが主目的だ。失礼。長生「町」と書くとそこは徳島県阿南市の町で、ここは、長生「村」なのだ。
 ルートを東京経由でとったため、千葉に入る渋滞に悩む。千葉県のゴルフ場へ通っていた時代、散々経験した渋滞だ。そう、これぞ、千葉県の泣き所だと云いたいが、埼玉も場所によってひどい渋滞があるか。

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 白い蕎麦の花は初めて見たので壮観だ。Yさんの写真を見てほしい(右写真)。近所の蕎麦やを見落とした為、味わうことは出来なかったが。ついでに、役場に寄って、トイレを借りた。
 長生村とは一昔前なら名前だけでも人を呼べる縁起の良い名前だが、今は如何だろう?長生きが決して目的にならない時代になったのではないか。

 そんな顰蹙を買うような話はひっこめて、大多喜に向かう。何故か大多喜はこれまで数回来ているので、スタンプだけ押して帰ってもウシロメタイ気持ちにならない。しかし、スタンプがある「大多喜分館」とは、城の模擬天守閣のことなので結局は急な階段を攀じ登って二階まで行かねばならなかった(写真・1)。
 但し、入館したお蔭で、館備え付けの兜を女性スタッフに着付けてもらい、Yさんと二人で写真に納まる事が出来た(写真・2)。「兜は重いですよ」と着用前に云われたが、その通り、かなりの重量である。これを冠ぶって尚戦うのだ。現代だったら、矢玉除けはツルんとしたヘルメットであろう。重い兜をなおかつ飾り立てた昔の武士の美的感覚に敬意を表すべきであろうか。

写真・1

写真・2

 
 
 城のあちこちに「本多忠勝を大河ドラマに」という幟がはためいていた。同様趣旨の幟は小谷城で「三姉妹を」、高遠城で「保科正之を」と見た記憶があるが、本多忠勝は大河ドラマになるほどのドラマを持っているか。申し訳ないが知らない。
 けれど、いやしくも徳川四天王どころか、徳川三将に入る猛将の本多忠勝である。何故こんな田舎で、10万石で・・、と思う。パンフレットには里見家に対する押さえと書いてあるが、なにか勿体ないと思うのだが。そう思うのは当然で、この人事は家康が関東に移封された時のもので、まだ、徳川は天下を取っていないのだ。

 納得したところで、城を後にし、駅前の「大手門」を写真にとり、駅前の「番所」で「猪どんぶり」を食べ、次に向かった(写真・3&4)。

写真・3

写真・4


          ■123 滝山城  
    スタンプ設置場所 
    (登城日 令和2年2月16日)


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百名城とカラオケ

 私のホームページ「遠藤晶土 100名城をゆく」には、城の他に「山の世界」「旅の世界」と「歌の世界」がある。どうか、「歌の世界」を開いて下さい。そこには、私が通うカラオケ教室の発表会が2004年から記録されている。昨年の発表会では車椅子で出場した。その写真もある。
 もともと私は音痴で、カラオケを趣味とは言えなかった。会合の二次会でカラオケがはじまると逃げ帰ってきていた。見かねた友人がこの教室を紹介してくれたのだが、その先生が良い先生だった。レッスンでは「上手い」とか「下手」とか、「声が良い」とか「悪い」とか、「感情を込めて」とかの「主観的」なことは一言も云わない。
 只々、楽譜をひたすら追ってゆく。それも、ドだのファだの難しいことはなし。楽譜を見て、「この音符は隣の音符より上がっているでしょ。上げて歌いなさい」「この音符には点がついているでしょ。伸ばしなさい。」と、「客観的」で分かり易い。お蔭で、皆も私の歌に耳を覆はなくなったようだ。

 ところで、カラオケと城と関係あるか。ある、ある。「荒城の月」の作詞土井晩翠は仙台生まれ。作曲滝廉太郎は豊後竹田の生まれ。青葉城・竹田城の名城を歌っている。
 三橋美智也「古城」、氷川きよし「白雲の城」、小柳ルミ子「私の城下町」、さとう宗幸「青葉城恋唄」少しニッチだが、私の好きな郡上八幡城は、永井裕子「郡上八幡おんな町」。

滝山城とカラオケ

 ところで、カラオケと滝山城と関係あるか。ある。ある。この教室、つまり、私のカラオケの恩師、谷津先生の自宅は、この滝山城跡に近接しているのだ。その自宅の庭に、ご主人のパターの練習場や二階建ての教室がある。その教室に通っていたから、序でに滝山城は度々散策しているのだ。
 今回は、スタンプ捺印の序でに先生宅に寄って挨拶をしてきた。

滝山城と写真

 滝山城。ガタガタと、Yさんが強引に車を乗り入れる。昔、隅々まで歩いたこの城だが、私は「中の丸」のスタンプ場までも行けず、Yさんに任せる。
 Yさんの話を聞いても、写してもらった写真を見ても、昔同様、いやそれ以上に山城の風情を満喫できるよう、良く整備がされているようだ。
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          ■125 小机城  
    スタンプ設置場所 「横浜市城郷小机地区センター」
    (登城日 令和2年2月16日)


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 小机城は私にとって特別な城

 最初の「百名城スタンプ集めの旅」をしていた時は、百名城のトリは江戸城と決めていて、そうなった。三分の一の百名城に付き合ってくれたKに同行してもらい、江戸城で百名城目のスタンプを押し、その足で城郭協会を訪れ、「祝登城完了」のスタンプを押してもらった。
 サテ、「続100名城」のシメはどの城にするか?
 この小机城は有力な候補と考えていた。この、無名に近い小さな城が、どうしてか?
 私は30歳のころ(1970年ころ)約10年この地に住んでいて、横浜市郊外の身近な城に興味を持ち始めていたのだ。
 当然、この城は度々通った。それから半世紀のご無沙汰だが、その想い出を確かめるのが一つ。もう一つ、この城を「続100名城」の中で特別な城にしたかった理由は、電車の駅に近いからだ。両足骨折でリハビリに励む私が、颯爽と単身で登城する夢を叶える城と思ったからだ。ところが、リハビリは遅々として進まない。どころか、寄る年波で、年々、身体能力は低下し、現状維持がやっとと悟った。で、幸便を得て、「続100名城スタンプ集めの旅」の中途ながら。スタンプを押してしまった。
 小田原の石垣山城の帰途、空いてはいるが半世紀ぶりで知らない新しい道で呆気なく到着。下のスタンプ設置場所でYさんの帰りを待つ間、チョット、近所を散歩。変わったのか、変らないのか、昔の記憶が定かでないから良くわからない。妻が一緒ならたちどころに変化を指摘するだろうに残念だ。
 肝心の城は、あとでYさんの写真で見る限り、ほぼ昔通りと思うのだが・・。
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太田道灌について
 小机城は太田道灌が造った城ではない。彼はこの城を攻め落としたのだ。彼については私は幡大介「騎虎の将 太田道灌」で馴染みが出来た。この本で古河公方、管領両上杉家、家宰道灌のゴチャゴチャは、公方を「関東担当将軍」、管領を「家老」、家宰を「家老付き筆頭部下」と翻訳し、京都の将軍は本来仲間である公方に余分な力を持たせないように牽制する図式と覚えれば解ると、解らせてもらった。

日本100名城年表
 「百名城ガイドブック」には年表があるが、「続100名城 ガイドブック」にはない。
作ってみた。百名城は安土桃山から江戸時代の城が圧倒的に多いが、続100名城には鎌倉・室町時代の城が多い。この城もそうだ。城郭史を勉強しよう。



       ■126 石垣山城  
    スタンプ設置場所「石垣山一夜城内トイレ付近」 
    (登城日 令和2年2月16日)


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 石垣山城

 訪城日は日曜日だったからか、日曜日にも拘らずか、道路が空いていて、我が家を7時に出て、滝山城を登城して、この城に着いたのはまだ11時前だった。
 この城は日本史に登場する有名な城だから、誰が、いつ、何故、築城したかは歴史に興味がある人なら、皆、知っている。
勿論、私も知っているし、湘南に住む人間として、訪城もしている。数十年前に一人で来たときは、車をはるか下に停め、ミカン畑の中の農道を誰にも会わずに征き、帰った記憶がある。

 石垣山は私有地
当時、神奈川県の新聞が県内各地の城を紹介していた。その記事に「石垣山城は全国でも珍しい、私有地の城だ」書かれていることが今でも頭の片隅に入っている。

 なるほど、私有地の城が珍しいのか。と、すれば、他の「国指定史跡」の城は、国有地なのだろうか?
 本来なら、各所在地の役場に電話で聞きただすべきなのだろうが、それを。パソコンに頼ったのでなかなか見つからない。
 わずかに、次の文章にを齧ったので、それで取り敢えず、お茶を濁そう。
 『月村さんが将来の公園化に向けて訪れたの方々に楽しんで頂く為にと育てた松です。
 昭和34(1959)年5月13日『史跡石垣山』として国指定史跡の指定を受け、地主の松岡さんをはじめ地元の方々の御協力により昭和62年に公有地となり現在に至ります』


「家系図」ならぬ「地系図」
 私が今住んでいる土地は、不動産会社から買った。不動産会社はだれから買ったのだろう?不動産会社に売った地主は、いつから、どうして、その土地を所有していたのだろう?こうして、各土地の所有者を遡って「家系図」ならぬ「地系図」を作った人はいないだろうか?
作ってみたいものだ。

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 ■127  新府城  
      
      2018年9月27日 
      スタンプ設置場所 「韮崎市民俗資料館」


       

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  新府城は武田勝頼が築城した。いや、築城しようとした。勝頼は信玄の嫡男として偉大な父に負けまいと奮闘したが挫折した二代目の典型として有名だ。
 しかし、今、甲府市を訪れると来年の「開府500年」への準備で盛り上がっている。
 500年前の「1519年に、武田信虎が甲府市のつつじが崎に館をつくり甲府を開創」と、市のホームページに書いてある。「開創」とはどうゆうことか?解ったようで解らぬ文章だがそこは無視してここでは、武田信虎とは信玄の父、勝頼の祖父であり、よって、勝頼は三代目であると認識を改めよう。
 信虎だって、歴史ある武田家の何代目かで、後継ぎ争いに勝ち残って、たまさか、つつじが崎に館を開き、嫡男の信玄が全国区の武将になったので「初代」となったのだが。
 「たまさか」初代になった信虎の生涯も、スサマジイ。甲斐をほぼ纏めたと思ったら、今度は自分が息子の信玄によって甲斐を追われ、駿河に亡命する。そして、息子はおろか、孫の勝頼より長生きするのだからオソロシイ。ご縁があれば、詳しく正確な彼の人生を知る事が出来るだろう。

 新府城。勝頼は長篠の戦で惨敗してからここに築城を始めた。何故、ここに建てようとしたのだろう?支払いはどう工面できたのだろう?真田昌幸は自分の岩櫃城(「続百名城」に選定)への逃避を勧めたというが・・。

 十年ほど前に発掘している場所を通りがかった。道路の傍の車で簡単にアクセス出来た。しかし今回行ってみたら、そこは駐車場になっていた。本丸は矢張り山城。私はその駐車場で、今日の同行者、KとSが登って帰ってくるのを大人しく待った。


 
 
 
 
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 ■128  要害山城  
       登城日 2018年9月27日 
       スタンプ設置場所 「甲府市藤村記念館」

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 この城へはKの車で行った。Kは沖縄から始まって九州・四国・中国地方の百名城の殆どを彼の車で案内してくれた。
百名城完登の時は、二人で江戸城で捺印しその足で城郭協会を訪れた。平成26年2月26日。今から4年以上前の話だ。この顛末は私のホームページ百名城の「江戸城」をお読み頂ければ有難い。
あれから4年「続百名城」が始まった。Kも私も80歳となった。彼の運転での遠出は遠慮せざるを得ないが、近いところなら、と、彼も乗り気になってくれて、今回は第一回目だ。

 先ず、甲府駅前のスタンプ設置場所へ。「藤村記念館」の「藤村」とは?と道中話し合うが、解らない。甲府には島崎藤村は似合わないし・・。
 館内に入って藤村とは明治初期山梨県令となった藤村紫朗の藤村と解る。但し、この記念館は藤村県令を記念するためでなく、彼が推進していた擬洋風建築を保存するための記念館とも解った。(1967年国の重要文化財となる)藤村紫朗は県令としては評判が良くなかったようだ。
 県令と云えば三島通庸をすぐ思う。百名城で訪問した山形城内には彼が建てたこれも国の重要文化財『旧済生館病院本館』があった。彼は鶴岡、山形、福島と県令を務めたが功績もあるが、政治的な弾圧に強権を用いた。特に、福島県では自由民権運動をひきいた河野広中を投獄するなど「鬼県令」と恐れられた。私の祖父は三春藩士河野広中のシンパであった。
三春城は「続百名城」に選ばれ先日訪城したばかりだ。しかし、只、行って、スタンプを押して帰ってきた。三春藩の歴史に思いを廻らせなかった。申し訳ないことをした。
 私のホームページ「遠藤晶土の百名城を行く 山形城」及び「続百名城 三春城」を読んでいただければ有難いが。

 記念館で無事捺印し、ついでに、年甲斐もなく、親切な女性スタッフと記念写真を撮って要害山城へ向かう。
 この城は十数年前か、探訪したことがある。尾根道に曲輪や井戸やらの小さな標識が建っている。あたりは、やせ尾根に草叢が茂るのみで私の知識では昔を思い浮かべる術もなく、ただ登って車を置いてある積翆寺に戻った。
 その時の印象が強いので、パンフレットに「本城・支城ともに遺構の保存状態が良く、戦国期のやましろの様相を今日に伝える貴重な史跡で国指定史跡となっている」の記事に目をつぶって積翆寺から引き返してきた。

 工事でガチャゴチャしている城内に静かに佇んでいる国の重要文化財「旧済生館病院本館」を見学する。人間大好きな私は、例によって、病院の施設よりこの時代や場所にそぐわない立派な病院を強引に建てた、当時の山形県令、三島通庸に興味を惹かれた。
 鶴岡・山形・福島と東北各地の県令を務めた元薩摩藩士三島は、交通網の整備や、近代的建築の導入など今に残る功績もあるが、増税や労役賦課、寄付金強要などへの批判に対しては弾圧一辺倒であった。
 そして、福島県令に着任すると自由民権運動を徹底的に弾圧し、自由党の首領、河野広中を逮捕。投獄した。
 福島県は私の両親の故郷である。母方の本家には河野広中からの自筆の手紙が額に入って飾ってある。見てはいるが、内容を確かめたことはない。いや、河野広中の経歴も、読んだことがなかった。この機会に検索して見ると出獄後も結構大活躍をしている。
 パソコンは便利だ。知らないこと・知りたいことを瞬時に教えてくれる。但し、キリがない。山形城と三島通庸は関係があるが、元三春藩士河野広中は関係がない。生憎、三春城は百名城でないが、何れ、紹介する機会があることを願う。

 県令と云えば山形城の一隅に「鬼県令」と恐れられた三島通庸を思い出す。私の祖父は彼に弾圧された福島県
 
 当時の山梨県令だった藤村紫朗が推進していた「藤村式建築」と呼ばれる擬洋風建築の代表作とされる

 
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 ■129 龍岡城 
      (訪問日 令和元年(2019年)8月7日)

         スタンプ設置場所「五稜郭であいの館」

      

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 城郭協会会報に寄稿文掲載

 数日前に「公益財団法人日本城郭協会会報 城郭ニュースNO144夏号」が届いた。この小冊子に私の寄稿文が掲載されているのだ。なんといっても日本城郭団体の最高権威の会報だ。掲載されたことは私にとって最高の名誉であり、幸運であった。
 早速に100冊を追加発注して、KやSやYやFなどの城仲間に配布する積り。今日はK、Sに手交できた。

 龍岡城の立案者

 8月は覚悟の猛暑だから、予定を入れなかったのだが、エイヤッと、日帰り出来る長野の二城を、例によってK・Sに無理を言ってスタンプ集めのツアーをした。
 龍岡城は十数年前、所沢に住んでいたころ、ナントカ峠を越えるドライブがてら訪れた記憶がある。今回は、「であいの館」で日和見を決め込んで、城内へ足を踏み入れなかったが、「館」でヴィデオを見る限り、昔の儘らしい。
 日本に二つしかない「五稜郭」であり、幕末に建てられたことは知っていたが、「誰が造ったか?」には、全く知ろうとしなかった。
 「公式ガイドブック」には「三河奥殿藩主松平乗護(大給恒)信濃田野口への本領移転と陣屋新築の許可を幕府に得て」とある。凄いな〜。解る単語は「三河」「信濃」「幕府」くらいで、他は馴染みのない単語が並ぶ。
「であいの館」で受領した「佐久市教育委員会作成のパンフレット」を紐解き、パソコンの力を借りて、ようやく、この幕末の俊英「松平乗護」のバックグラウンドが解る。
しかし、この俊英は結局あまり意味のある城作りはしなかったようだが、日本の勲章制度、赤十字社の創始者に名を連ねている。明治43年、72歳で死去。
***
スタンプ捺印。 「であいの館」内部。 Kに撮影依頼した城内部。
Kに撮影依頼した城内、濠。 Kに撮影依頼した城内、濠。
石積みがよく解る
捺印が時間外の場合のスタンプ置場。
館の人は「盗まれることはない」と云っていたが。

 料亭「花月」

 前回、私は妻と一緒だった。佐久なら鯉料理と最寄りの料理屋に飛び込んだが、売り切れで食べられなかった。今回はKのスマホで探す。行き付いたが、休日。でも諦めず、「ピンコロ地蔵」傍の「花月」に辿り着き、立派な料理にありついた。(写真・下左)
「ピンコロ地蔵」とは歴史ある成田さんの中にある最近の名所の由。お参りをする。

 帰途、SAで遠く妙義山を望む。先日、この鎖場を登るTV番組を見たばかりで、写真に収めたのだ。(写真・下右)いつ?だれが?この鎖をセットしたのか?パソコンで答えを見いだせなかった。誰か、教えて下さい。





      

 ■130 高島城 
      (訪問日 令和元年(2019年)8月7日)

         スタンプ設置場所「高島城天守閣資料館(有料)」

      

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 スイスの湖城 シオン城

 私は水城が好きだ。日本「三大水城」とは、高松城・今治城・中津城と云われているが何れも周りが埋め立てられ面影を求めることは難しい。むしろ、長崎の大村城なんかが城の裏が海に繋がっていて海城のイメージが湧く。
 「三大湖城」と云うのもある。松江城・膳所城とこの高島城だそうだ。膳所城は行ったことがない。写真集を見るとかなり「城と湖がせめぎ合っている」場所があるようだ。「百名城」にも「続百名城」にも入っていないが、行ってみたい。
 高島城は江戸時代から周囲は埋め立てられたそうで、当然、「湖城」の面影はない。従って、私にとって、「湖城」と云えばスイスの名城「シオン城」でしかない。「ヨーロッパ百名城」を訪ねたツアーで内部もつぶさに見学出来た時の感動はいまも残っている。

 高島城の設計者と「信長の野望」

 しかし、何故、ここに「湖城」を建てようとしたのだろう?高島城を検索すると25万4千件にヒットするが、大半が広告か個人の紀行でこの「何故?」の回答を見つけることは困難だ。で、設計者の日根野高吉について検索する。これまた3万件と十分すぎる情報量がある。面白いのは、彼の父、日根野弘就だ。手製武具マニアで、壮絶な切腹後さらに動き回ったという奇人は、岩井三四二「逆らうて候」講談社文庫の主人公になっている。
 が、驚いたのは、彼は「信長の野望」でも活躍しているらしいことだ。私は、平成23年7月(2011年7月)に「百名城65月山富田城」を訪れた。その時の私のホームページには「山中鹿之助を若い人が知っているのはゲーム「信長の野望」のせいだ。私もこれからゲームの勉強をしよう」と書いてある。忙しいことだ。
 肝心の日根野高吉はゲームでは「城デザインのカリスマ」という事らしい。だけど、彼が設計した他の城はあるのだろうか?

 「齢は取りたいものだ」

 スタンプ設置場所は天守閣内部で、写真(下左)にあるように、珍しく有料である。
前回訪問時の記憶は全くないが、まー、行ったことにして、Sにのみ捺印の為城内に行ってもらい、私とKは恒例の喫煙の写真を撮って(下右)次の龍岡城へ向かった。
 道中の狭い山道で、Kが時々、後続車に道を譲って走っているので、安心して乗っていられた。齢は取りたいものだ。
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 ■131 村上城 
      (訪問日 令和2年6月28日)
      スタンプ設置場所
      「村上市郷土資料館一階ロビー」
       

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 昨日、6月27日の早朝家を出て、白石城・米沢城のスタンプをゲットして夜は郡山に宿をとった。郡山は、母の出身地。久し振りに従弟と一席設ける算段だった。ところが、彼は入院中の由。まさか、コロナが怖くて東京人の私に居留守を使った訳ではないだろうが。
 
 郡山の駅前のビジネスホテルは、土曜の夜にも拘わらづ、満員であった。今朝、日曜の朝もホテルの内外には若者が沢山いる。Yさん曰く「昨夜、徹夜で飲んでの朝帰りの連中だ」
へー。最近のコロナ感染者は若者が圧倒的に多いと聞く。実態に触れたような気がする。

 新しい高速で村上まで一足飛び。この地も城も旧知なので、そそくさと、スタンプを捺して、トンボ返り。申し訳ないが、何も書くことがない。誰に申し訳ないのか?
 読者にか?この文の読者など誰もいないではないか。村上城にか?「続百名城」より「百名城」に選ばれても不思議がない名城だ。パソコンを開けば、みんな同じことを書いている。自分に対してか?そうです。城巡りをしている筈なのに、今まで軽蔑していた「スタンプハンター」に成り下がった自分にです。かって、城の歴史やエピソードを掻き集めて書き連ねる「城ハンター」たらんとしていたじぶんにです。

 と云う訳で、申し訳ないから、村上市の現況について書く。
 と、云うほどのものではないが、村上市は人口6万人。財政収入は372億円。
 私が住む吉川市は人口7万人だが、財政収入は230億円。
 人口の少ない村上市の方が、財政収入が多い。何故か?
 今度調べよう。
***
▼Yさんが2013年4月に村上城に登城したときの写真。
 Yさんとは2015年6月に村上を訪れたが、このときは登城せず、城に近い西奈弥羽黒神社(せなみはぐろじんじゃ)を参拝。
 寛永10年(1633)、時の村上藩主堀丹後守直竒が神社を上(城)から見下ろすのは畏れ多いとして現在の地に遷宮と、村上城との関係も面白い。






      

 ■132 高田城 
      (訪問日 平成30年4月22日)

       

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 鮫ヶ尾城の探索を諦めたので、少し時間が出来た。「帰りがけの駄賃」で「高田城」に寄ることにした。「行きがけの駄賃」という言葉の語源を紐解くと「馬子が荷物を届ける時、他の荷物も持った場合の駄賃」とあり、ナルホド、「行きがけ」の言葉より、「駄賃」の言葉の語源が馬子に払う賃金なのだと腑に落ちた。親切な辞書では、「現在の運送会社は帰りの荷物に頭を悩ましている」とまで書いてある。が、私が悩む問題ではない。
 高田城は交通至便の平城、桜の名所の観光地として有名で情報豊富、いつでも行けると思って未訪城である。丁度良い機会と、寄ってもらう。鮫ヶ尾城から、約、40分。折しも桜の季節。今年は開花が早く、また時間も15時に近かったので日曜・快晴でも混雑は少なく、無事、身障者用駐車場に入る事が出来た。
 ここで、書きにくいけど、本当のことを書こう。私は、この駐車場で、車から降りることもなく、ボケーッと時を過ごしたのだ。城探索はおろか、スタンプ捺印までYさんに任してしまったのだ。この怠慢、ルール違反が、「最初」となるのか、「最初で最後」になるのか?今後、傘寿の私をどこまで甘やかすのか?或いは、どこまで叱咤督励するのか?興味を持って見守りましょう。
 スタンプ設置場所)は「公式ガイド」には「2018・7までは高田公園内小林古径邸受付管理棟、7月以降は上越市立総合博物館(仮称)」とある。再訪も面白いだろう。
 Yさんがスタンプをゲットして車に戻った後、車で城を一回り。(写真1〜4) 私にとって、この城の主役は家康の六男忠輝である。友人に忠輝の熱烈なフアンが居て、その友人の影響で、春日山城の帰途、上越市の福島城を訪ねたことは「百名城」の記録に書いた。忠輝は福島城からこの高田城に移り、その後、有為転変の後、幽閉先の諏訪高島城にて生涯を閉じる。忠輝の本当の実像を我々は知る事が出来ない。友人も私も隆慶一郎の「捨て童子 松平忠輝」で活写されている彼の活躍の幻に酔っているだけだ。どんなヒーロー振りか?スッカリ忘れたので再読の積りでアマゾンに頼ると、送料別で1円で販売されている。この直前に今後、Yさんにインプットしてもらいたく司馬師の「越前の諸道」をアマゾンから1円で購入し送付したばかりだ。これらの名著が1円とは!たとえ10倍、100倍でも我々はありがたく買うだろうに。
 
 
 
 
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写真・1

写真・2

写真・3

写真・4

 
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 高速道路の山と川
 今回のドライブも絶好の快晴に恵まれた。関越、上信越、北陸の各高速道路は豊富な残雪を残す山々が左右に現れ、二人はその比定に忙しかった。曰く、妙義山、浅間山、立山、剣、毛勝、上越国境の山々、妙高三山、そして、白山。
 中央高速も山々を楽しめる道だが、北陸道はさらに日本海に流れ込む数々の急流も横切っていく。ざっと、姫川(糸魚川市を河口とする。「糸魚川という川はない」と、初めて知った。丁度、吉川市に吉川はないと同じだ)、黒部川、常願寺川、神通川、二級河川犀川、庄川、小矢部川、手取川。(九頭竜川は越えたのか?)この川達の経歴調査は、今後の楽しみにしよう。

 帰途は青春の歌声を
 帰途、白山市の美川駅を通った。Yさんが云う。「ここは浅川マキの出身地だ」エッ?私はこのシャンソン歌手の大フアンだった。銀座や新宿のシャンソン喫茶は勿論、日劇ミュウジックホールに客演した時も追っかけをしたくらいだ。ミュージックホールの華やかな舞台でもトレードマークの黒一色のドレスで自分だけの世界を歌い切った彼女の雄姿を、半世紀過ぎた今もマザマザと思い浮かべる事が出来る。しかし、半世紀前、私は若かった。Yさんは私よりさらに若い。浅川マキを知っているの?知っているどころではなかった。レコードを買い、それをテープに落とし、今日も車に積んでいるのだ。で、二人、暫く無言で懐かしい彼女の声に耳を傾け、我々の青春に思いを馳せた。

 彼女のテープが終わると、Yさんは新しい番組に切り替えた。Yさんは学生時代、白山の山小屋でアルバイトをした。数年続けてすっかりベテランになった。仕事が暇の時、Yさんたちは集まって酒を飲んだ。飲んで歌った。歌はY歌もあった。女性のメンバーもいたが、当時は今のようにセクハラなどと世知辛いことは誰も言わず、皆、大らかに楽しんでいた。
 その、数十年前の歌声が今発見されて、この車内で聞く事が出来たのだ。若い男性たちが適度なアルコールに声を限りに声を合わせる。同じ歌の繰り返しになってもその情熱は尽きることがない。そのエネルギーに圧倒されて我が家まで心地よく送ってもらった。
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      ■133 鮫ケ尾城  
      (訪問日 平成30年4月22日)

       スタンプ設置場所
         「斐太歴史の里総合案内所」


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 ホテルの朝食をゆっくり食べて、先日、古河城で仕入れた電子タバコも一服して、店が開くころを見計らって白山市安田町の桶和饅頭店に車を走らせ、名物の「きびだんご」を土産に仕入れる。Yさんは加賀や能登は地元なので詳しいのだ。城下町には古い歴史を持つ和菓子の名店が必ずある。この店も、日本有数の城下町金沢が誇る名店だが、地味な店構えで案内がなければ味わう事が出来ない銘菓だった。

 13時、斐太歴史の里駐車場に着く。山道を少々登ってスタンプが置いてある案内所へ。(写真・1、2)
今日は日曜。絶好の行楽日で、地元のシルバー連の「史跡めぐり」の会員で山小屋風の案内所は満員だ。(写真・3)スタンプを押し、無料の豚汁を振舞われ、若い「史跡めぐり」の引率者の案内を聴き、シルバー連の夫人から差し入れられた「菊芋」(写真・4)の漬物に舌鼓を打った。

 鮫ケ尾城。このオドロオドロシイ名の城も、申し訳ないが、名前すら聞いたことがない。
国指定史跡なのに・・。ただ、城の名前は知らないが、ここで戦った謙信の二人の養子、景虎と景勝については勉強したことがある。「百名城」の春日山城を訪城時、「御館」も見た。
何の防御もない平城の印象があった。そこでの戦いに敗れた景虎はこの鮫ケ尾城に立てこもったが敗れ、ここで自害したのだ。
 ここから見る城は案内図を見るまでもなく、数々の堀切、郭が並ぶ起伏の激しい山城だ。(写真・5)本家の春日山城はジックリ時間をかけて勉強した。健脚のYさんをもってしても
それこそ二の足を踏むだろう。と、早々に決めて、駐車場までヨタヨタと退却した。

 尚、この城のスタンプ設置場所は12月―3月は「神の宮温泉かわら亭」と公式ガイドブックにある。この設置場所の方が再訪問の興味がわく。
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写真・1

写真・2

写真・3

写真・4

写真・5



 



     ■134 富山城

      訪問日 令和2年(2020年) 7月19日

       スタンプ設置場所「富山市郷土博物館」


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 珍しく前回訪城した時の記録が見つかった。
 時は昭和56年(1981年)7月。和香へ転社後12年経ち、出張の途中で訪れた城の数も120城となっている。42歳。
 「我が社が黒字になった実感を持っての城見物の最初ではなかろうか。もっとも今年は香港、台湾、ロス、ゴルフと遊んで、ちっとも会社に貢献しないのでいささか気が引けるが。
 今回は金沢、富山の代理店獲得の旅だが、これだって、金沢城に行きたいためにエース産商経由、H銀行に地元の紙店を紹介してもらい、アポまで取ってもらって、飛行機で山々を楽しみながらという殿様出張。
 お城は都市の中の平城。濠も一部。天守閣も模擬でさして印象的ではないが、ここのかっての城主佐々成政が立山の針ノ木峠を越えて、何処へ行ったかというと徳川家康の所だと、今回、初めて知った。
 我々、飛行機・電話の時代でさえ、富山に来るのは初めてで、ここにどんな紙店があるかも知らないのにあの時代の武将の情報力、行動力は大したものだ」
と、書いている

 これを書いた時から40年経ったが今でも、私は、城の縄張りやら建造物にはあまり興味はなく、その城に関わる人物にのみ興味が惹かれるのだ。
 富山城に来る途中に寄った金沢城でも、城は見ず、作庭者脇田一族の名に惹かれて「玉泉園」に立ち寄った。脇田家の初代は、秀吉の征韓の役で宇喜多秀家との戦いで孤児となり、秀家が連れ帰った。秀家が流刑になった後、夫人(前田利家の四女豪姫)に伴われて金沢城に入り長じて二代藩主利長の近侍となり知行1500石にまでなった人物だと。

 スタンプをゲットして早々に帰途についた。お濠を廻る遊覧船(右上写真)にでも乗りたかったが、この不自由な脚での乗降を考えると、それこそ、二の足を踏んでしまう。

 



     ■135 増山城 
     
      富山県礪波市増山  続百名城訪城第一城
      (訪問日 平成30年4月21日)

       スタンプ設置場所「砺波市埋蔵文化センター」


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 早朝5時、迎えに来てくれたYさんの車で出発。関越、上信越、北陸自動車道路を砺波でおり、流石、Yさん、迷わず「増山城」に着く。先ず、「増山陣屋(写真・1)」に入る。案内図は壁に沢山貼ってあるが、無人。スタンプもない。スタンプの代わりに、スタンプのシールが沢山置いてある。喜んで貼ったけれどこの方がコストがかかると余計な心配をする。
 後で気づいたことだが、スタンプ設置場所は「砺波市埋蔵文化センター」だと、「公式ガイドブック」に明記されている。かなり離れた場所だ。ここのシールは初心者の我々に対するサービスなのだ。今後、ここ同様、足が不自由で、且つ、高齢な私には登城不可能な山城の百名城が目白押しで、「続百名城訪城記」は「続百名城スタンプ集めの旅」のタイトルとなりかねない。スタンプ設置場所の記録に気を付けよう。
 少し離れた城の入り口まで車で送ってもらい、登り始める。が、すぐに悟る。ここは山城だ。それも、「国指定史跡」の立派な山城だ。私の壊れた足ではとても本丸などへ辿り着く筈がない。写真・2の場所で私は待ち、Yさんに登ってもらう。ざっと一回り、Yさんの駆け足でもってしても30分かかったのだ。すっかり意気消沈して車に戻り、次に向かう。

写真・1

写真・2
***  
 これが、「続百名城訪城記」の最初、幕開けの城だ。
「続百名城」は2018年4月6日(シロの日)に選定された。そのリストは直ちにエクセルに落としたが、訪城開始は各城のスタンプが完備する2019年4月6日(シロの日)以降と決めていた。
冒頭の「続百名城」のリストを分類した結果を記入してみると、
1 行ったことがある城 31城。
2 行った記録はあるが記憶が薄い城 18城
3 訪城してないが名前は知っている城14城。
4 名を知っているような知らないような・・の城 4城
 5 全く名前も知らない城  33城
 と、なり、この私をもってしても名も知らぬ城が知っている城とほぼ同数ある。

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別所のたけのこ

 そもそも今回のツアーの目的は城ではない。Yさんの故郷金沢の「たけのこ」を賞味することなのだ。昨年来の計画で、Yさんの故郷の友人からの「たけのこ料理が始まった」の報せを待ちかねての旅なのだ。14時近く、予約してある金沢市別所町「竹の子めし 高野」(写真A)に入る。竹の子の刺身(写真B)、天麩羅(写真C)、筍ごはん(写真D)などを堪能した。

金釼宮
 堂々たる神社。境内にある「義経腰かけ石」は、将来、義経の平泉への道を研究するための資料となる。さらに、今、友人に付き合い紐解き始めた「奥の細道」旅行中の句とある「芭蕉句碑」(写真E)も、柞原集やら小松市の句碑やら、調べだせばキリがなくなりそうだ。
で、次の鳥越城へ向かう。

写真A 写真B 写真C 写真D 写真E
  
  


          ■136 鳥越城  
    
   スタンプ設置場所 白山市立鳥越一向一揆歴史館
    (登城日 平成30年4月21日)


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 増山城、金釼宮を終え、車を鳥越城へと走らせる。車は山道をかなり詰めて鳥越城の本丸直下の駐車場まで行ける。(写真・1)本丸には櫓門(写真・2)が復元され、説明版も行き届き(写真・3)井戸も見ることが出来(写真・4)、カタクリの咲く山道(写真・5)も適当にあり、久しぶりの山城見物が出来た。本丸からの城下も、Yさんの見事な写真で見る事が出来た。(写真・6)
 さて、スタンプ。幸い、設置場所の「一向一揆資料館」はすぐに見つかったが、滑り込んだのは17時を回っていた。帰りかけるスタッフに頼み込んで、スタンプを押すことは出来たが、館内を見ることは出来なかった。しかし、本丸への登城口脇に立つ碑「一揆敗れて山河あり」(写真・7)は、たった一つの「碑」でこの城の歴史が持つ一揆の凄まじい戦いとその凄惨な終末を垣間見せてくれた。

写真・1

写真・2

写真・3

写真・4

写真・5

写真・6

写真・7

***  鳥越城とは?「国指定史跡」の城に対して誠に申し訳ないが、今まで、全く名前も知らない城だった。この城は多くの他の城と違い、城主はたとえ武士であっても城を武士としてでなく一揆の指導者として築いているようだ。九州島原の天草四郎が立て篭もった「原城」を思い出すが、私は島原城は百名城のよしみで訪問しているが原城へは残念ながら行ってないのだ。原城は今回の「続百名城」にノミネートされているが、いつ、行けるかなー。
 一向一揆についても知ることは誠に少ない。かって、歴史上不明な点があれば、司馬師の「街道をゆく」に頼った。今、パソコンで引けば何でも解る時代と思って、師の本を本棚に飾ったままにしていた。久しぶりに、その「18 越前の諸道」を引っ張り出して読み耽り、ようやく、概念をつかむ事が出来た。ありがたや、ありがたや。
 この日は、数々の合戦の舞台となった手取川沿いの道を上り、下り、渡り、渡り返して、小松市郊外のビジネスホテルに一泊。Yさんも自分のホームであるキャンピングカーに敢えて泊まらず、身障者の私に付き合い不本意なホテル泊。しかも、「心配だから」と同室を志願してくれて、数年ぶりの旅の宿を無事過ごした。
***




     ■137 福井城 
 
      訪問日 令和2年(2020年) 7月18日

       スタンプ設置場所「福井県庁舎一階受付」


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 「江戸300藩のランキング」
 今、「藩」に興味を持っている。藤田達生「藩とは何か」(中公新書)を読んだせいだ。「江戸時代、日本全国は徳川幕府の統治下にあり、藩も城もすべて幕府が支配している。藩主は土地もそして城も所有していなくて、幕府から借りているのだ」と。だから、「国替え」などが幕府主導で行われるのだ。城も幕府の所有とは!
 最近、週刊朝日MOOK「歴史道 江戸300藩の格付け」を購入した。藩を石高・歴代藩主・家格・家臣団・商農業の五項目を各20点満点で採点し、合計点の比較で藩の格付けを行っているのだ。多分に主観的な採点もあるだろうが、参考にはなるだろう(監修・小和田泰経)。
 そのランキングによると、1位が加賀藩(91点)。2位薩摩藩(89点)。3位紀州藩(87点)。4位佐賀藩(85点)。そして、5位に福井藩が尾張藩と並んで福井藩が入っているのだ(84点)。幕末の名君16代藩主松平慶永候が大きく点を稼いでいるのだが、それにしても、親藩・45万石の福井藩は「越前藩」と言い換えれば誰でも知っている名藩だ。

 「福井市の銅像」
 福井県は度々立ち寄っている。「百名城」の丸岡城、一乗谷城は勿論、「続百名城」の越前大野城も既にスタンプをゲットしている。今立の和紙工場も、観光地の東尋坊、永平寺も、各、数回訪問している。その度に、福井駅前、従って、福井城を通り、地震の名残でお堀端の石垣が膨らんだままになっているのを横目で見ているのだが、城を訪問するのは今回が初めてだ。
 銅像の多い城跡だ。城の付近で最初に目に入った立派な立像は、松平春嶽と思ったら、意外や由利公正の由。藩祖の結城秀康の像は城内にいささかマンガチックに立っている。
 城内に北の庄城跡もあって、駐車場からさして歩かなくて済むので覗いたが、その付近にも柴田勝家、お市の方、三姉妹の銅像がある。この様子では、福井では未だ柴田勝家の人気が、春嶽、岡倉天心、継体天皇などの銅像たちを圧して抜群なように思えるが如何だろう。

▲福井城址にて
▲北の庄城跡

「城のあとさき @ゆうひのアトリエ」
 往路、北陸自動車道の杉津PAに「ゆうひのアトリエ」いう気の利いた看板があるので寄ってみた。昼だから夕陽は見れなかったが、敦賀湾の絶景を楽しめた。おまけに、写真友達になったヤングが偶然Yさんの出身地小松市の中学の後輩と判り盛り上がり、皆で写真を撮ったが、ヤングに囲まれて、若返ったというより、益々、己の齢を感じる写真になった。

「城のあとさき A丸八製茶場 実生」
 帰路、宿泊地粟津温泉へ向かう途中、石川県加賀市動橋町(イブリハシマチ)の丸八製茶場の喫茶室「実生」に寄る。製茶は狭山茶の地元、所沢に住んでいたので珍しくはないが、この「実生」には感嘆した。 ゆったりとした客席の佇まい。500円ながら供される、御茶もお菓子も容器も実に見事である。
 素人の自分がとやかく言うのはおこがましいのは承知だが、所沢にはとても真似ができない加賀の伝統が存分にものを言っているオモテナシである。
 この町には神社や本陣など小さいながらゆっくり見てみたい場所がまだありそうだ。





    ■138 越前大野城  
    
      訪問日 2018年11月18日 
      スタンプ設置場所
      「越前大野城一階」

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 昨夜は敦賀に泊まった。ホテルの部屋で、買い込んできた蟹でパーティーを始めた。
 今回はYさんに加えてY夫人が同行してくれている。夫妻とも石川県の出身。日本海の蟹料理はお手の物なのだ。香箱蟹の身を上手にほぐし出してくれる。私は、手も足も出ない、いや、出さないで味わうだけ。
 今回の旅は夫人の同行を得て、日本海沿岸の独特の食べ物を味わう事が出来た旅だった。
 二人の買い物は、道の駅?否。コンビニ?否。地元のスーパー?ピンポン!そこで買う肉厚のサバ寿司。堅豆腐。お菓子売り場の「青ねじ」、「すはま」などなど。私が初めて名を聞く北陸の主食・副食・オヤツ。を堪能した。
金ヶ崎城案内板。南北朝の
激戦もこの城であったのだ。
金ヶ崎城遠景。
あそこまで登れないのだ。
敦賀湾遠景。歴史を感じる。
 

 宿を出てすぐに「金ヶ崎城」。信長の敗退の時に、藤吉郎が「殿」を買って出た場面で我々にはなじみ深い城だ。もっとも、案内板には南北朝時代の端緒となる恒良親王捕縛の城としても案内されていた。ここも足が出ず、入口で我慢。
越前大野城が小さく写っている。
肉眼ではとても大きかったのに。
内山良休の碑。 自動販売機もどこか
あかぬけている。
これぞ大野城

 日本海沿いの変化に富んだ国道8号線を越前大野城へ。スタンプ設置場所が「大野城一階」とあるので、丸岡城の記憶が重なって、久しぶりに天守閣に登れると期待した。
 なにしろ、「続百名城」は縄張りも定かでない「山城」に次ぐ「山城」で身障者に成り果てた私は、スタンプハンターに成り下がっているからだ。
ところが、何と、この城も駐車場は山麓。山上の天守閣までは見上げるような直登の階段を登らねばならない。ここも、スタンプゲットは若い二人に任せ、私はよく整備された下の休憩所で日向ぼっこをし、案内板で築城者金森長近や長く藩主だった土井氏の業績をユックリ読みながら二人を待った。
大野城から。
遠方に白山が見える。
このマンホールに気付いて
写真に収めたYさんはエライ。
これぞ大野城 例によって私は下で待つ。
気持ち良い小春日和。
城を往復してきたY夫人と。
 

 帰路は白山が見える数少ない場所の西山展望台を訪ね、Yさんの白山バイト仲間が経営する食堂で名物の「スープカレー」、珍魚アオハタのマリーネなどを御馳走になって、「満腹・満足」で帰宅した。
白峰の西山展望台で
白山をバックに
白峰の田舎食どう「忠治郎」で昼食

 



     ■139 佐柿国吉城  
    
      訪問日 2018年11月17日 
      スタンプ設置場所
      「若狭国吉城歴史資料館」

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 この城の住所は「三方郡美浜町」。かって、「古代史同好会」のツアーで展望台からの三方五湖の絶景に息をのんだ強烈な印象のある場所だ。しかし、佐柿城となると全く知らない。
もっとも、「佐柿城」の名は、文献に一度だけ登場するので仕方なくつけているのだとはこの歴史資料館の受付氏。金のかかった資料館だ。美浜の財政を推測してしまう。

 「ガイドブック」を参照しても若狭守護武田氏の重臣粟屋勝久の築城とあって、粟屋氏も初めて聞く名だ。辛うじて、数度にわたって撃退した朝倉氏の名でこの城の歴史に参加できる位だ。城に籠って勝てるのは援軍があってこそと読んだ。この城の場合も、恐らく信長などの援軍があってこそと思うが。
山城へはYさんに行ってもらう。往復1時間。 絶景だなー。
難攻不落の城と解るな。
 こんな無縁な城を身近に感じたのは、スタンプ設置場所「歴史資料館」の入り口に貼ってあった「国吉城と水戸天狗党」の展示のポスターを写真に残してからだ。
 水戸の天狗党が何故ここに?
 天狗党についても私は名を知っているだけで何も知らない。ウイキペディアはその発生から活動の盛衰を丁寧に説明してくれる。そして最期。ウイキペディアを引用する。『越前に追い詰められた天狗党は敦賀で降伏。関東で天狗党がもたらした惨禍を良く知る幕府軍は彼らを極刑に処す。「天狗党員828名のうち、352名が処刑された。1865年3月1日(元治2年2月4日)、武田耕雲斎ら幹部24名が来迎寺境内において斬首されたのを最初に、12日に135名、13日に102名、16日に75名、20日に16名と、3月20日(旧暦2月23日)までに斬首を終え、他は遠島・追放などの処分を科された」
 数字が具体的で残酷さが迫ってくる。
 このような血なまぐさい話は、当時、日本中で起きていたのだろう。
 維新の時代、いったいどのくらいの人数が死に至ったのだろう。
そして、太平洋戦争。この「戦争」を知る世代も少なくなっていく。どうか、無駄な死がない世界が続きますように!
スタンプ設置場所
「若狭国吉城歴史資料館」
水戸天狗党
企画展のポスター
美浜町は金持ちだ。
立派な歴史資料館に
スタンプ台。




 



     ■140 玄蕃尾城  
     
      訪問日 2018年11月17日 
      スタンプ設置場所
      「余呉湖観光館」

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  米原の鎌刃城から国道8号線、かっての北陸道を下って余呉湖へ。琵琶湖には度々行くがこの余呉湖は見たこともない。湖畔の観光館でスタンプゲット。但し、玄蕃尾城は、このスタンプ設置場所からかなり離れている。入口を通り過ぎ戻って探し当てた。ここも山城、登城ははなから諦めて、次の目的地へ走り出して、由緒ある柳ケ瀬トンネルを越えたら、そこに城への「上り口」の案内板が建っていた。次回に来よう。
 
 「玄蕃尾城」の名もまた初めて聞いた。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が本陣に使用した城と云う。柴田勝家の名は良く聞くが・・、と、ここまで書いて2か月、今日、2019年1月24日迄このページはこのままだった。理由はいろいろあるが矢張り勝家の人物像を知りたかったからだ。あの恐怖の魔王信長の筆頭家老として不動の地位を全うしたこと。26歳年下のお市の方を嫁に迎え、最後は娘三人は敵に送ったが、夫婦二人で自害したこと。

 「困った時のウイキペディア」でも通り一遍。昔なら「困った時の司馬師」なので、久しぶりに「街道をゆく」を紐解く。勝家につき、好意的に触れられてはいるが矢張り秀吉の脇役としてだから、数行だ。司馬師の他の著作では?、と、ここで思いついて、パソコンで「柴田勝家 司馬遼太郎」で検索すると16700件がヒット。「新史太閤記」や「夏草の賦」他が出てくる。そこに「お市の方」を加えて検索しても5000件以上がヒットして永井道子「流星」などの参考書がリストアップされる。これではキリがない。

 「柴田勝家は名将であった。相手が天才秀吉だったという「運」が悪かった。お市の方とはどうして結ばれたか、今になっては解らないが、仲睦まじい夫婦として最期を遂げた」で満足して次の城へ行こう。



余呉湖観光会館全景の写真は
写しそこなったがスタンプ台は完璧。


読み難いが、通り一遍ではない
ことが書いてある。





 ■141 郡上八幡城  
     
      訪問日 2019年3月29日 
      スタンプ設置場所
       「郡上八幡城一階」

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***  
 遠藤姓について

 郡上八幡城の城主は遠藤氏であった。私の姓も遠藤である。遠藤という姓は、有名人が少ない。歴史上では遠藤武者盛藤が知る人ぞ知る遠藤姓の数少ない有名人だ。彼が、人妻に横恋慕し、彼女に夫を殺すと告げる。彼女(名前を袈裟御前という)は困り果て、夫の寝床に自分が入り、身代わりとなって殺される。この悲劇は多くの作家たちが、文学や絵画に残している。菊池寛の原作を映画化して、カンヌでグランプリをとった長谷川一夫・京マチ子主演の「地獄門」が代表作だ。ただ、この遠藤武者はこの事件で出家をする。文覚上人となって、源頼朝の旗上げの説得に多大な影響力を与えた。
 現在の遠藤姓の有名人は?遠藤周作の時代も過去となった。相撲の「遠藤関」の健闘を祈るのだが。
 城主遠藤氏を我が仮想の師、司馬遼太郎氏は「街道をゆく 郡上・白川街道」の中で、「歴代の城主をながめてもべつだんすぐれた人物は居そうにない」という。
司馬師のいつもの暖かさに似合わず、ここに限って、冷たく、切って捨てられて、この文を最初に読んだ時は、暫く、落ち込んだものだった。でも、今、読み返してみるとそれほど酷評しているわけではないのだが・・。
(蛇足 幕末、郡上八幡の藩主であった青山氏の江戸屋敷跡が現在の青山墓地である)
山内一豊の妻

 城へ登る途中の神社(寺だっけ?)に「山内一豊と妻の像」が建っている。天守閣本丸には、記念写真用に二人の人形まで置いてある。この城とどういう関係かと疑問に思っていたら、一豊より有名な彼の妻、「千代」は初代藩主遠藤盛数の娘の由。また、母は奇しくも美濃金山城に登場した、和歌の名家、東家の娘で「古今和歌集」を引き継いだのだと。
 司馬さん、千代を育てただけでも遠藤家は立派な功績を持っているではないですか。
 千代さんの人形から顔を覗かせて記念写真。(左写真)
同期も齢を取る

 城主が遠藤姓のゆえに、今まで数回この城を訪れている。止むことない雨の中、立ち去る人もなく夜を徹しての踊る祭りにも参加した。駐車場は城の直下なのだが、常人には何でもないそこから城までの登りが、車椅子を卒業したてで杖に頼る老人には辛い。
 同行の二人は何れも同期の桜。そろそろ人の世話など出来ない齢になってきている。それでも、私を支えて手摺りのない石階段を登って天守閣へ。(下写真、左)しかし、天守閣への城内のスタンプ捺し場は、私の足では無理なのだ。元気なSに託して捺印してきてもらう。(下写真、中央&右)
郡上八幡。駐車場から天守へ Sと。 城内のスタンプ場。
スタンプ捺印の有料について

 しかし、問題は、この城は、スタンプを押す場所へは、入場料を払わないと行けない事だ。
 百名城でもこのようなケースは稀にあった。犬山城、会津若松城、もう1−2あったような気がしたが、今、出てこない。「続百名城」のスタンプ場でも今までもあった。数百円のことだからどうでもよいけれど、老人の役目と思って、私は、取られる度に文句を言ってくる。「他ではお金を取られないのになぜこの城ではとるのか?」と。
 「続百名城」のスタンプ置場は「百名城」の時と違って、非常に優遇されている。観光資源・文化資産として、優遇度・注目度が数段上がっていると実感している。城郭協会も、各地の観光協会も、お城も、裕福でないことは良く存じている。だから、お金を払っても一向に構わない。ただ、各城、マチマチなのが気になるのだが。




 ■142 苗木城  
    
      訪問日 2019年3月28日 
      スタンプ設置場所
       「中津川市苗木遠山資料館」

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***  
 今回は、武蔵野線吉川駅でSと、西国分寺駅でKの車と待ち合わせる。8時。府中市内の信号名に「一の宮」「本宿」などの魅力的な名を見つけながら、中央高速へ入る。曇天で、八ヶ岳も、南アも、中央アルプスもよく見えなかったが、久しぶりの長い恵那山トンネルを越えたところが中津川市。ここから、苗木に向かい(写真・1)、11時半苗木・遠山資料館着(写真2〜4)。
***
写真・1 写真・2
苗木城「続百名城」認定
写真・3
苗木城「続百名城」認定
同スタンプ
写真・4
中津川市苗木・
遠山資料館とKの車

苗木城は特異な城だ。「続百名城公式ガイドブック」の表紙を開いた第1ページにこの城の写真が単独で載っている。「続百名城」を代表する城である。
 久し振りに、「是非、見たい」と思う城であり、今の私の足での限度まで近づいて、ゆっくり見る事が出来た城であった(写真5〜8)。
 また、スタンプ設置場所の資料館の資料も、地元に密着していてとても参考になる。許可を得てケースの中の写真を撮った。無事、読めるように写った昔の書類があるので、いつか、ゆっくり読みたいものだ。(写真・9「領知(地ではない)朱印状」写真・10「苗木城石高」写真・11「武士農民の生活」写真・12「領主の生活」)
写真・5
苗木城遠景
写真・6
苗木城遠景
写真・7
登城の試みもここまで
写真・8
苗木城模型
写真・9
領知朱印状
写真・10
遠山久兵衛宛秀忠礼状
写真・11
武士・農民の生活
写真・12
「領主の生活」図
 しかし、この巨岩の上に何故城を造ったのか?あの、岩の上に立つ柱は雨風に腐らないのか?こんな狭苦しいところに居住区までつくらなくてもよいだろうに。
 山城を見て、いつも疑問を持つ、排泄の処理はどうなっているのか?ここでも疑問に思って、帰路に着いた。

 



 ■143 美濃金山城  
    
      訪問日 2019年3月28日 
      スタンプ設置場所
       「可児市観光交流館」

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***  
 苗木城から車で約一時間、美濃金山城に着く。そそくさと、交流館でスタンプ捺して、(写真・1)山道を城へ登る。幸いすれ違う車とのトラブルもなく、無事、駐車場に着く。
 同行の二人は、そこから山城へ。私は駐車場周辺を散策。(写真・2)城から降りてきた、一見、足の不自由そうな人と立ち話。十年以上前、足を折った。リハビリとして登りながら山菜取りに通っている近所の人の由。所望して写真を一枚。(写真・3)
 
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写真・1
美濃金山スタンプ
写真・2
駐車場
写真・3
写真・4
森乱丸? 森蘭丸?

 駐車場に翩翻と翻る2種類の幡が多数。(左写真)青い幟には「美濃金山城跡 森乱丸」と書かれ、かの美少年の肖像入りだ。「乱丸」?地元では我々が馴染んでいる「蘭丸」をこう書くのか。何故か?交流館で頂いたパンフレットには記載はない。スマホを持っていないので、帰宅後パソコンで「乱丸」を検索すると、「乱丸」は「蘭丸」に翻訳されて、案内が並ぶ。何故かわからない。いつか分かる時が来るまで待とう。
 蘭丸の末弟、森忠政は津山藩主となる。百名城巡りの際、津山城に立派な銅像が鎮座していたのを想い出し、自分のホームページ「67 津山城」を読んでみたら。森家については、全く触れておらず、津山は妻の出身地であるとか、当時興味があった出雲阿国や名古屋山三郎について書かれていて、自分で書いたのに、すっかり忘れていたので面白く読んだ。

斎藤妙春とは?

 先述のパンフレットに「本城はこの湊町(!)に斉藤妙椿の系譜の妙春が築きました」とある。斉藤妙椿。奇しくも、今、紐解いている司馬遼太郎師の「街道をゆく 郡上・白川街道」に登場する。郡上地方の城主・東常縁がその武将としての力量を買われて下総に遠征していた留守中に、その城を乗っ取った豪族としてである。ところが、東氏は歌人としての顔も持っていた。東氏は、自分の城を占拠した斉藤氏に対し、嘆き・抗議の和歌を十首ばかり詠んで斉藤氏へ送った。斉藤氏もまた歌の道に励んでいた。早速返歌を詠んで送り、驚いたことに、返歌と共に城も領地も返した。「東氏は古今で最も高い稿料をとったことになる」と、司馬師は書いている。面白い話だ。
 
犬山城の不思議

 犬山城は「百名城スタンプ帳」の表紙を飾る名城中の名城だ。Kが行ったことがないと云うので、謹んでお供した。私は勿論、駐車場で待っている。その時、天守閣が二つ見える。
右写真.一つは国宝。もう一つは?簡単にわかりそうで解らない。ギヴアップした。

 



     ■144 大垣城  
    
      訪問日 2019年3月29日 
      スタンプ設置場所
      「大垣城天守」

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***  
 
天守閣

 大垣城は山城が多い「続百名城」の中ではむしろ少数派のオーソドックスな平城で、都市の真ん中にある。天守閣は国宝だったが戦災で焼け落ち、昭和34年に再建した由。どのように資金繰りをしたのだろう?また、この地域は水に恵まれている。この城は堀に囲まれていたという。しかし、水に恵まれすぎ、明治に至るも水害に悩まされた。そして今は堀の多くは埋め立てられていると。残念なことか、喜ばしいことか?
 天守閣の入り口へは駐車場から「横歩き」つまり高低差がないので、私も行く事が出来る。5−6段の階段を登って、自分でスタンプ捺印が出来る(左写真)。健常人には当たり前のことだが、身障者の私でも久しぶりのオーソドックスな城巡りが出来た。
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喫煙

 同行三人での記念写真(写真下左)。Kと恒例の喫煙の写真。定番の儀式だが、これも久し振りである。Kはいまだに煙草を手放さない。ライターも携帯吸い殻入れも手放さない。機会を見つけては吸っている。Kと旅を始めた数十年前、そろそろ喫煙者が犯罪人扱いになり始めたころ、私も未だ喫煙しており、Kと二人で煙を吐いているツーショットを行く先々で写してもらっていたのだ。(写真下右)
スリーショット Kと喫煙
「なぜ大垣は県庁所在地になれなかったのか」

 城郭協会は、小学生・中学生を対象に毎年「城の自由研究コンテスト」を実施している。
 第17回の審査員特別賞には「なぜ彦根や姫路は県庁所在地になれなかったのか」が選ばれた。学習院中等科二年生の作であると。
 審査員の評に曰く「題材の着眼点と視点の良さがすばらしいだけでなく、調査能力も大きく評価されます」この作者が80歳になった時、つまり、私の齢になった時、どんな人物になっているか?空恐ろしいことです。
「奥の細道むすびの地」

 新暦5月16日は芭蕉が「奥の細道」に出立した日である。昨年は、その日から、「奥の細道」を毎日辿った。しかし、当然ながら、みちのくに入りかけたころ、置いて行かれてしまって、参考書は閉じられたままになった。しかし、「むすびの地」は大垣という事は、肝に銘じていた。折角、大垣に来たのだ。その「地」に車を向けてもらう。成程。多くの年配者が散策していた。本来なら、ここで一句申し上げねばならぬのだが、今、私は俳句に
背を向けている。人々の俳句に点数をつけるとは何事か!細々とした規則を勉強せねばならぬとは何事か!只々、歳時記と首っ引きで俳句を作るとは何事だ!以上。(左写真-大垣芭蕉上陸地の像)  


 



     ■146 諏訪原城  
     
      訪問日 2018年9月24日 
      スタンプ設置場所
      「諏訪原城第一駐車場パンフレット置き場」

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  久し振りに露天にポツンと立つ捺印所。紙一枚のパンフレットのコピーが昔から入っていた箱を共用しているのだ。それは良いのだが、今の捺印所は市役所、図書館、公民館等の立派な建物に鎮座していて、資料のパンフレットも豪華で豊富だ。少し、違和感があるが、本来、城巡りはこの待遇で充分と思う。

 ここも「山城」。諏訪原城の名はここに諏訪神社があったからだと。静岡県の「続百名城」は、他に興国寺城、高天神城。何れも寺であり天神様の神社が名前の元になっているのが面白い。



***  
 諏訪原城は島田市にある。島田は大井川の渡しで有名だ。城下町ではない。宿場町だ。
そして幕府が管理する天領なのだ。だから、大井川は県境・市境でなく、ライバルの筈の対岸の金谷も同じ島田市なのだ。

 宿場町だから色町も繁盛しただろ。我々はすぐに島田髷、文金高島田を連想する。その連想から、中村美津子歌う「島田のぶんぶん」も口をついて出る。しかし、「ぶんぶん」は関西の遊び人をモデルにした歌だそうで、この島田市には関係ないそうだ。残念でした。

 お城は入口付近を一回りしただけで、次のお城に向かいました。先に書いたように、島田市は天領だから藩主はいない。したがって、と云うのは変だが、城がなく、城下町がない。
 何か物足りない気がするが、島田市を再訪したらば、蓬莱橋で山本譲二の歌を口ずさみ、川越遺跡などゆっくり歩きたいものです。
 



  




     ■145 興国寺城
    
      訪問日 2018年9月24日 
      スタンプ設置場所
       「穂見神社境内(興国寺城跡本丸内)」

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 訪城してから、2019年3月に、本文を書き始めるまで半年が過ぎた。理由は、只一つ、この城を書くためには、司馬師の「箱根の坂」を再読しなければと、固く、思い込んでいたからだ。北条早雲の生涯を書き尽くした司馬師の「箱根の坂」で師は、この城をどのように書いたか?むかし、本書は読んでいる。しかし、この城についての記述は、記憶に残っていなかった。
 再度、紐解いたが、意外に、早雲が最初の城として、また、長く、自分の本城にした興国寺城についてのページは少なかった。僅かに、早雲がなぜこの地の城に固執したかを太田道灌をして読み解かせた件が、司馬師節として印象的だった。

 これを書いている今は、2019年3月。時恰も、我が江戸川の土手に、菜の花が盛りと咲いている時だ。そう、「菜の花忌」。司馬師の命日。
 一時代前は、何から何まで、司馬師一辺倒だった。新しい地名、新しい人名に接するたびに、司馬師の作品を探し求め、師の健筆での知識を貪り求めたものだ。なかでも、「街道をゆく」のシリーズは、歴史のエンサイクロペディアとして座右の書としていた。
 今は?パソコンの「検索」に次ぐ「検索」で知識を無限に積み重ねてゆく。だから、乏しい「遠藤史観」を述べることはあっても、深遠な「司馬史観」に触れる機会がなくなっている。一つの策として、「○○、司馬遼太郎」で検索して手っ取り早く司馬師の卓説を読み取ろうとしているが・・。
マスコミで司馬史観を扱う機会も少なくなった。ここで一句申し上げます。
「菜の花忌 昭和は遠く なりにけり」

  
  




     ■147 高天神城
    
      訪問日 2018年9月24日 
      スタンプ設置場所 「大東北公民館」

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***
  静岡県の「続百名城」は4城ある。一日で回るためには家を5時に出ねばならない。と、なると、3時に起きねばならない。と、なると、寝る時間はないに等しいので、今日は、
3城で我慢しようと、Yさんに頼んで6時出発とする。カット予定の一城は浜松城。この城は既に訪問済だし、駅に近い平城だから、いざとなれば、新幹線で一人で行ける筈だ・・と。

 久し振りに東名高速をひた走って、高天神城追手門駐車場。私はここでオシマイ。急峻な山城はYさんが登ってくれる。曰く、「疲れた」。山男のYさんをもってしても手強い山城だった。勿論、頂上の「高天神」の写真も撮ってきてくれた。が、なんでこの山頂に「天神様」が鎮座しているのだろう?しかし、そんなマイナーな疑問はこの城郭史上欠かせない有名な山城にはふさわしくない。

***

***  
 この城を訪れたのは9月24日。その訪城記にとりかかったのが11月初め。どうにも、書き難い城である。この城を廻っての攻防戦が豊富に記録されている。家康・勝頼が取ったり取られたり。したがって、城を守る将も入れ代わり立ち代わり。攻め方も守り方も、知り尽くした縄張りを充分に活かして、これぞ戦国山城攻防戦を書きつらねばならない。
***

 訪問日が日曜日だったからスタンプ設置場所が「休み」で図書館やら観光案内所やら、たらいまわしに回った。期せずして掛川市内を見学できて良かったが、高天神城は浅学菲才、且つ、実地に歩けない脚悪の身障者には荷が重い。名城に敬意を表して筆をおく。








     ■148 浜松城
    
      訪問日 2020年8月30日 
      スタンプ設置場所 「浜松城天守閣一階」

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***  
 城の持ち主は誰か?

 .2020年7月に発行された「週刊朝日MOOK 歴史道 10」の「江戸300藩ランキング」によると浜松藩は「第55位。主な藩主家は井上家。石高6万石。代々譜代大名が入部した。諸藩の中で最も多数の老中を輩出しており、出世城と評判」とある。
 確かに、藩主の推移をみると、松平、水野、高力、太田、青山、井上、と、賑やかだ。
 2019年7月発行の藤田達生「藩とは何か」(中公新書)によると、江戸時代、藩主は「公儀から藩を預かる治者、すなわち『国家の官僚』である」
 藩の土地、そして「城」は幕府の所有物であって、藩主はそれを預かったに過ぎない。
 だから、頻繁に行われた「国替え」の度に城は掃除をして引き渡し、受け取られた・・、らしい。この「国替え」の顛末を具体的に書いた書籍を私は読んだことがない。
 司馬師の本は大方読んだつもりだが、師は、織豊時代や幕末などの激動期は書かれたが、太平の江戸時代での国替えのドラマには触れていない。
 清張氏は?新田次郎氏は?浅田次郎氏は?ご存知の方は是非教えて頂きたい。
 私が知るささやかな情報。
 2016・5初版 土橋章宏「引っ越し大名三千里」(角川春樹事務所 ハルキ文庫)
 丹波篠山城の展示。荻生徂徠の「政談」など。
***
 ただ、私が知りたいのは「城の持ち主は誰か?」なのである。
 例えば、この浜松城。市指定史跡である。浜松市に電話で確認すると、矢張り、「市の土地である」と。ついでに建物は誰が建てたか?「市民の寄付で建てた。市が保有している」と。「市のホームページのどこそこに書いてある」と。
 そこで、終わればよいのだが、丁度これを書いている、2020年9月15日の読売夕刊「日本史アップデート」に「一国一城」の『従来説』『最新説』が載っている。
 記事自体よく解らないのだが、城の所有者が幕府だとすると、土地が幕府の所有とすると、国替えで城主(藩主)を自在に移動出来るとすると(そして実際に移動させているのだが)城を幾つ持とうが、いくら改修しようが、結局、幕府の資産を加工しているのだから、問題ないだろうに・・。

 あー、ワカラナイ。ここはこれまでで、オシマイ。
 そうそう、浜松城は、出張時代に訪問済なので、スタンプはYさんとS兄に任せて車で待つ。コロナより熱暑が怖い。



     ■149 小牧山城  
     
      訪問日 2019年3月29日 
      スタンプ設置場所
      「小牧市歴史館」

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***
  「続百名城」の城たちは、名前さえ初めて知る城が多い。城探訪歴半世紀を誇る私の自信を揺るがせるに充分であった。しかし、これらの城は「知らなくても当たり前」と、開き直る事が出来た。だが、この「小牧山城」の場合は、チョット違う。
 「小牧山」の名は秀吉・家康の名前と同じくらい日本史に興味を持つ身には常識である。
 何といっても、この二人の英雄が、直接、戦った唯一の場所だからでもある。だが、そこに「城」があったという事を考えたことがなかった。考えてみれば当たり前のことなのに、城に興味を持つ身にも拘らず、今回初めて戦場に城があると知ったことが無念・残念なのだ。

 城は、標高86Mの低い独立峰全体を城としている。車は登れない。私は下の市役所の駐車場で待つ。頂上には天守閣まがいの「歴史館」が建っていて、スタンプはそこにある。
この前の越前大野城と同じくスタンプ捺印も友人に依頼せねばならない。大野城の場合は待っている間、資料館めいたものなど時間を潰す事が出来た。しかしここにはそれがない。
 無為に二人の帰りを待ったが、二人は立派な写真を撮ってきてくれた。
***
小牧山城 小牧市歴史館スタンプ場 小牧山城石垣

名城が新しく生まれる

 ところで、資料を読むと、この城は信長によって造られ、家康が補強をした。後に、家康「誤勝利御開運の御陣跡」となり一般の入山は禁止され、江戸時代を通じ尾張徳川家の領地として管理された。昭和2年徳川家より国に寄付され同年国の史跡に指定された。
 パソコンの資料では平成16年の発掘調査結果、同28年の調査結果と、ついつい最近の情報でこの城の価値が急激に高まってゆく過程が解る。私はいささか安心する。この城の存在を知らないことを恥じる必要はないのだ。私が城の勉強をしていた時代にはこの城は世に知られていなかったのだ。
 名城の誕生は新たに築城をすることではないのだ。新たに発掘した新資料から、名城が誕生することがあるのだ。


     ■150 古宮城  
   
      訪問日 2019年1月27日 
      スタンプ設置場所
      作手歴史民族資料館

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***
古宮城・新城市・村社白鳥神社・亀山城

 「古宮城」と云う城の名を知っているか?知らない。この城の住所は愛知県新城市。「シンジョウシ」と入力しても出てこない。「シンジロシ」でもダメ。「シンシロシ」と入れて初めて漢字転換が出来る。で、この「新城」という城はどこにある?とにかく、無名の城だ。
 「続百名城」はこのような城が多い。訪城者の「声」の中に、「もっと案内板の整備を」という、悲鳴に近い投書があった。ごもっともだ。我々も、例によってYさんが、神社から登ってくれたが、収穫を得ずして下りてきた。(写真・1-村社白鳥神社と案内板、写真・2-案内板のアップ、写真・3-平入りの本殿と立派な高麗犬、 写真・4&5-珍しい狛犬)帰途、Yさんが近接の亀山城に登ってくれる。(写真6〜10)案内板を読むだけでも最初の城主奥平氏は上州甘楽から来たり、長篠の戦に加わったり、今、知りたいここの「新城」の城主になったり、古宮城より余程、興味を惹く城だ。「続百名城」の「続」が作られたら、是非、この城を選定してほしい。
***

写真・1

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「国特別史跡」「国・府・県・市・町指定史跡」「− 無位無官」の城たち

 しかし、「案内板」や「標識」をはじめ「城の整備」は誰がやるのだろう?
第一、この城の地権者は誰なのだろう?国有地なのか?私有地なのか?以前、神奈川県の「石垣山城」は「珍しく私有地にある城だ」という記事を読んだ記憶がある。と、いう事は、「国指定史跡」の城は国有地にあるのか?「県指定」ならば県有地?「市指定」なら市有地?
 この古宮城は「公式ガイドブック」の「文化財史跡区分」の蘭が「−」つまり何の指定を受けてない無位無官の城である。こういう城は「続百名城」の中で、いくつあるか?
 13の城が無位無官である。では、残りの城は?「国指定」が60城。「府・県・市・町指定」が29城である。(合計が100城とならないではないか?どこが間違っているか?ご指摘してくれる人を待っています)
 ついでに、「百名城」の場合は、「国特別史跡」が流石の17城。「国指定」が62城。
 「県・市指定」が17城。「−」つまり無位無官の城は3城。どこか?金沢・駿府・岩国。

史跡の保存・公開の経済的問題・史跡の地権者は?

 これらの「指定」を受けると、どのようなメリットがあるのだろうか?「名誉」だけなのだろうか?「助成金」でも出るのだろうか?私が、今、訪城中の山城では杉山城、唐沢山城など、「国指定」の認定を受けるために学術的な発掘・調査をし、詳細なデータを作成し、申請する苦心が書かれている書籍を読む事が出来る。
 このデータ作成・申請にも、当然、費用が掛かる。その金はどこから出るのか?認定後の整備にかかる費用はどこから出るのか?おヒマな老人たちのヴォランティアに頼るのか?
 ヒマでも身障者で役に立たず、「金」のことばかり気にしている私は大いに関心があるのである。そう、この地の地権者は誰か?についても。



     ■151 吉田城  
    
      訪問日 2019年1月27日 
      スタンプ設置場所
      吉田城鉄櫓内

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*** 吉田城か?豊橋城か? 伊良湖か伊良子か?

 この城は何度も来ている。新幹線が停まる駅から歩いて行ける城だから、出張の途中で気楽に寄れる。また、団体旅行でも豊川やら伊良湖岬への途中で寄ることが多い。念の為、伊良湖とはどんな湖水かと検索してみたら、伊良「子」と出る。どう違うのか?教えて下さい。
 豊橋にあるのに「吉田」城とは、これまた不思議だが、これは、以前、この地は吉田藩だった由で、右写真に曰く「明治新政府が吉田の名を許さなかった」由。徳川の影か。
 で、団体の時は、駐車場からゾロゾロ歩いて、鉄櫓を見て、時間までにバスへ戻り、それ以上でも以下でもない城見物をする。この城は文化財史跡区分のない無位無官の城である。
 単独の時は、それに、豊川への北御多門跡を降りてみる。海に囲まれた国なのに、日本では海から直接、城へ入れる海城が少ない。川から直接入れる城も貴重だ。吉田城のお隣、岡崎城も、矢張り、城から川への出入り口があってそこは私のお気に入りの場所である。
***


 この旅では、アマゾンで買ったカメラのバッテリーが早々にアウトとなって、幸か不幸か、写真はYプロ任せになった。流石Yさん、この川への門を実物通りに写してくれた。この写真一枚で今回来た甲斐があった。(写真・2)
 他の写真・3-「旧藩祖豊神社」と読めるが、検索では誰のことか解らなかった。
        「旧藩祖豊神社」ではなく「旧藩祖豊城神社」ですね。
        「豊城神社」などで検索するといろいろ出てきます。(注釈・Y)
   
 写真・4-豊かな豊川。写真・5&6-スタンプ設置場所「鉄櫓」。


写真・2

写真・3

写真・4

写真・5

写真・6


     ■152 津城  
   
      訪問日 2019年1月27日 
      スタンプ設置場所
       高山神社社務所

三重県について
 昨日、北畠神社の帰途、夕暮れ・降雪の中、津城を一回りして四日市のホテルに入った。積もる雪もYさんの介添えがあるので近所の居酒屋まで出かけて海の幸で夕食をした。
 ここは、三重県。昔、全国の都道府県に全て宿泊したか?と、考えたことがあった。全て泊まっていた。しかし、三重県の宿泊地は暫く出てこなかった。ようやく、あー、松坂城だ、と、思い出した。組合の旅行などで、鳥羽で牡蠣を食べ、鳥羽城に寄ったこともあるし、伊勢神宮にも度々参拝している。しかし、それらの地名と三重県が結びつかないのだ。ましてや、津に城がある認識すら薄かった。
取りあえず「三重県」について。伊勢・志摩・伊賀・そして紀伊の一部と云う錚々たる国々を纏めたら、「三重」と云う歴史的には馴染みのない県名になってしまったという印象。
損したね、三重県さんよ。えっ?神奈川県人が大きな事いうなと?相模と云う立派な名を持ちながら、あんな小さな神奈川という港町の名を県名にしている人に言われたくないね、か?そりゃあ、ごもっともだ。

 「津」について
 津の旧名を「安濃津」といい、中国の史書によれば、博多・坊津と並ぶ日本三津の一つだとのこと。しかし、1498年の明応の大地震により津は壊滅的被害を受けて港の機能は失われたとのこと。ただ、「中国の史書」は1561年に書かれているのだけれど・・。
 「伊勢は津で持つ津は伊勢で持つ」と云う有名な歌詞がある。「津が伊勢で持つ」のは解るが、あの有名な伊勢が何故、「津で持つ」と、「津」の力を借りねばならぬのか?お伊勢参りが盛んになった時代は、前述の如く、港町の機能はなく、単なる宿場町の一つでしかなかったのではないか。
 お伊勢参りの精進落としの場所だったのか?それにしては、伊勢と少し離れすぎてないか?いや、神奈川県の大山参拝の精進落としが江の島で盛んであったことを考えれば、十分肯けるではないか。
 しかし、「お伊勢参り 精進落とし」で検索すれば、日本三大遊郭の「古市」が一番に出てくるので、津の遊郭説は不成立か?では、何故「伊勢は津で持つ」のか?
降参です。御存知な方、教えてください。

津城について
 写真(下の2枚)に見るように、昨日来の雪が残り、それが絶好の口実となって、このどこにでもありそうな四角な平城の探訪は入口だけにする。築城はご存じ、
築城の名手と云われた藤堂高虎。彼が何故「名手」と云われているのか?
 これについて遠藤晶土氏は、「百名城今治城紀行」のなかで、『高虎は山城を縄張り(設計)をしない。既に平和の時代の到来を見越して、城の役割を「戦闘」から「統治」へと、切り替えたのだ』と、喝破している。自分自身の「説」だから大いに納得する。奇しくも「津城」は今治城と並んで日本三大海城とする説もあるようだ。
 次々と主君を変えながらも、75歳、江戸の藤堂家藩邸で大往生を遂げた稀有の出世人、高虎の生涯は、検索で「高虎 年表」を読むだけでも十分だ。
解らないのは写真にある(下左写真)高虎の歌「しらはたや 花咲く山の 一備え」の意味だ。検索では「関が原の戦いを忍んだ。白旗とは徳川源氏の旗の意」とあるが・・。
 そう聞いても、何故、ここにあるのか、ワカラナイ。これも、どなたか教えてほしい。
 ついでに、もう一つ、津市には長野城・細野城・霧山城などの「国史跡」がある。津城は「県史跡」だ。国より県の方が百名城に入るって、おかしくないだろうか?
▲写真をクリックすると大きく表示されます。
スタンプ設置場所「高山神社
 (写真3枚)ここの所、スタンプ設置場所が軒並み、神社だ。スタンプ設置はともかく城に神社は付き物のようだ。これに関する一考察も、いずれしてみたい。今回は「高山神社」の鳥居が伊勢神宮に倣って「神明鳥居」であり、本殿も、同様に「平入り」だと伊勢のお膝元では当然のことを確認して、満足しよう。
 何故、藤堂神社でなく高山神社なのか?高虎の法名に由来する由。解って、満足。






     ■153 多気北畠氏城館  
   
      訪問日 2019年1月26日
      スタンプ設置場所
       北畠神社社務所

道中 いろいろな道
 Yさんの車に迎えられ、7時に家を出る。道中順調に9時前に東名大井松田出口付近。絶好の天気で、念願の富士の全景が写せた(写真左)。
 私は貧乏性でドライブも助手席にただ乗っているだけだと、時間が勿体なくて仕方がない。何処までも気配りが働くYさんは心得ていて、今日は氷川きよしのテープを流してくれる(写真中央)。
 豊田JCTで東名高速から「伊勢湾岸自動車道」に入る。四日市で名古屋から大回りしてやってきた「東名阪」に入り津の伊勢・関ICで「伊勢自動車道」。「勢和多気」でようやく高速道路を降りる。13時半。降りたところに「コケコッコ共和国」の看板。Yさんが見逃す筈がない。そこで昼食(写真右)。
▲写真をクリックすると大きく表示されます。
 そこから国道368線を遡る。杉の美しい山の中腹をくねくねと昇る。成程、地名が「美杉町」だと感心しているうちに、道は一車線になる。これが国道か!と悲鳴を上げる酷道だ。たまに来る対向車と譲り譲られ、待ち待たせ、これだけは国道らしく律儀に立っているカーブミラーを頼りに「峠」の案内板の前で、ようやく一服。

道中 伊勢参りの道
 しかしこの案内板(写真右)は実に印象的だ。お伊勢参りが盛んなころ、大阪は江戸と同格の都市だったろう。その地からのお伊勢様への「伊勢本街道」だ。旅籠の名前、「大坂屋」、「河内屋」「大和屋」などに当時の殷賑が偲ばれる。この道を歩くことを思えば、運転の苦労など何ほどのことはない。(私が運転したわけではないけれど)
 この368号線をもっと知ろうと、検索をしてみた。なんと、YOU TUBEが出てきて、数人のドライバーが悲鳴と一緒に走り切った動画を見る事が出来た。いや、パソコンとは何でも解る恐ろしいものだと、また。勉強した。

道中  「タニシ殿」
 「お伊勢参り」と云えば想い出す歌がある。50年前、いや、正確には60年前、山岳部でテントのみならずコンパの時に高唱した歌だ。「タニシ殿、タニシ殿、お伊勢参りにごじゃらぬか。イヤデソロ、イヤデソロ。丁度去年の夏の頃、おドジョウ様に誘われて、チョロチョロ小川を渡るとき、・・」ここまで書いて、フト、「検索」をしてみると、これまた、詳しく全歌詞が記載され、YOU TUBEで聞く事さえ出来る。で、ここでやめるが、本当は、この歌が終わった後、全員が奉じるお経「一寸は入るるに足らず。二寸は憎からず。三寸は・・」を書きたかったのだ。しかし、パソコンでさえ自粛しているのだ。80の老人が、わざわざ紹介することもあるまい。

道中  龍神ちゃん
 いや、「お伊勢参り」からだいぶ寄り道をした。が、もう一つ寄り道を。写真(左)のワラでつくられた竜神だ。Yさんが苦労して写してくれたささやかな説明の写真(右)によれば、名は「龍神ちゃん」作製親は「飯南町仁柿活性化創造委員会」の由。地域活性化へのご努力を多としたい。これも「仁柿」で検索でき、そこで三重新聞に掲載された記事も読めた。
 こうして寄り道を重ねて、ようやく「美杉ふるさと資料館」(下の写真)に着いたがスタンプはここにないと。折角だから見学をしようとしたら、この老齢の身障者に向かって、老齢の係員が「靴を脱げ、スリッパを履け」と口喧しい。こっちが悪いのを棚に上げ、多いに気分を悪くして、そこから400メートル先の北畠城館跡に、ようやく辿り着く。
北畠顕家 北方謙三
 「北畠」と云えば教科書に載る「神皇正統記」を書いた北畠親房が有名だが、私にとって北畠といえば、北畠顕家だ。親房の息子として生まれた彼は、遠く、陸奥に赴任。そこから南朝の軍を率いて関東を駆け抜け、京の都まで連戦連勝。足利尊氏を九州まで追い落としたが、弱冠21才にして不慮の戦死。
彼にもう少しの生命があれば、或いは日本の歴史が変わっただろうという天才だ。
彼の爽快な人生を私は北方謙三の「破軍の星」で知った。北方氏は他にも「絶海に死す」で藤原純友を、「武王の門」で九州を制覇した懐良親王などを、作者の人柄なのだろう、気持ちの良い武士の群像として描いてくれた。北方氏が途中から中国史に取り組み「三国志」「水滸伝」などの大作に取り組み、洛陽の市価を高めてしまったのは、日本史で手一杯の私にとっては大きな痛手である。将門や、ニギハヤヒ、ヤマトタケルなど、彼の筆で読みたかったヒーロー達は沢山いるのにだ。

北畠城館跡 北畠神社
 北畠神社には満足した。なんといっても顕家の銅像が主役として祀ってある。(写真下左)(親房がないのもよい)そして、顕家の弟、顕能、が父・兄と共に祀られているのが良い。私はこの、顕能卿の名を初めて知ったが、兄と同様、優れた武将であったと神社のお由緒書きに絶賛されている。若年ながら伊勢国司に任じられ、この地に城館を築いたとされている。残念ながら、彼もまた若くして花と散った。
 「城館」はこの神社付近と考えれば良いらしい。(写真上右)詰の城、更に戦時の詰の城を見なくても、車で乗り付けられるこの神社境内に、石垣(写真下左と中央)や建物礎石(写真下左 この文章「考えられています」でなく「考えています」が良い)などがあるのだ。久しぶりに城見学ができた、と、ささやかに満足した。
北畠神社
 神社としてもこの神社は面白い。先ず、鳥居。伊勢神宮の本拠地でありながら、鳥居に貫が柱から出ている明神鳥居を用いている。周辺を走って、「流石、(貫が柱から出ていない伊勢神宮系の)神明鳥居の神社ばかりだ」と感心したにも拘らずだ。次に本殿。これまた、平入りの伊勢神宮に逆らって、「妻入り」になっている。そして、「別格官幣社」の社格。
「村社」だったが、明治14年一躍「別格官幣社」に列せられる、と。(写真下3枚、)
皆様に教えて頂きたい謎
 南北朝の争いの結果、現在の皇室は北朝系と記憶している。しかし、それにしては南朝は抹消されていない。それどころか、南朝の英雄、楠木正成の銅像が皇居前に長年立ち続けている(1904年、高村光雲他作)。この神社も南朝の復権の時代に乗って別格官幣社になったたのだろうが、この日本人の心理は日本人ながら謎である。
 また、維新後、勝者の京都は、敵国東京へ遷都を決めた。この経緯を書いた所があるのだろうか?読む機会がなかったので、誰か教えてほしい。
 寛永20年(1624年)この神社を創始した鈴木孫兵衛家次。この人を「検索」しても、これだけ何でも教えてくれるパソコンに詳細が出てこない。これも不思議だ。
 皆様に下駄を預けたところで、ようやく、本編を終わりに出来た。
 いや、未練がましくもうひとつ。上の中央写真のをもう一度見てほしい。鳥居の左に屋根付き、囲い付き案内板がある。ところが、アップすると真っ黒で何が書いてあるか全く不明。
神社に電話すれば良いのだろうが・・。あー、これで気が済んだ。オシマイ。





     ■154 田丸城  
      
      訪問日 2019年4月20日 
      スタンプ設置場所
      「玉城町教育委員会窓口(村山龍平記念館内)」

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***
 6時に家を出たが、首都高で早くも渋滞。東名に入ったのは8時近かった。家まで迎えてくれたYさん曰く「満月の日は渋滞する」と。10日後には元号が令和になるこの頃は、何をしても「平成最後の」という枕言葉が付く。「平成最後の」満月であり、城巡りである。
(訪問日も今回に限って、平成31年とした。元号などない方が余程スッキリするのに、この機会に元号廃止論が表に出てこないのが不思議だ)
 但し、渋滞は「平成最後」ではない。これから未曾有の10連休。月末の渋滞は思うだにオソロシイ。今回の旅はY夫人の参加を得た。ドライブの時間をより楽しくと、音楽テープの選択は事前に3人のリクエストに依った。ところが、夫人のリクエスト、ミスチルの桜井さんの歌がかかると、Yさんが眠くなりだした。ドライバーが眠っては仕方がない。折角、公平で良案と思えたなこの案も、途中で実行できなくなった。

 田丸城のスタンプ捺印所では、質・量ともに豊富な無料のパンフレットを頂いた。田丸城のみならず、玉城町の資料も写真集も興味深かく帰宅後眺めた。
 但し、田丸城の歴史そのものは、織田信雄が養子に入った先の北畠一家を謀殺したり、その信雄の金奉行が放火して城を全焼させたりと少し陰惨だ。町で受領した資料に、隠さず書いてあることだが。その後も田丸藩はなく、田丸城の城主は紀州藩の家老が勤めた。

 しかし、この城は私にとっては印象に残る城なのだ。車止めまで同乗し、本来なら、そこで待つ筈が、緩やかな坂道を登り始め、虎口跡(写真・1)。この案内板は平成15年に建てられている(写真・2)。この城もつい最近蘇ったらしい)を抜け、本丸まで歩き通し(写真・3)、更に、天守台跡まで、手すりもない石の段々を登ってしまったのだ。
 写真を見れば(写真・4)、石段は約15段。段差もさほどでもないない。だが、私にとっては大仕事。特に下りは、後ろ向きになり、両側をYさん夫婦に支えられ、ようようの思いで、帰還した。
 Yさん夫妻は若い。私を支えても腰を痛めなかったそうで、安心した。有難うございました。久しぶりに、天守閣がなくても、天守台まで登り切れた城なのである。(写真・5)


***

写真・1

写真・2

写真・3

写真・4

写真・5




     ■155 赤木城  
     
      訪問日 2019年4月20日 
      スタンプ設置場所
      「紀和鉱山資料館」

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***
 
 先ず、上記のスタンプ設置場所にて捺印。(左写真)鉱山については「紀州鉱山」のパソコン記事が資料館より解りやすかった。

 「紀州鉱山は、奈良時代頃から盛んに銅を採掘していたと伝えられる、紀伊半島随一の巨大鉱山です。近代鉱山としての設備を整えたのは西暦1934年の石原産業による再開発以降で、以来西暦1978年の閉山まで44年間、最大3000トン/年の銅を産出しました。」
この記事は最盛期の写真や現在も続く、「負の遺産」についても要領よく説明してくれる。

 赤木城はそこから車で少し走る。駐車場で見上げる本丸は私の、手、ではない、足に負えないと判断して、上の写真はYさんにお任せして(写真下・左&中央)、下で説明版(写真下・右)を読む。内容は高度でよく解らないが、この色あせた説明版が、ごく最近の平成25年7月に熊野市教育委員会によって建てられたことに注目したい。


***

 山城の研究は、各地で発掘が進み、出土遺物や縄張りのデータ集積されている。その結果をもとに、今までおぼろげだった築城時代がより確実に推定され、その結果、築城者と思われている武将にも、
疑問符が付けられるようになっている。私の地元、埼玉県杉山城の研究が良い例だ。
 赤木城も築城者は藤堂高虎とされている。地元で頂いた小冊子でも、その説を疑問視しているようだ。我々、一般の城フアンも、忙しく文献を漁らねばならないのだ。

 でも、城研究のプロではない私は気が楽だ。近くの「丸山千枚田」に立ち寄って、良い写真を撮るため日没を待つYさんにノンビリ付き合った。結果をご覧ください。金が取れる写真が撮れました。





     ■156 鎌刃城  
     
      訪問日 2018年11月17日 
      スタンプ設置場所
      「Cafe&Gallery源右衛門」案内パンフレットボックス

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***
  早朝5時に、Yさんが我が家に迎えに来てくれる。今日は久しぶりに東名高速で西を目指す。快晴で渋滞なし。とくれば流石に東名は観光道路としても、素晴らしい。右に富士、左に駿河湾を堪能して、小牧で名神高速に入り、米原で高速道路を下りる。そこが、番場。
 「忠太郎食堂」の看板が目に入る。そうか、ここが、長谷川伸の名作「瞼の母」の主人公、「番場の忠太郎」が生まれた土地なのか。「忠太郎」は中村美津子、氷川きよしが歌って、カラオケの定番となっている。長谷川伸の戯曲を斜め読みしてみるが忠太郎の番場時代には触れておらず、どこから「番場の」と付いたか不明だ。更に脇道に進むと、忠太郎は劇の冒頭で「半次郎」という若きやくざを助けているが、これが「箱根八里の半次郎」なのか?では、「大井追っかけ音次郎」とは誰のことか?パソコンの斜め読みでは解らなかった。

 本題へ戻ろう。本題はなんだっけ?そう、鎌刃城だ。いや、違う、鎌刃城のスタンプだ。「源右衛門」は簡単に見つかった。だって、Cafeが有りそうな道は一本しかないのだから。パソコンには土日のみ営業とあるが、この日は日曜にも拘らず、店は開いてないようだ。
 道端にスタンプが置いてある。店にスタンプが置いてあるのは「百名城」の千早城以来だ。パンフレット代100円を奉納し、城山への道を探す。
 幸か不幸か、我々は、それさえも見つけられず、この名前すら初めて聞く国指定史跡の名城を後にした。どうせ、両足不自由な私は、山道の上り、下りが出来ないのだから。
 源右衛門さんとはどういう人なのか?城郭協会とはどのような関係なのか?米原市は何故「続百名城」を大切にしないのか?これも、通り一遍のパソコン調べでは不明だった。
***
どこかのSA。6:時55分。
笠をかぶった富士山
車窓からの富士 米原ICで下りる。そこが番場。
「忠太郎食堂」の看板があった。
鎌刃城と「宿場町番場」の指導表 「城へ」の道標はあるが
道は見つからなかった。
仕方ないから宿場町番場周辺を歩く
スタンプ置場 CAFE&GALLERY「源右衛門」前景。
モデルはY夫妻。
番場宿入口駐車場の
「続百名城ツアーバス」。
ここから歩くのだ。



  ■157 八幡山城  
   
   訪問日 2020年10月11日 
      スタンプ設置場所
     「近江鉄道八幡山ロープウエイ山上駅」


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秀吉の人気

 昨夜は豊岡に泊まった。そこから近江八幡へ。途中経由する京都近辺の渋滞を心配したが、さしたることなく、11時半に、近江八幡城のロープウエイ乗り場に着いた。スタンプは「山上駅」にある。久し振りに、自分で捺印は出来たが、それからの城見物は矢張り幟がきつく、Yさん夫妻にゆだねた。

 この城は豊臣秀次の為に築城された。秀次は秀吉の養子となり関白にまでなりながら、秀頼誕生の為、秀次に仕える多数の眷属をも巻き込んでもろともに斬首される悲劇の人だ。
その犠牲者の一人に、前野長康がいる。奇しくも昨日訪れた出石の城主だったのだ。彼はその後さらに栄進して秀次の家老となった。立場上、秀次を弁護したことから自害を命じられた。

もっとも、同じく秀次と懇意にし自分の家臣を秀次の重臣に送り込んだ伊達政宗は、急ぎ岩出山より上京し、弁舌巧みに自己弁護して秀吉から許されている。
政宗は、小田原遅参の時も弁舌で秀吉から許されていて、矢張り、その交渉力・人間力は並々ならぬものがあったのだろう。

 秀吉の交渉力・人間力はこれもまた「並々ならぬもの」以上のものがあったことは誰でも認めることである。その「人たらし」の技術が彼を天下人にした大きな武器であった。
その秀吉が、この残虐な悲劇を衆人環視の前で演じるとは!
そして、もう一つ不思議なことは、これだけの「老醜」を見せつけられても、世間の「太閤人気」が現代までも続いていられることだ。

山上の城

 私が「城訪問」を始めて間もないころ、津和野城へ登った。出張途中のなけなしの時間を割いて、ケーブルカーで登り、とんぼ返りで下った城だ。城見物初心者の私は、「何故、こんな山の上に城を築いたのか?」「どのようにしてこの累々たる石垣を山の上まで運び上げたのか?」の疑問に取りつかれた。これまたなけなしの小遣いで現地の案内書を買い込み、どちらの疑問に対する回答が「よく解らない」とあることに腹を立てたことを、今もよく覚えている。
 あれから半世紀以上経った今、この八幡城に登り、下るケーブルカーの中で、同じ疑問を相変わらず持ち続けている自分に気が付いた。相変わらず「よく解らない」のだ。




  ■158 福知山城  
   
   訪問日 2019年7月27日 
      スタンプ設置場所
      「福知山城入口受付」


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*** ルイ・イカールの絵画

 例の如く、Yさんが6時に来てくれる。彼のお嬢さんはビジネスのセンスに恵まれ、多方面で活躍している。私が昔アメリカで仕入れたアンティークもネットで手際よく捌いてくれで今回のツアーの軍資金にもなったほどだ。しかし、依頼した美術品の全てに高値が付くわけではない。ルイイカールの絵画二点には彼女が満足するオファーがない由。と、すれば小品と雖も、嵩張るので元の我が家に引き取ることにする。今朝、Yさんが他の売れ残りのアンティークと一緒に、二階まで運び込んでくれた。

雨だ!(写真・右)
 実は私は奇跡的な「晴れ男」なのだ。往年、年に百回近くゴルフをしていた頃も、例え早朝、篠つく雨が降っていようと、私がティーグランドに立てば、雨はぴたりと止む。他の日、一日中雨の予報の中、一滴の雨にも合わずにプレーを終え、ザンブトお風呂に入った途端、沛然たる雨が降ってきたりもした。
***
 この「晴れ男」ぶりが友人の間で有名になった頃、約百人の同期の友人が集うコンペに参加した。ゴルフ場への団体バに乗っている間、雨はやまない。プレー中もやまない。遂に、ハーフで中断となった。初めのうちは「これは大粒の霧だ」などと強弁していた私も、中止に追い込まれてからは、友人たちの冷たい目を避けて一人片隅で食事をしていた。
 そこへ、見知らぬ同期がヌット現れて、私に囁いた。「俺は、名うての『雨男』だ。お前の評判を聞いて、今日は、雨を降らせに来たのだ」それだけ言って、彼は去って行った。
負けた!残念ながらその日は完敗だった。
 しかし、その後も私の「晴れ男」振りは健在であった。その証拠に、150以上の城巡りの間、雨の日の報告は一日もないではないか!(お時間のある方、是非、検証して下さい)
 ところが、この写真だ。9時。天気予報通りの雨が、車窓を叩いている。昼をとった「三方五湖」でも雨は止まない。(写真・下左)「あー、今日で私の「晴れ男」神話はオシマイか。これからは、今までの反動で、雨の日の外出が続くのか」と暗澹となった。が、14時に福知山城に着いたときは、写真の如く(写真・下右)雨はすっかり上がっていた!
福知山城

 山の上の立派な城を一目見た時、これは登れぬと悟って駐車場で大人しく待った。約8時間、こまめにトイレタイムをとったとはいえ、ほぼ座りっぱなしの足をささやかながら運動しようと近くを歩く。スタンプ捺印は山上の城入口。Yさん夫妻に託す。
それにしても、木造の立派な城だ。Yさん撮影の写真をご参照(写真1〜4))。なかでも、説明版は必読だ。(写真5)「昭和生まれの名城」はお金がかかっている。(平成生まれの名城は、発掘の結果国指定の史跡になっている。この件はいずれ稿を改めて論じてみたい)

写真・1

写真・2

写真・3

写真・4

写真・5

カラオケパーティーと誕生パーティー
 ウーム、本編は、お城以外の話が多い。まー、どっちにしても、読む人は少ないのだから諦めてください。
 いつの頃か、このYさん夫妻とのツアーにカラオケが付くようになった。はるばる訪れた地方の夜で、東京でもできるカラオケに貴重な時間を費やすのは如何なものか?と思う時もある。しかし、知らぬ土地で、苦心してカラオケルームを探しだし、歌い始めると、銘々のレパートリーを披露することに熱中して時の経つのを忘れる。三人三様、歌うジャンルが違うから、また、幸か不幸か年代が違うから、他人の歌には耳を傾けることなく、自分の世界に没入する。
 そして、今日は、私の誕生日なのだ。自分は勿論、家族の誰もが忘れている誕生日を、フト、思い出し、この場で、何気なく口にした。有難いことに、Y夫人はその呟きを覚えていてくれて、カラオケボックスからの帰途、コンビニで小さなケーキを買ってくれた。
 就寝前のひととき、舞鶴のビジネスホテルの一室で、カップケーキで盛り上がった私の
81歳の誕生日パーティはこの数十年で唯一・最高の誕生パーティでした。




  ■162 出石城・有子山城  
   
   訪問日 2020年10月1日 
      スタンプ設置場所
      「いずし観光センター」


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「例によって」
 例によって朝5時にYさん夫妻の車の迎えで家を出る。東名・名神を順調に過ぎ、米原から北陸自動車道。舞鶴若狭道に入るころ、例によって台風の予報にも拘わらづ、雨が上がる。綾部・宮津・大江・生野などの魅力的な地名を経由して12時半、出石城に着く。例によって、一気に700キロ以上のロングドライブだ。いつまでこの「例によって」が続くだろうか?いつまで「晴れ女・晴れ男」の名に恥じないでいられるか?いつまで、このロングドライブに耐えられる若さを保てるだろうか?Yさんも既に還暦なのだ。

 「出石藩」
 城フアンの私にしても、出石は城下町というより観光地というイメージが強い。昔、「古代史の旅」に参加してこの地を訪れたが、その時も、城には登らなかった。脚力を失った今は尚更で、それこそ「例によって」Y夫妻に城探訪はお任せしてしまう。
 出石藩を「歴史道 江戸300藩の格付け」で調べてみる。この本は諸藩を「石高・歴代藩主・家格・家臣団・商農業」の5項目を各項目20点満点で採点してその合計で諸藩のランク付けを試みている。
 出石藩は合計34点で松坂藩、沼津藩、三春藩、福知山藩など馴染みのある藩や、奥殿藩、峰山藩など初めて目にする藩などと並んで120位にランクされている。
(因みに1位は加賀藩91点。2位薩摩藩89点。3位紀州藩87点と続き、300位は大垣新田藩7点である)
 私にとってこの藩が興味を惹くのは、江戸中期に「国替え」によって信州上田から移封されてきた仙石家の殿様が信州一の蕎麦打ち師を連れてきたことだ。
 そのお蔭で、今も「皿そば」がこの地の名物になっていて、我々も、コロナに負けづに集まった観光客と一緒に、舌鼓を打ち、写真に収めた。

 出石神社
 但馬の国一の宮「出石神社」も今回のお目当てだ。祭神「天日槍命(あめのひやりのみこと)」は新羅の王子であるとか、日本人妻を追って日本に来たとか、泥海であった但馬の国を豊沃な平野にしたとか、解り易い神様で恰好が良いのだ。
 参拝者は誰もいないが「しめ縄奉納田」(写真jinnjya1)や平安期の鳥居の遺構、社殿など満足できる参拝であった。
 驚いたのは、頂いた「お由緒書き」にQRコードがさりげなく印刷されていたことだ。こちらは覚束ない手つきでスマホを操作し、悠久の昔を見る事が出来た。

「但馬の国」

 出石は兵庫県豊岡市だ。今日の宿は「〇豊岡ホテル」。「例によって」夜はホテルの近所の居酒屋に繰り出す。そこのメニューにあったのが、「馬刺し」。それだけなら驚かないが、「馬のタテガミの刺身」とある。早速に注文。ラードの塊のような白い小片を、今、修理中の歯で噛みしめて、素晴らしい話のタネを作った。
 「但馬」の「馬」は何故ついているのか?この疑問をパソコンで解こうとしたが出来なかった。豊岡市に電話で問い合わせるべきだろうが・・。



  ■163 黒井城  
   
   訪問日 2019年7月27日 
      スタンプ設置場所
      「春日住民センター」


   ▼画像をクリックすると大きく表示されます
***
  福知山城から15時40分に黒井城のスタンプ設置場所に着く(写真・1)。来年のNHK大河ドラマの主人公、「明智光秀」の幟が方々に賑やかに立つ。昔、「49番小谷城」訪城の時、「浅井三姉妹お江」が大河ドラマの主役になり、その沢山の幟に歓迎されたことを想い出す。

 スタンプは捺したが、黒井城は例によって山城だ。二人に登ってもらい、私は駐車場で待つ。猛暑に車の冷房をつけっぱなしにしてもらったが、それでも、外をぶらぶら歩く。
 城山から一人の男性が下りてきたので暫し話を聞く。地元の人でほぼ毎日登っているのだと。写真を撮らせてもらったので見てほしい(写真・2)。彼の前に水溜まりがある。彼が裸になって汗をぬぐったタオルを絞って出来た水溜まり・・、ではないが、そう思うほど、汗をふいていた。Yさん夫妻も汗びっしょりで帰ってきたが、裸で拭く事が出来ず気の毒だった。
 城の入り口にも本丸にも堂々たる「保月城」の碑が建っている(写真・3&4)。現地で頂いたパンフレットには「黒井城」のみで、「保月城」の名は一つも出てこない。その間の事情をパソコンに訊く。光秀が大河ドラマになるニュースを載せた「神戸新聞」の関連記事が紹介されていたが、「別名である」と素っ気なく終わっている。神戸新聞をもってしてもそうなら、私は降参だ。(写真・5〜8など)
***

写真・1

写真・2

写真・3

写真・4

写真・5

写真・6

写真・7

写真・8
翌日7月29日は天橋立、薦神社、昔懐かしい安寿と厨子王の碑、舞鶴田辺城などを横目に見て、真っ直ぐ、「伊根」に車を飛ばした。夫妻はその地の無料の貸自転車で一回りし、その間私は見晴らしの良い「伊根町観光案内所(写真・9)」の二階で、スマホの写真や動画の実技を独学した。(写真・10&11)
 そこから、帰途。途中、楽しみにしていた「三方五湖S.A」に寄ったが、想い出の中にある「一望の美景」は見えなかった(写真・12)。
一路東京へ。 いつもながら、Yさんの運転、ご苦労様でした。

写真・9

写真・10

写真・11

写真・12




  ■164 洲本城  
   
   訪問日 2019年11月2日 
      スタンプ設置場所
      「洲本市立淡路文化史料館」


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***  11月1日の20時、例によって我が家まで出迎えてもらい、2泊3日の「四国続100名城」スタンプ集めの旅に出た。

 「四国」と書いたが洲本、淡路島は兵庫県なのだ。何故兵庫県なのだ?もともと淡路島は記紀に日本誕生の地と記されている。広い(!)日本で、何故、神は日本誕生の地として、この淡路島を選んだのだろう?いつか、学説を調べてみたい。とにかくこの島は永く淡路国であったが、秀吉の頃から、阿波藩、徳島藩に属した。だったら徳島県になる筈が、幕末、徳島藩と稲田家の争いで、結局、どちらでもない兵庫県に属した。
 この経緯は、船山馨「お登勢」に書いてあったか?本書をかって読んだことがある。スケールこそ違い本書のヒロインお登勢は「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラを思わせる活躍振りとうろ覚えしている。
 洲本城の入り口、スタンプ設置場所の「資料館」の近くに、「お登勢」の碑があり、他にもお登勢ゆかりの碑がある。(写真・1〜4)この書を再読すればよいのだが・・。
***

写真・1

写真・2

写真・3

写真・4
 洲本城も本丸直下の駐車場まで行きそこからはYさん夫妻に行ってもらう。写真で見る通りなかなかの石垣である。朝鮮由来の「登り石垣」もあるそうだがよく解らない。また、面白い「天守閣」もある。1928年昭和天皇即位を記念で、日本最古の「模擬天守」というこれまた面白い説明もあった。(写真5〜10)

写真5

写真6

写真7

写真8

写真9

写真10
 洲本市には他にも安宅八城がある。安宅船の発祥の地と思い込んでいたが、どうも違うらしい。では改めて、「安宅船」に由来を・・、調べるときりがないので、洲本城はオシマイ。
をクリックすると動画がスタートします。
(洲本城駐車場前の展望台からのパノラマ、眼下は洲本温泉)






  ■165 大和郡山城  
   
   訪問日 2019年6月9日 
      スタンプ設置場所
      「柳沢文庫」


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***
  久し振りに、深く幅広いお濠を覗き、石垣に畳まれた大手門から入城をして、天守台の頂上まで登りつめた、城見物のエッセンスを全うできた城だった。
 幸い、Yさんが丁寧に写真を撮ってくれていたので、これまた久しぶりに説明付き写真を展示できる。
***
郡山城由来の碑 登城
竹林門跡 堂々たる「続百名城」の石碑 極楽橋修復
石垣修復 石垣修復 柳沢神社由来 石垣と濠
私が登った天守台

 この写真群で見る限り、この城は、柳沢吉保とその息子吉里の時代がクローズアップされている。しかし、昭和の時代に私が訪ねた時は、この城は秀吉の弟、豊臣秀長を城主として前面に押し出していた。今回、あらためてこの城の歴史を紐解くと、松永久秀やら筒井順慶などのスターたちの活躍の舞台となっている。
 この地の戦略上の重要さからそうなったのだろう。

 皮肉なことに、これだけ近来稀にオーソドックスな城探訪が出来たにも拘らず、スタンプ設置場所「柳沢文庫」まで脚を延ばすことを怠った。惜しいことをしたが、身障者用に準備された階段の手摺を頼りに天守閣を極めたことで良しとしよう。




  ■166 宇陀松山城  
   
   訪問日 2019年6月10日 
      スタンプ設置場所
      「まちづくりセンター千軒舎」


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***
   この城の「所在地」は「奈良県宇陀市大宇陀春日・拾生・岩清水」となっている。細かい地名も面白いが、私は、「奈良県」に行ったという事で充分満足する。京都と並ぶ日本の歴史のメッカでありながら、奈良県を訪れる機会が今まで余りなかったのだ。
 奈良県から「百名城」に選ばれたのは「61高取城」ただ一城。その城の自分の訪城記を紐解いても、奈良県に対する不義理を詫び、且つ不思議に思っていると書かれている。
 今回は、東京から真っ直ぐ大和郡山城を訪ね、その地のホテルに一泊し、翌日、この城に来たのだから、奈良県に対して敬意を表したと云えるだろう。
 
 しかし、京都もそうだが、奈良もまた「城」ではなく「神社・仏閣」が主の古都なのだ。
 今回も、真っ先に訪れた日本酒の「正歴寺」、私が奈良でどうしても行きたいと頑張った「春日大社」、Yさんのお気に入りで私に見せたいと寄ってくれた「談山神社」、車中から見つけた魅力的な神社名の「売太神社」「帯解寺」などに惜しげもなく時間を費やした。
 (この訪問記は私のホームページの「旅の世界」に投稿したのでご参照願います)
***
 宇陀松山城も印象に残る城となった。例の通り、「まちづくりセンター千軒舎」でスタンプを捺し、山城へ登ってくれるYさんを待つ。
 この城も平成18年(2006)7月28日に「国指定史跡」になった私の云う「平成生まれの名城」だから、知識は何もない。
 この城と宇陀について、センターのスタッフが熱心に説明してくれた。スタンプ捺印の訪問者が絶え間なく来るのだが、私につききりで豊富な資料で私のトンチンカンな質問にも丁寧に答えてくれて、楽しい時間であった。
 おかげで、「宇陀」という聞くだに由緒ある古都の入り口を知るお事が出来た。

 町の花「カザグルマ」が描かれているマンホール(まちづくりセンター千軒舎前)。カザグルマ草は、キンポウゲ科の蔓性植物で、宇陀はその自生地の北限として国指定天然記念物となっている。

 

     ■167 新宮城  
   
   訪問日 2019年4月21日 
      スタンプ設置場所
     「新宮市立歴史民俗資料館」


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***
 昨夜は新宮に泊まった。ホテルにエレベーターがない。エッと驚く足が不自由な私に、フロントマンは、慌てず騒がず、階段に備え付けの電動椅子に案内してくれた。動き始めは不安だったが、慣れると、ヨーロッパの古城に住む大富豪の老人のような気分で1・2階を往復した(写真・右)。
 夜は近所の居酒屋「熊五郎」で土地の名物料理を。Yさん夫妻はキャンピングカーで全国を回っているから、各地の名物に詳しい。今日の昼も「はりはり」とか「マグロ寿司」(写真下・左)などを土地のスーパーで仕入れて車中で賞味する。三人で写真に納まって(写真下・右)、カラオケに繰り出したがこれは非公開。えっ?見たくない?ゴモットモデス。
***
初日の昼食・まぐろ煮寿司 帰路の昼食
柿の葉寿司とはりはり寿司と
鯖寿司の3点セット
夕食は熊五郎で
 朝、走り出すとすぐに新宮城があり、そのまま登城。但し私は駐車場止まりだが。この城は石碑が多い。まず、「丹鶴姫の碑」。姫は八幡太郎義家の孫、源為義の娘、新宮十郎行家の姉、頼朝・義経の姪にあたる。熊野水軍を源氏に引き入れるため一役買ったに違いない。
 与謝野鉄幹(写真・1)・地元の佐藤春夫はともかく、「新宮市暮らしを考える主婦の会」の碑(写真・2)まである。
 ただ、城の見どころは碑ではない。整然とした石垣(写真・3)、立派な井戸(写真・4)。
 本丸からの、熊野川に開いた水の手門の写真が素晴らしい(写真・5)。パソコンの先達の記事では健常人でもアクセスに苦戦するそうだが、この写真からでも、往時、備長炭を大量に江戸へ積み出した湊の様子がほの見える。(尚、備中炭とは紀伊田辺の商人備中屋長左衛門がウバメガシ材料に作り始めたことから名が付いた由)
写真・1 写真・2 写真・3 写真・4

写真・5

 スタンプは阿須賀神社境内の新宮歴史民俗資料館。ここでも、入場料支払い後の捺印。私の抗議を聞いた受付氏は、気の毒がって、展示品の「御正体」が神社の御神木から掘り出された経緯など説明してくれた。(下の写真2点)

那智の大滝

 那智の大滝を見物に行く。幸い地元から出発したので観光客の混雑より一歩早く着けた。滝の写真はどこにでもあるが、この石段の写真は、滅多にない。私にとってしか意味がないかもしれない。私は、この中央の手すりを両手で掴み、下り、登ってきたのだ。もっとも、途中で手すりが途切れる場所もある。Yさん夫妻が付いていなければとても達成できない挑戦だった。(写真下・左)
御神籤でも、夫人の力を借りた。(写真下・中央と右)この御神籤を引く料金100円。神社は金に淡泊だ。そこが嬉しい。




     ■168 若桜鬼ヶ城  
   
   訪問日 2019年9月23日 
      スタンプ設置場所
     「若桜駅前バスターミナル待合室内」


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***
 この城が「国史跡」に指定されたのは、平成20年(2008年)である。「続100名城」には平成時代の発掘調査の成果で「国指定史跡」となった城が多い。私はこれらの城を「平成の名城」と呼んでいる。昭和の時代に城巡りを始めた私には名前さえ知らない城が目白押しだ。失礼だがこの城も全く知らなかった。
 しかし、この「若桜鬼ヶ城」は他の「平成の名城」とは違った興味ある点が多い。
 
 城下町であること
 今迄訪ねた山城の多くは、城下町を持ってない。若桜城は持っている。町に寺町・蔵通り・仮屋通り・殿町・農人町などが残っていて、これらは。若桜町観光協会のホームページに詳しい。
 若桜鉄道終点駅の風情が良い。スタンプ捺印の観光案内所の応対も雅だった(写真・1)。城も直下まで車で行ける(写真・2)。例によって、Yさん夫妻に取ってきてもらった写真が写真3〜5。
***

写真・1

写真・2

写真・3

写真・4

写真・5
 宿場町であること
 写真(写真・6&7)に若桜が但馬と播磨の分岐点だという事がはっきりと示される。右の道は国道29号線(播磨海道)。播州街道。北は鳥取で国道9号線に合し、南は姫路で国道2号線に合す。

写真・6

写真・7
 左の道は国道482号線(但馬街道)。この国道が面白い。日本海を東西に走る9号線に原則は山中を並行するのだが、それが南北に複雑な動きをする。
誰も読まないだろうが、パソコンを丸写しすると下記。

 記
日 本海側の若狭湾に面する京都府宮津市の国道176号・178号分岐(消防署前交差点)から丹後地方と兵庫県但馬地方および、鳥取県と岡山県の県境にまたがる中国山地の山岳部を縫うように東西に走り、鳥取県西端に位置する米子市の国道9号交点(公会堂前交差点)と結ぶ延長約333 kmの一般国道の路線で、主な通過地は、京都府京丹後市、兵庫県豊岡市日高町、美方郡香美町、鳥取県八頭郡若桜町、八頭町、鳥取市用瀬町、岡山県苫田郡鏡野町、鳥取県東伯郡三朝町、岡山県真庭市、鳥取県日野郡江府町である。数多くの一般国道の他路線と重複する区間を持ち、起点・宮津市から丹後半島をぐるりと周回して、京丹後市丹後町まで国道178号と重用し、鳥取県江府町から終点・米子市までの区間は、国道181号と重用する。このほか、中国山地の山岳地の中で、国道312号・426号・9号・29号・53号・179号・313号と重用する区間を持ち、路線総延長の約4割にあたる約141 kmが重用区間である。米子自動車道へのアクセス道路にもなっており、岡山県真庭市内の蒜山インターチェンジ (IC) で米子道と接続する。 以上

 「鬼ヶ城」の由来のこと
 若桜の地名の由来は、町役場や観光協会の丁寧なホームページに詳しい。しかし、何故、「鬼ヶ城」なのか?その案内が見つからない。「『無い』という事を証明する事は難しい」とは私の尊敬する先輩の名言だ。で、「若桜町観光課」に電話で問い合わせた。「理由は、はっきりしない」との返事だったが、親切にも周辺の資料を送ってくれる由、楽しみだ。

 寅さんの舞台になったこと
 訪城したのが9月23日。帰宅後すぐの10月4日の日経新聞朝刊文化面(40面)に、「寅さん、日本一の日本通」の文が掲載された。読むと「鳥取が舞台の『寅次郎の告白』に出演した若桜鉄道の駅長さんは・・」とあるではないか。早速、この「男はつらいよ 44作」をアマゾンで入手したが、その「見方」が解らない。パソコンで「寅さんロケ地」なんかでお茶を濁して、現在に至っている。

 平林兄の生誕の地であること
 私の大学の同期の平林兄は現役で入学してきた。しかも、「早生まれ」の由だから、一番若い同期の彼に、一浪だの遅生まれだのの我々はいろいろ幹事役を押し付けている。
 その彼は、私が知る唯一の鳥取出身者なので、帰宅後、彼に「若桜町を知っているか?」と、問うてみた。驚いて彼は言う。「俺は、若桜で生まれたのだ」と。成程、若桜町のホームページの町出身の有名人の中に、平林姓がいた。彼ではないけれど。
以上





     ■169 米子城  
   
   訪問日 2019年9月22日 
      スタンプ設置場所
     「米子市立山陰歴史館」


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***  昨夜は隠岐の島に泊まった。帰りの船は颱風と一緒だから揺れた。只、私は、50年以上前、当時日本の輸出を支えていた「造船」、を支えていた「造船所」、を支えていた「造船マン」だったから、船には強い。と、自分に言い聞かせて、無事、本土についた。
 米子でも旧米子市庁であるスタンプ設置場所(写真1&2)に直行。Y夫妻が二階の「歴史館」を見学している間、スタッフが親切に世話をしてくれたが、その時、「何故、山陰なのか?」と訊くのを怠った。
***

写真・1

写真・2
 現代、「裏日本」とは流石に云わなくなったが、「山陰」と遜る必要はないだろうと思うのだ。かっては大陸への玄関口であり、北前船が物資も文化を日本中に配給した表舞台だったではないか!「陰」とは何だ!いつ、誰が、山陽に対し山陰と呼び始めたのか?と疑問に思っているのだ。

 車は「米子城入口」の駐車場まで行ける(写真3)。私はそこまで。Yさん夫妻に後を託す。(写真4&5)。本丸からの動画を見てほしい。米子市内の鳥瞰はもとよりだが、台風の余波の激しい風に揺れ動く樹木とその音が臨場感豊かな動画の世界だ。
 颱風にも拘らず、雨は「熄んだり、止んだり」。つまり、晴れ男の我々には雨は降らないのだ。

写真・3

写真・4

写真・5
をクリックすると動画がスタートします。
(米子城からのパノラマ、台風接近のため風の音が入っています)

****
 米子城で見まほしく思ったのは、「御舟手郭」である。中海深浦に面した郭で水軍が配備され城下町に入る船の監視をしていた由。米子城は私好みの水城だったのだ。
 その後、市内を見物する。「港での海運業が隆盛を極めた、江戸時代末期から明治時代にかけての佇まいを、今も色濃く残す町」とのパンフレットの案内通り、思いがけず北前船、回船問屋などに触れる事が出来た(右写真)。

 帰宅後、久しぶりに、司馬師の「街道をゆくー因幡・伯耆のみち」を紐解いた。この私のバイブル、日本史のエンサイクロペヂアはこの書でも鳥取の二十世紀梨の起源までも詳説してくれている。にも拘らず、米子に一泊しているこの旅で、米子については「米子に泊まって、町のあちこちから大山を眺めた。山容は町の中にある」でオシマイ。
 師よ、師よ。ソレハナイゼ。この紀行文の中で師は「大城下町というのは、すべて港湾都市だったのである」と喝破されておられるではないか。ここも港湾都市米子についても一言頂きたかった!



     ■170 浜田城  
     
       登城日
       令和2年(2020年) 11月 21日
        スタンプ設置場所「浜田城資料館」

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***   
 浜田市まで

 2020年11月21日に始まる三連休、世上カマビスシイ、コロナ騒ぎも、ものかわ、いつもの早朝出発よりさらに気合を入れて、前夜発・徹夜ドライブで出雲・石見の国を目指した。例の通りのYさんの健闘で、11時に出雲一の宮「熊野神社」、13時に石見一宮「物部神社」(「神社探訪記」の項ご参照)更には石見銀山入口も覗いて、浜田城のスタンプ設置場所「浜田城資料館」に着いたのは、15時半だった。約1000Kの超ロングドライブである。Yさんもそろそろ還暦。いつまでもこのような無理な行程は組めないだろうが。

 不思議の浜田城

 浜田城も山城だから登城はYさん夫妻に任せて、私は資料館で車椅子を借り、ゆっくりヴィデオなんか見て待つ。資料館で用意しているパンフレット類が読み応えがある。その1部「「浜田城とその城下」によると『元和5年(1619)松坂藩から古田重治が浜田に転封し、5万4千石の浜田藩が成立した』と、ある。それまで、藩も城もなかったわけだ。
 浜田という私でさへ名を知る(但し、今まで素通りを重ねていて訪問するのは、初めてだが)、由緒ありげな土地が、こんな、城建設ブームも終わりかけた時代に初めて登場するとは、はなはだ不思議である。江戸以前の浜田は、どののような歴史を持つのだろうか?
 浜田市のホームページの「年表」を見てみると、縷々あって、1443年に『三隅信兼の助力を得て宝福寺の大般若経が写経される(「浜田」の地名が記される現存最古の史料)』とある。立藩後、浜田藩藩主は転々と変わり、維新の戦争で大村益次郎の軍に打ち負かされるのだが、重要な北前船の寄港地として栄えた街なのだが、城が出来る前は、歴史に乏しい街なのかなあ?最初の藩主が誰の「金」でこの城を建てのかなあ?不思議な城だ。

 不思議の島根県

 Yさんは小松市の出身だ。夫妻とドライブを繰り返している間になかなか私には縁遠かった日本海側の都市が身近になってきた。それでも、島根・鳥取周辺の「山陰地方」はどうも自分のものにならない。北前船、さらには朝鮮半島との交流で、この地方が日本の表玄関であった筈だ。いつから「裏日本」と呼ばれるようになったのか?「山陰本線」などと陰のイメージを持つ呼び名に甘んじるようになったのはいつからか?
 資料館のパンフレット(というより立派な雑誌)「シマネスクー 2020AUTUMN」の記事「しまね散歩」 津和野編」とあって、初めて津和野が島根県と知った。
 誰に対して謝ってよいのか知らないが、失礼しました。度々訪れていた津和野は山口県か広島県かも気にも留めなかったことは申し訳ありませんでした。今後、何故津和野が島根県なのかも含め、勉強します。

 不思議の浜田城図

 先述のパンフレット「浜田城とその城下」の4ページに『浜田城図 明治4年 (石津寛治氏所蔵)』と、ある。この石津氏は私の大学のクラスメートだ。私が城巡りを始めたころ、まだ、「日本百名城」も始まらぬ頃、だから勿論、この浜田城が「「続日本100名城」に選定されるはるか以前の大昔、私が城巡りを始めたことを知って、石津兄は早速連絡をくれた。 
 彼の先祖の浜田藩での仕事の説明や、彼の持つ資料の数々の貸与など、懇切な教示を頂いた。
 彼は時々豪壮な実家に風を入れに帰るから、その時にでもと、御招待を受けた。
 それから半世紀以上、彼が主催するハイキング会などにはマメに参加したりして、結構交流があったにも拘らず、浜田行はこの齢になるまで実現しなかった。不思議で残念なことである。

***
▲浜田城
▲北前船寄港地 外ノ浦


▲物部神社にて


     ■171 備中高松城  
     
       登城日
       令和元年(2019年) 11月 3日
        スタンプ設置場所「城址公園資料館」

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***  「続100名城」が選定されたのち、最初の「100名城」を何と呼ぶか?「旧100名城」でもない「元100名城」でもない。「新古今集」があっても「古今集」は「古今集」だけで通じる。百名城もカッコ付きの「100名城」だけで最初の100名城と解るかなあ?皆様はどう区別しているか?伺いたいものです。
私は仕方がないから、カッコつきの「100名城」で最初の百名城リストとする事にした。

 何故ここでそこに悩むか?この備中高松城は、全国の名城の中で、知名度ならトップクラスの城だ。信長の死。秀吉の天下取りのスタート地。日本史の転換点の舞台になったこの城の名は日本史に少しでも興味を持つ人なら誰でも知っている。
 その超有名な城が、何故、「100名城」に入っていないか、かねて不思議に思っていた。
 今回、初めてこの城を訪れ、理由がわかった。つまり、現在、この城は城らしくないのだ。
 毛利の出城。秀吉の水攻め。清水宗治の切腹、等々のエピソードも頭に入っていての訪城だから着いたとき、期待を裏切られた。平城だから、見て回れるのだろうが、公園になっているので、往時を偲ぶのはなかなか至難の業だ。
 僅かに、公園資料館が建物も展示物も館員さんも適当に古びていて印象に残った。この地では清水宗治はヒーローなのだな。

 写真を紐解いてみよう。
***

スタンプ設置場所の資料館全景

同 内部

捺印中
説明版は豊富だが、いくら説明されても・・。

 説明版は豊富だが、
いくら説明されても・・。

清水宗治 首塚

 「宗治蓮」
 ところで、大きな鳥居がある。そう、この地は吉備津神社、吉備津彦神社が近い。これは寄らねば。と、両神社にお参りできた。
 が、この神社、祭神について書くことは、私には無理だ。遠い神代の時代、吉備の国と、ヤマトの国との攻防。吉備を制圧した大吉備津彦。彼を祀ることは、陸奥で坂上田村麻呂
を祀ると同じで未だきな臭い感じがするのだが・・。




     ■172 三原城  
     
       登城日
       令和2年(2020年) 1月13日
        スタンプ設置場所
          「三原観光協会」

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***  私と、三原城との因縁は深い。私のホームページ(100shirowoyuku.net/index.htm)「71福山城」に書いたが、この城が新幹線のホームの犠牲になってゆく現場に立ち会って、義憤に駆られて若き工事責任者に食って掛かったのだ。1975年の事である。
 しかし、いま考えてみると、城は、1894年山陽線が開通し、三原駅が新設された時に既に十分破壊されていたのだ。その時の経緯を調べてみたのだが、これはパソコンでも簡単でなく、諦めた。いずれにしても、(いづれにしても、どっちが正しい?) 駅が破壊する前の城が少しでも残っていることを喜ばねばならない今日なのだろう。
 とにかく、駅から、直接、登城できる城はそうはない。
***
 
 昨夜、三原に泊まったので、9時前に城の駐車場。スタンプ設置場所の、駅にある「三原観光協会」が開くまで、これまた駅にある本丸まで、Y夫妻の文字通りの手助けで登った。久しぶりのスタンプ捺印と本丸登頂を自分の手と足で出来た城だった。

 昨日の新高山城から三原城は小早川隆景の独壇場だ。日本人好みの武力・知力・仁義などの美徳を兼ね備えた武将だ。司馬氏の各書に度々登場しているだろうが、彼を主人公にした作品はあるか?彼の生涯を、改めて、読んでみたいものだ。
 その望みは叶うだろうが、この三原という、未だ私の憧れの海城の名残を、そこかしこに残していそうな城下町を、ゆっくりと散策する日が今後あるだろうか・・。





     ■173 新高山城  
     
       登城日
       令和2年(2020年) 1月12日
        スタンプ設置場所
          「本郷生涯学習センター」

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***  夕方、時間を気にしながら「本郷生涯学習センター」に滑り込み、スタンプ捺印とパンフレットを頂く。三原市本郷町観光協会発行の数葉の資料は、大変参考になった。

 「新高山城」というからには「新」が付かない「高山城」があるべきだ。ある。小早川隆景が家督を継いで入城したのが「高山城」だ。一年後、彼は「新高山城」を築きそちらへ移った。理由に「人心一新のため」と書いてある。毛利家から送り込まれた新しい殿様への小早川家の抵抗がほのみえるが。小説の読みすぎかな。
 とにかく、元の「高山城」も「新高山城jと同じく「国指定史跡」となっている。
 高山城の歴史は古い。土肥実平から4代目茂平の時代に築城されてから350年間沼田小早川家の居城となっている。「土肥実平」とは懐かしい名前だ。彼は、今の東海道線の早川駅付近の出身で、頼朝から吉備三国(備前、備中、備後)の守護に任じられた頃から「小早川」を名乗るようになったのだと。但し、その小早川家の家督を継がせた毛利家は、これまた頼朝の御家人大江広元の子孫だから、鎌倉幕府の御威光はただならぬものがある。
 薩摩の島津、飫肥の伊東も、頼朝の御家人だ。彼ら、関東武者は十分な武力を持っていたから、自国の統治は心配ないだろうが、さて、頼朝の財政基盤はなんであったか?
 彼が任命した守護・地頭は、鎌倉幕府に年貢を送ったのだろうか?

 例によって、私が駐車場で待つ間、Yさん夫妻は駆け足で「新高山城」を往復してくれる。
***
 私のかってのバイブル1967年5月初版「日本城郭全集第12巻」(人物往来社)を紐といてみる。不思議なことに我が高山城は「新」も「古」も本文に独立した記載がなく、「三原城」の記事の中に「古高山城」「妻高山城」の名で触れられている。勿論、当時の城の様子についても記載はない。
 いつ、どうして、名前が変わったのだろう?
 「新高山城」をどうして。「シンタカヤマ」と読まずに、「ニイタカヤマ」と読ませるのだろう?
 教えてくれる方ばいれば、ありがたく存じます。
をクリックすると動画がスタートします。
(新高山城直下から高山城直下のトンネルを新幹線が通過)






     ■174 大内氏館・高嶺城  
     
       登城日
       令和2年(2020年) 11月22日
        スタンプ設置場所
                  「浜田護国神社社務所」

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***  
 大内氏館跡

 昨夜は浜田駅前のホテルに泊まった。日本海の美味を求めて街へ出たがコロナで閑散としてる筈の飲み屋・料理屋が軒並み満席。空しく引き上げてホテルのレストランで、夕食をとったが、それなりに地元の味を満足できた。
 そのレストランでバイキングをして山口に向かう。益田経由の一般道が見どころが多いのだが、山口から今日の目的地の岡山県矢掛町に夕方には着かねばならない。時間が貴重なので、「浜田自動車道」「中国自動車道」をひた走って、昼前に山口市「大路ロビー」に到着し、捺印をした。(写真1&2)余裕の笑顔でスタンプを捺しているが、帰宅後見たら、スタンプが見事に逆さまに捺してあった。齢は取りたくないものだ。
 そこから近い「大内氏館跡」の駐車場から歩き出す。途中、紅葉が盛りの参道を通る。あまりの見事さに、珍しく、Yさんとツーショットに納まる。紹介します。Yさんとはこんな人です。(写真3)
***

写真・1

写真・2

写真・3
***  「館跡」にはほとんど何も残っていない。龍福寺の一画に僅かな庭園らしきものが残っているに過ぎない。(写真4など)しかし、この龍福寺は『大内館の跡地で中世大内氏の居館があり、大内氏はここで二百余年間、政務を執った』との説明文を読めば、この何もない空間に襟を正さざるを得ない。二百年という長い年月がスゴイ。私は、その大内氏の二百年の間に疎い。僅かに、陶晴賢の反乱により滅亡したという最後しか知らない。(写真5)今後、知るのが楽しみだ。 ***

写真・4

写真・5
***  高嶺城

 大内氏は最後にこの城に籠ろうとしたが、それも叶わず、滅亡した。城は1959年(昭和34年)国史跡となり、今回、「続100名城」に選定された。しかし、地元でもあまり大切にされてないようだ。Yさんの独特な嗅覚でアクセスの道を車で登ったが、案内板も乏しく、「嗅覚」が無ければ登城するのは難しいだろう。
 大内氏滅亡後の山口が如何に山口県の県庁所在地になったか?何故、この内陸の山口で対明貿易が行われたか?長く全国県庁所在地中、最小の人口数の山口の歴史も又、今後興味を持とう。
***


     ■175 勝端城  
     
       登城日
       令和元年(2019年) 11月 2日
        スタンプ設置場所
          「勝瑞発掘現場事務所」「武田石油(土日のみ)

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***  「続100名城」のスタンプ捺印も60城を越えた。まだ早いが、「続100名城ワースト10城」でも考えてみると、この城は入選する可能性が高いと思われる。
 訪れた11月2日(15時半)は土曜日で「勝瑞発掘現場事務所」は閉まっており、スタンプは道一つ隔てた「武田石油」というガソリンスタンドの事務所である。(写真・右)
 スタンプ置場も異色だが、城跡もまた発掘途中だから、私のような素人が見ると何もない広地だ。手許の徳島県板野郡藍住町教育委員会発行のパンフレットによれば国指定史跡になったのは平成13年。
 その後、何回も追加指定を受け続け、平成29年にも追加指定を受けている現在進行中の城なのだ。川越館は昭和56年に国指定史跡になっているが、私が数年前に訪れた時もまだ単なる広地のままだった。


***
 まー、この城を百名城に加えることに無理があったのではないだろうか?と、約20分、車で城の周りを一回りして、次へ向かった。






     ■176 一宮城  
     
       登城日
       令和元年(2019年) 11月 2日
        スタンプ設置場所「登城口ポスト」

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***  神社を祀る城跡は多い。「続100名城スタンプ帳」にも米沢城や唐沢山城などには所在地に(上杉神社)(唐沢山神社)と書かれている。最近訪れた九州では、中津城内の神社の多さに驚き、八代では城は丸ごと八代宮になっていた。武田氏館の武田神社もそうだ。
 しかし、神社名が城址名になっている例は少ないのではないか。静岡を歩いた時、「145興国寺城」「146諏訪原城」「147高天神城」と何れも神社・仏閣に因んだ名だ、と、興味を持ったが。
 
 「続100名城」は山城が多い。身障者の身には登頂が不可となり、ともすれば、付近の神社を見学することが多い。もともと神社探訪は私の趣味の一つだ。「全国一の宮探訪」は志す人が多いので、「全国二の宮探訪」を試みた事もある。東海道線の「二の宮駅」で周知の「相模国二の宮・川勾神社」でスタートしたが、武蔵国金讃神社、上野赤城神社・下総玉崎神社あたりで有耶無耶になってしまった。
 第一、「一の宮」でさえ、特定が難しい。地名になっているこの阿波国一宮も学術書・パソコンでは他に4社もある。まして「二の宮」になるとなかったり、ありすぎたり、だ。
 立派な本殿(写真・1)でYさんは永い間、手を合わせていた。何を願っていたのかな?もっとも、では、貴方は何を願ったか?と聞かれても答え難い。
 本殿の左手に社務所らしきものがあったが、応答はなく、残念ながらお由緒書きは貰えなかっかった。
***

写真・1

写真・2

 神社の詮索は難しい。永年の研究結果、私には不可能だと知っている。仕方がない。お参りをして、登山口に無造作に置いたあるスタンプを捺して(写真・2)、ここも後はY夫妻任せだ。写真(3〜6)と共に、本丸からの動画も鑑賞してほしい。


 

 「続100名城」は最初の「百名城」に比べ、指定を受けた城たち・地方から高い敬意をもって扱われている。スタンプ設置場所は各地の一級施設であり、ここのように露天に無防備に置かれている例は少ない。
 思うに、ここお遍路さんの本場では、城歩きなどの新興趣味人は軽視されるのだろう。神社の近辺には、お遍路さんが沢山。(写真・左)お遍路さんの歴史、一の宮神社と神社との関係、別当寺・神仏分離令。
 知りたいことは山ほどあるが。
をクリックすると動画がスタートします。
(一宮城からのパノラマ)


     ■177 引田城  
     
       登城日
       令和元年(2019年) 11月 2日
        スタンプ設置場所「讃州井筒屋敷」

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***  この城の住所は「香川県東かがわ市引田城山」である。さて、「東かがわ市」とは?
 市のホームページ記載の「市の概要」は簡潔だ。曰く「平成15年4月。引田町・白鳥町・大内町が合併。香川県の東端。徳島県鳴門市に接する。産業ははまち養殖発祥地・和三盆糖・手袋・しょう油。人口31000人。面積153平方キロ。」
 同じホームページの観光のトップがここ引田城だ。その城の概要も城の説明版が簡潔だ。
 「応仁年間(1467-69)に寒川氏が領し三好氏との攻防があり、城主は四宮氏・矢野氏・と何度も変わる。天正15年(1587)に生駒氏が讃岐を治め高松城と並行して東讃の支城として引田城を築いた」
(右写真)


***
 1615年、一国一城令で廃城にになった後、城がいつ取り壊されたかは不明で長く忘れられた存在だった。しかし、近年文化財としての調査・保存の機運が高まっている。
 この城のウイキペディアの「沿革」が面白い。
 「元和元年(1615)一国一条令で廃城」の次の記事はドント飛んで平成29年(2017) 「続100名城」に選定された。
 である。私が初めて知る城なのも無理もないか。
 勿論、登城はY夫妻に依頼して、私はスタンプ設置所「井筒屋敷」で待つ。
 井筒屋は元禄5年以来の醤油製造業を営み、大正時代には清酒醸造を開始した地主・豪商である。現在は公開された屋敷内で、「和三盆の型抜き」「手袋づくり」などが体験できるが、
 私にはチト無縁で、遠慮したが、土産に買った少々の和三盆は、Y夫人から絶賛された。
 17時の閉店間際で客も少なく、ヴォランティアの方の丁寧な説明を聞く事が出来た。
 何故、この地が、醤油醸造に適するのか?また、和三盆が名物になった理由などは聴き損なった。しかし、徳島城を訪問した時に寄った「藍」の製造について聞いたとき、温厚なヴォランティアが、屹度なって「藍は阿波徳島です」と讃岐の意地を見せたのが興味深かった。
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(夕暮れ迫る引田城からのパノラマ)



     ■178 能島城  
     
       登城日
       令和2年(2020年) 1月12日
        スタンプ設置場所「今治市村上水軍博物館」

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***  
 「城」は「土から成る」とあるように「山城」が主流だ。日本の城の元祖「朝鮮式山城」にしろ、近代の城の元祖「安土城」にしろ本質は山城だ。だから、水城や海城は私の中では貴重品で、訪城するときは緊張を覚えるほどだ。

 海城への憧憬は、百名城の中でも度々述べている。四国では今治城、高松城の紀行文に、思いのたけを綴っている。心ある人は読んでほしい。しかし、自分自身、読み返してみて、十数年前の疑問を何一つ解決することなく、徒に馬齢を重ねたとの決まり文句がピッタリの自分に、これまた決まり文句、内心忸怩たるものがある。

「能島城」は海城を代表する城だから本来なら楽しみの極の筈だ。が、諦めてもいた。若者が多い城マニアの報告集を読んでも、上陸している方を見つけるのは難しい。まして、脚が悪い老人が上陸、見学することは無理だろう、と。

 しかし、今回は遊覧の船に乗る事が出来た。瀬戸内海の潮流を間近かで体験出来たし、城も上陸こそできなかったが、上陸も難しそうだ、と、納得できるほど近くに寄ってくれた。
 そして、その潮流やそこに浮かぶ城やらを、スマホの「動画」に収める事が出来た。
 紀行文も、始めは文章だけで充分だった。ブログが普及して写真が入らぬ紀行文は誰も読まなくなった。そして、今、スマホの時代になって、動画の挿入が主流のなるのだろう。

 肝心の能島城。見ても、読んでも、この小さな島にどのように船を繋ぎ、水軍を滞在させたのか?水は有るのだろうか?新造船はともかく、修繕船工場は有るのだろうか?

 スタンプ設置場所も前回の今治城訪城時に見学している。館内で新しく紹介されている「村上水軍の娘」もゲラゲラと笑いながら読ませてもらった記憶はあるが、内容はサッパリ覚えてない。まことに、忸怩たるものがある。

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能島水軍(村上海賊)潮流体験船クルーズです。


能島水軍(村上海賊)潮流体験船クルーズ(その2)

能島水軍(村上海賊)潮流体験船クルーズ(その3)





     ■179 河後森城  
     
       登城日
       令和2年(2020年) 1月11日
        スタンプ設置場所「河後森城跡西第十曲輪馬屋」

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 Yさんの愛車
 「続100名城」四国編第二回の蓋開けである。例によって前日の20時にY夫妻に家に迎えてもらい、ベッドで横になり、2時間ごとのトイレタイムを重ねて、翌朝、9時に、瀬戸大橋与島PAでようやくYさんは仮眠。朝食。走行距離1100kの由。Yさんも還暦だ。もうそろそろこんな若者の真似は止めねばならないだろうが・・。
(写真は下の3点、中央写真はYさんの愛車が天井を開けキャンピングカーの威容を示している珍しい写真)
***

 宇和島城
 そこからもう一走り。河後森城に着いたのは15時を過ぎている。この城の所在地は「愛媛県北宇和郡松前町松丸である。河後森城の名と同様、今まで、全く私には縁がなかった地名であり城の名である。地図を紐解いてようやく宇和郡の隣はかの百名城の雄、宇和島城がある宇和島市と解って、又、河後森城が宇和島城の支城と解って、初めて河後森城に親近感が持てた。
 あー、懐かしの宇和島城!誰も読んでくれない私のホームページ「百名城をゆく」を訪れると、宇和島城訪城は平成24年(2012年)。喜々として新しい歴史の知識を摂取している。えっ?今からたった8年前か!老け込むにはまだ早いのか。Yさん、お互い、まだまだ、若さを保ちましょう。

 山城の馬屋
 さて、河後森城。例によって私は駐車場で待ち、Yさん夫妻の健脚に任せる。この城も、平成9年(1997年)に国指定史跡となった私の云う「平成の名城」である。最近の発掘の成果がよく保存されている(写真1〜9)。特に、「スタンプ設置場所」の、「西第10曲輪馬屋」はユニークだ(写真4)。パンフレットには「発掘調査で馬屋と想定される建物があったと分った」とある。
 何故、このような高い場所で馬を飼っていたのだろうか?
 全国、他の山城で、馬屋は在ったのであろうか?(私は百名城49「小谷城」でここと同じ疑問を書き記しているのだが)

写真・1

写真・2

写真・3

写真・4

写真・5

写真・6

写真・7

写真・8

写真・9
 1967年発行「日本城郭全集 14巻」
 ふと、思いついて、若い時に買い集め、そろそろ処分しようとしている城関係の参考書を紐解いてみた。人物往来社刊「日本城郭全集 第14巻 愛媛県」である。この本では城の名は「川後の森城」となっており。この城の城主の変遷が詳しい。残念ながら、城の当時の様子の記載はない。この記事を書いた方は、この城が30年後に「国指定史跡」に指定されると考えたことがあっただろうか。




     ■180 岡豊城  
     
       登城日
       令和元年(2019年) 11月 3日
        スタンプ設置場所「県立歴史民俗資料館」

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     ■181 小倉城  
     
       登城日
       令和元年(2019年) 10月17日
        スタンプ設置場所「小倉城天守受付」

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 昨夜は小倉に泊まった。夜の食事は街なかへ出かけたが、酔客が多い。しかも若い人が多い。我々の若い時の銀座を想い出すような雰囲気だ。今まで私は、真っ直ぐ博多に行ってしまい、小倉は素通りで、泊まるのは初めてだ。今、どんな産業があってこれら若者がいるのだろうか?

 小倉城は途中下車で寄った。小倉城の天守が再建されたのは1959年(昭和34年)だから天守閣も見ている筈だが、「新築」の天守閣を当時の私は無視したようで、印象に残っていない。奇しくも、今年、天守閣の内装がリニューアルされたとか。
 スタンプも内部にあるので、ここは攻め上った。エレベーターの代わりに階段手摺に付けられた椅子が静々と私を運ぶ(写真・1&2)。天守も広々と眺めがよく(写真・3)、久しぶりにオーソドックスな「新築」天守閣見物をした
***

写真・1

写真・2

写真・3
城内に「松本清張記念館」がある(写真・4)。司馬師の最大のライバルの清張さん。Fは彼のフアンで入館をする。私は司馬師に操を立てて外でKと恒例の喫煙をする (写真・5)。
 で、今、Fの愛読書、半藤一利著「清張さんと司馬さん」を読んでいる。半藤氏は、文春の編集者として、この両巨人と親しく付き合ったのだ。
 

写真・4

写真・5




     ■186 金田城  
     
       登城日
       令和元年(2019年) 10月16日
        スタンプ設置場所「美津島地区公民館」

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 対馬に午前中に入るためには羽田を7時発の福岡行きに乗らねばならぬ。我が埼玉県吉川市からでは始発に乗ってもその飛行機に間に合わぬ。数日前にタクシーを予約しようとしたら「人出不足で予約は出来ない」と、誠に可笑しな返事だった。JCBザクラスカードの威力でタクシーは来たが、田舎に住むのは辛い時がある。羽田空港でF夫妻、福岡空港でKと落ち合う。往年の百名城巡りのメンバーだ。

 福岡から対馬行きへの乗り換えは時間が少なく、Fは私に遠慮しながら私の為に車椅子を手配した。対馬ではレンタカー。公民館でスタンプ捺印後(写真・1)城へ。ささやかな駐車場に停め、三人は山城へ。Kも齢を取った。私から杖を借りてゆく。何気なく貸したが、気が付けば私は杖なしでは歩けない身なのだ。お互い、いつまでも若い気分ではいけないのだ。
 帰って来るまで、隣に駐車しているタクシーの運転手と会話(写真・2)。台湾の女性単独者がこの城往復するのを待っているのだ。空港から待ち時間を入れても数千円の由。
 我が友人たちは絶景に満足して本丸はるか手前で退散してきた。先日、TVの番組で、NO1に選ばれた金田城を登るためには山登りの完全装備が必要なのだ。
 元気なうちに歩いた、大野城や岡山鬼の城に似た城なのだろうと自分を慰める。
***

写真・1

写真・2
 厳原の港をドライブする。古都の面影を見つけるのに些か苦労(写真・3&4)。金田城の他にも城がある(写真・5&6)。こんな狭い島でも内部で相争うのか?

 対馬が何故韓国領にならずに日本領でいられるのか?疑問だった。
 帰宅後、書棚に司馬師の「街道を行く 壱岐・対馬の道」を発見。これさえ読めば
百人力。引用すれば一冊全てを書かねばならないから、F、K、Yに「読んでくれ」と送る。
皆様もアマゾンで取り寄せて読んでください。

写真・3

写真・4

写真・5

写真・6






     ■189 鞠智城  
     
       登城日
       令和元年(2019年) 10月18日
        スタンプ設置場所「歴史公園鞠智城・温故創生館」

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 筋湯温泉から約二時間、麹池城に着く。最近すっかり愛用するようになった備え付けの車椅子で創生館内を見学(写真・1〜3)。
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写真・1

写真・2

写真・3
 7世紀、大陸からの侵攻に備えて古代山城が築かれた。日本書紀に記載されている11ヶ所の山城を「朝鮮式山城」と云う。高安城・茨城・常城・長門城・大野城・基肄城・金田城・三野城・稲積城である。内、斜体は所在地が明らかでない。ボールドは訪城済である。
 次に記載はないが存在する古代山城はおつぼ山・帯隈山・女山・高良山・雷山・鹿毛馬・御所ヶ谷・杷木・石城山・鬼の城・大廻小廻り山城・永納山・讃岐城山城・播磨城山・唐原山城で播磨城山城を除いて何れも国指定史跡になっている。が、私は、鬼の城の他は行ったことがない。いつか行けるかもしれないので、ここに時間をかけて名を書いてよかった。

 これらの立派な古代山城が、朝鮮の亡命者による朝鮮半島の築城技術が使用されている事は衆知の事実である。
 ただ、この築城技術は、その後の日本にどのように継承されたのだろうか?
 「日本100名城公式ガイドブック」巻頭の「日本100名城年表」によれば、7世紀の大野城、鬼の城に続く城は8世紀の多賀城であり平安時代後期の足利氏館である。何れも朝鮮式山城の名残はない平城である。

 今は、坂口安吾の史論を読む人は少ないが、彼の「新日本風土記」又は「新日本地理」は司馬師の「街道をゆく」の先駆的作品と記憶している。
 その中の「関東に流れた帰化人たちが長い地下生活から地上に現れたのが関東武士である」という文章が半世紀以上、私の頭の隅に生きている。
 穴太の石積み技術はおそらく帰化人のものだろう。

 築城の日本史を改めて勉強したい。城に興味を持った半世紀以上も前からそう思っていながらそれを怠っている。これからもしないだろう・・。

 麹智城のシンボルは「八角形鼓楼」だがこの特徴ある建造物も日本では他で見たことがない。朝鮮、即ち、今の韓国にはあったのだろうか?喧嘩ばかりしてないで知りたいものだ。
 「麹智」の文字も九州は特殊だなあ。何故、菊池ではないのか?何故、菊地ではないのか?




     ■190 八代城  
     
       登城日
       令和元年(2019年) 10月18日
        スタンプ設置場所「八代博物館未来の森ミュージアム」

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 八代は熊本に近い。どのくらい近いかと地図を紐解いてみた。昭和の時代、九州には出張でよく来た。熊本の代理店を訪問し、鹿児島本線で鹿児島へ向かうルートを年数回、数年続けた。それが、今、地図を見ると鹿児島本線が八代で消えている!2004年九州新幹線の開通に伴い八代―川内間は肥薩おれんじ鉄道の運営になった由。ことほど左様に時代は変わってゆく。(案内のKはまたの名を鉄キチという。九州出身の彼にこのおれんじ鉄道の薀蓄を聴き損なった。)

だから、八代城もよく変わってきた。熊本城は薩摩への押さえだ。八代はさらに薩摩に近い。一国二城の例外として存続は認められてはいるものの熊本城の難攻不落振りに比べればなんとなく心許ない。今回はKの車だから菊池市から2時間で八代だ。城と云うより八代宮である。久し振りに社務所から「八代宮由緒略記」という由緒書きを頂く。ご祭神は懐良(かねなが)親王。南北朝時代に南朝最後の征西府がここ八代に置かれた縁がある。
 明治の廃藩置県で八代城は廃城になり、明治13年には旧八代城本丸に官幣中社八代宮が奉斎された。

 久し振りの平城。歩いて一応の城見物を終え、市内の洒落たレストランでパスタを食し、熊本空港まで送って貰い、帰京。JAL手配の車椅子がタクシー乗り場まで送ってくれて、情けないが、楽だった。
***

ここも車椅子でスタンプ捺印と見学。

八代城高麗門跡・欄干橋跡。

お濠

八代宮の社務所

大手道と云うより参道

八代宮




     ■191 中津城  
     
       登城日
       令和元年(2019年) 10月17日
        スタンプ設置場所「場内受付」

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八幡古要(古表)神社 
 昨夜、歓を楽しんだ小倉を8時に出て、中津城には11時に着いた。
 中津は交通の便の良い市で、城は平城なので今まで数回来ている。
 更に、かって所属していたリッチでニッチでマニアチックな「古代史同好会」の旅行で「八幡古要(古表)神社」に傀儡子の舞と相撲を訪ねたこともあった。

日本三大水城
 しかし、この中津城が三大水城の一つとは、水城大好きな私が、迂闊にも知らなかった。
他の二大水城、徳島嬢はまだ水門が道路になる前に訪問しているし、今治城は天守閣から水城の面影を見ているにも拘らず、だ。中津城が水城と知ったのは帰ってからなので、残念ながらそれらしき雰囲気は堀の大きさからしか窺えなかった(写真・1&2)。
***

写真・1

写真・2
有料で百名城スタンプを捺印
 立派な天守閣は昭和37年に再建された(写真・3)。旧城主奥平家が中心となり造営、管理、運営されている。犬山城の成瀬家を想い出させる。その故か、両城とも、スタンプ捺印場所は入場券を購入しなければ捺せない場所にある。「百名城」、「続100名城」のスタンプ捺印場所の中では、数少ない例である。
 名城の選定だけでなく、スタンプ設置場所の選定・交渉。城郭協会のご努力に頭が下がる。
 
中津の神社
 写真の案内図(写真・4)から見ると、この城地には、奥平神社(写真・5&6)の他にも神社が多い。中津神社、城井神社、扇城神社、中津大神宮などである。
 さらに、宇佐八幡の祖宮ともされる薦神社もあるし、神社目的の訪問地としても魅力ある市ではないか。

写真・3

写真・4

写真・5

写真・6



     ■192 角牟礼城  
     
       登城日
       令和元年(2019年) 10月17日
        スタンプ設置場所「わらべの館こと豊後森藩資料館」

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青の洞門
 中津城を後にして1時間後、12時に「の洞門」を通る。我々の世代までは、麹池寛の名も、彼の代表戯曲「恩讐の彼方に」も、その戯曲の舞台がこの洞門であることも、常識であり教養である。
 しかし、この洞門の説明版(写真・右)が日・英・中・韓の四か国語で書かれている国際化の進む現在では、このような常識・教養は不要のものとなっている。(と、思う)
 晴れ男の名を汚す土砂降りの雨が降り出し、この洞門に続く奥耶馬溪は車中にて待機して見物は三人に任せる。折角、初めて耶馬渓に来たのに・・。

***
穴太積み
 角牟礼城着14時。雨降りやまず、狭い三の丸駐車場にて待機して三人を待つ(写真・下・左)。
スタンプ置場の資料館ではもう、雨は上がったが、靴を脱がねばならないので、幸いF夫人が他のスタンプも探すので靴を脱いで奥まで行ってくれた(写真・下・中央&右)。
中々帰ってこないと思ったら、資料館の担当者からこの城の「穴太積み」の丁寧な説明を聞いてこられた由。「忘れないうちに」と、夫人から説明されたが、担当者にも、夫人にも申し訳ないが忘れてしまった。
 しかし、その件は頂いたパンフレットに「文禄・慶長期の縄張りや穴太積みの石垣が、そのまま残っていることは全国的ににも珍しく貴重」と書かれ、この城の誇りなのだ。

毛利・来島のお話

 城の普請や作事はよく解らず、従って興味も薄いが、城主の経歴には大いに興味が湧く。
この城の歴史に関係する人物の二人が面白い。最初が毛利高政。秀吉から毛利家へ人質として差し出されて毛利家に気に入られ、姓を森から毛利と改めた。その後も賤ヶ岳、朝鮮出兵などで活躍して、ここ玖珠から佐伯藩に転封となる。
 もう一人はその跡を継いで「森藩」を立てた来島長親。かの村上水軍の末裔だ。水軍の親玉がこんな山の中にと思うなかれ、彼は関が原で西軍に着いたのだ。贅沢は言えない。来島は久留島と改めて後に童話の大家久留島武彦を生む。

筋湯温泉 秘境の宿「喜安屋」
 そこからは温泉博士Kの世界だ。名湯筋湯温泉の名宿喜安屋へ直行。私は足が不自由で慣れない湯船には入れない。畳に敷いた布団では独りで起き上がれない。Kも私もそれを承知でこの宿を予約し楽しんだ(写真・右)



     ■193 臼杵城  
     
       登城日
       令和元年(2019年) 5月 8日
        スタンプ設置場所「臼杵市観光交流プラザ」

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 年号が平成から令和と変わった今年の五月の連休は10日間と異常に長かった。その混雑を避け、連休明けの5月8日、羽田発9:50のJALに乗った。羽田へは越ヶ谷発のリムジンを使った。このリムジンは。草加、八潮に寄って行くので、高速に入るまでに1時間と時間がかかるが、始発から終点まで乗り換え無しが、身障者には有難いのだ。
空港でF夫妻と待ち合わせ、大分着11時。待っていたKの車に乗り込む。この4人は、今から8年前、平成23年頃、九州の百名城の全てを訪れた時と同じメンバーなのだ。

 先ず、臼杵城へ。昭和の時代、私の会社は九州に顧客が多かった。九州人は、近くの大阪商人より遠隔の東京商人に親しみを感じているのではないか? と、思うのは、東京商人の身勝手な見方だろうか?目の前のKをはじめ同期に沢山の九州人がいる。聞いてみよう。
とにかく、九州各県に顧客がいた。1年に数回、集金の名目で各県を回る。なかで、鹿児島から宮崎、宮崎から大分の鉄道旅はいつも長々しい。この「日豊本線」は車窓に変化がなく、鈍行ですら停車駅が少ないからだろう。だから、変化を求めて、途中の停車駅の城は、ほとんど行った。この臼杵城もそのうちの一つだ。が、残念ながら記憶にない。

 さて、今回。観光交流プラザでスタンプ捺印をして、プラザで他の三人が長い坂道を本丸まで往復して来るのを待つ。資料によれば、この城は、海に突き出た地形を利用した海字路だったという。今は埋め立てられ、資料の写真でしか面影を得られない。つまり、歩いても同じなのだと、自分を慰める。

 臼杵と云えば、石仏だ。ここまできて寄らない手はない。四人で行って、一人は最初の石仏で引き返し、他の三人は上まで登って、お参りをしてきた。「謂れ」を読んだが勿論よく解らない。解ったことは、この石仏が国宝になったのは意外に最近で、1995年(平成7年)なのだ。(それまでは、1952年に特別史跡になり、1962年に重文になっている)
 臼杵城が整備されたのも、私が訪れた昭和の時代でなく、平成時代ではないだろうか?
 資料にある立派な説明版の全てに、それを立てた年月日がないので解らないけれど・・。
***
スタンプ捺印 臼杵城 臼杵大仏




     ■194 佐伯城  
       
       登城日
       令和元年(2019年) 5月 8日
        スタンプ設置場所「佐伯市歴史資料館受付」

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 臼杵を後にして佐伯に着いたのは16時半。取りあえず、「佐伯市歴史資料館受付」でスタンプゲット(写真・右)。わざわざ資料館の「受付」と書いてあるのは、資料館の入場料を払わなくてもスタンプは捺せますよ」というサインなのだ。
 で,機嫌よく捺印してから、その後の記憶に「城」の記憶がない。三人が登って行って、私が待った、というその待っている間の記憶がない。これは、いよいよ自分も齢相応の認知症になったかといささか落ち込んだ。しかし、そうではないらしい。山の上の城へは、私は勿論、我が同行者も登らなかったのだ。もう時刻も時刻。早くホテルに入って、街へ繰り出そう、という事になった、と、思い出した。
 本来この旅は、「グルメの旅」でもあった。Kのプランでは、初日の昼は城下カレイ、夜はフグである。残念ながら、昼は時間がなく、夜の宴で二食分、楽しもうという事になったのだ。Kの車はホテルに置き、タクシーに乗り込んで、市内の料理屋に入る。そこが大当たりだった。九州東海岸は、のっぺりとした海岸線だ。長崎のような複雑な海岸でもまれた魚の味を私は期待していなかったのだが、それは大間違い。 
 酒の肴にウルサイ同行者も大満足でホテルに戻った。どんな魚を食べたか?私は、それを忘れた。が、帰宅後10日、読売新聞日曜版「仰天ゴハン」に『佐伯の寿司』としてその豊富さ、新鮮さ、美味しさが二面に亘って紹介されていた
***
 さて、佐伯。佐伯は地元では「サイキ」と読まねばならない。国や県やパソコンが、 「サエキ」と読んでも、「サイキ」は譲らない。
 佐伯市は不思議な市で、パソコンでも「歴史」が掲載されていない。どうやら、平成の大合併で面積が九州最大の903キロ平方メートルになったから、纏めきれないらしい。人口は約7万人。これは、私が住む埼玉県吉川市と同じなのだ。が、吉川市の面積は31キロ平方メートル。佐伯市の面積の十分の一どころか三十分の一に過ぎない。だから?どうという事はないが・・。

 肝心の佐伯城。「慶長6年(1601)日田から佐伯へ入部した佐伯藩初代藩主毛利高政が新たに4年の歳月をかけて築いた」と資料館で頂いたパンフレットにある。初代藩主のそれまでの経歴に興味があるが、それはパソコンの丸写しになるから止めよう。私は、ここの「魚」のうまさを発見したから満足だ。
 と、思ったが、念のため、検索してみると「サンドリヨンのブログ」なるブログに実に詳しくこのニッチな毛利高政を書いていられる「歴女」がいられる。是非、ご一読を。





     ■195 延岡城  
       
       登城日
       令和元年(2019年) 5月 9日
        スタンプ設置場所「城山公園二ノ丸広場管理事務所」

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***  
 9時前に城の駐車場に着き、事務所が開くのを待ってスタンプ。但し、雨。私は車に残り登城はKとF夫妻に任せる。
***
 頂いたパンフレットの表紙には「市史跡」の肩書きと並んで「続100名城」と謳ってあって、心強い。

 この城の8代藩主、内藤政樹は1747年(延享4年)常陸国磐城平藩から左遷されてきたようだ。平市ではない、いわき市平は私には故郷だ。福島県からこの地への移封に、藩主はともかく家臣及びその家族はどのような苦労したか。温暖な延岡の気候を満喫するまでに、何年かかっただろう。
この藩に限らず、転封は鎌倉時代から日本中で起きたことだ。その苦労を綴った記録なり、小説があるのだろうか?
読者の方々、もし知っていれば、ご教示いただきたい。

 ところで、延岡は戦後、「旭化成」の城下町として栄えた、そして衰えた。ウイキペディアによれば、「1951年頃は人口の約半数・市税納入額の3分の2・市議会議員の3分の1が旭化成関係であり、文字通り「企業城下町」として栄えた。しかし、旭化成の経営戦略により延岡の比重は次第に小さくなったことや、大消費地から遠いこと、更には化学工業が石油中心となったことから以前ほどの経済力はなくなり、人口も1982年を境に減少している。」という事になる。

城の歴史も栄枯盛衰、うたた、感慨に堪えない。




     ■196 佐土原城  
       
       登城日
       令和元年(2019年) 5月 9日
        スタンプ設置場所「宮崎市『城の駅』いろは館(平日)」

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***  
 この城も「国指定史跡」である。但し、指定されたのが平成16年9月30日。私の云う「平成生まれの名城」なので、昭和の時代に城探訪を始めた私には馴染みの薄い城である。
 しかし、この城は二つの点で、「百名城」、「続百名城」の中で特異な存在となっている。
  一つ。訪問時に、肝心の「城」が「立ち入り禁止」となっていること。(写真・1))
  (「塗りつぶし会」訪問者の情報では、7月10日も未だ立ち入り禁止と。)
  二つ。スタンプ置場は道の駅ならぬ「城の駅」となっていること。(写真・2)
  (「城の駅」で検索すると、小倉城にもあるが、詳細不明。「続百名城」訪城時、探索する。)

 正式に(?)訪城出来ないとなると気が楽だ。
***

写真・1

写真・2
 城の駅いろは館(写真・3)で頂いたパンフレットで、佐土原を紙上散歩すると、流石、歴史の長い九州のこと、なかなか興味のある史跡が数々ある。列挙すると、
@  「佐野原聖地」。ウガヤフキアエズノミコトの宮殿跡で、神武天皇他4柱の皇子がお生まれになった所。吾平山陵もある。
A  「巨田八幡宮神社」。1093年創建。宇佐八幡宮の領地。
B  「曽我殿の墓」。ご存知、曽我兄弟の墓の由。伊東氏は頼朝からこの地の地頭に任命される。島津氏にしろ、伊東氏にしろ、故郷の関東から遠い九州の果てへ単身乗りこみ、よくもまあ、根を張れたものだ。と、九州や毛利家ゆかりの地へ来るたびに思う。
C  鶴松館。(写真・4)二ノ丸跡に復元されたお屋敷。「城の駅」のすぐ前だから寄ればよいのに。
D  島津啓次郎。幕末、12歳でアメリカへ留学。帰国後、西南戦争では西郷軍を志願。
西郷の拒絶にも拘らず、西郷軍にて戦史。
  
二度と行けないだろうが、いろいろ魅力的な土地だった。


写真・3

写真・4




     ■197 志布志城  
       
       登城日
       令和元年(2019年) 5月 9日
        スタンプ設置場所「志布志市埋蔵文化センター」


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***  15時半に「埋蔵文化センター」着。館内で城の模型を堪能。薩摩は他国から攻め込まれることはない。よって、城は不要だ。と、思っていたが、どうしてどうして、この志布志城の模型は実に見事な山城。また、この館内の模型の周りに立ち並び、十数ページのパンフレットに詳細に説明されているこの地の数々の山城もまたどこに出しても通用する典型的な山城のようだ。
 
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 立派な山城。立派であればあるほど身障者の私には登れない。
だから、考える。山城を何故造るのか?造る費用はどの位で誰が誰に支払うのか?昔から疑問に思い、未だに答えを得ていない。

 城に対する疑問と、城下に対する疑問も持つことにしている。ここ志布志市とはどんな歴史があるのか?幸い、この地は、名こそ記憶にあるが、どこにあって、どのような歴史を持つかを全く知らない。
これまた、この館で頂いた資料を見よう。成程、市は伝統ある港湾事業都市なのか。地図を見れば、志布志は京大阪より上海の方が近いくらいの位置だ。
薩摩藩得意の貿易に重要な役割を持っていた都市と納得した。

 スタンプ押印。「続百名城」はすっかり主役の座を占めている。
 満足して、城の登り口へ車を進める。例によって、私は入口駐車場で待ち、同行三人が山へ向かった。往復してきた三人が口々に、「素晴らしい山城だ」と褒めたのが珍しく印象的だった。






     ■198 知覧城  
       
       登城日
       令和元年(2019年) 5月 10日
        スタンプ設置場所「ミュージアム知覧」


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 昨夜は志布志に泊まり、ここでも魚料理を満喫した。九州の魚は長崎に限ると思っていたが、KやFと云うグルメガイドのおかげで、認識を改めた今回の九州東海岸ツアーだった。
 ホテル(右写真 6時ホテルの窓より写す)を早朝7時に発って根占港に急ぐ。ここから出るフェリーに間に合うためだ。

 急いでもKの運転は安心て乗っていられる。最近、高齢者運転の事故が多く同期の友人たちが続々免許を返上している。しかし、Kは運転と喫煙を止めようとしない。相変わらず東京から九州の実家まで一人で運転して帰り、我々を同乗させて案内を買って出てくれている。久し振りの彼の運転に乗って、「齢を取って運転が上手くなったな。赤信号で停まるようになった」と褒めたが、あまり受けなかった。しかし、車間距離は確実に確保されている。彼が最近購入した新車は自動的に車間距離を確保するように設定されているからだ。
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 根占港でフェリーを待つ間に地震を体感したが、幸い、津波はなく、開聞岳を見ながら山川港着。(写真下3点)
 Kのサービスで、「たまて箱温泉」に入浴。身障者の私はここもパスして男湯の盗撮に専念。(写真下の2点)
 
 
 そして、南九州市知覧町に入る。知覧。我々の年代はこの地名に粛然とせざるを得ない。車道に延々と奉納されている灯篭。この一つ一つに、特攻で失われた若者たち一人一人の命を偲ぶ遺族たちの想いが込められているのだ。(左写真)
 
 阿川弘之「雲の墓標」あるいはフランス映画「禁じられた遊び」。私はこの題名だけでも戦争の悲劇を想って、胸が熱くなり、涙さえ滲んでくるのだ。
 
 恐らく我々は実際の戦争を知る最後の世代だろう。
 次の世代、そのまた次の世代にもこの「反戦」「非戦」の志を持ち続けて欲しい!
しかし、それは、無理だろうな。だって、我々、戦争を知る最後の世代でさえ、「城」という「戦争」そのものの世界に遊んでいるのだから!
 「知覧ミュージアム」でスタンプを捺す。
押しがてら「頴娃城」と云う変わった地名に熊襲語の不思議を思う。
知覧城へ車で移動。ささやかな案内板を頼りに来るまでゴトゴトと山の中へ。一枚岩のように思えた薩摩。城は全て外部の侵入を防ぐ為に築かれたと思っていたが、違うらしい。例によって、城跡の実見は三人に任せたが。(写真下の4点)

 そして、町に戻り、型通り武家屋敷を見て、お蕎麦を食べて、Kに空港まで送って貰い帰京した。



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