神社探訪記
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  遠藤晶土の世界「神社探訪記」です。

目次(各目次項目をクリックして下さい)


越谷香取神社と神楽殿 
■八釼八幡神社
■息栖神社

鹿見塚神社・篠崎浅間神社
■鹿島神宮―アー神社はワカラナイ!
■越中・能登の神社巡り

■湯島天神参詣記
■神田明神(神田神社)

■石見国一之宮 物部神社参詣記
■出雲国一之宮 熊野大社参詣記
■秋葉神社上社・下社参詣記
■香取神宮参拝の記
■信州上田考(山家神社)
■春日神社・談山神社・売太神社・他

■布袋ヶ岡城と織姫神社
■法師温泉と赤城神社

★神社に関する考察


欧州百名城⇒こちらから
越谷香取神社と神楽殿
2021年8月15日

神社と土俵と神楽殿

 これまで沢山の神社に参詣した。その中に幾つかの神社が「土俵」を持つことを知った。思い出すままに列挙すると、兵庫県朝来市竹田城下の「表米神社」、岡山県津山城下の一宮中山神社、能登の久麻加夫都阿良加志比古神社、隠岐の島の神社、など。
相撲が神事であるから不思議はないのだろうが、さて、神社の起源を半島系の先祖に求めると、相撲も又半島の民が我が国にもたらしたのだろうか?

 ここでは、その論議は他に譲って、神楽殿について述べてみたい。
述べてみたいが、今まで、神楽殿がある神社があることは知っていたが、全く、注意を持って意識したことがないから「述べる」ことは何もない。いや、何もなかった。2021年8月15日、香取神社の神楽殿で「音楽催事・オトダマの杜」を観るまでは。
 
 この「音楽催事」は神社の神楽殿を文字通り舞台にして音楽愛好者が次々に得意な声・楽器を奉納する「催事」だ。
写真を見て欲しい。明るい照明。立派な松羽目の背景。堂々たる「舞台」だ。
 
 成程、現代の神楽殿にはこのような使い方があったのかと感心し、他の神社ではどのようにこの「殿(舞台)」を活用しているか知りたくなった。

 神楽殿を切り口にして神社探訪をしてみたらこれはかなり新鮮な、ユニークな切り口になるのではないかな。「ご朱印」集めの人はあまりにも多く、鳥居や狛犬を集める人も珍しくはないが、「神楽殿」のコレクションは如何だろう?
 例えば、埼玉県の神社庁で県内の神社で神楽殿を持つ神社のリストを入手する。A教えられた神社の神楽殿を訪問し写真を撮るB且つ、社務所で年間の神楽殿の使用行事を訊く。

 やってみましょうか。Machi先生如何でしょうか?
「Machi先生」と云うのはこの写真で中央に立つ歌手です。そして歌っている歌は私が作詞をした「産土(ウブスナ)」です。
興味を持たれた方は、私のホームページの中の「作詞家えんどうまさくに」のコーナー(こちら)をご参照ください。


八釼八幡神社
2021年6月13日
 
 別掲の息栖神社へ行く途中に、木更津市に寄った。幾たびと無く通り過ぎて、かえりみる事のないこの有名な市を、改めて、歴史の町として訪れてみると、流石、「お富・与三郎」の舞台、頼朝の時代、家康の時代、各々に名高い史実があって楽しげな街だ。
 
 八釼八幡神社は探すまでもなく堂々たる社殿を構えている。
 お由緒書きも、隣接に新築された神社の結婚式場に似合わない、昔ながらの社務所でお巫女さんが慎ましく授けて頂いた。

 その御由緒書きに「ヤマトタケルノミコトが、オトタチバナヒメの死を悼んで、しばらく当社に御滞留され、後に御祭神として祀られている」と、ある。 
 
 つまり、今、私が問題視している、ヤマトケルノミコトの東征と鹿島・香取神宮の関係にウッスラと関連がある。
 つまり、ミコトの東征時、ここに神社があった。ならば、当然、両神宮もあった筈だ。ならば、何故、ミコトの東征時の話に両神宮は出てこないのだ?
 今の私には、「クエスチョン・マーク」以上のことを書く知識がないが・・。

 お由緒書きからもう一つ。この神社の「祖神社」は「屋舟久久能知神・屋舟豊受姫神・手置帆負神・彦狭知神」とある。
 これらの全く見慣れない神々のご由緒など、調べようもないと、諦めきっていたところへ神のお導き。偶然、入手した「「日本の神様−起源と物語」宝島社の偶然開いた86ページに『新居建設の神 地鎮祭・上棟祭・竣工祭の神』として、説明が書かれていた。
 この書の発行日は2021年7月17日なのに、この書を購入し目を通したのは同年の6月であることを考えると、神の御意志が何かあるのだろうか?


 木更津市は、結局、老舗で気分の良いあさり料理屋「宝屋」でお昼しただけで、ゆっくり見られなかったが、来た甲斐は充分あった。

息栖神社
2021年6月13日
 何れにしても、折角、鹿島・香取両神宮に参詣したなら、この神社に参拝しないのは「点睛を欠く」ので、改めて訪れてみた。

 頂いたこの神社の「御由緒」に「(この神社の御祭神である)「久那斗大神」は古く国史にも見え、鹿島・香取の神々と共に東国三社の一つと称される。」とあり、更に、「創祀沿革」には詳細な沿革史が記載されている。
が、例によって、読んでも私にはワカラナイ。
 「如何に分り難いか」を説明するには、労をいとわず、書き写すのが一番、労少なくて済むらしい。たとえ、誰も読まなくてもだ。
 『息栖神社の創祀は応神天皇の御代と伝えられるものの祭神の御神格からして神代時代に鹿島・香取両神社の御祭神に従って東国に至り、鹿島・香取の両神宮は其々台地に御鎮座するものの久那斗及び天鳥舟神は海辺の港に姿を留めてやがて応神朝に神社として祀られたと思われます。・・・・・』
 という、ワカレバ、興味深そうな記述が、延々、平安・鎌倉を経て明治の時代まで続くのだ。
 読み解ければ、日本の歴史への理解が格段に深まるだろうが・・。

 人生、あと、20年。期して待とう。



息栖神社の茅の輪くぐり

帰路立ち寄った道の駅「いたこ」の潮来花嫁さん



鹿見塚神社・篠崎浅間神社
2021年5月16日

鹿(しし)見塚神社

 戸城邸を訪れた日、足を延ばして「鹿見塚神社」へ参拝した。いや、むしろ、今日の主役はこの神社だったのだ。ご由緒は昭和52年に江戸川区教育委員会が建てた「案内板」にある。写真から読めるだろうか?読めたとしても、教育委員会の文章としては時代認識が違うような気がするので下記するので諸兄のご意見を待ちたい。曰く
 「この鹿見塚のあるあたりは、昔から鹿骨発祥の地といわれています。伝説によると、戦国時代のころ、攻防のはげしい世の中を離れ、安住の地を求めて、石井長勝・牧野一族・田島一族・中代一族および別系の石井一族が開拓しました。ある日のこと、日頃尊崇している鹿島大神が常陸から奈良へ向かう途中、大神の杖となっていた神鹿が急病でたおれたので、塚を築きねんごろに葬った所だと伝えられています」
 つまり、この文では、鹿が倒れたのは戦国時代と読めてしまうのだが・・。

 我々がこの神社を訪れたのは、鹿島神宮の「鹿苑」の案内板で読んだ文章に惹かれたからだ。これも私の「鹿島神宮参拝記」に載せてあるが、読めないといけないので下記する。
「768年、藤原氏が氏神である鹿島の大神の御分霊を奈良にお迎えして春日大社を創建するにあたり、御分霊を神鹿の背にのせ奈良へと進みました。その足跡は、東京都江戸川区の鹿骨鹿島神社を始めとして、東海道を三重県の名張まで言い伝えが残されており、この伝承から奈良の神鹿の起源は鹿島に求めることができます」
東海道を三重県まで「言い伝え」を辿った旅が出来たら楽しいだろうなあ。
▲鹿見塚神社と鹿見塚
▲鹿骨(ししほね)鹿島神社

篠崎浅間神社


 私はあまりテレビを見ない。と、いうより、食事をしながら見るテレビのチャンネル権を妻に握られているからだ。仕方ないから見たい番組は私の部屋のテレビのヴィデオに落として纏めてみることにしている。しかし、意外に見る時間が少なく、ヴィデオは溜まる一方だ。その中で、先日、京都「八坂神社」の特集番組を観た。あの華麗な本殿の地下には清らかな泉水が湧き出でていて、往古、京都の人々は疫病が流行するとその水に頼った。と云う話であった。
 成程、神社の発祥にはそういう起源があったのかと、大いに、肯いた。
そのテレビ番組を観てから数日後にこの浅間神社を訪れたから、鳥居をくぐって右側に湧水を見て、この水こそこの神社がここに鎮座する理由かと一人で納得した次第だが。
 厚紙の片面刷りの「御由来」を頂く。日本最大の幟10本や宝剣・歌集など、この湧水の他にもこの大きな神社には見るべきもの、知るべきことが沢山あるらしい。
 あー、神社恐るべし。 
篠崎浅間神社の茅の輪(2021年6月)
篠崎浅間神社の「のぼり祭り -」(江戸川区指定無形民俗文化財)2014年7月1日



鹿島神宮―アー神社はワカラナイ!
2021年4月29日

 2021年4月29日。日本中コロナで原則としては逼塞している筈の日だが、日帰り位は良いだろうと出かけてみる。昭和の御代はこの日は天皇誕生日。雨が降らない「特異日」としてよく知られた日であったが、時代も「令和」になると、昭和天皇の神通力も薄れるのか、雨模様の日であった。でも、我々「バッ旅隊」は実績ある「晴れ男・晴れ女」の集まり。ワイパーは使っても傘を使うことなく、無事帰宅した。

 先日は、香取神宮を、私が住む吉川市の蕎麦高神社の親分と云う縁で尋ねた。今日は香取神宮の盟友、鹿島神宮を訪ねる。

 誰でも知っていて、大概の人が一度は訪れている鹿島神宮。祭神も多くの人が「タケミカヅチノオオカミ」と知っている。タケミカヅチが香取神宮の御祭神「フツヌシノオオカミ」と手を携え出雲に国譲りを交渉して成功した事、その後、この関東の地で東国経営に励んだことも何処にでも書いてあることだ。

 只、多分、どこにも書いてないことがあり、私はそれを知りたい。知る人がいれば教えてもらいたい。まず、第一。
 古代の有名人、古事記のスター、ヤマトタケルノミコトが東征の果てにこの鹿島神宮に参拝をしたのか?

 古事記に年代の記載はないが、タケミカズチはヤマトタケルよりはるかに早く古事記に登場している。また、ヤマトタケルは熱田神宮の叔母から餞別を得て旅立った。鹿島神宮の存在を知らない筈が無いと思うが、如何であろうか?

 タケミカズチの調停で建造された出雲大社。劇的な大柱の発見でその実在が証明された出雲大社が建立されたのはいつか?
 苦労の結果、YAHOO知恵袋にドナタカが簡潔に回答している記事を発見した。曰く、「出雲大社は崇神天皇六十年即ち紀元前37年に建てられた」と。
 一方、ヤマトタケルを、ウイキペディアで調べると次の記事を得た。曰く、「日本書紀でヤマトタケルが活躍した年代を機械的に西暦に換算すると西征は97年から98年、東征は110年から113年になる。また景行天皇の九州巡幸は82年から89年、東国巡幸は123年から124年であり、どちらも帥升が後漢に朝貢した107年の前後になる。そのため書紀の編者は帥升を景行天皇またはヤマトタケルと考えていたと推測される」と。
 この二つの具体的数字の正否は私にはワカラナイが二人の神の前後はこれで良いと思う。
 つまり、ヤマトタケルの東征の時代にはタケミカズチ達が平定した鹿島には「神宮」と呼ばれる立派な神社が建っていた筈だ。

 何故、古事記に、この神社の記事がないのか?
 更に、ヤマトタケルの「東征」とは何だったのか?
 各地の豪族たちを打ち滅ぼした。それから、彼は何をしたのか?
 部下を駐在させ永続的に国司として大和朝廷に年貢を納めるシステムを確立したのか?

 取りあえず、この問題は、ここで打ち切り、本題の鹿島神宮への疑問に戻ろう。
 第二の疑問は、この神宮と「春日大社」との関係である。
 春日大社の社伝では、鹿島のタケミカヅチが鹿に乗ってきてこの神社になったという。
 奈良の都から鹿島へ行くのならわかるが、なんで、僻地の鹿島から来なければならないのか?
 しかし、これまた、一朝一夕に分りそうもないので、ここでこの疑問も打ち切ろう。

 で、鹿島神宮に着いたのは10時。駐車場に御神木の椎の木がある。御神木の立派さもさることながら、「椎茸」は「椎の木」を原木として出来るということを、この齢にして初めて知った。メデタイことだ。
**

大鳥居。平成23年の震災で倒れたのち、平成26年に境内の杉で再建。
案内板。
神武東征後、即位はBC660年。
その年、大神を勅祭。
大神の関東平定を
助けた兵士たちの人形。
「神鹿について。
春日大社創建の為大神の分霊を
鹿の背にのせて奈良へ進んだ。
その足跡は東京都、三重県などに
言い伝えが残されている」
要石脇の一茶の句
「大地震に びくともせぬや 松の花」
世紀の駄作。
御手洗。
「神社の起源は水にある」という
仮説を私は最近知った。
流鏑馬の馬が走る道を歩いて、
奥宮迄往復した。
お由緒書きも受領。
御神籤も購入。
重文の「楼門」
往路に「潮来 道の駅」に寄り、
「和舟」の模型を写真に取る。
帰路に「漁師小屋」にて、はまぐりを堪能。

越中・能登の神社巡り
2021年3月13-14日
 金達寿氏は講談社学術文庫から1985年に「日本古代史と朝鮮」、1986年には「古代朝鮮と日本文化」と似たような題名の本を続けて出している。内容は何れも、「日本国が、百済・新羅・高句麗からの渡来人によって建国された」ことを現代日本人の作家・学者達の筆を引用して立証しようとしている。
 その日本人作家の中には私の私淑する坂口安吾氏が重要視されているから、私も坂口説金達寿説に染まってしまう。
 今回、バッ旅で富山県に寒ブリを食べに行く企画が採用されたので金氏の文庫の後者に記載されている越中・能登の神社にも寄ってもらうことにした。

 3月13日
 例によって朝5時にYさん夫妻に迎えに来てもらい、関越・上信越・北陸各高速道を利用して、入善で昼。14時万葉博物館で勉強して(別途投稿文「防人の歌」ご参照)、16時神社着。
越中一の宮「高瀬神社」
 「この御神は往昔高麗よりお渡りあった」と井波町史に記載有ると、金氏の本に記載有るが、神社に頂いたご由緒書きには記載無い。「高麗」が転じて「高瀬」になったと金氏は言うが・・。神社に近接する「高瀬遺跡」にも寄ったが「この地で朝鮮土器といわれた須恵器や銅銭などが出土」と金氏は書くが、それらが直ちにこの地の人たちが朝鮮移民と断定出来る証拠にはならないと思うが・・。
 むしろ、神社の「ご由緒書き」にある「天武天皇の御代に蝗害により勅使を遣わされた」の「蝗害」の背景に興味を持って、検索してみたが、見つからなかった。
 流石、「一の宮」だけあって、広々とした神社だった。
御神籤を釣り上げる仕組み
 夜は、高岡駅前のビジネスホテルに宿を取り、居酒屋で夜食。投稿文「コロナ下の高岡の夜」ご参照)
 3月14日
 ●「白比古神社」
 ここもまた金氏の本には「白とは新羅のこと」とある。私は、金氏の云う「日本人の元は朝鮮からの渡来人」説に賛成であり、さらに、彼が度々引用する坂口安吾氏の名文「日本諸国の豪族は概ね朝鮮経由の人たちである。
 三韓系のアツレキは藤原京の頃から地下にもぐり、日本地下史のモヤモヤは藤原京から奈良京へ平安京へと移り、やがて再び歴史の表面へ現れたとき、毛虫が蝶になったようにまるで違ったものになっていた。
 それが源氏であり、平家であり、奥州の藤原氏である。彼らが蝶になったとは日本人になったのだ」を、金氏に紹介される前から読んでいて、私の金科玉条としているのだが、この証明を、地名・神社名だけに頼るのは誤解を受けやすく危険だと危惧する。
 「白比古神社」路傍にさりげなくある古社。我々が訪れた時、氏子さんたちが祭りの準備とかで、三々五々集まっていた。余所者の我々を厭うことなく、拝殿の内部まで上がって見せてくれた元気なお年寄りたち。次を継ぐ若手は?心配することはない。これまで幾多の危機を乗り越えて、千年以上、この神社は存続してきているのだ。
 ●久麻加夫都阿良加志比古神社
 名前だけでも充分由緒ありげな興味深い神社ではないか!
 取りあえず、金氏の紹介文は
 「久麻はコマ。高句麗に通じる。本殿に鎮まる神像は中世のものだが朝鮮の道服姿をした座像はいかにもコマの神である。またこの神社の「大幡祭り」は鉦・太鼓の打ち鳴らし方や踊りが朝鮮の祭のそれと実によく似てる」
 次に、B41枚の墨一色、質素な「御由緒書き」には・・・、書ききれない内容深いパンフレットで、今回は割愛しよう。
 資料だけではない。ご由緒書きを頂きに参上した社務所では、老婦人が出てこられ、拝殿のカギを開けていろいろご案内・ご説明を頂いた。
 屋根が瓦の拝殿。スレート屋根の本殿。御神木。かってあった相撲の土俵と桟敷跡、など、わざわざ訪ねた甲斐のある参拝が出来て、大いに満足した。

 ただ、「相撲」だけは、一筆付け加えたい。
 神社では度々土俵を見る。兵庫県の竹田城下の表米神社、隠岐の島の神社など。これら、神社が朝鮮からの人によって造られたなら、土俵・相撲も朝鮮からの輸入であってよい。そうなのだろうか?


湯島天神参詣記
2021年2月21日
 2月21日の日曜日、久し振りのバッ旅で訪れた。
 50年近く東京に職場を持ち、そのうち10年近くは営業で都内を走っていたにもかかわらず、神社に興味を持つこと30年以上になっているにも拘らず、地方の神社も数え切れず参詣しているにも拘らず、この都内有数の有名神社を訪れるのは二回目だ。
 一回目は仕事の帰り、オヤ、こんなところに神社があると、境内を通り抜けただけだった。しかし、「湯島通れば思い出す」で始まる「おんな系図」の主題歌「湯島の白梅」は、お蔦・主水の悲恋のストーリーと共に誰もが知っている歌だった・・。そう、誰でも知っている歌だったはずだが、今では、誰もが知らない歌であり芝居になってしまった。
 境内には誰それが揮毫した「新派」の碑が建っているのだが、これも大半の人は見もしないだろう。しかし、それでも、この神社は参拝客で賑わっている。何といっても天神様だ。受験生が引きも切らない。時恰も梅が咲き始めている。2月には珍しいポカポカ陽気でコロナの警告に遠慮しながらの年配客も多い。
 湯島天神。その創建の歴史などに想いがゆく前に、眼前の神社の賑わいに気を取られてしまう。

神田明神(神田神社)
2021年2月21日
 境内に入っていきなり、「カッポレ」と「沖縄エイサー」の踊りに迎えられた。二組とも年季の入ったシロウト衆だった。売店も充実している。「絵馬」「御神籤」70種類以上あるという「お守り」等、売店はスーパーマーケット並に盛り沢山だ。
 先ず、この日この神社に参詣に来た目的は、最近、読売新聞に紹介された「資料館」を見学するためだ。ところが、それが見つからない。教えてもらって、この仲見世通りもかくやの売店通りの奥の建物とわかったが、チケット300円を払ってからの建物内部の道がまた複雑怪奇だ。エレベーターで降りて、真っ直ぐ行って、右へ曲がって、坂道を登って、階段をくだり、又、右へ左へと歩いて、階段を登って、もう一つ階段を登ってようやく着く。。
 同行のYさん曰く、「吉備津神社の階段を想い出しますね」と涼しい顔だが、東京の真ん中で遭難しかかるとは思わなかった。
 Y夫人が「『明神』とは何ですか?」と、至極、尤もな質問をする。私は勿論答えられない。パソコンを見れば簡単にわかるだろうと、簡単に考えていたが、それがまた、神社の常として、パソコンを漁ってみても相変わらず模糊としている。
 この神社も名前も場所も極々身近なのに、一度通り抜けたくらいで、神社として参詣した記憶は全くない。今回、あらためて参拝に来たが、人出や売店の多さのせいか、どうも、神社に来たという感じがしない。
 歴史も、勿論古い。平将門など祭神の御由緒も申し分ない。しかし、「御社殿は昭和9年神社建築としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート・総漆朱塗で造営され平成15年に国の登録文化財に登録された」と「御由緒書き」にあるように、最近のニュースにも事欠かない。
都会の神社には都会の神社らしい観方があるのだ。こうして、神社は千年の寿命を保ち続けていられるのかと、神社に対する認識を新たにした参詣でした。

石見国一之宮 物部神社参詣記
2020年11月21日
 出雲国一之宮熊野神社から石見国一之宮物部神社に向かう。11時半発-13時半着。

 物部神社の場合、一宮だから寄るわけではない。「物部」大好き人間である私は神社が「一宮」であろうがなかろうが、是非、訪れたい神社だったのである。
 物部氏は日本中にいる。栃木にゴルフに行った時、道中に「物部石材店」の看板を見つけて、無断でカメラに収めたことがある。最近出版された関裕二氏の「物部氏の正体」(新潮文庫)で、関氏は物部氏を「吉備と確信した」と書いている。遠藤氏は、つまり、私は、秋田の「唐松神社」を見て以来、物部氏は半島から日本海の北から南の各地に上陸、定着したとの説を固く信じている。秋田の物部氏は高橋克彦氏の蝦夷の作品の中で、重要な役を果たしている。高橋氏は秋田の物部を産金業者としている。「陸奥の金」。平泉藤原氏の富を支え、「金売り吉次」によって都に運ばれ、時の政権は「金の卵を産む鶏」を殺す誘惑に勝てなかった。そして、頼朝の手に依ってようやく鶏は殺されたのだが。
 だから、石見の国に物部神社があるのは納得できる。石見、即ち、銀山。この銀山と、屈指の鉱山師物部氏との関連を、夢想するのは楽しい。識者は、この世界遺産石見銀山が銀の産出を始めたのは16世紀であると、明確にこの神社との関連を否定しているのだが。

 物部氏は仏教導入を巡る曽我氏との争いに敗れて以降、歴史の表舞台から消えたと思っていたが、どうも違うらしい。私が長く住んだ所沢市の北野天神社は、物部天神社であり、祭神は我らがアイドル、ニギハヤヒノミコトである。今後も、思わぬところで、物部氏と会う事があるだろう。楽しみだ。
                              以上




出雲国一之宮 熊野大社参詣記
2020年11月21日
 昨夜20時に埼玉の我が家を出て、ひた走って、熊野大社に着いたのは11時であった。
 この神社に興味があるのは次の二点だ。
@ 何故、「出雲大社」を差し置いて、熊野大社が「出雲国一之宮」なのか?
A 和歌山県の熊野神社とこの熊野大社はどのような関係があるのか?

 社務所で無料の「由緒略記」を頂いたのに加え、有料の「熊野大社」と「熊野の大神さま」。(アレッ?両方とも値段が書いてない)を購入し帰宅後、勉強する。
更に、座右の大林太良「私の一宮巡詣記」、渋谷申博「諸国神社 一宮・二宮・三宮」、岡田米夫「神社」を紐解くが、神社の常として、読めば読むほどに解らなくなる。

 「クマ」とは「清浄な場所をさす言葉だから何処にでもある」と和歌山の熊野諸社とは関係がない由。それは、それでよい。一先ず、終わりとしよう。
 
 それはそれとして、「出雲大社」は天孫族の最大かつ最後のライバルの砦ではなかったか?あの巨大な社を献上して、この普通の大きさの社を「一之宮」として当時の人々は不思議と思わなかったのだろうか?
 私が、事情を推測してみる。熊野大社は「天津神」。出雲大社は「国津神」。国津神を「一宮」とする訳にはゆかないだろう。

 でも、疑問は残る。出雲大社は何のためにあの馬鹿でかい建造物が欲しかったのか?スカイツリーのような建物が建ったのはいつか?現在の本殿は1744年の建造という。それまで、本殿はなかったのか?ヤマト政権が寄贈した「本殿」はいつまで続いたのか?

 2000年。巨大な柱が発掘された。その後の研究の進展を、私は知らない。知るのが楽しみだ。

                          以上


秋葉神社上社・下社参詣記

2020年8月30日

 コロナに敬意を表して、一泊旅行は自粛して日帰り旅行を試みる。今回はY夫人が不参加で、流山の友人Sが同行。Yさんが選んだ目的地は秋葉神社。この神社の名は私には「火祭り」とセットになっていて、かねてから参拝を望んでいた神社だ。
 東京の秋葉原。かって、電気街で有名なこの街の「秋葉」原の由来は、ここに秋葉神社があったからだ。台東区松が谷3−10−7に移転したこの神社に私は態々行ったのだ。だから、秋葉原は「アキバハラ」でなくて「アキハバラ」なのだと講釈も出来た。ところがだ、パソコンを調べると、下記の如く、この神社は秋葉神社に無関係だとある。
だから神社は解らないのだ。

 当初の名は鎮火社といった。1869年(明治2年)暮れの大火を受け、明治天皇の勅命により翌1870年(明治3年)に現在のJR秋葉原駅構内(東京都千代田区神田花岡町)の地に、火の神火産霊大神、水の神水波能売神、土の神埴山毘売神の三柱を祀神として勧請したのが始まりである。
 江戸時代の江戸の街は度々大火災が発生した事から、神仏混淆の秋葉大権現(秋葉山)が火防(ひぶせ)の神として広く信仰を集めていたが、本来この社は秋葉大権現と直接の関係はない(東京府が秋葉大権現を勧請したとする史料もあるが、当時の社会情勢からみても明らかに誤伝である。)。しかし、秋葉大権現が勧請されたものと誤解した人々は、この社を「秋葉様」「秋葉さん」と呼び、社域である周辺の火除地(空地)を「秋葉の原(あきばのはら)」「秋葉っ原(あきばっぱら)」と呼んだ。「あきば」は下町訛りで、本来の秋葉大権現では「あきは」と読む。
 鎮火社はいつしか秋葉社となり、1888年(明治21年)日本鉄道が建設していた鉄道線(現在の東北本線)が現在の上野駅から秋葉原駅まで延長され、秋葉の原の土地が払い下げられたのに伴って現在地に移転した[1]。その後1930年(昭和5年)に秋葉神社と改名された。


 早朝、出て、昼前に楽々秋葉神社上社に着く。Yさんが昨日電話で依頼してくれていたので、身障者の私は、本殿直下までの車道を使わせてもらった。それでも、車を停めたところから本殿までは手すりに頼っての階段だが、折角の参拝の機会だ、一生懸命登る。

 さて、「秋葉の火祭り」だ。これもパソコンを暫くアチコチして、ようやく二つの「火祭り」があることが解った。私のイメージの「火祭り」は夜空に焚火がボウボウと燃え上がるお祭りだ。
 ところが、このイメージに近い「火祭り」は「秋葉山 秋葉寺」で行われる。「秋葉寺」と「秋葉神社」の関係は秋葉寺のホームページでは下記のようになる。

 現在秋葉山の頂上付近にある秋葉神社は、明治6年の神仏分離令の混乱期に乗じてつくられたもので、当山の火防の霊験とは無関係の宗教施設であることは明らかである。
 その祭神はその時京都愛宕山より勧請した迦具土神であり、千有余年来つづいて来た当寺の秋葉三尺坊大権現ではない。この厳然たる歴史的事実や様々な物的証拠からして、当寺が明治6年まで秋葉山全体を支配していたことは明らかで、識者の認めるところである。



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 「秋葉寺」の火祭りはYOU TUBEで見る事が出来るが、夜空の下で行われる「護摩」だ。周囲の僧侶が私にもわかる「ハンニャハラミタ」を唱え、最後は火渡りをして終わる。
 肝心の秋葉神社の「火祭り」も動画で見る事が出来る。 
 秋葉神社のご由緒でさえ、模糊の世界なのに秋葉神社と秋葉寺の関係などお手上げだ。まして、12月16日夜半の「防火祭」に行われる「秘伝の弓・剣・火の三舞」の由来などは奥が深すぎる。

 そこから「下社」に向かった。案内に「下社より上社は車で約40分。徒歩で約1時間30分」とある通り、車だと大きく迂回をして下社に着く。この道も、下社の写真もパソコンには豊富だ。私は残念ながら入口で下社の参拝を断念したが、近代的な上社に比し、古社の雰囲気は、この参拝客もまばらな、下社の方に遥かに残っていた。



香取神宮参拝の記

2020・7・27(私の誕生日)

**  
 香取神宮に参拝した。神宮から頂いた「参拝の栞」によると
 
 御祭神 経津主大神(フツヌシノオオカミ)又の御名伊波比主大神
 御事暦 『大神は皇祖の神々の御神意を体して・・』の原文を自己流に書くと。
       鹿島の大神と共に出雲と交渉し、円満に国土を皇孫に捧げた。
       更に国内を平定し、東国開拓の大業を完遂し
       天皇を中心とした国体の確立に大きな功績があった。
 御神徳 皇室の崇敬厚く、上古より「神宮」と称せられ。古い社格では明神大社。上総国一之宮。官幣大社。
       毎年御幣帛の供進。六年毎に勅使御参向の勅祭社。
 御社殿 『宮柱の創建は神武天皇18年と伝えている』。現在の本殿は元禄13年の造営。
       昭和52年重文に指定。
 御宝物 「国宝 海獣葡萄鏡」「重文 双竜文鏡」「重文 狛犬」他多数。』

 本文から、いろいろの疑問が浮かぶ。
 香取・鹿島の両神は、協力して東国を開拓したとあるが、同じく東国に遠征された日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の時代の前か?後か?
 実際に、遠征したのか?しなかったのか?したとすれば、両神の遠征路は、陸路か?海路か?しなかったとすれば何故、この地に、神社があるのか?
 両神は、この東国の地で、何をしたのか?この地の先住豪族たちに、米作やら鉄器製造を教え、年貢徴収の道を付けたのか?
 これは。ヤマトタケルノミコトにも言えることで、彼の東国遠征の結果、東国と朝廷との法的関係は確立されたのか?
  (司馬遼太郎氏は「大和政権の東国支配は米造りの普及であって、米を作ればそれでよしとした」と書かれていたが、
    違うのではないか?米で年貢を払ってはじめて支配下としたのではないか?)
 この北の果ての神社が何故、藤原家とつながっているのか?
 この神社の創建の『神武18年』とはいつ頃か?ご神体が山や岩でない神社を、誰が、いつ、建てたのか?

 奇しくも2020年7月23日の日経紙「私の履歴書」で杉本博司氏は『伊勢神宮の創建は7Cから8Cと考えられているが、これは記紀の編纂とほぼ同時期である。そして不思議なことに、このころ急に古墳が作られなくなる。これは大和王権の成立と関係していると思われるのだが、私は古墳時代と記紀神話の時代が重なる様式が有り得ると夢想した。』
 まことに、古墳と神社が結びついてくれると、解り易いのだが・・。

 両神の子孫はどこに行ったのか?
 「国宝の鏡は、どこで発掘され、誰が、いつ、何故、ここに奉納されたのか?
 取りあえず、これらの疑問を持ってもう少し手持ちの参考書やパソコンを調べてみよう。
 神宮の近所に、古墳がないだろうか?今は流行らない、朝鮮系の痕跡はないだろうか?
 一時は流行ったな〜。
 因みに、「吉川市史」の記事(P106)の一部を引用すると
 「香取神宮は鹿島神宮と共に大和政権が東北へ進出しようとしていた時代の古社で、香取神社は香取郡が与えられ「畿外官幣の大社」(?)となった。藤原氏の氏神となり、宮司は中臣氏とされ、摂関家か太政官から補任された。古代のころ吉川市域及びその周辺では香取神宮への信仰が厚く埼玉県に119社(千葉県71社。茨城214社)あるという。
 香取神社は高天原の伝説の祭神であるが、氷川神社は出雲系の祭神である。このことは、上総の方が、ムサシの国より大和政権への従属の時期が早かったといえる。」
 含蓄に富む文章だ。
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 蕎麦高神社参拝記
 実は、香取神宮はついでなのだ。本命は佐藤氏の農場見物であり、次に、「側高神社」参拝であった。
 私が住む吉川市の主要神社である「蕎麦高神社」は香取神宮の外摂社である「側高神社」を勧請した神社と知って、いつかは参拝したかったのだ。
 ここでも「お由緒書き」受領。折角頂いたのだから、労を厭わず写してみよう。どうせ、コロナ感染で全ての行事がキャンセルになっているのだ。どうせ、酷暑で「夏籠り」をしているのだ。どうせ、両足不自由で外出が儘ならぬのだ。時間は充分あるではないか。それはそうだが、この文を誰が読むのだろう?ましてや、この神社の文章を、誰が読むのだろう?そう。誰も読みはしないけれど。(自分の参考の為)

 「創建 経津主神社三十六ケ深秘書(長保二年香取大宮司神主左馬頭十五位上武名の奥紙あり)に“ニニギノミコト(原文勿論漢字)降臨時鎮座是高天原也“とある。天孫が“高天原の神”を奉斎されたのが側高神社の起源である。

 概説 側高神社は元来が香取神宮第一の摂社であるから、側高神社の由緒は香取神宮の由緒は香取神宮の由緒である。
 このことは香取神宮と鹿島神宮との関係についても言える。一口に“香取鹿島”というように両神は左右一体の神で、両神は神代の昔、天照大神の勅命を奉体して相共に国土平定の大任を成就せられた建国の大功臣である。従って香取、鹿島両神宮の間には密接不離んる関わりのあることは申すまでもなく、各摂・末社のことについても又同様である。
 そこで両武神が何故この東国の地にお鎮りになられるのか、その理由について考えてみたい。二柱の神は単なる武力の神ではなく、天神奉斎の重責をも兼任された祭祀の神でもあった。 
 経津主神は別名を斎主神と申し上げる如く天神を側高の地に奉斎されタケミカズチカミ(漢字)は“高天原”と呼ばれる聖地に天神を奉斎なされ、祭祀の大使命を成し遂げられたものと考えるのが至当であろう。
    
 香取神宮の側高山、鹿島神宮の高天原両聖地共に両神宮の東北東約2キロ(漢字)半ばかりの所に位置していることも偶然の符号ではない。そして、更に東北東という方向は高千穂(宮崎県)や大和地方(奈良県)よりしても略同方向である。
 このことはニニギノミコト(漢字)以来、御歴代の天皇が天神を遥拝せられた方向、即ち地上に奉斎された高天原の方向であったことを示す。経津主神社三十六ケ深秘書に“遥宮側高之山也”と記されていることに依っても古代祭祀の形態は明らかである。斯く両武神は聖地守護の大命を遂行して香取、鹿島の地に御鎮りになったものである。」(アー、草臥れた。ナントいう悪文!)
 とあるが、結局は香取神宮のご由緒書きから感じた疑問が、さらに増えたに過ぎない。
 曰く、
 蕎麦高神社の祭神は香取神宮の祭神とどのような関係なのか?
 そして、摂社・末社とは何か?まして境外摂社とは何か?

 もっとも、摂社とは?末社とは?の疑問は、私が歴史に興味を持って以来、様々のツアーに参加するたびに、しかるべき人に質問をして、その度に曖昧模糊なる返事を頂き、そうか、「わからないのが神社なのか」と納得した疑問なのだが。

 摂社・末社などの言葉さへワカラナイ神社なのだ。上記の私の数々の疑問に明確な解答がある筈はない。と、諦めていた。

 ところが、疑問は氷解するのだ!
 温めていた原田常治師の「古代日本正史」を再読すればよいのだ!
 再読後、全国の神社巡りを致します。訪問記も書きます。請う、ご期待!
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信州上田紀行

2020年6月6日
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他県への移動は?

 我がバッ旅も2月に東京・神奈川と近郊の「続百名城」を廻ったきり、コロナで自粛。今日、久しぶりの旅となった。
 まだ全面的に自粛解除とはなってないから、高速道路も空いている。電光掲示板に「土曜日の割引は13日からです」とあって、今日は適用されないのだ。Yさん曰く「他県への移動を規制しているのです」と。へー、今時、県境など気にするのか。そういえば、ニュースで、観光地その他で、他県ナンバーの車両に嫌がらせをする閑人がいることを報じていたが。
 いや、県境を越える苦労を、私はTVの人気番組「路線バスの旅」で毎回見ていたではないか。一度、我が埼玉県から東京都まで「路線バスの旅」をしてみようと思っていたではないか。矢張り、県境を越えるのに歩かねばならないのだろうか?
 現代でさえそうだ。昔の旅人は藩境を越える時。苦労はなかったか?「奥の細道」(1689年)、「東海道中膝栗毛」(1802年)では、どうだったのだろうか?

山家(やまが)神社

 上田と云えば、上田城だ。が、この名城は当然「百名城」であり、私は、平成21年(2009年)に妻と訪城している。今から20年前、歩くも走るも車の運転も何の苦労もなくできた時代だ。今はどうだ?様々な病気を持ち、おまけに両足骨折までして、ようやく杖を頼りにヨタヨタと歩けるだけだ。
 だからどうだ?別にどうという事はない。Yさん夫妻のおかげで、私は玄関から彼の車に乗せてもらい、こうして、日本全国を見て歩く事が出来るのだ。
 Yさんは山男である。初めて四阿山に登った時、山頂の山家神社奥社に興味を持ち、帰途この神社に立ち寄って、以後、数回来ている由である。その理由の一つはこの神社の御神霊「白山大権現」は加賀白山から勧請したと云われているからだという。Yさんは石川県小松の出身。学生の頃は白山の山小屋に毎夏バイトで籠った経歴を持っているのだ。
 
 白山からこの信濃の国の上田へ。どのような経路をたどって鎮座されたのだろう?この疑問は暫く私を悩ました。山家神社は927年に定められた延喜式内社だ。「続日本紀」によれば、「和銅6年(713年)木曽路を通す」とある。その開通により「信濃ではそれまで一国の中心で(国分寺が置かれた)千曲川ぞいの小県が東の片隅となり、筑摩の松本が重要となり、国府も移ってしまった」木曽路の開通までは上田が中心だった。そしてそのルートは謙信公が度々往復した千曲川沿いの道だと自分を納得させた。長野には古墳もある。篠ノ井石川の古墳だ。このルートも千曲川を遡ってきたのだろう。

 パンフレットに「イットの坂(峠)の縁切り地蔵」の案内がある。『大昔、長村が湖だった頃、加賀国白山の女神が亭主の男神を嫌ってイットの坂まで逃げてきて、ここから石の舟に乗って行ったため、男神は諦めて夫婦の縁を切ったという神話の地』の由。なんとなく、長野県らしい一風変わった物語だ。白山の神が出てくるので記録する。

六文銭と永楽通宝

 神社拝殿の棟に家紋が三個並んでいる。左の松平家の葵、中央の真田家の六文銭、そして右の「永楽通宝」の銭紋。この紋はなんだ?とご由緒書きを求めた時、神社の若い人に訊くと「仙石家の家紋です」と爽やかな答え。珍しい銭紋が二つ並んだ。(写真)

国分寺史料館

 久しぶりに司馬師の「街道をゆく 信州佐久平のみち」を参照させて頂いている。
 司馬師もこの国分寺公園を訪ね、何もない様に絶句している。でもそれは司馬師が無理だと思うよ。東京の国分寺跡だって現在は知らないが、これが書かれた1976年当時は何もなかったのではないかな?今でもパソコンで見る限り何もないよ。
ここで、昼食を付き合ってくれたU君と別れ、私は車椅子を借りて館内見学。
 Yさん同様、今迄殴打の漢字しか見たことがなかった「蘇民将来符」の実物が面白かった。
 「蘇民将来符」。このなんとなく朝鮮のにおいがする、そして、全国に拡がっている風習もまた、今後、知りたい事だ。
 今は、何故、この上田の地に「国分寺」が置かれたのか?都へのルートは?をもっと、知りたい。

その後寄った場所
 真田氏歴史館
 砥石米山城
 稲倉の稲田
 TSURUYAかのう店

次回上田で訪問したい場所
 旧西塩田小学校

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山家神社 草笛でそばを堪能
真田氏本城跡
真田氏本城跡 砥石米山城
砥石米山城 稲倉の稲田
拝殿の正面棟に葵、六文銭、永楽通宝の三つの家紋



 


春日神社・談山神社・売太神社・他

2019年6月9日
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 私の姓は遠藤である。それはどうという事はない。ただ、私の身近な友人には何故か「藤」の字が付く人が多い。百名城巡りの恩人たちで、私のホームページで馴染みの、Kは近藤、Sは斉藤、F夫妻は藤木夫妻である。故人となったが、ヨーロッパ百名城巡りの先駆者の同期生が藤原、娘の嫁ぎ先は安藤。藤井、佐藤となると声を掛ければ数人が「俺の事か?」と、振り向くだろう。
 とにかく、そんな「藤」姓の大元、古代から日本の歴史に燦然と輝く「藤原氏」の氏神「春日大社」に行ったことがない。ささやかに神社巡りもしている私としては是非行かねば、と、今回の奈良の城巡りのスケジュールに押し込んだ。
 結論から言えば、入口で撃退された。なにしろ大きな神社で駐車場からが遠い。一の鳥居まででも身障者では疲れ果てる。人も多い。若い人は中国他の外国人の団体。老いた人は我々日本人。それが我がもの顔の鹿とゴッチャニなって犇めいている。その人出の中で、快く席を空けてくれた茶店で一休みして退散した。
 城巡りも今は訪問するのは山城が多いので駐車場で帰るケースに慣れきっていて、仕方ないと諦めるのが早い。

 談山神社

 奈良散策の途中、運転のYさんが案内してくれた。静かな深山の奥。運転のプロのYさんだから安心だったが、垂直とも思える急坂を登って、下って神社に着く。
 ご由緒書きを頂く。なんとここもご祭神は藤原鎌足公。鎌足公と中大兄皇子がこの地で、曽我氏暗殺の談をした由。重文の「十三重塔」が見事だ。
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売太神社

 ドライブ途中に見つける。なんといっても神社名に惹かれて、引き返して、訪問した。
案内板では、主祭神は稗田阿礼。延喜式官幣社でもあって、我々の邪推をたしなめている。近所には帯解寺などと意味ありげな寺名などあり、どうしても邪推してしまうのだが・・。
 トイレにしめ縄が飾られているのも我々の趣味に合った神社だった。
天満神社
 これは丹波市春日町の黒井城への途中で飛び込んだ神社。なんといっても、入口の鳥居の原型を思わせるしめ縄が良い。「茅の輪」が出来たての青々しさで嬉しくなって、久しぶりの茅の輪くぐりをルールを想い出しながら試みた。
 但し、パソコンで検索すると、どうもこの神社は天満神社ではなさそうだ。では、ナニ神社?調べるのは面倒だから、天満神社にしておこう。



布袋ヶ岡城と織姫神社  2018年2月18日


大柿花山

 今年は寒い日が多い。関東地方にも雪が盛大に積もった。Yさんとの小ドライブも暫く出来なかったが、春を待ちきれず、梅ならぬ椿咲くの知らせに栃木市都賀町の栃木植物園・大柿花山を訪れた。

 Yさんに7時に我が家に来てもらい、空いている4号線を順調に走り、9時には着いた。無人の受付に二人分の入園料、千円を投げ込み歩き始める。

 今日は、Yさんに写真術のレッスンを依頼し、Yさんも快く受けてくれた。レッスンの第一歩は、カメラの持ち方。左手の添え方一つでカメラは固定され、手振れがなくなる。そんな基礎的な第一歩から始めたが、私の足元が危ない。

 両足骨折から二年、リハビリで家に中ではようやく杖を持たずに歩けるようになったが、屋外ではマダマダだ。ましてやこの傾斜のある山道である。おまけに、地面は木屑が敷かれ、朴ノ木の落ち葉やら、モグラの通路やら、モシャモシャと柔らかいと思えば、次の一歩は岩があったり、残雪が凍っていたりと身障者を卒業しきれないわが身にはしっかり立っていることさえ努力がいる。丁度、ゴルフの練習みたいなもので、フラットな好条件が揃っている練習場ではナイスショットを連発できるが、前後・左右にアンジュレーションに富む本番のコースではミスショットの連発である。妻がいみじくも言うように「あなたは練習場からはニコニコして帰ってくるけど、コースから嬉しそうな顔をして帰ってきたことがない」のだ。まだ私の脚力では、被写体に近づいたり遠ざかったり、右へ行ったり左へ行ったりなど出来ないと思い知らされた。

 ルートには「椿」はまだまばらだが、ここかしこに満開の「蝋梅」が今日の青空に枝を伸ばしている。(写真)しかし、今日はそれらを伝える写真のレッスン受講は諦め、ひたすら、杖に頼ってヨチヨチとトレッキングルートを上り下りして、最短のルートで、先ほどの受付のある小屋に帰り着いた。

 ヘトヘトと一人で一休みしているとこの植物園のオーナー大出氏が登場。ヴィデオなどセットしてくれる。「開拓に50年かけています」などお話を伺っている間に、この植物園の山頂にある「本丸跡」に行ってもらったYさんが帰ってきたので、大出さんとツーショットを撮ってもらった。(写真)


▼画像をクリックすると大きく表示されます
蝋梅 マンサク

布袋ヶ岡城


 実は、この花山は「布袋ヶ岡城」という山城なのだ。パンフレットにいわく

 「藤原の秀郷が938年頃築城した山城で、1504頃、秀郷の子孫の皆川氏が再構築し皆川城の出城としたのが布袋ヶ岡城。しかし1588年常陸の国、佐竹氏と宇都宮氏連合軍との合戦で落城したと伝えられる。」

 私が城に興味があると知るや大出さんは手持ちの関口和也氏の「下野深沢城再論」を数ページに亘ってコピーしてくれた。今までの発掘結果を詳細に図示している資料であるが、まだ埋もれた部分が多く、これからの研究が楽しみだと結んであった。

 発掘現場の一つ「本丸跡」は行って来て呉れたYさんの話ではとても今の私の足では登れない由(写真)。城跡の見学は諦めるが、大出さんの「この城は平将門の城だった」説が魅力的だった。将門。この関東の英雄の遺跡を私は全く訪ねたことがないのだ。いや、一つある。東京都千代田区の「将門の首塚」だ。ほんの数分間の訪問中にも、ビジネスマンの参詣が絶えなかったのが印象的だった。
 この「布袋ヶ岡城」が将門探訪のきっかけになれば良いのだが。

本丸跡 本丸跡
狼煙台 お堀の痕跡

足利織姫神社

 そこから、佐野の巨大にして大繁盛のラーメン屋を見学して足利へ。織姫神社を参詣する。幸い、神社へ直登する急にして長い石段は脇道を車で登れて本殿直下で降りる。

 若き参詣者達の買い物で賑わう社務所で「お由緒書きを頂けますか」と頼むと、そんな依頼はないのだろうか、気持ちよく出してくれる。私もお礼に、いろいろ種類がある御神籤の中から2百円の「とんぼ玉根付入り 恋のおみくじ」を購入。帰宅後、開けてみると、『中吉。良縁への道しるべは、身に纏うものを新調せよ。おもてから見えぬ肌着も常に清々しく保ち、内側からあふれる自信を身につけよ。(お相手の)星座はてんびん座、血液型はAB型、同い年で、午歳が良い』とのご宣託。もう少し早く教えてもらっていればなー。

 さて、カラー刷りでパンフレットと云う方がぴったりのご由緒書きを紐解くと、
「祭神は皇大神宮に織物を奉納した伊勢の神服織機殿神社の祭神。1705年に勧請した。旧社殿は明治12年に建立、翌年消失。昭和12年現社殿。平成16年国の登録有形文化財となる。」と、神社の歴史としては珍しく、馴染みのある最近の年号が並ぶ。

 足利学校など歴史の古い足利には多くの古い神社があるだろう。それを差し置いて、1705年という江戸時代に何故麗々しくこんな立派な神社を新しく建立したのか?(写真)

 足利の織物の歴史も、奈良・平安の時代から都に知られていた。徒然草第216段にも記載されていて、その段は碑となって足利市居宅に建っている。それ程の伝統を持つ織物を何故、江戸時代に改めて神社を立てたのだろうか?また、明治の話とはいえ、社殿建立の翌年に消失とは少しきな臭くはないだろうか?

 ま、ちょっと寄った観光客に解る筈ないか。

 更に、解らないことがもう一つ。神社脇に「大山阿夫利神社参道」の石碑が建つ。(写真)

 大山と云えば我が神奈川県の人気の神社だ。この地からどうして大山へ参詣するのか?鎌倉幕府との関連でもあるのだろうか?パソコンでも参詣者は同じ疑問を持つが、写真を写してさっさと帰っている。残念ながら私もそうした。

 最近、出羽三山の湯殿山は葉山の代わりに三山入りを果たすために、湯殿神社が急遽名付けた山だと云う卓説を得た。今まで、何故、登山道もない湯殿山が出羽三山の一角を占めたか不思議でならなかったのだ。足利と大山との関係も気長に待てば知る事が出来る・・と思おう。


■法師温泉と赤城神社(2015年5月)


有名な法師温泉とあまり知られてない500円玉の裏図
 27年5月18日に有名な法師温泉をようやく訪ねた。勿論、私は学生時代の山岳部の合宿以来、公私の知人達を機会あるごとに案内しているので、入湯回数は二桁になるほどのフアンだ。日本はどこにでも、今は我が家の隣にも「温泉」があるのだから「好きな温泉」など論じ始めたらきりがない。しかし私は一番のお気に入りの温泉と云えばこの法師温泉を挙げて70年生きている。
 ところで、私の妻は温泉に全く興味がない。土台、旅行が嫌いだと言い切る世にも珍しいお人で、私の旅行記には滅多に登場しない。
 それはそれでよいのだが、私の最愛の「法師温泉」だけは、最愛の妻を案内して二人で行きたかった。何年も機会をスッポカサレ、もう、余命も残り少なくなったからとの説得に今年ようやく妻が応じての今回の旅行となった。
 上原謙・高峰三枝子の熟年旅行のポスターは、いつまでもシルバー世代の憧れであったが、その舞台となったのがここ法師温泉である。広い浴場は木枠に囲まれ、底地は砂利。そこから滾々と適温の湯が沸き出でる。季節は皐月の中旬。これだけ条件が整ったご旅行にも拘らず妻の感想は「・・・」。ああ、そうですかと私も「・・・」のままで次は彼女の指定地「笠間」へ向った。

27 5 19 赤城神社と500円玉
 ▼画像をクリックすると大きく表示されます。
 法師温泉と笠間の窯元見学の帰途、赤城神社に寄る。
 ご由緒書きを頂くが、水を降らせる古代からの大切な神社だ。ご由緒書きの写真を見てほしい。
 正面にご紋が3個飾られてある。中央の菊の御紋と右の葵の御紋は皇室、徳川家との関係からと解るが、左の五三の桐は豊臣家のものだろうか?
 社務所に訊くと「違います。あれは、菊の御紋の裏紋です」と。「裏紋」とは何だろう?帰宅後検索すると膨大な資料を読むことが出来る。面倒くさくなる位だ。で、とにかく、この場合、桐の御紋は菊の御紋とセットになっていていずれも皇室の御紋なのだ。
 この御紋は賞状など公式文書に時々見る。しかし一番身近な使用例は「五〇〇円玉」だ。
 五〇〇円玉の裏(?)を見てみよう。円一杯にこの御紋が使われている。
このようなニッチな知識を見付けるととても嬉しい!
 これを読んだ皆様方も今まで知らなかったら、私は、もっと嬉しい!






Y氏と行く「行き当たりばっ旅!
大神神社 奈良桜井市 準備中
安宅住吉神社 石川県小松市 準備中
塩竃神社 宮城県塩竃市 準備中
零羊崎神社 宮城県石巻市 準備中
日和山鹿島御子神社 宮城県石巻市 準備中
涌谷神社 宮城県涌谷町 準備中
涌谷黄金山神社 宮城県涌谷町 準備中
安久津八幡神社 山形県高畠町 準備中
烏帽子山八幡宮 山形県南陽市 準備中
西奈彌羽黒神社 新潟県村上市 準備中
赤城神社 群馬県前橋市 ⇒こちら
遠見岬神社 千葉県勝浦市 ⇒こちら


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